道を歩けばスリ乞食。
一寸媚びれば水商売。
裏路地入れば闇市場。
飽き飽きするのも一苦労。
私は確かにここで育った。前方で聞こえているのはピカピカの金属をプレスする音ではない。もうロクに動かない廃車をスクラップする音だ。踏み固められた砂の地面や蜂の幼虫を炒める匂いが、新たに困窮した人間を歓迎するだろう。
地図を手渡されて今は何処だと聞かれれば、私は端の方を指さして〈提灯町〉の表記を示す。そうすると大体、湿気た顔をして、旅人は一定方向に去っていく。彼らが目指している場所に見当がつかないはずがない。曇天高く聳える灰色の塔。名前は〈新都バルク〉という。あの気持ち悪く辟易するようなフォルムのビルだけで一つの地域、一つの街扱いなのだ。どれだけ巨大な建造物なのかは言うまでもない。とはいえここからでは、そこそこのエンジンを搭載したバイクを全速力で飛ばしても半日かかる。もっとも、私は免許を持てる年齢ではないし、境界線にはどんな物質よりも硬いと有名な〈イノベナイト〉を使った壁がそそり立っているという。どんなものかは、直に見たことがないので表現できない。それこそ教科書で見聞きしただけの情報だから。
「嬢ちゃん、今なら安いよ電球!どれでも三割引だ、寄ってきな」
「いりません」
即答しなければ面倒なことになる。この手の商売人は執拗いのだ。二割引ならまだしも、四割引くらいからは確実に抱き合わせで買わされる。そうじゃなくても色々と不都合な条件を後付けしてくるものだ。他の町はどうか知らないが、リスクを負わずに買い物をしたいなら、精々一割ほどまけてくれる良心的な売り手を見つけるのが得策だ。
「ちェッ、澄ました顔しやがって」
態度が悪いからしょっちゅう喧嘩する羽目になるのだ、と間違えても口走ってはいけない。スラムの子供は、歩くなら道の真ん中と教えられる。物を盗まれたり客引きに遭うリスクを少しでも軽減するためだ。それにいきなり目の前か真後ろから手が伸びてきて、引きずり込まれて強姦されたりしたらたまったものではない。無法地帯であることを弁えない人間から脱落する。今私が卑しい物売りに絡まれたのは、たまたま分岐路に立っていたからだ。
周りの人々がどれほど苦しいのかは大体理解してくれただろうか。これほど説明しても解らないのならこの記録を読み返した方がいい。
私の目線に立ってくれた前提で話を進めると、この町は、ううん、この国は数年前から破綻寸前である。数十年前──私は生まれてすらいない──国は腐っても一つだった。何をするにも多数決で方針を立て、何か決断するのに誰かの承認が必要だった。それが丸っきり覆ったのがぴったり二十年前だという。国は徐々に秘匿主義を極めた。とにかく隠蔽したがった。その結果、今でも判明していない騒動の核心なんていくらでもある。死因も死体の在処もハッキリしない行方不明者も珍しくない。とにかく悪いのは一切事情を説明しないことだ。○○が問題だからこうします、という文言の欠片も当時の新聞には載っていない。精々、バカデカな飛ばないロケットを建設するにあたって、付近の新築マンションの入居者を、人口の百分の一でも払えるかわからない目眩のしそうな額で募集していただけだ。それこそ、貧困層をちっとも信用していない思考の表れだ。
……脱線しそうなので本筋に戻すと、それから五年後、つまり十五年前、民衆は大きく二分された。富める者と貧しき者である。元々生活難の非正規雇用者や年金生活者、無職や借金滞納者は一括りにして郊外に押しやられた。一方で官僚や上場企業の社員、その配偶者と子供などは都心に残され、ある発展計画の対象として好ましい待遇を受けたのである。それが今では、さっき説明した〈新都バルク〉の人間というわけだ。今度からは省略してバルクと呼ぶことにする。……そもそも世界にも有数の未来都市を作るにあたって初めにインフラを整備したのはこちら、スラム側の人間と言われている。疑問に思ってほしい。それなら我々に彼らの生活を差し止めする権利があるではないか、と。
工事に携わった作業員や単純な労働力は、深夜になるとその日の渇きを潤すためのミネラルウォーター一本と、家族に賄うパンの何切れかをやっと買えるだけの賃金を日当として手渡され、強引に追い出されたらしい。反抗すれば僅かな食料にありつくための職業すら失われるか、そこで射殺されたのだという。後者の場合、勿論家族に連絡は届かない。彼らはそこまで親切でも残酷でもない。ただ、朝おはようと交わし夜おやすみと交わす夫や妻の帰ってこない事実が、薄暗い電球のもと遺族に突きつけられるのみである。立派な憲法違反だって?憲法など、とうの昔から機能していないのと同じだ。司法は司法ですらなく、汚職した公務員が批判の泥をロンダリングするための浄水器と化している。
スラムの人間は、“協力せざるを得ない状況”を作り出され、自ら策にかかり、おぞましいエスエフじみた灰色の世界を創った。今の私にわかるのはそれだけ。経済的に矛盾があったり、それはおかしいだろうと指摘されても、そこまでの教育は多分禁じられているか、先生も知らないということなのかもしれない。中学生の知識量などたかが知れていると思って許してほしい。
本日の私は、朝には受けていた配達の依頼を完了し、昼には市場で適当な昆虫食の詰め合わせを買い、夕方は道中で困っていた盲目のお婆さんを家まで送った。
助ける義理は無かったが、助けない義理も無かった。よく誤解されているが、極端な貧富差の中でどちらか一方は──特に貧しい側の印象として──情に厚いとか、そういったものは正しく偏見に過ぎない。みんな辛いから相互扶助の精神で頑張ろうとか、希望のある思想を抱けるピークはとうに超えた。むしろ、このゴミ溜まりの中で如何にして自分が助かるかを優先しきっていて、他人の世話をするほど恵まれた人間などいない。もし親切心で動く青年を見たならば、眉を顰めて様子を伺い噂話をするか、その辺のダストボックスを倒してちょっかいをかけるかだ。私もどちらかといえばその一部であるから、お金の発生しない仕事は引き受けない。無償で人に働きかけるのは、ただの気晴らし、気まぐれでしかない。
道草を食ったので、家に帰れたのは午後八時頃であった。これも補足すると自分の家ではない。元々廃屋の建っていた土地に作った孤児院らしい。私はここで年下の面倒を見る代わりに、食事以外の生活を保証してもらっている。
「お姉ちゃん、おかえり!」
子供が決まって三人ほど出迎えてくれる程なので、特に関係に困っているわけではない。雇い主ともそれなりに良好な契約を結んでいるつもりだ。
「ただいま」
返事して中に入ると、この時間まで児童の遊びに付き合っていたと思われる職員が安堵した様子で肩をポンと叩いてきた。
「市川さん、助かったよ。もうヘトヘトで、もう少しで瞼が閉じるところだった」
「誰かに連絡すれば良かったじゃない。ケータイ持ってるでしょ」
「……実を言えば、来月のデートに使う予算が足りなくてね、痩せ我慢で通話料もケチってるんだ」
彼は耳元で内緒の話だよと言わんばかりに囁いたが、何も褒められたことではない。私はすぐにニヤけた面をやめるよう忠告した。どうせ、健全なお付き合いの彼女ではない。風俗の従業員のプライベートな小遣い稼ぎに付き合わされているだけだ。そのうち痛い目を見るのはアンタだよ、と。
「余計なお世話だね!僕はもうあの子に信頼されているんだ。君もこのくらいの歳になればわかる。ガキのうちは大人の事情に口を挟むんじゃない」
捨て台詞のようにそう吐かれて、ドアが勢いよく閉められたので、耳がじんわりと熱くなってくるのを感じて、つい足が数歩追いかけていた。それを一人の男の子が、「お姉ちゃん顔が怖いよ」と制止したので、ハッと我に返って頭を搔いた。
「晩ご飯、まだでしょ?作ってあげるから、おもちゃを全部片付けておいてね」
「シャワーもまだ!」
「あいつ……少しは済ませておきなさいよ!」
今からでも間に合う、一発殴らなければ気が済まない、と扉に向く足を今度は自分で抑えつける。
余談だけど、たぶん町で一番稼ぎがいいのはクラブの連中だ。どうせいつか失墜するのに、目先の快楽だけを求めて儚い若さを売り、どこでかさ増しされたのかわからない飲料一杯の贅沢を客にせびるのだ。あの紫色や麦わら色が、雫ほどの量で元々ウン万もするはずがない。騙される方も騙される方だ。ちょっと褒められただけで気を良くして自分を誇示しようと、一推しに貢献しようと手元に有りもしない金まで積み始める。挙句にはシャンパンタワーなどという馬鹿げた虚飾の城を皆で作って大盛り上がりするらしい。相手は実際には経済力を、生活力を直接啜るハイエナ野郎の集まりなのに、盲目になった彼らはみすみす札束を差し出てしまう。家族や自身を守るためのちっぽけな財産すら無闇に放棄するとは何事か。このように人というのは、廃れれば廃れるほどかえって自堕落になり、どこかで生を諦める。鼻持ちならない。見ていて楽しいのは、特に人気もなく、凍える外気に脚をまるごと晒し、イマイチ元気の無さそうなウサギ耳のカチューシャを被って、必死に客引きしている健気な女の人だけだ。ああ、頑張っているな、負けずに働かなくては、という気持ちになれるから。
さておき、私は残りの時間も考えて直ぐにキッチンへ向かい、オレンジや茶色や緑色の野菜の皮を剥いてから刻み、油を挽いてから鍋にぶちまけた。炒める時間も退屈だ。何か忙しなく動いていないと、生きている心地がしなくなる。それで、まあ妥当だろうという具合になったら、水を加えて沸騰させる。この間も辛抱ならない。料理というのはどうして、手間をかければかけるほど美味しいと捉えられているのだろう。私だけが食べるならば迷わず食材を生で貪る。もう調理を始めてしまっているから、現状のヌルい湯に手を入れて中途半端な角切りの数々を次々に口に入れ込んでもいい。仕方が無いので中火でしばらく煮込み続ける。次に火を止めてルウを入れてまた暫く煮込むだって?このレシピは見飽きたがやはり信じられない。どんなご飯でも飢餓でありつけば美味しく、満腹で出されれば勘弁して欲しいと思うものだ。何が簡単なシチューの作り方だ。十分難しい。生で食べて何が悪いのだ……と悪態をついている内に、それらしいトロッとした液体が完成した。
それをそのままくダイニングテーブルに持っていき、鍋敷きの上にどんと置き、十皿くらい用意したところにパンを切ってそれぞれ分配した。
「ご飯できたよ、おいで」
それなりに通る声で呼びかけると、子供達は待ちわびたとも言わずに席につき、しかし律儀に手を合わせてから食べ始めた。散らかり放題だった部屋は指示通り整頓されていて、料理を頑張った甲斐もあったと多少満足する。
「お姉ちゃんも食べればいいのに」
女の子が心配そうな様子で私を見つめるので、あんまり考えずに「加工食品アレルギーだから」と嘘をついてしまったが、流石に誠実さを欠いているなと思い直して。
「契約上、自給自足するように言われてるから」
「ええ!あたしたちが院長に相談すればお姉ちゃん食べれるようになる?」
「気遣う必要ないよ、私にはこれがあるから」
昼間買った昆虫食の袋をポケットから出すと、若干納得した顔をしてそれ以上は迫ってこなかった。スラムでは、子供も虫を食べる。ただ、おやつ感覚だ。だからこれを夕食にするにはどうしても足りないのだけれど、幼稚園生や小学生の胃袋では間食と区別がつかない。
「それなんの虫?」
「知らない。試食して一番美味しかったから」
「ふうん……」
恐らくこの孤児院で働く人間の中で最も食を重視していないのが私なのだろう。他の職員からはもっと丁寧に調理するようにと叱られたこともある。その時は芋を焼いていたのだけど、焦げ具合がどうにも気に入らなかったらしい。ああ、塩の加減も最悪で、君はナメクジを殺す罠でも仕掛けたいのか?と小言の追撃があったのも覚えている。皮膚をどれだけ硬くしたとしてもカタツムリのような防御を得ない選択をした生物は間違っても殺害方法に文句をつける立場にはないと反論すると、言っていることが意味不明だと突っぱねられた記憶もある。
「えっと、お姉ちゃんには家族とかいるの?」
不意にそう聞いてきた子がいた。幼いって良いな、と思った。
「確か、物心ついた時には誰も近くにいなかったの。だから、ゴミ箱漁ったり、店のものコッソリ盗んだりして、生きてた」
「コジインには入らなかったの?」
「たまたま、誰にも保護されなかったんだと思う。どうしてか覚えちゃいないけど」
淡々と問答を繰り返して、彼らは三十分ほどで完食した。あんまり親しげに会話していても就寝が遅れるだけだ。
「じゃあ、お腹いっぱいになったら食器を台所まで持って行って、二人ずつシャワー室まで来てね。それで、十時までにはみんな寝られるようにしよう。今日はちょっと遅くなっちゃった」
私は一匹小さいのをつまみながら子供達を洗う準備を始めた。ジャリジャリする。食感は悪くない。それ以上特に記述することもない。作業的に個々を洗い、作業的に個々を寝かしつけ、作業的に栄養を補給した。午後十一時、作業的に眠ろうとしている。ただ、意識を失うまでの暗い視界が唯一厄介である。特に一ヶ月のうちの一週間は、目を瞑ることが嫌いだ。私は人より出血が多い。生理的な機構が激しく稼働しているためだ。この悪魔は、機械的に運動するこの身体を鎮めようと躍起になっている。腹部、腰部、頭部、様々な箇所に堪え難い鈍痛が出始める。考えたくもない余計なことを考えてしまう時期ともぴったり合致する。将来この臓器を使うつもりも毛頭無いが、摘出して売っても大した額にならない。それに闇市で私のそれが女子中学生の子宮などという謳い文句で売買されたり、焼いて食べたり培養液で保存するような倒錯者の光景を想像すると、死んでも自分の中身など売るものか……と何のプライドか首を振ることが常である。これだから嫌なのだ。こうなるとひたすら長い。ずっと黒が続く。無根拠な不安と、無神経な怒りに苛まれて、どうしようもない。
本日も必然のように何のトラブルも発生しなかった。それで一応、本当にとりあえず形だけの達成感に浸る自分がいて、三百六十五日をそれぞれ数十回に分けて無気力に消化していくのかもしれない。そしてある日、飢えとか渇きとか、くだらない日常的な理由で命が潰えるのだ。別にそれ自体構わない。寧ろ早くこんなところ出ていかせてもらおう。来世で上手くやれるとも思っていないが。
みんな怖いんだ。先の見えない霧が怖い。だから各々が生活の根底に不信を抱えている。それ以上に死が怖いのだ。自分だけがプツリと世界から通信を切られて、電波の外の虚無に迎えられるのが恐ろしい……いいや違う。誰も死後の世界の詳細なイメージなんて端から想像していない。決定すると怖いからだ。でも、自分が何かしら別の状態になることだけは共通認識に変わりない。視界不明瞭だけが生涯スラムの人々を苦しめるのだ。だからといって私はその中に例内として入れられるのはゴメンだ。臆病や怠惰の仲間になどなりたくない。無知を悪とまで称しはしないが、ある程度まで知を得た者は最善を尽くす義務があるように考える。でも、それなら一体、私は何になりたいのだろう?何をやりたくて私は日々生きているのだろう?恐怖に代わるパーツを入手しない限り、無責任に存在することは許されないような気もしてしまう。そもそも、私は何故ここまで考えてしまうのか?劣悪な人工知能と大差ない脳の構造で一向に構わなかった。哲学するロボットなど誰が採るというのか。単純労働の結果亡くなってしまうより、頭がパンクして発狂死する方が余っ程不憫ではないか?
「……最悪」
もうやめだ。何も考えさせないでほしい。どうしてこう、自由な時間が多いとこうなってしまうのだろう。来月からはもっと依頼を引き受けてみようかな。余った金は孤児院に寄付しよう。切り詰めれば切り詰めるほど、何かを考えなくて良くなるのなら、私はそれでいい。
一瞬の安心ができると、そこだ、と狭い隙間に全身を預け、凹型の中で窮屈に両腕でバッテンを作る。そうすると、あとは棺桶の要領で私を包み込んでくれる。どんな邪悪からも守ってくれる。こんな居候に一枚の毛布をくれた雇い主に心底感謝しながら、薄れゆく自我に満足した。
創作サークルに提出するために執筆を開始したシリーズの一作目になります
整理するために手頃なプラットフォームがここだったのでとりあえず投下します