結梨のマギが順調に回復し、病室から特別寮にその身を移した日、現ジーグルーネで二年生の内田眞悠理は、カフェテリアで軽めの夕食を取った後、自室に戻らず特別寮へと足を向けた。
シェリスには事前にロザリンデへの訪問を申請してあったため、出入口のセキュリティは眞悠理のIDで解除することができた。
眞悠理がロザリンデの部屋のドアを軽くノックすると、中からロザリンデの声で返事が聞こえた。
静かにドアを開けて中に入ると、部屋の中ではロザリンデが眞悠理のために紅茶を淹れようとしているところだった。
部屋の中に二つあるベッドの片方には、眞悠理にも見覚えのある一人の少女が眠っていた。
その少女、一柳結梨はわずかに寝息を立てながら、あどけない顔ですやすやと眠り続けている。
「こうして見ると、やはりまだまだ幼いですね。
とてもこの子があのギガント級を一人で倒したとは、いまだに信じられません」
「そうね。でも、その強すぎる力のために、こうしてG.E.H.E.N.A.から身を隠さないといけない状況になっている。
むしろごく平凡な能力の持ち主だったなら、今ごろは他のリリィと同じ生活をできていたでしょうに。
もっとも、その場合は私もあなたもあのギガント級相手に戦死して、今は仲良くお墓の中だったかもしれないけれど」
ロザリンデは皮肉とも苦笑ともつかない表情で、部屋の中央にあるテーブルの椅子へ座るよう眞悠理に促した。
席についた眞悠理は卓上に置いてある一冊の本に目を留めた。
「ハンナ・アーレント『全体主義の起源』ですか。名著ですね。
私も卒業までには読んでおきたいものです」
「それを人前で読んでいると、私が全体主義者だと思われるのには閉口してしまうわ。
この本の趣旨はむしろその逆なのに」
「近代特有のイデオロギーとしての全体主義の成立を、政治と歴史の観点から批判的に捉える、というような内容だと私は理解していますが」
「ごく大まかにはそのとおりだと思うわ。
権力者が大衆からの支持を強固なものにするため、社会的マイノリティをスケープゴートに仕立て上げ、迫害や差別の対象にする。
そのために大衆に都合のいいストーリーを作り出し、それを社会全体に拡散する。
かつての『リリィ脅威論』も、当時の為政者が意図的に作り出した、そんなプロパガンダの一つだったのかもしれない。
いえ、こんな穿った政治の話をするためにあなたに来てもらったわけではないわ。
そこに眠っている一人の女の子を助けるための相談にこそ、今日ここに来てもらったのだから」
そう言うと、ロザリンデはベッドの上の結梨をいとおしげに見つめた。
眞悠理はロザリンデと結梨を交互に見てから、「ところで」とロザリンデに語りかけた。
「この部屋にはベッドが二つありますが、たしかロザリンデ様は碧乙さんと同室だったと記憶しています」
「ええ、そのとおりよ。今は席を外してもらっているけれど」
「しかし今このベッドには結梨ちゃんが寝ています。このベッドは碧乙さんのベッドですか?」
「いえ、私のものよ」
「では、結梨ちゃんは今日からどこで寝泊まりするのですか?」
「もちろん、この部屋よ。シェリス様の許可もいただいているわ」
「つまり、ロザリンデ様は今日からこのベッドで結梨ちゃんと同衾されるということですね」
「仕方ないでしょう。この部屋にはこれ以上ベッドを置けないし。
断っておくけど、別に変なことをするつもりはないわ。私は亜羅椰さんではないから」
ロザリンデは努めて冷静に言い切ったが、その頬と耳が微妙に赤く染まっていることに眞悠理は気づいていた。
「まったく、素直でない御方ですね。結梨ちゃんが可愛くていとおしくてたまらないからいつも一緒にいたいと、そう単刀直入におっしゃればよろしいではないですか」
「私の性格をよく知っているくせに、いえ、知っていてわざと言っているでしょう、眞悠理さん。人が悪いことね」
ロザリンデは赤面しつつ何とも恨めしげな視線を眞悠理に送ったが、眞悠理はその反応を心から喜んでいるかのような微笑で応えた。
「つい先日、碧乙さんが私に嘆いていましたよ。
『私のシュッツエンゲルは結梨ちゃんの母親になってしまった。
巣の雛鳥にせっせと餌を運ぶ親鳥のように、病室にいる結梨ちゃんのもとに通い詰めている』とね」
「私のシルトはそんな文学的な表現はしないわ」
碧乙が聞いたら憤慨しそうなことを、あっさりとロザリンデは言った。
「失礼、私の脚色を入れてお話ししてしまいました。
とにかく、ロザリンデ様が結梨ちゃんを我が子のごとく大切に思われていることはよく分かりました。
で、その結梨ちゃんの今後について、私に相談したいことがあると」
眞悠理は一転して真剣な表情になり、視線を転じて再び結梨の穏やかな寝顔を見た。
「そう、どうすれば結梨ちゃんがG.E.H.E.N.A.の追跡を逃れ、堂々と胸を張って生きていけるようにできるのか、そのために何が必要なのか、どのように行動すればいいのか、あなたと話し合いたいの」
「それが解決できなければ、結梨ちゃんは一生籠の中の鳥、または逃亡者というわけですね」
ロザリンデは眞悠理のその言葉に無言で小さくうなづいた。
「完全に、ではないけれど、それに近い状態になる可能性は高いと思うわ」
「承知しました。私でお役に立てるなら、喜んでロザリンデ様と一緒にこの頭を悩ませてみるとしましょう」
眞悠理はロザリンデの瞳をまっすぐに見つめて、迷いのない口調で穏やかに宣言した。