百合ヶ丘女学院の中庭、その一角に設けられた庭園の中にいる。麗らかな日差しが眠気を誘う。春の花が色とりどりに花弁を咲かせ、庭園は花園と言うべき様相だ。
思う出されられるのは過去。自分がまだこの百合ヶ丘女学院の生徒として在籍していた頃、気をかけてくれた先輩が気が紛れるからと、造園部に強引に誘われたのだ。花の世話など柄でもないと思っていたし、興味もなかった。
だが始めてみれば面白かった。知らないことに触れる喜びがあった。何かを作る喜びがあった。この花園の一角も、今俺が腰を下ろしているこのベンチも、俺が作り、百合ヶ丘の一部となった。
その日々は今はこうして、美しい花園の一画を形作っている。あの人はこの中庭が好きだとよく語っていた。花園はあの頃から変わらず美しいままだ。
だが俺は? あの頃から変わっただろうか? ああ、そうだ。俺は変わってしまった。あの夜に、俺のすべては変わってしまった。罪を犯した。俺はもう日の下を歩くことは出来ない。許されない。
GEHENAとともに地獄まで歩むと決めたとき、それは定まった。たとえどれ程、間違った道のりでも、妹たち、リリィを守る為なら、俺はいくらでも泥をかぶろう。
だけど、そうならなかった日々を想うことはいけないことだろうか。百合ヶ丘は優しい場所だ。それは変わらない。あの日々の輝きはこの花園に面影を残している。
「本当に、ここだけは変わらない」
春の日差しが暖かい。
「どうしたんだニャー? 見ない顔、さては新入りなのかニャー?」
余韻がぶち壊された。
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「どうしたんだニャー? 見ない顔、さては新入りなのかニャー?」
後ろで甘ったるいくらいの猫撫で声がした。腰掛けたベンチに首をかけ、顔だけを後ろへ向ける。逆さまになった視界に寝転がる少女と猫一匹。短い金糸雀色の髪の少女は猫缶片手に、警戒する三毛猫に迫っていた。
金髪のポニーテールが揺れ、猫が怯えて後ずさる。
「お前ー、見ない顔だね。猫缶食うかい? 触らせてくれるなら、ごちそうしちゃうよー」
じりじりと迫ってくる少女が恐ろしくなったのか、猫はヒゲを小刻みに揺らし周囲にた助を求めて視界を忙しなく動かし、俺と目が合う。
──助けていただけませんか? おっそろしくて適いませんよ
猫の顔はそう語っている。俺に出来ることはなさそうだ。諦めたまえと首を横に振る。
猫が鳴いた。お前も道ずれと言わんばかりに、おびえて尻すぼんだ体を伸ばし跳んだ。こちらに向かって。
「このこのー、猫ちゃん。どこに行くんでちゅかーぁ、ぁ……」
猫がこちらに向かってくる。そして当然、それは猫に夢中だった少女、こちらに尻を向けていた彼女がこちらを向くわけで。
結果として猫撫で声で猫に語りかける姿を知人に見られる少女の図が完成した。件の少女は顔を引きつらせ、口をポカンと開けて固まってしまった。
沈黙が二人の間を流れ、猫は迂回して膝の上に登る。
「や、やあ鶴紗。元気にしていたかい?」
平素通りにするのが精一杯だった。
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「いるならそう言ってくれ……」
顔を両手で覆い、うなだれた鶴紗が力なくつぶやく。猫に猫撫で声で接する己の姿を見られたのがそれほど堪えたらしい。普段は男勝りと言うべきか、クールな性格なのだから余計に堪えているのかもしれない。顔を手で覆い、たまに思い出したかのように首を振っては悶えている。
「ハハハっ。そう恥ずかしがることもない。俺なんて初対面の女生徒に兄を名乗って引かれてるんだ。それに比べたら軽傷さ」
「自覚あるならやめておけば良いのに。そう言えば、帰ってたんだな」
「ああ。先週から。しばらくは百合ヶ丘にいる。鶴紗は迎えの一団にはいなかったな。兄は寂しいぞ」
冗談でそんなことを言ってみたら、鶴紗はばつが悪そうに表情を暗くして。
「……なかったんだ」
「ん?」
「そんな雑談をするやつ、いないから。あんたが来ることを知らなかったんだ」
思いのほか事態は深刻だった。
「……」
「……」
「百合ヶ丘での生活は、お前にとって良いモノではなかったか?」
自然と声が震えていることを自覚した。鶴紗に百合ヶ丘女学院をすすめたのは俺だ。だから彼女がここに来たことでつらい思いをしているのならそれは俺の責任に他ならない。
鶴紗は隠していた顔を上げ、ゆっくりと首を横に振った。違う、違うのと彼女は小さくつぶやく。
「GEHENAでの生活しか知らなかった私には、百合ヶ丘は本当に優しすぎて、どうにもな。やっぱり少し気後れしちまう」
膝の上に追いた手をキュッと小さく握って、鶴紗は弱弱しく言葉を漏らす。けれど、それで終わりではなかった。彼女は小さく微笑む。
「こんな私でもさ、気にかけてくれる奴らがいるんだ。最近はレギオンにも入ってさ。なんか、普通の暮らしってやつを出来てる気がするんだ。今までの私じゃあ考えられないだろ?」
学校生活のことを思い出して、鶴紗は顔をほんのりと紅潮させて、微笑む。
──あんたも、あいつらみたいに、わたしにいたいことするのか? すきにしろよ。ていこうなんてしないからさ。……どうしたんだよ? わたしになにやらせたいんだ?
あの感情を押し殺して自分を守ろうとしていた子が、こんなにも変わるとは。感慨深い。
「お前も妹にならないか?」
──は?
「そうだった。私は初対面のやつに、妹に勧誘されたんだ」
思い出して鶴紗は腹を抱えてクスクスと小さく笑う。あの頃の俺は、あの事件の直後ということもあって荒れていた。言動が滅茶苦茶で、八つ当たりのようにGEHENAに襲撃をかけていた。鶴紗と出会ったのはその頃だ。
「言ってくれるな。今思えば俺は頭がおかしかった。みんなの兄になろうとしていた。気がつけば妙な伝統になってしまったから、今更訂正する訳にもいかない」
「自業自得ってやつだろ『お兄様』?」
あの頃から、変わった。鶴紗は闇から明るい場所に。俺はより深い闇の中に。
鶴紗は切り出すように心配そうな表情で口を開いた。
「……今もGEHENAと繋がっているのか?」
「……ああ。GEHENAとの個人的なつながりは切れていない。今も協力関係にある」
GEHENAに関して、鶴紗に嘘をつけない。鶴紗は困惑したような、泣きそうな顔をする。させてしまった。
「……っ! 何でなんだ。あんな奴らと連む必要なんて……」
「ヤツがまだ生きて、太平洋を悠然と泳ぎ回っているんだ。それだけで理由には十分すぎる」
「まさか桔梗様たちをやったヒュージ? でもあいつはあんたが二年前に甲州で……」
「あの時切り落としたのは、ヤツの首の一本に過ぎなかったんだ。本体は健在だ」
妹を傷つけたヒュージを許せない。この五年間、ヤツを追うためだけにすべてを費やした。賭けられるものはすべて使った。時間も、自身の体も。
「誰も止めなかったのか? レギオンの仲間とか、先輩とか、誰かいなかったのかよ」
「みんな死んだよ」
「──っ!」
俺をレギオンに誘ってくれたクラスメイト。放課後の部活で紅茶を入れてくれたお嬢様。部活で花を愛でる喜びを教えてくれた先輩。苦楽を共にしてきた妹。レギオンの仲間たち。みんな優しくて、大好きだった。みんなとならば、どんな困難も乗り越えられる。そう無邪気に信じていた。
だけど、みんな死んだ。ヤツに遭遇したあの日、俺だけを残してみんな逝ってしまった。
だから、あの日から俺の生きるすべては、ヤツを殺すためだけにある。仇を取らなければ、俺は許されない。
俺の事情を知っている鶴紗はそれ以上何も言わなかった。立ち上がって、鶴紗は去っていく。もう自分にかけられる言葉はないと、彼女は理解しているから。
「私には何も出来ないからさ。あんたに復讐をやめろとか言えない。……だけど、あんたが死んだら私は悲しいよ」
「死ぬつもりはないさ。そのためにGEHENAを俺は必要とした。外道の集団ではあっても、その技術は本物だ。おかげで俺のレアスキルも使い物になった。あと少しなんだ」
ヤツを討つ準備は整いつつある。あと少しだ。あと少しでヤツの心臓に手が届く。きっかけさえあれば、それで俺の復讐は終わる。
その時まで諦めなければきっと叶う。そう信じて今日まで進み続けた。その道のりは孤独だ。戦い続けて、戦い続けて。もう、俺の隣には誰もいなくなってしまった。
一人で俺は戦い続ける。もう一人だってリリィに犠牲を出したくない。そのためにヒュージを皆殺しにする。
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「りんどお。私、リリィになりたい! 私とシュッツエンゲルになって!」
次の日、結梨は俺にそう言ってきた。
序終わり