さほど広いとは言えない保健室の壁際に、ごく簡素な事務机とキャスター付きの丸椅子が配置されている。
スクールカウンセラーの稲葉
檀の言に従って、結梨は軽く頭を下げた後、黙ってその椅子に腰を下ろし、二人は正面から向き合う形になった。
先に口を開いたのは、檀の方だった。
「そんなに緊張しなくてもいいのよ。
堅苦しいメンタルチェックをするわけではなくて、思っていることを率直に話してくれればいいだけだから」
檀の口調は努めて軽い調子を出そうとしているようで、それは結梨に不要なストレスを与えまいとする気遣いに感じられた。
「……よろしくお願いします」
初対面の大人の女性を前にして、結梨は珍しく敬語でぎこちなく答えた。
その様子を確認して、檀はあくまでも柔らかい話し方で結梨に質問を開始した。
「北河原さんが御台場に来てから何日か経ったけれど、このガーデンには馴染めそうかしら?
何か環境面や対人関係で、困っていたり不安に思っていることは無い?
編入前に在籍していた百合ヶ丘と比べると、いろいろと違っているところもあるでしょう?」
「何人かのリリィとは前に会ったことがあるし、みんな親切にしてくれるから、嫌なことや苦しいことは何も無いよ。
ガーデンの雰囲気は百合ヶ丘とは全然違うけど、どっちも私は好き。
だから、私はみんなと一緒に戦って、絶対にこのガーデンを守らないといけない」
結梨は檀の質問に答えたつもりだったが、最後はなぜか決意表明のようになってしまった。
「そんなに気を張っていると、いつかどこかで疲れてしまうわ。
あなたは優秀な能力を持ったリリィかもしれないけど、一人で使命感を背負い込むのは良くないわ。
自分の力を見極めて、それを超える行動は取らないようにしないと、命取りになりかねないから」
「それは……今は分かってるつもり」
相模湾の海上で特型ギガント級ヒュージ・ハレボレボッツ――それはおそらくG.E.H.E.N.A.の実験体ヒュージだった――と刺し違えた時のことを思い出し、結梨の声は幾分か低くなった。
結梨の表情がわずかに曇るのを見て取った檀は、両手を伸ばして結梨の手に重ねた。
「別にお説教をするためにここに呼んだわけではないのよ。
ただ、あなたたちリリィはいくら桁違いの力を持っていても、年齢的にはまだ高校生の女の子であることに変わりは無いの。
だから時には感情的な行動を取ってしまったり、状況判断を誤ることも往々にして起こりうるわ。
それを未然に防ぐ可能性を少しでも高めるために、メンタルを安定した状態に保っておくことが重要なの」
「ありがとう、先生。
私も桂や燈みたいに、もっとしっかりした心を持てるようになりたい。
同じ1年生なのに、私よりずっと大人っぽくて、考え方もちゃんとしてて……」
それを聞いた檀の目が訝しげに細められ、やや咎めるような口調で結梨に問いかけた。
「燈って、ロネスネスの司馬燈さんのこと?
北河原さん、彼女とはよく知っている仲なの?」
「うん、編入する前に一度御台場に来た時も、私のことを気にかけてくれて、いろいろ教えてもらったの。
ちょっと怖い感じもするけど、本当はすごく優しいリリィだと思う」
「……北河原さん、司馬さんとは関わらない方がいいわ。
彼女は他のリリィとは違って、極めて特殊で厄介な事情を持っているから」
「燈が? でも燈はそんな悪い人じゃないよ」
「あなたに話しておかなければいけないことがあるわ。
今から私が言うことは、決して他の人には口外してはダメよ」
「……分かった」
そこで檀は少し間を置いて、慎重に言葉を選びながら結梨に語り始めた。
「彼女――司馬燈は、かつて京都の鞍馬にあるG.E.H.E.N.A.の研究施設にいて、ある日突然に、そこから脱走したの。
その後、船田純さんとの二度の戦いを経て、最終的には御台場女学校のリリィになったのだけれど、問題は脱走時の彼女の行動なの」
「脱走した時に、燈が何かしたの?」
「彼女は、施設内の職員や研究員を一人残らず殺害して、施設から脱走したのよ。
つまり――彼女は人殺しなの」
「燈が人を殺した……」
結梨はただそれだけの短い言葉を発して、それ以上は何も口にしなかった。
「そうよ。驚いた?
怖いわよね、同じガーデンで生活しているリリィに殺人を犯した者がいるなんて」
「……」
結梨は檀の言葉を聞いて何事も口にせず、俯いて沈黙したままだった。
「かわいそうに、怖くて声も出せないのね。無理も無いわ。
でも、これは本当のことなの。
だから彼女とは決して二人きりにならないこと。
あなた自身の身の安全のために」
結梨は視線を下に下げ、依然として黙り続けていたが、しばらくするとゆっくりと顔を上げて檀の顔を見、何かを話そうとした。
檀はじっと結梨の言葉を待っている。
果たして、結梨が発した言葉は檀の予想だにしないものだった。
「その時、檀先生も燈に殺されたんだよね」
「――!」
「どうしたの? 私、何か変なこと言った?」
結梨の言葉を聞いた檀は混乱し、驚愕していた。
その目は信じ難いものを見たように大きく見開かれ、呼吸は激しく乱れていた。
息苦しそうに、かろうじて檀は切れ切れに言葉を吐き出す。
「変なこと、ですって?
無邪気な顔をして、よくもそんなことを平然と言えるものね。
あなた、気は確かなの?
自分が何を言ってるか、分かっているの?」
「うん。燈がG.E.H.E.N.A.の施設から脱走する時に、檀先生もその場にいて、燈に殺されたんだよね」
あらためて誤解のしようも無いほど、はっきりと結梨は檀に言い切った。
動揺を隠せない檀は、思わず声を上ずらせて結梨に問う。
「あなたは何者なの? なぜその事実を知っているの?
……いずれにせよ、答えを聞くまでは、この部屋から出すわけにはいかないわ」
「そんなの、私が話したからに決まってますわ」
突然、閉ざされた保健室のドアの向こうから、艶のある皮肉げな少女の声が聞こえてきた。
ゆっくりとドアが静かに開いて、ロネスネスの制服を着た一人のリリィが姿を現す。
そのリリィ――司馬燈の眼には、してやったりと言わんばかりの不敵な光が宿っていた。
燈の姿を視界に収めた檀は、ようやく全ての事情を理解した。
「――そう、あなたたち二人は、ぐるだったのね。
あなたたち、この私を
驚愕と動揺の感情から一転して、憤怒に燃える眼で、檀は結梨と燈を交互に見比べた。