鬼滅冥人奇譚 GHOST OF SUNRISE 作:明暮10番
「──伯父上」
墓前で手を合わせる伯父に、少年は話しかけた。
瞼を閉じていた彼は、ゆっくりと目を開き、それから少年の方へと顔を向ける。
「……『仁』」
「ここにいらしてたのですね」
紅蔦の葉が散る山の麓に、墓所はあった。
伯父の親族が眠る墓は、苔むした他の墓と、
「して、何用で参った?」
「本土から御客人が参られました。志村城でお待ちしておりますので、急ぎ戻られた方がよろしいかと」
彼は「そうか」と呟き、城に戻るべく馬の待つ広場へと歩き出す。
北を目を向ければ、唐紅の葉々を抜けて顔を覗かせる志村城があった。
仁と呼ばれた少年も、その後ろに続く。
「……先代様の、御命日でしたね」
「あぁ。だが、ご先祖様や父上だけではない……先の戦で見事な討ち死にを果たした……我が、弟たちもここに眠っておる」
伯父はまたぴたりと足を止め、もう一度だけ墓石を見た。
その名を一つ一つ目で追い、悲しげに口元を綻ばせた。
「……今や残された子は……わし、のみ」
彼の目線に合わせ、仁も墓へと目を向ける。
散った紅葉が積もり、死んだ者の記憶を隠そうとしているかのようだ。
「父上と共に、鑓川で討ち死にした弟たち。そして我が妹であり……お前の母。そう。この世で、志村の血を引く者は……」
伯父は仁の肩に、優しく手を置いた。
「……わしの他に、お前だけだ」
伯父の方へ視線を戻すと、彼はサッとまた前を向いてしまう。
少し見えた横顔には、儚しげな哀愁が漂っている。
「……家族がいなくなるのは、とても悲しい事です」
「………………」
「死んでしまえば、この世から……いなくなってしまうから……」
そう答えた仁に対し、伯父は一つの問いを投げかけた。
「……仁。志村の家紋は、何を意味しておると思う?」
何を今更と思いながらも、おずおずと答える。
「日の出。闇を払い世を照らす、新たなる光。転じて、繁栄と正義の象徴」
「左様」
伯父は少し含みを持たせてから、「しかし」と続けた。
「わしには、もう一つの意味が込められていると思っておる」
先を歩く伯父の背には、その志村家の家紋が縫い付けられていた。
海より出し、熱き太陽。仁はずっと、この家紋に憧れていた。
「日は必ずや沈む。夜が訪れ、闇が世を覆う」
「日没……と言う事ですか?」
「そうだ」
足を止め、「だが」と、伯父は続ける。
「また日は昇る」
一際強い風が吹き、散り落ちた紅葉をまた空へと舞い上げた。
上がった葉を浴びながら、彼は横顔だけを向けて笑った。
「沈めども、必ずや昇る新たなる朝陽。生まれと黎明。我が志村の家紋には──」
身体をすっと回し、仁と向き合う。
その時に語った彼の、家紋への解釈は、以降ずっと印象として残っていた。
「──不屈と、生まれ変わり──不滅の意が込められておるのだ。死しても消えぬ、魂の象徴としてのな……」
それだけ言った後に、彼は馬の方へと歩み出す。
唐紅が舞い散る中。仁は追いかけ、追い付こうとせんばかりに、彼の背へと駆け出して行く。
身体が鞭打つように痛む。
目が開けられない。
腕や足を動かそうとすれば、節々が悲鳴をあげる。
止まりそうな呼吸を、何度も意識して繰り返し行う。
すると痛みが次第に引いて来る。
まずは手の指先が動いた。
次にぼんやりとしていた聴覚が戻る。
「ぁぁ……ぁー……」
遠方から、小さく声が聞こえた。
声と、喘鳴。飢えた獣のような殺意。
また呼吸を繰り返す。
痛みはまた引いた。
だが足は動かず、目は開かれない。
近付く何者かの声が聞こえた。
今度はさっきよりも、鮮明に聞こえた。
「ぁああぁ……ぁぁあ? あ?」
人語なのかも怪しいが、人間ではあるようだ。
だが身体に巻き付くものは、殺意だけだ。
目一杯、空気を取り込んだ。
手首まで動かせるようになり、足の指先がやっと動けた。
しかし目は開けない。痛みはまだある。
「ぁあっは、は、はぁ……! 嘘だろ、はっはっは……!!」
荒い呼吸が聞こえる。
不気味で品のない声と共に、鼻を突くツンとした臭いに不快感が強まった。
呼吸を取り込み続ける。
肘が動いた。
膝も動いた。
首が曲げられる。
痛みも消えた。
誰かの声は自分の、真上から聞こえて来た。
「人肉が落ちてる……! はっはっは……!! いつ振りだよぉおぉ……!?」
粘着した液体が顔に当たる。
涎だと気付いた。臭いは強まり、呼吸が嫌になって来た。
だが、何度も吸い込んだ。
呼吸し、身体に取り入れた。
何者かが、腕を掴んだ。
「ちと歳食ってるがよぉ……まぁ、背に腹は変えられねぇかあぁ? てか、腹が背中にくっ付きそうなんだよぉおぉ……」
呼吸をする。
呼吸をした。
瞼を上げようとする。
瞼を上げようとした。
「あーーーー…………」
腕が引っ張られ、持ち上げられる。
ぴとりと、一際大きな涎の粒が、頬に付いた。
呼吸を止めた。
目を開く。
「ッ!!」
何者からか、腕を引き剥がした。
「ぁ?」
そして一瞬で抜いた太刀で、その者の伸びていた腕を叩っ斬る。
「は?」
血が散り、切断された腕が宙を舞う。
さっきまで大の字で倒れていた男の、腕に齧り付こうとした寸前だった。
突然、男は目を開き、腕を引き剥がし、その場で回転して持っていた太刀で斬った。
きぃんと、透き通った鋼の残響。
起きたばかりとは思えない機敏。
そして、腕一つを切断した剛腕。
この男は何者なのかと確認するより先に、相手はサッと距離を取り、
閉じていて見えなかったその黒い瞳は、確固たる意思が宿っている。
涎と血が付いた顔を拭うと、やっとの事で男は口を開いた。
「尋常ではない殺気……寝込みを襲うとは卑怯者め……何奴」
くっと睨み付ける、その男。
牢人の袴を身に纏い、月光を輝かせる白刃を立てる男。
機敏と残心、どこか品のある所作。少しやつれた顔付き。
何よりも後頭部で結わえた髷が、その男は何者であったかを見事に主張していた。
侍。
主君の為、国の為に刀を振るった剣士。
誉れと自らの鍛錬を重んじる、義の武人。
男のその有り様は、「今は消えた侍」を彷彿とさせた。
静まり返る森の中。
朧月の頼りない光を必死に目に集めつつ、黙り込んだ相手に再度呼びかける侍。
「何奴かと申しておる。賊か、刺客ならば容赦はせぬぞ」
まだ黙り込む相手方。
暗闇の中とて、月光のお陰で輪郭は伺える。逃げた訳ではなく、その場で蹲っているようだが。
「…………」
腕を切断したと言うのに、悲鳴が聞こえてこない。
痛みで失神したかと思ったが、闇の中の影が立ち上がった事でその考えを打ち消した。
「──!……言わぬか!」
言葉を荒げ、話すようにと命ずる。
だが、代わりに聞こえて来た声と言えば、歯を閉めているような笑い声。
「……く、くっくっくっくくくくく……!!」
次第に目が、闇に慣れて行く。
相手の姿が、やっと伺えて来た。
「何を笑っておる」
「は、はは……! おっかねぇ〜!! 斬られたモンだから、『アイツらと同じ刀』かと思ったぜぇ〜〜……! はっはっはは!!」
相手は一歩二歩と侍に近付き、月明かりの木漏れ日を浴びる。
両者、そこでやっと、互いに相手と見合わせた。
だが、侍の方が受けた衝撃は強いものだった。
「……!?」
驚いたのは、寝込みを襲おうとし、腕を斬られた男の顔だ。
顔中の筋肉が異様に隆起し、浮き出た血管がもはや木の根のように現れている。
更には縦に裂けた、獣のような瞳孔と尖った耳が、この者が普通ではない事を自ずと悟らせる。
「なんだぁ〜オッサン!? そりゃ『タダの刀』じゃねぇかよぉ!! オドカスんじゃねぇ〜よぉおぉ!!」
今しがた切断してやった左腕を見る。
もう血が止まっていた。
それだけではない。残った手で持っていた斬られた左腕を、切断面にくっ付け始めている。
「……有り得ぬ」
斬られた腕が繋がり、また指先から動き出した。
グーパーグーパーを繰り返し、何不自由ない事を示す。
愕然とする侍の前で、男はニタリと笑う。
熊のように鋭い歯をしていた。
「はっはっは!! この山に迷い込む間抜けとか居ンだなぁーーッ!? てめぇ、あの『鬼狩り共』と関係ねぇ奴ってんなら、なんの心配もしなくて良いんだよなぁーーーーッ!?!?」
両手の爪がメキメキと伸び始め、針のように鋭利となる。
侍は瞬時に、相対している男は人ならざる者だと気付く。
「おのれ妖の類か……!? 馬鹿な!?」
理解が追いつかない内に、怪物はフッと姿を消した。
いや、消してはいない。
地面を這うように進み、闇に溶けようとしていた。
「ッ!!」
離していた距離が、一瞬の隙に詰められている。怪物は既に、彼のすぐ左にまで迫っていた。
敵は両腕を大きく広げ、男を包むようにして刺殺する算段だ。
侍には怪物の考えをすぐに読めた。すぐ前方に転がり、寸前のところで攻撃を回避する。
敢えて、飛び上がった敵の方へと転がる事で、無防備な腹の下へ辿り着けた。
「──ハァッ!!」
すぐに頭上を太刀で切り払う。
胴は仕留められなかったが、足を斬れた。
傷から噴き出した血を、男は浴びる。
「はっはっはーーッ!!」
怪物は笑いながら手で着地。背を向けた逆立ちの姿で立ち、首を反らして顔を向けている。
あまりに不気味な姿だが、侍は臆する事なくすぐに姿勢を戻し、刀を構えた。
「速い……!」
「よぉおく見切ったなぁあーーッ!?」
ぶらぶらと揺れる、怪物の足。
男は自身が斬ったであろう、脹脛の傷を見て息を飲む。
「……んーーだーーけーーどーーもぉーー!?!?」
みるみると傷口は塞がり、血が蒸発したかのように消えたからだ。
残った奴の皮膚には、痕すら残っていやしない。
「オメェーーはぁ、オレに喰われるまでよぉおーー!? 絶対にオレを殺せねぇーーんだよぉなぁあ!?」
逆立ちの姿勢のまま、怪物は器用に両足を使って、およそ拍手のようにパチパチと叩いている。
侍は首を微かに振り、呟く。
「……信じられぬが、まこと妖怪のようだ……だが──」
男から士気は、一向に薄れない。
「──肉を斬れた。血も出た。攻撃は当たっておる……」
次に怪物は、逆立ちのままで駆け寄る。
手で身体を支えて走っていると言うのに、その速さは足で迫って来た時とほぼ同じ。
「死ねぇッ!!」
腕を曲げ、姿勢を低くした状態で足を──蹴りを入れる。
侍は少ない動作でそれを躱すと、すぐに攻撃に転じた。
「馬鹿かオメェーーよぉーーッ!?!?」
腕だけで跳躍をし、侍の一太刀を回避。
「んぬ……ッ!?」
それだけではない。
跳んだ事で自由になった奴の腕が、男の右手首を掴んだ。
関節の仕組みを無視した動かし方だ。
「掴んだぁーーッ!!」
手繰り寄せ、首を刺そうとする。
だが次の瞬間、掴んだ右手首がすっぽ抜けた。
「あぁ!?」
拘束を解いた侍は、身体をサッと横へ流す。
怪物の攻撃は、空を切った。侍はその怪物の真隣に立っている。
「──はぁあッ!!」
「ッ!?」
即座に連撃を叩き込む。
伸ばし切った片方の腕と、宙ぶらりんの足二本。
「ちッ……!!」
そのまま怪物は地面に落ちる。
落ちた瞬間、残った腕で対応しようとする。
しかし攻撃の予感を察知していた侍が足蹴りを食らわせる事で、阻止させる。
蹴った際に、互いにまた距離が出来る。
深い呼吸を繰り返す侍と、四肢の内三つを切断された怪物。両者は互いに睨み合う。
怪物は残った左手一本で、立っていた。
その手に握っていたものをジロリと見る。
「……
すっぽ抜けた原因はこれだ。
侍は掴まれて瞬時に腕を引き、付けていた手甲で滑らせ、脱ぎ捨てる事で拘束を解いた。
怪物は気付く。
この男は剣技のみではなく、一瞬の判断と機転も冴えているようだと。
「……妖怪とて、仕掛けさえ知れば……恐るる必要なし」
侍はすぐに、切断した怪物の右手と両足の前に立つ。
「繋がずば、戻らぬのだろう。なら、首を斬ればどうだ?」
そこで初めて、怪物は悔しげな表情を見せた。
「クソかよ……! オレかて! 腹が減ってなきゃよぉ〜ッ!? こんなのすぐに生やせたんだよぉーーッ!?」
またしても侍は息を呑む。
斬れた腕と両足の切断が塞がり、瘤になっていた。
そこからまるで、赤子のような指がニョキリと生えた。
「クッソォ!! こんくらいしか生えねぇーーッ!!」
「生やす事も出来るのか……いよいよ、本当に殺せるのか分からなくなってきたな……」
「あぁ、そうだッ!! てめぇら人間がオレを殺すこたぁ出来ねぇんだよッ!!」
「だが、おのれが口走ったのだぞ」
「あ?」
侍は中段の構えを取る。
「『鬼狩り共』……つまるところ、お主を殺せるような人間が確実に有ると言う訳だな?」
怪物はその場で飛び上がり、空中にいる間に持っていた手甲を地面に叩きつけて着地した。悔しかったのだろう。
「それさえ知れば、必ずや殺せぬ相手ではないと知れよう。自信となった」
「オメェーーッ!? 嫌な奴だなぁッ!?」
「口は災いの元だ」
「てか!? それ知ったところで挑むっつーのはまた別の話だろぉ!? おかしいんじゃねぇか!?」
侍の方からすれば、この怪物は確かに人ならざる力と能力を持っているとは分かるが、頭の方はあまり良くはないと気付けた。
だが腕一本だけとなったとは言え、手甲を投げ付けた時の跳躍は目を見張るものがある。
腕一本でも動けるようだ。
いや、切断せずに残った太腿や上腕だけでも、十分に打撃が出来る。
ならば首を取るしかない。首さえとれば、もう身体は動かせないだろう。
あの様子では、再び身体を生やすなんて事は出来ないようだ。
冷静に状況を見据え、勝機を探す。
優位な状況にあるからこそ、良く相手を知れ。
それを怠れば、たちまち窮鼠が全てを殺す。
彼はそれを分かっている。
なぜならば、「彼が窮鼠だった」からだ。
「……!」
冷静に相手を観察している時に、彼は怪物の目線に気が付く。
怪物は悔しがり、冷静さを失っているようにも思える。
だが時折、目線に作為を感じた。
自分を見ていない。どこか、別の場所をちらりと見ている。
「……ッ!」
自分の後ろだと気付く。
ハッと背後を横目で確認し、愕然とする。
斬った三本の手足が、消えていたからだ。
「まさか……ッ!!」
「気付きやがったなクソッ!!」
侍の前方にある草むらから、何かが飛びかかった。
それは斬ったハズの、二本の足。
尖らせた爪を向け、侍に一斉にかかった。
「斬った後も動けたのか……ッ!!」
何とか一本目の足を、刀を盾にして凌ぐ。
だが二本目の足へと対応が遅れた。
太刀を握る腕に裂傷を与える。
「グッ……!!」
それでも得物は落とさず、堪えた。
飛びかかった足がまた、侍を襲おうと構えている。
「……右手はッ……!?」
遅かった。
足首に走る、鋭い痛み。
静かに迫っていた怪物の右手が、彼の左足首に深々と爪をずっぷしと、刺し込んでいた。
「ぐぅ……ッ!!」
血が噴く。左足から力が抜ける。
それでも彼は、再び飛んで来た怪物の足を凌いでみせた。
しかし足の爪が、侍の腕にできた裂傷を抉った。
「グア……ッ!?」
とうとう太刀を、落としてしまった。
無様なその姿を見てケタケタと笑うは、あの怪物だ。
「はっはっはっはーーーーッ!! ぎゃ、ぎゃ、逆転だぁッ!!」
膝から崩れる、侍。
「オレに真っ直ぐ向かって来るって予想は外したがなぁーーッ!! 本当なら首を掻っ切れたのによぉーーッ!?」
太刀はからんと、草の上に落ちる。
侍はそのまま、足の痛みを庇うように倒れるかと思われた。
「──ぬぁあッ!!」
いや、倒れたのではない。敢えて屈んだ。
腰に下げていた小刀を抜くと、左足に突き刺さる怪物の右手を突き刺した。
「イデッ!? ああ!? まだ刀ァ持っていたのかぁ!?」
痛覚はまだ繋がってはいるようだ。怪物から声があがる。
侍はその手の指を小刀で切断してやり、拘束から解放された。
「太刀を……ッ!」
すぐ前方に転がり、太刀を拾った。
片手で構えて、再び対峙しようと思ったものの、すぐにその考えを打ち消す。
怪物の足二本が、主人の元に近付いていた。
接合されれば、あの恐るべき機動力にまた苛まれるだろう。
「……ッ!!」
左足に怪我を負ってしまった。これでは満足に動けない。
太刀を握っていようが、足が動かない。今のままで果たして、勝てるのだろうか。
「………………」
侍は少しだけ考え込んだ後に、敵に背を向け、すぐ後ろにあった木々の中に隠れた。
「あぁー? 今から逃げるってかぁーー!?」
近寄った足二本を、斬られた後に生やした小さな指に近付ける。
指は足の切断面と一体化し、また元通りとなってしまった。
「おーーいおいおいッ!! 逃げられる訳ねぇーーだろぉーーッ!?」
やっとの事で怪物は、二本足で立てるようになる。
次に斬られた手の方へ歩く。
「血の匂いプンプンさせてよぉーーッ!? しかも足怪我してよぉーーッ!? せーぜー八間まで離れられたら良い方だろがよぉーーッ!?」
手の指を全て斬られていたが、元の箇所にくっ付ければ良いだけだ。
足と同じく、右手を結合させ、斬られた指も戻そうとする。
「あ?」
落ちていた指を拾い集めて気付く。
親指だけがない。
「あぁあ? どこ行った……いやぁ、良い。親指ぐらい」
不恰好ではあるが、親指だけは諦めて、怪物は森の中へ颯爽と飛び込む。
木々が隠して鬱蒼とし、視界も弱くなる。
とは言え怪物の目は暗闇に強く、光の中を走っているのとあまり変わらない。
寧ろ不利になったのは、夜に目が弱い人間──しかも手負いである、侍の方だ。
「血の匂いがする……! はぁ、あはぁ……!! この匂いがたまんねぇんだよ〜……!!」
人喰いとしての本能だろうか。血の匂いを嗅げば、食欲が溢れ出る。
それだけに鼻は敏感で、匂いの跡を辿ればある程度まで追える。
袋小路に迷い込んだのは、侍だ。血を出し続ければ、いずれは弱る。
逃げれば逃げるほど、不利だ。
「……ん!?」
匂いはだんだんと近くなる。
「はっはっはっはっーーッ!! 足でオレに敵うわきゃねぇーーッ!!」
辺りは暗い。だが問題はない。
匂いは、眼前に立つ木の後ろから。
怪物はにやりと笑う。
さては木の後ろに隠れて、やり過ごそうとしているな。
無意味だと言うのに。
「そこだぁあーーッ!!」
怪物は飛び上がり、上手く木の裏へ飛ぶ。
「死ねーーーーーーッ!!」
爪の先が、侍がいる箇所へ届く。
血の匂いが強いそこへと、届いてしまった──────
森の中を走る、一人の少年。
額に出来た傷を押さえながら、物憂げな表情だ。
「……まだ初日……」
波と浮雲が描かれた羽織り。それに付いた汚れをパンパンと払う。
激戦の後と言わんばかりの様子で、些か疲れが顔にあった。
「逃げてしまったあの子は……大丈夫だろうか。足を怪我していたりとかしたら……」
今は無事を喜ぶ暇はない。
この森……もとい山には、まだ幾多の鬼が跋扈している。気を緩めてはならない。
「……とにかく何か……食べ物でも探そう。腹が減ったなぁ……」
少年は鼻をくんくんと動かした。
果物があれば良い。川があれば魚を獲れるし、水も飲める。
土の中になら、芋もあるかもしれない。
「……これも選別の内なんだな」
そう思いながら、必死に鼻を動かす。
少年は人よりも、嗅覚が優れていた。
生まれながらのこの特技を使い、食べ物を探し当てようと努力する。
その時、一際目立つ匂いを当てた。
生臭く鉄臭い、何度嗅いでも嗅ぎ慣れないもの。
「……! 血の臭い……ッ!!」
誰かが襲われたか、怪我をしたのか、或いは……。
少年はいても立ってもいられず、すぐに臭いのする方へと走る。
草むらを掻き分け、木々を抜け、臭いのする方へと進み続ける。
次第に臭いは強まって行き、近付いている事を悟る。
「もうすぐだ……ッ!!」
すると臭いだけではなく、呻き声らしきものまで聞こえて来た。
ゴクリと、緊張から生唾を飲み込む。
眼前に立つ倒木を飛び越え、森の中で着地。
その場所こそ、臭いの根源地だ。
「誰か襲われ────」
サッと顔を上げ、場を確認する。
「おかしいだろぉおがよぉおおおッ!?!?」
「なんなんだお前はーーッ!?」
「ふざけんなッ!! 抜きやがれこれをよぉーーッ!?!?」
次には目を疑った。
一本の太刀に、鬼の頭が三つ、串刺しにされて木に突き刺されている。
そして三つの頭は口々に怒号をあげ、この場にいない誰かに呪詛を振り撒いていた。
「あ……は? え?」
これには少年も面食らう。
どうやら血は、この鬼たちから漂っていたものらしい。
辺りを見渡すも、鬼たちの身体がない。
首を斬り、串刺しにした後、分離した身体から遠い場所に離したようだ。
いや、それだけではない。三頭とも、目を潰されている。
いずれは再生するだろうが、喰った人間の数が足りないのか、治癒に手間取っている様子だ。
「い、一体……誰がこんな……?」
恐る恐る近付き、何が起きているのかを調べようとした。
「そこもとッ!」
「うひぃっ!?」
突然、頭上から声が響く。
パッと見上げ、咄嗟に刀に手を掛ける。
「落ち着け。『鬼』とやらではない」
声の主は、木の上にいた。
少年が気付かなかったのは、血の臭いが強過ぎたからだろう。
謎の人物は、黒い着物の男だ。
少年が敵ではないと確信すると、サッと木から飛び降りる。
「だ、お、ど、どど、どちら様ですか!?」
「今し方ここで、最終選別とやらを受けておる『鬼狩り』か?」
「はい!? そうですけど!?」
男はどこか古風な雰囲気の漂う口調をしていた。
また髭が薄らと生えており、やつれた様子をも醸している。良く見れば着物も安っぽく、上等な物ではない。
だが、細く鋭い目の奥に、輝かんばかりの意志を抱えているようにも感じた。
数々の修羅場を乗り越えて来たかのような、強靭な意志を。
男は一度、礼をしてから名乗った。
「名は『仁』。見て呉れそのまま……牢人だ」
自嘲気味に呟き、緊張気味な面持ちで少年を見据えている。
・志村家の墓所は、志村城の西南にある。コオロギと蒙古以外なにもないけどね。
・志村の父と弟たちについては、「憤怒の舞」での琵琶法師の語りから。
時頼による憤怒の舞の餌食となって討ち死にした模様。
・頭防具「なし」
面頬「なし」
鎧「牢人の袴」
・境井家の太刀 境井家の短刀 「強化完了」
刀装具「嵐之一族」
・護符「なし」