文久二年四月。
琵琶湖の水面には黄金色の満月が浮かんでいた。
草木も眠る丑三つ時とはよく言うが、やはりこんな時間に歩くのはよくなかったのだろう。
東海道を歩くこと二週間。
目的の場所が近付いてきたからとどうせなら夜も歩いてしまおうと思ったのが間違い。
生温い風が頬を撫でる。
木陰に隠れ、落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせ呼吸を整える。
逃げ切れただろうか?
諦めてくれただろうか?
もう少し休んだら急いでここを離れ……。
「見ィつけた」
響く女の声。
しかしその声を発したのは男だ。
左目を長い前髪で隠し、ボロボロの衣服を身に纏っている。
「見つけた、見つけた」
今度は反対から男の声。
しかし、女。
長い前髪で右目を隠した女。
「美味しそうな童だ」
「柔らかそうな童だ」
「いただきま~す」
「いただきま~す」
愉しげに迫る二人組。
いや、彼等は人ではない。
とにかく、逃げねばならない。
しかし、ついさっきまで全力で逃げ回っていたせいで足がぱんぱんで縺れてしまった。
土の匂いが鼻につく。
「あひゃ……!」
嬉々と迫る怪人。
叫びを上げることしか出来ない自分。
なにも為せぬままに終わるのかと自身の運命を呪う。
これまでの記憶が脳裏に浮かぶ。
平凡な人生。
些細なものだが、何にも変えがたいもの。
それが、こんな怪異によって奪われてしまう───。
「死にたくねえならとにかく身体ぁ動かせッ!」
男の、よく響く声だった。
荒っぽい口調ではあったが、間違いなく自分に向けられたものであった。
続いて、鷹の声、獣の声が響くと小さな鳥や獣を模したもの達が怪人達に勇ましく飛び掛かっていく。
怯む怪人。
そして、森の闇の中から人影が飛び出た。
それは、確かに人の形をしていた。
だが、決定的に人とは違う。
全身はまるで返り血を浴びたかのような赤黒い体色。
身体中に銀色の棘が生えているその様はまるで
そして、頭部に生える二本の角。
その特徴からあれを形容する言葉はすぐに見つかった。
鬼────。
「鬼だ、鬼が来た」
女が男の声でそう呟いた。
やはりあれは鬼なのだと納得すると同時に、怪人達の姿が異形のものへと変貌する。
その異様な光景を目の当たりにし、
人の姿から変化した怪人……怪童子、妖姫と相対する鬼。
片腕は蜘蛛の脚のようで気色が悪い。脚の多い生き物は嫌いなのでとっとと倒してしまおうと内心で決めた彼は人間離れした脚力で大地を蹴り怪童子と妖姫に迫る。
まず妖姫を蹴飛ばして怪童子の首へ掴みかかる。そのまま地面に押し倒して引き摺り回し、怪童子を弱らせると鬼は怪童子を投げ飛ばす。
「でりゃあぁぁぁぁぁッ!!!」
岩に叩きつけられた怪童子への攻撃はまだ終わらない。よろめく怪童子の胸に手の甲から伸ばした鋭い四本の爪を突き刺し動きを封じると、鬼が、口を開いた。
人のものとは違い、鋭い牙が生え揃えられている。
そして、異形の口から赤い焔が放たれた。
全身燃え盛る怪童子。
苦しみ、喚く怪童子。
やがて、怪童子は爆散し土塊と化した。
その様を、怪童子を救おうとした妖姫が目撃していた。
鬼に挑むかと思われたが、妖姫は夜の闇の中に溶けるように消えていった。
しばらく身構えた鬼だったが、妖姫が完全に撤退したことを悟り構えを解く。
そして、鬼の身体が光ると歌舞伎の隈取りのような顔から人間の顔へと変わった。
荒々しい戦い方とは裏腹に、人前に出しても恥ずかしくない、立派な美丈夫であった。
先程助けた年端もいかない少女のもとへ歩み寄り様子を伺う。
「気絶してるだけのようだな。さて、どうするか……」
顎に手をあて、男は思案する。
幾何かして、男は気絶した少女を肩に担ぎ上げるとそのままこの森を去って行った……。