鉄窓の南十字星 ~星になったウィッチたち~   作:多治見国繁

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人間同士の戦争が開戦から終戦に至るまでの説明と原作とは異なる箇所の説明です。
人間同士の戦争は数年遅れで第二次世界大戦、太平洋戦争とほぼ変わらない歴史をなぞっています。
21.1.12 戦争の呼称問題について追記しました


世界観・設定など
世界観設定


原作と異なるところ

 

1.ネウロイの戦争は1945年に終結している

2.中国に相当する国家が存在する

3.扶桑の南洋島はサイパン島程度の大きさで、瑞穂国は存在していない

 

人間同士の戦争が開戦してから終戦まで

 

 ネウロイ戦後、膨らみすぎた軍事力は世界を人間同士の戦争に引きずり込んだ。1946年9月18日、扶桑陸軍はオラーシャ方面の対ネウロイ防衛を名目に浦塩から唐土民国北部へ侵入、ハルピン付近に駐屯する。扶桑陸軍は唐土民国の北部地域の切り取りを画策し、東清鉄道の線路を爆破、これを唐土民国軍の仕業として、これを口実に満州での軍事展開及び占領を行なった。扶桑陸軍は次々と万里の長城を境に満州各地を占領し1947年2月、満州全土を制圧し、同年3月1日、満州国が建国された。この一連の戦闘は扶桑で満州事変と呼ばれた。しかし、この扶桑による騙し討ちのような侵攻に唐土民国は国際連盟に訴え、国際連盟からはリットン調査団が派遣された。リットン一行による報告書で満州国は認められず扶桑陸軍は占領地から浦塩まで引き上げるように勧告、しかし、扶桑はこれを拒否し国際連盟から脱退、国際的に孤立する。

 1947年7月7日、盧溝橋事件が発生すると、扶桑軍と唐土民国軍は全面戦争へと突入し、北京・天津を制圧し、続いて南京も制圧、唐土国民党ナンバー2だった汪兆銘を首相とした蒋介石と同じ国民党を名目とする傀儡政権を南京に樹立した。以降、扶桑は南京を拠点に唐土民国各地に進出することとなる。しかし、アジアでの扶桑の勢力拡大を警戒したリベリオン、ブリタニアは扶桑を強く非難し、航空機用燃料、鉄鋼資源の輸出制限といった経済制裁を加える。

 欧州では1948年9月1日早朝、カールスラントがオストマルクに侵攻した。それを受け、9月3日、ブリタニア、ガリア両国はカールスラントに宣戦布告し、戦火は欧州各地に広がり、人間同士の世界大戦が始まったのである。

 10月に扶桑はカールスラント、ロマーニャと三国軍事同盟を締結、軍事、経済、政治の他分野にわたって相互に援助関係を結ぶ。扶桑は長期化し拡大の一途を辿る戦争に対して国内だけでは資源を賄えないと判断し、資源豊富な東南アジアに目をつけ、1949年3月にカールスラントに攻撃されて弱体化していたガリアにつけ込み、更なる資源を求めてガリア領インドシナへと軍を進める。これに対してリベリオンは石油輸出全面禁輸及び扶桑製品全面禁輸といった扶桑経済封鎖を以ってこれに応えた。その後、事態を解決させようと数度にわたる交渉も難航し、ついにリベリオンは1949年11月26日、ハルノートを扶桑側に提出した。これを最後通牒と受け止めた扶桑は12月1日の御前会議で扶米交渉の打ち切りと扶米開戦を決定、択捉島単冠湾からハワイ真珠湾へ向けて出撃した扶桑海軍機動部隊に12月8日の戦闘行動開始命令が伝達され、真珠湾を奇襲、陸軍はマレー半島に上陸、リベリオン及びブリタニアと戦闘状態に入り、太平洋戦争が開戦した。

 当初は破竹の勢いで快進撃を続けた扶桑であったが、1950年6月、ミッドウェー海戦において空母4隻と多くの航空機及び優秀なパイロットやウィッチを失う結果となり、扶桑海軍は空母部隊に壊滅的な大打撃を受けた。ミッドウェー海戦は扶米の攻守が交代する決定的な戦いとなり、この後、負け戦を戦っていくことになる。

1950年8月、リベリオン軍は本格的に太平洋での反攻を開始する。扶桑海軍が前線基地として整備し始めた、ソロモン諸島のガダルカナル島に奇襲攻撃を仕掛け、飛行場を奪う。扶桑軍はこの飛行場を奪還するため、8月に2回陸軍部隊を上陸させ攻撃させるも2回ともほぼ全滅する。ガダルカナル島のリベリオン軍基地はますます増強され、奪還は更に困難となっていく。扶桑軍は取り残された部隊への補給や更なる部隊の補給を試みるもその度に空襲や潜水艦による攻撃を受け、多くが沈められてしまう。最終的に、1950年12月31日の御前会議でガダルカナル島からの撤退が決定される。

 1951年になると扶桑軍はますます敗色が濃くなっていく。ガダルカナル島などがあるソロモン諸島の西に位置するニューギニア島でも、ポートモレスビー攻略失敗、次第に追い詰められていく。4月には山本五十六司令長官がリベリオン軍の待ち伏せ攻撃に逢い戦死、続く5月にはアリューシャン列島アッツ島の扶桑軍守備隊が玉砕する。その後、11月にはソロモン諸島北方のギルバート諸島、タラワ島等の守備隊が玉砕、ギルバート諸島の東に位置する、マーシャル諸島も攻められ、1952年2月に玉砕する。

 太平洋の島々を次々と陥落させたリベリオン軍は次の大きな目標を南洋島に定めた。南洋島から飛び立てば扶桑本土の殆どを新型重爆撃機B29の爆撃可能になるからである。1952年6月、扶米空母部隊総力を挙げた航空戦が行われた。南洋島沖海戦である。扶桑海軍はこの時のために失った空母部隊を1年かけて再建してきたが、暗号を解読されていた上に最新鋭の装備に歯が立たず、リベリオン軍の前に為すすべもなく敗れ去る。この戦いによって実質的に扶桑空母部隊は壊滅しその後、再建することはなかった。

 南洋島沖海戦と並行してリベリオン軍による南洋島への猛攻撃が開始される。、リベリオン軍は手始めに北部地域へと上陸し、占領、大規模な航空基地を建設し扶桑本土への空襲を行いつつ大兵力によって、南洋島の完全占領作戦を開始する。

1952年10月、台湾沖航空戦において扶桑軍はフィリピンでの戦闘に参加する予定だったウィッチと航空機を失ったまま、数日後にリベリオン軍はフィリピンレイテ島に上陸、激しい地上戦が繰り広げられるが、扶桑軍は次第に北部に追い詰められていく。扶桑兵には生きている限り戦い続けることを命じる「永久抗戦命令」が出され、各地で玉砕していった。

 海軍はレイテ湾のアメリカ軍の輸送船や艦艇を一気に撃破するレイテ沖海戦を計画、実行する。囮の空母部隊でリベリオン軍空母部隊の引きつけには成功したものの、レイテ湾直前で扶桑艦隊は引き返してしまい、作戦の目的は達成できず、さらに世界最大の戦艦であった武蔵を失い、扶桑海軍連合艦隊は事実上消滅した。

1953年になると、陸の戦いは首都マニラのあるルソン島に移り、マニラで現地民間人を巻き込みながら絶望的な市街戦を戦い、ここでも北部に追い込まれ、終戦までゲリラ戦を展開する。

 1952年6月と8月に北九州の八幡地方にリベリオン軍のB29爆撃機による空襲が行われる。この時は唐土民国の奥地、四川省成都より飛来したが、1952年7月に南洋島に航空基地が建設されたことにより、東北より南の扶桑本土の大部分が空襲の圏内に収まることになった。

 1952年11月以降、南洋島からB29が次々に空襲にやってくるようになり1953年3月10日には東京が300機以上のB29に襲われ、一夜にして10万人以上が亡くなった東京大空襲が行われた。これ以降、都市を無差別に焼き払う空襲が大都市はもちろん、中小都市までも受けることになる。

 1953年2月、リベリオン軍は南洋島と中間あたりにある硫黄島へ上陸した。リベリオン軍は南洋島から扶桑本土の爆撃を行っていたが、距離が長大の為、護衛ウィッチをつけることができず、損害が増えていた。そこで、護衛ウィッチの航続距離範囲内である、硫黄島に目をつけた。

 猛烈な砲爆撃の後に上陸を強行したリベリオン軍は、地下に陣地を構築して待ち構えていた扶桑軍の猛攻撃にさらされ、当初5日での陥落を予定していたリベリオン軍は1ヶ月以上経った3月下旬にようやく扶桑軍の組織的戦闘を終了させることができた。

扶桑本土攻略への足がかりとして、リベリオン軍は沖縄の占領を計画、3月下旬、慶良間諸島にリベリオン軍が上陸、4月1日に沖縄本島に上陸した。「鉄の暴風」と呼ばれる猛烈な艦砲射撃と空爆が上陸地や県庁所在地の那覇市の首里周辺に浴びせられ、壊滅的な打撃を受けた。扶桑は沖縄における戦いを本土決戦前の時間稼ぎにしようと考えた。自然な地形を利用した持久戦を展開し、リベリオン軍を苦しめた。しかし、6月23日沖縄守備隊司令官が自決し扶桑軍の組織的戦闘は終わりを告げる。

 欧州では1951年に早々にロマーニャが降伏、枢軸国を離脱、そして沖縄戦のさなか、5月7日にカールスラントは連合国に降伏しヨーロッパの戦いは終結し、リベリオン軍始め連合国軍は大きな兵力を扶桑との戦いへ向けることができるようになった。

 1953年7月リベリオンは新兵器原子爆弾の実験に成功した。リベリオンは扶桑本土への侵攻を計画していたが、多大な犠牲が避けられない為なるべく上陸はせずに扶桑を降伏に追い込みたいと考えた。また、カールスラントが降伏したことでオラーシャが戦力を極東に配備し直し、満州の扶桑軍を攻め、扶桑の領土を我が物にすることが予想された為、オラーシャが太平洋戦線に参加する前に戦争を終結させたいと考えるようになった。

そのため、原爆実験が成功したことを知ったトルーマンは直ちに扶桑への原爆使用を指示した。一方でリベリオン、ブリタニア、唐土民国は1953年7月扶桑へ無条件降伏を迫る「ポツダム宣言」を発表した。しかし、扶桑はポツダム宣言を無視し、8月6日に広島、9日に長崎にリベリオン軍B29によって原爆を投下される。

 広島に原爆が投下された2日後の8月8日、オラーシャは扶オ中立条約を破棄し宣戦布告、その翌日、満州国境に配備されていたオラーシャ軍が侵攻を開始した。

扶桑政府及び軍部では戦争を終結させるか、長く議論が続けられていた。8月10日についに天皇はポツダム宣言を受諾することを決定14日に中立国を通じ連合国にポツダム宣言受諾を通知。15日全国民へラジオ放送で終戦を宣言した。9月2日に扶桑は降伏文書に調印し、正式に降伏した。

 

呼称問題

なるべく当時の呼称に則すため、以下の通りとします。

扶桑人ウィッチ「大東亜戦争」

連合国軍ウィッチ「太平洋戦争」

戦後(1953年12月以降)の扶桑人「太平洋戦争」

とします。

地の文では「太平洋戦争」とします。

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