毛利辺りはオリジナル解釈がございます
天文20年に何が起きたかは前話で多少触れた
今回は舞台である備前中心の情勢を語りたいと思う
非常に面倒だとは思うが、宜しければ御覧下さると有難い
先ずはメインの浦上家と旧主赤松家
浦上家は元は赤松家の家臣であり、宗景の父にあたる浦上村宗は播磨赤松の重臣であった
その頃の浦上家は播磨赤松の家臣でありながらも、備前、美作に勢力を持つ武家であり、播磨一国を事実上支配していた赤松宗家にこそ劣りはするが、筆頭重臣と言っても良い立場であった
村宗の主君赤松義村は赤松家の中興の祖ともいえる人物の一人であり、守護赤松家を戦国大名にするべく赤松家に権力を集中させるために手を尽くした
だが、この動きを嫌った浦上村宗は所領である備前へと戻った
これに激怒した義村は手勢を率いて、村宗の影響力の強い備前、美作を攻略せんとしたが、村宗とそれに同心する国人衆や村宗家臣であった宇喜多能家は猛反撃を行い、これを撃退する
のみならず、西播磨へと逆侵攻をかけ、西播磨の一部を制圧してしまう
この敗戦により、義村は隠居することとなり、僅か八歳の息子、政村に家督を譲らさせられる
以後も幾度となく反浦上の兵を挙げるも、遂にこれに打ち勝つ事叶わず、最後は村宗の手の者によって暗殺される事となった
が、浦上家の隆盛も長くは続かず、幼年であった政村を思いのままに操ろうとするも上手くいかず、最後は細川家の争いに荷担し、細川高国方として細川晴元、三好政長(三好長慶の父)と対峙中に赤松政佑(政村が改名)の裏切りを受けて尼崎大物にて敗北(大物崩れとも)。その後戦死する
浦上村宗を除いた政佑であったが、当然の如く村宗の跡をついだ浦上虎満丸(後の政宗)と幾度となく対立するも、出雲の尼子侵攻を機に和睦する
しかし、政佑が将軍より晴政の名を与えられ、虎満丸も政宗と改名して暫くすると、政宗は赤松家の中で筆頭家老としての地位を築く
赤松家内での立場も築き上げた政宗であったが、再度出雲の尼子が美作に侵攻してくる事により、弟の宗景と意見が対立
この頃には赤松晴政も政宗を疎ましく思っていたらしく、政宗は侵攻してくる尼子に臣従しようと試みる。
が、これは宗景側に露見し、宗景は三村、毛利との同盟を画策。更に政宗を疎んじていた晴政に対し、占拠していた西播磨の返還を条件に和睦を提案する
三村の後援をしていた毛利はこの時期拡大傾向にあったとはいえ、出雲の尼子は独力で相手するには危険と判断。三村に対し、浦上との同盟を要請し毛利もまた浦上と対尼子において協調することとなる
周防の大内において変事があったといっても、容易に兵力を山陽方面から引き抜けない毛利は手の者である忍び衆を用い、尼子を出雲に釘付けにすることに成功した
一方、晴政は浦上領であった西播磨を合法に取り戻す好機と判断。宗景の提案を是とし、西播磨へと侵攻した
政宗は頼りにしていた筈の尼子、赤松双方の協力を得られぬばかりか、政宗方であったはずの有力国人松田氏が宗景方に寝返ってしまう
更に天神山、常山、岡山が立て続けに落ちてしまい、政宗は已む無く嘗て落ち延びた淡路へと再び落ちる事となった
この後、浦上と赤松は相互不干渉とする事で合意する事になる
では毛利はどういう状況であったかというと、毛利のみではないが、後世に伝わる大名というものは言い方は悪いが成り上がりばかりである
織田しかり、松平もとい徳川、島津、毛利、長尾改め上杉。
毛利は元は安芸の一国人にすぎず、かの毛利元就公とて壮年に差し掛かってから所領を拡げる児とが出来た
これは毛利が弱かったのではなく、周辺勢力が強すぎたといえるだろう
出雲、石見に勢力を持つ尼子。周防、長門、豊前にまたがる勢力を誇る大内
どちらも当時の西国を代表する大勢力であった
だが、元就は只管に耐え抜いた
時に尼子につき、時には大内についた
元就の長男隆元の隆は大内当主義隆より与えられた物である事からも当時の毛利と大内の力関係は推察出来よう
先ず崩れたのは尼子であった
『謀聖』と呼ばれ、元就も畏怖していた尼子経久が没したのだ
その跡をついだ晴久とて決して暗君ではなかった
が、彼の人は若すぎた
そこで当時尼子主力だった『新宮党』を当主晴久の猜疑心を煽る事で誅殺させる事に成功させる
これにより、晴久への求心力は目に見えて減るばかりか、尼子国人の中には毛利に好(よしみ)を通じる者も出てくる事となった
だが、元就は足りないと感じた
そこで、以前失敗した美作攻略を好を通じてきた国人からそれとなく提案させた
毛利の持っている戦線は出雲の尼子と周防、長門の大内である。
だが、もう一つ存在する
毛利と同盟している三村と浦上の戦線だった
此処で元就は尼子を弱らせながらも、敵対関係になりつつある浦上との関係を修復しようと考えた
それが尼子による美作侵攻である
浦上の家中が割れているとはいえ、美作を護ろうとする。そうなれば方法は二つ
尼子に従属するか、戦うか
従属したとして、今の尼子に浦上を護る事が果たして期待できるか?
出来るかも知れぬ
が、そうはさせぬ
元就は三村に対して尼子の隙を伺う事を禁じ、静観に徹した
果たして元就の策は成った
浦上当主の弟が毛利と三村との同盟を望んできた
加えて丁寧にも赤松の動きを誘導する策も披露したのだ
元就は渋々といった表情こそしていたが、内心で安堵していた
これで尼子の戦力を削る事が出来ると
だが、浦上の使者宇喜多直家は言った
「殿は毛利元就様に一つお願いがある」と
元就は後に息子達に語った
「あそこは静観すべきであったわ
策を弄した結果、浦上に持っていかれたわ」
宗景は毛利に兵力を要請しなかった
ただ噂のみを流してほしい。そう願った
断れなかった。兵力を動かすならともかくとして、噂一つ流せぬとの風評は毛利にとって致命的とまではいかないが、今後の差し支えになると理解していたから
結果、浦上は三村との関係をある程度修復し、尼子侵攻を挫いたという武名を手に入れた
当主を武力で追放した宗景にとっては何よりの風評であろうと元就は理解した
大内は毛利が散々煽った事もあり、武断派と文治派の対立は激化の一途を辿っていた
折しも双方に顔を聞いていた冷泉隆豊(れいぜいたかとよ)が突如亡くなっており、武断派の陶隆房(すえたかふさ)は文治派の相良武任(さがらたけとう)を誅殺。隆房は義隆に対して幾度も文治体制を改める様に迫った
しかし、義隆は養子であった大内晴持(おおうちはるもち)の死後、政治から遠ざかっておりこれをついに改める事はなかった
業を煮やした隆房は義隆に対して謀反をおこす
結果、周防大寧寺にて義隆は自害
大内一門でもある大友にいた大友晴英を周防に招き、大内義長として大内の当主とする
毛利にとって都合の良い事に毛利を圧迫していた尼子、大内が弱体化したのだ
しかも浦上は尼子に侵攻されかけた以上、尼子を放置出来ない事は明白
元就の次の手は決まった
この様に当時の戦国時代は奇々怪々のとんでもない時代であり、織田信長台頭後に比べると正に魔境いえる情勢であったことは御理解頂けたのではないだろうか?
次回は再び浦上と宇喜多のお話に戻りたいと思う
お付き合いありがとうございました
英雄と云われる人物がまだ歴史の舞台に上がっていない時にも、色々とあったという話
では駄文でしたが、御一読ありがとうございました