新宿エリアディフェンス崩壊事変の収束から幾日かが経ち、一時は極度の混乱に陥った都内も徐々に落ち着きを取り戻しつつあった。
無論のこと、被害の大きかった区域では、防衛軍を始めとして複数の関係機関が今なお復旧対応に追われていた。
一方、数十キロメートルを隔てた鎌倉府の百合ヶ丘女学院では、東京での騒乱など存在していないかのように静穏な状態が続いていた。少なくとも表面上は。
百合ヶ丘女学院とG.E.H.A.N.A.の双方は互いの出方を探り、両者が置かれている状況は一種の膠着状態となっていた。
特務レギオンの主要任務である強化リリィ救出作戦についても、G.E.H.E.N.A.側の対応を見極めるために一時的に停止の判断が下され、LGロスヴァイセは待機状態が続いていた。
「……平和、ですね」
「平和ね」
特別寮のロスヴァイセ専用ミーティングルームで、ロザリンデ、碧乙、伊紀、結梨の四人がソファーに座り、ローテーブルを囲んで優雅に紅茶を飲んでいる。
日々の授業や訓練などはいつも通りにこなしているが、作戦行動に関しては「別命あるまで待機」が明確に指示されている。
つまりは一般の高校生とあまり変わらない生活を送っているのだが、それまで命を懸けた戦いを続けてきた彼女たちには、何とも調子の狂うものだった。
「そう言えば、工廠科の百由様も新宿の都庁へ現場検証に行かれたそうですよ。
あの方なら、他の人では分からないような手がかりを見つけられるかもしれませんね」
伊紀は百由の東京行きに期待をにじませていたが、碧乙は別の角度から百由の身を少なからず案じていた。
「百由さんもアーセナルとしては間違いなく天才だけど、意外と脇が甘い所があるからなあ……東京でG.E.H.E.N.A.の関係者に目を付けられなければいいけど」
「同じ工廠科のミリアムさんも同行しているとのことなので、二人一緒なら心配しなくてもいいんじゃないですか?」
伊紀は二人のことを信頼しているようだったが、やはり碧乙は一抹の不安を拭うことができずにいた。
「でも彼女、すごく良い家柄のお嬢様なんでしょ? 相手の裏をかいてくるような人間と接したことなんて、ほとんど無いんじゃないの?
そんな子が海千山千のG.E.H.E.N.A.の工作員にかかったらイチコロなんじゃないかしら」
「もしG.E.H.E.N.A.の関係者が二人に接触してきたとして、深刻な事態に発展する恐れが生じた場合は、私たちに事態解決のための直命が下されるでしょう。
今はそうならないように願うことしか、私たちにはできないわね」
ロザリンデがその表情にわずかな懸念を浮かべながらも、それを碧乙たちに感じさせないように努めて冷静な口調で説明する。
「確かに、誰かが東京に行くたびに、ここで私たちがあれこれ心配してもきりがないですもんね。
百合ヶ丘の国定守備範囲にいる限りは、そんな気を遣わなくても済むんですけど、皆が祀さんみたいに引きこもっているわけにもいきませんし」
碧乙は祀が耳にしたら間違いなく憤慨するであろう軽口を叩いた後で、話を百合ヶ丘の中の問題に方向転換した。
「それに、深刻さは全然違いますけど、ガーデンの中でも問題が無いわけではないです。
2年生の間で噂になっているんですが、最近、霊園の近くで二人で『隠れんぼ』をする生徒がいるみたいですよ。それも深夜に」
碧乙の言葉を聞いたロザリンデは、危うく飲みかけの紅茶をむせ返しそうになった。
「不埒な。わざわざ立て札を設置して禁止しているのに。
風紀委員は何をしているのかしら。職務怠慢ね」
「正確には、霊園の傍を通り過ぎた先に傾斜の緩い開けた場所があって、そこが『隠れんぼ』に使われているそうです」
「よくそんな所を見つけられるものね。物好きにも程があるわ」
「隠れんぼって、夜中に二人ですることもあるの? 知らなかった」
「私も初耳です。高校生が深夜に二人きりで隠れんぼとは、変わった人もいるものですね」
「隠れんぼ」という言葉が一種の隠語としてガーデンの風紀に関わっていることを、結梨と伊紀は知らなかった。
しかし、あえて二人にその言葉の意味を解説する気は、ロザリンデと碧乙には全く無かった。
「……あなたたちは知る必要の無いことよ。そんなことをするのは一部の特殊な性癖の持ち主だけだから」
「性癖……ですか」
顎に手を当てて考え込む伊紀に、結梨が何気なく尋ねる。
「伊紀、『せいへき』って何?」
「そうですね……性癖というのは、辞書的な意味では性質の偏り、人間の心理面の傾向や嗜好を表します。
また、誤用としては性的な行動の対象や目的に関する好みの傾向を指すことがあり――」
これはまずいと思ったのか、碧乙がすかさずロザリンデに意味ありげな視線を送って小声でささやく。
「お姉様、この話をこれ以上続けると二人の教育上、重大な支障が出かねません。話題を変えましょう」
「それが良さそうね。この件については該当者を特定して然るべき指導を行うよう、私から風紀委員長に伝えておくわ」
「うわぁ……『吸血鬼』の岡田綺更様ですか。
先代の若菜様と違って、あの人は千華さん並みの超絶サディストだから、その不届き者には合掌してしまいますね」
碧乙は軽く祈りの仕草をして、それからふと気がついたようにロザリンデに尋ねた。
「ところで、エリアディフェンス崩壊の一件以後、ぱったりとG.E.H.E.N.A.の動きが止まったみたいですけど、何があったんでしょうか?
ガーデンの調査でも、校内にG.E.H.E.N.A.とつながりのある者は発見されませんでしたし」
「あれだけ派手に百合ヶ丘のレギオンがエインヘリャルを使ったのだから、それを踏まえた対応をG.E.H.E.N.A.内部で検討しているのかもしれないわね」
「迂闊に百合ヶ丘に手を出すわけにはいかなくなったってことですか?」
「おそらくは。私の知る限り、親G.E.H.E.N.A.主義ガーデンで第4世代の精神直結型CHARMを実戦配備しているところは存在しないわ。
今の時点ではエインヘリャルによる攻撃――つまり極めて高機動・高火力な複数機のCHARMによる空からの奇襲に対して、G.E.H.E.N.A.には有効な防御手段が存在していない可能性が高い。
だから、いたずらに百合ヶ丘を刺激するような、露骨なプレッシャーをかけることは控えているのでしょうね」
「でも、こちらは先制攻撃禁止の専守防衛を旨とする平和主義ガーデン……とまではいかなくとも、G.E.H.E.N.A.の人や施設を直接攻撃するようなことは当然認められない。
お互いに様子見の状態が続いているわけですか」
「G.E.H.E.N.A.だって一枚岩の組織ではないわ。
派閥争いも当然あるでしょうし、部門間の軋轢や個人レベルの独断専行もあると考えておかなければいけない。
予想外の危険があるとすれば、主流派の統制から外れた一部の過激派の暴走が一番厄介ね。
それに、通常では考えられないけれど、このガーデンにG.E.H.E.N.A.の刺客や密偵が侵入してくることだって、絶対にあり得ないとは言い切れないわ」
「『御前』に匹敵するほどの実力者でない限り、そんなことは不可能なんじゃないですか?」
「百合ヶ丘だってG.E.H.E.N.A.の全てを知り尽くしているとはとても言えない。
私たちは『御前』や御台場のG.E.H.E.N.A.関係者の存在を知らなかったし、結梨ちゃんが生存していることの確証をG.E.H.E.N.A.が得ているかどうか分からない。
不確定な情報・未知の情報が存在していると前提した上で、双方が腹の探り合いをしている――今はそれが私たちの置かれている状況」
「でも、いつかはその均衡が破られる時が来るんですよね。
これまでは常にG.E.H.E.N.A.が仕掛けてくる側でしたが、強化リリィの救出以外で百合ヶ丘から先手を打つことがあるんでしょうか」
「人を殺傷することなくG.E.H.E.N.A.の活動を妨害できれば、その可能性もあるわ。
以前に江ノ島でケイブ生成装置を探索したように、無人の施設や設備が対象であれば、少なくとも対人戦闘は発生しないから」
「誰も傷つけずにG.E.H.E.N.A.をやっつけられるなら、それが一番いいよね」
ロザリンデの隣りで話を聞いていた結梨は、そのような作戦の方向性に大いに乗り気な様子だった。
「いつもそんな作戦ができればいいのだけれど、なかなかそう上手くはいかないのが難しいところね」
結局、その場はそれ以上の有意義な進展は無く、四人はそれぞれのルーティンへと戻るべく、ミーティングという名目のお茶会を終えた。
その日の夜半、結梨は眠りの途中で目を覚ました。
悪夢にうなされたり、物音が聞こえたりしたわけではなかった。
窓の外からはカーテンを通して青白い月光が差し込み、室内をわずかに薄明るく照らしている。
(……きれいな光だな。外に出て直接、月を見たいな)
まだぼんやりとした意識の状態で、結梨は月光に惹かれるように身を起こした。
隣りで眠っているロザリンデを起こさないように、そっとベッドから抜け出して、静かに部屋の外へ出る。
ゆったりとした白いパジャマを着た結梨は、そのまま廊下を歩き進んで特別寮の外に出た。
しかし外に出てみると、月は校舎に遮られて、結梨の立っている位置からは見えなかった。
涼しげな夜風が結梨の頬を心地良く撫でていく。
(あの月を一番よく見える場所から眺めてみたい。どこがいいかな)
深夜で周囲に人の気配が無いことを確認して、結梨は校舎裏の高台へ続く道を歩き出した。
数分後、結梨はガーデンを見下ろす高台――ただし、そこは数十の墓石が立ち並ぶ霊園の入口だったが――に立っていた。
空には幾筋かの雲が絶えず流れ、ほぼ満月に近いほどに満ち満ちた月を時折隠している。
(まだここには来たことなかった。私のお墓もここにあるの?)
結梨の前には、月光に照らし出された墓石が整然と列をなして佇んでいる。
結梨はその月光の下、ゆっくりと霊園の中へ足を踏み入れた。
すると、墓石の形はすべて同じだったが、その中に一つ、墓石の周りに幾つもの献花や供え物が置かれているものがあった。
結梨はその墓の前に立ち、墓石に彫り込まれた文字を読んだ。
(私のお墓だ……)
献花と供え物は、結梨が皆の前から姿を消して以来、彼女の墓を訪れる者が絶えないことを示していた。
自分を認めてほしくて一人で先走ってしまった結果が、目の前の光景であることを、結梨は嫌というほど自覚させられた。
(みんな、悲しませてごめんなさい。いつかみんなの前に出て行って、きちんと謝るから、それまでは……)
足元の自分の墓に視線を落とし、結梨はただ悔いることしかできなかった。
「自分の墓の前に立った気分はどうかな? 一柳結梨君」
不意に前方から聞こえてきた声に、結梨は確かに聞き覚えがあった。
声が聞こえてきた方を見ると、数メートル先の墓石に軽くもたれかかるようにして、こちらを見ている人影が目に入った。
月はいつの間にか雲に隠れ、その人物の顔を隠していたが、それでも結梨には間違いようも無く、それが誰であるかを認識できた。
むしろ問題は、なぜその人物が今ここに存在することができるのかという点にあった。
やがて雲間から月が現れ、冴え冴えとした月光が眼前の人物を照らし出した。
「どうして――ここにいるの?」
月明りの下、微笑を浮かべて佇む川添美鈴の姿を見て、結梨の口からほとんど無意識に言葉が漏れていた。