彼女は奇跡を求めなかった。科学という叡智を身に宿していたから。
彼女は夢を見なかった。自分は見せる側だと理解していたから。
彼女は笑わなかった。人情など枷にしかならなかったから。
彼女は運命を信じなかった。そんなものがあったら、自らの運命を呪わざるを得なかったから。
しかし、彼女は一人の男を愛した。そこには理由など無かった。
その男の前では、彼女は笑い、奇跡を信じ、運命を愛し、そして抱擁の中で涙を流した。
それが、彼女だけに向けられる愛ではないということを理解していても。
【ロドス 事務室】
新人オペレーターの間で、奇妙な噂が流れていた。
根拠のない噂話。あるいは都市伝説とでも言おうか。しかし、秘密というものは自然と人の関心を引き付けるものである。
規制をするということは、その噂が事実であったと認めるようなものなので、情報室の職員はほとほと困り果てていた。
「ドーベルマン教官。こんな話を知っているか」
「……? 何の話でしょうか?」
「『ドーベルマンが鞭を扱うのは、個人的嗜好のため』」
「はは……。お戯れを、ケルシー医師」
二人の人物がテーブルで対面する。
その言葉遣いの差から、二人の立場や関係性を想像することは実に容易なことであった。
「あなた程の人物が、まさかそのような噂話を信じるとは思いませんでした」
「冗談だ。しかし、火のない所に煙は立たぬというものだ」
「はは……」
二人はテーブルに置かれた書類の束に目を通す。
多くのオペレーターたちの情報と、戦績記録の詳細が事細やかに記載されていた。
戦う者を支援する者として、最大限の情報を収集することは当然のことだった。
「しかし、ここ最近の躍進は目を見張るものですね」
ケルシーは頷き、
「そうだな。やはりドクターを奪還して正解だったか。多大なる犠牲を払ったが、我々は着実に前進している」
「順調に事が進めば、今年度中にレユニオンとの決着もつくだろう」
ドーベルマンがテーブルに書類を置く。
「……そんなに上手く行くのでしょうかね」
「失敗を考えながら生きるより、成功を信じて生きる方が何かと楽なものだ」
ケルシーは席を立ち、電気ポットの近くに置いてあるインスタントドリンクの山に手を伸ばす。
ドーベルマンに「何か飲むか」と問うと、二つのティーカップを取り出した。
ドーベルマンは彼女の動作一つ一つに美しさを感じた。
まるで教会のステンドグラスから顕現したかのような、静謐で厳かな立ち振る舞い。感情の揺れ動きすら分からせない超然とした存在。
ロドスの切り札は何だ。スカジか。ロスモンティスか。否、■■■■亡き今、一騎当千の芸当ができるのはケルシーだけだった。
「そういえば、こんな話を知っていますか?」
「……なんだ?」
ドーベルマンがティーカップを置く。
「『ケルシー医師は不死身で、定期的に肉体を交換している』。何の根拠も無い噂話なんですけどね、不快なら緘口令を敷きますが」
「…噂ではなく事実なら、どうする?」
「ははは。………え?」
今後の方針を定めた後、二人は別々の方向に歩み出す。
一人は研究棟へ、もう一人は訓練室へ。お互いの専門分野は全くと言っていいほど別のものだったが、信条の根幹は同じだった。
多少のズレはあったが……。
【ロドス 研究棟】
汚れ一つない壁面がどこまでも続く通路。白衣に身を包んだ者たちが足早に通り過ぎていく。
どの者も、消毒液のにおいを振りまいていた。
通路の中央をケルシーとレッドが歩く。
端の方に寄る職員たちの姿を見れば、この研究棟の首魁が誰であるかなど考えなくても理解できた。
そして、二人が立ち止まったのはケルシーの私室兼研究室。
ケルシーがロックを解除し、レッドがドアを開く。
いかにも高額そうな器具たちが鎮座する空間の中に、明らかに不自然な人物が一名。
「随分と遅いお帰りじゃないか。部屋の場所を忘れたのか?」
「女性の部屋に許可なく入るというのは、あまり紳士的とは思えないな」
男は椅子を軋ませながら振り向く。
「ケルシー、私は未だかつてない程機嫌がいいんだ。キミの機嫌はどうなんだ?」
「…………」
ケルシーはアシッドムシを見るような目で男を見た。
レッドが尻尾をバタつかせて男に擦り寄る。
「ドクター、ケルシーは忙しい。レッドとあそぼう」
「おぉ、レッドは花の匂いがするな。どこかの消毒液の臭いを放つお医者さんとは違うな」
ケルシーは新たな椅子を用意すると、コーヒーとオレンジジュースの用意をし始めた。
「んっ。耳、触るときは優しく。レッド、割れ物だから、扱いは丁寧に……」
ドクターが座った椅子がギーギーと悲鳴を上げる。
彼が重いのではない。元の所有者が軽すぎるのだ。
「お˝お˝お˝……。揺らし過ぎ、脳が、あ˝あ˝あ˝あ˝あ˝」
ドクターはレッドの頬を両手の手のひらで押さえつけると、そのままグリグリと動かした。
その様子はまるで犬の相手をする飼い主の様だった。
「レッドの頬はやわらかいなぁ。ずっとモチモチしていたい気分だ」
「う……。ほっぺ伸ばさないで……。もっと、繊細に……」
バンッ! と音を立ててコップが置かれる。
元々聴覚が優れていたレッドは、全身の毛を逆立たせて驚いた。
「……わたしの部屋は
ぎろりとドクターを睨みつけたケルシーの下にレッドが歩み寄る。
暗い仕事を任せられることが多いため、音もなく忍び寄ることは大の得意であった。
「……ケルシーもしてもらえばいい。きっと、気に入る」
「いや、わたしはいい。遠慮しておく。押すな!」
背中を押されて、ドクターの前に出る。
「ほれ、ケルシー。しゃがめ。私とお前の仲なんだ。今更恥ずかしがることなんてないだろう?」
レッドが部屋の隅でジュースを飲む。
「お˝お˝お˝お˝お˝……。貴様、慣れているな……。あ˝あ˝あ˝あ˝……」
それはMon3trが背中を突き破って出てくるまで続けられた。
ジュースを飲み干したレッドが、置いてあるコーヒーをつまみ飲みして噴き出す。
唾液とコーヒーで濡れたドクターは、挨拶がわりにケルシーの耳(頭頂部の方)を爪弾いた。
「んあっ……」
「!? 今の可愛らしい声は誰のだ!?」
当然ながらMon3trにボコボコにされた。
濡れた服を拭きながら、ドクターはケルシーに訊ねる。
「最近、アーミヤの姿を見ないんだが、何かさせているのか?」
「ドクターも知らないのか。わたしはてっきりドクターの指示で暗躍しているのかと思っていたが」
レッドが床に出来たコーヒーの水溜まりを拭く。
四つん這いになり、せっせと行動するその姿には、もはやオオカミ殺しとしての覇気はないように思えた。
「いいや、三人で執務を行った時のことを憶えているか?」
ケルシーが頷き、
「あぁ、憶えている。その時からか? あまり見なくなったのは」
「そうだな。まぁ、ケガがないなら良いんだが」
ケルシーが何かを言いたそうに口元を動かしていた。
ドクターはその様子を見て楽しんでいた。普段勝気な人がしおらしい姿を見せるというのは、どうも嗜虐心を煽情させるものであったからだ。
「もし都合が空いたら、三人でどこかに行かないか?」
レッドが振り返る。
しかし、その三人目が自分ではなくアーミヤのことを指していると気付いてからは、つまらなそうに髪先をいじるのであった。
「……飯でも食いに行こうってか」
「何でも構わない。落ち着いている間に外に出向こう」
ドクターは目を合わせず、
「そうだな。今の問題が落ち着いたら、遠い所にでも行こうか」
椅子ごとクルクルと回転していたレッドが大きなあくびをした。
ケルシーはドクターの返答に頬を緩ませた。
しばらくした後、研究室のドアがノックされる。
小さな手の持ち主なのだろうか、そのノックはとても丁寧で細やかなものだった。
レッドがドアを解錠する。
「こんにちは、ケルシー先生。近くに来たので寄っちゃいました」
「……今日は客人が多いな」
ケルシーがコップをもう一つ用意する。
ドクターが背中を向けるケルシーに、
「丁度いいタイミングなんじゃないか?」
「あれ? ドクターもいらしたのですね。えへへ、お久しぶりですね?」
「あぁ、元気そうで何よりだよ。忙しかったのか?」
ケルシーが室内に居る四人に飲み物を追加で提供する。
レッドがチビチビとジュースを飲む。
「女の子は大変なんですよ。ドクターみたいに暇じゃないんです!」
「ケルシー、女の子は大変らしいぞ?」
「…………」
ドクターは脛を蹴られ、患部を押さえてうずくまる。
「あはは……。でも、こうして三人が集まるなんて珍しいですよね?」
「そうだな。誰かが執務をダラダラとやっていたり、婦女と遊んでいたりするからな」
「…………」
ケルシーの脛を小突いてやろうと爪先を動かした瞬間、Mon3trに靴の先を削り取られてしまった。
生命の危機を感じ取ったドクターは、それ以上ケルシーをからかうことはしなかった。
「あっ、コレ飲んでもいいですか?」
アーミヤがコップを指差し、なぜかレッドが頷く。
「アーミヤ? それ私のコーヒーじゃないか?」
「ええ!? ごめんなさいドクター! よく見てませんでした!」
アーミヤが口元を押さえて狼狽える。
「ケルシー、間接……あれは、いいの……?」
「……皆まで言うな。アーミヤが相手なら何とも思わん」
ドクターはケルシーの慈悲をありがたく思うのだった。
そして、アーミヤが口を付けたコーヒーを腹に流し込む。
「(うまい! もう一杯!!)」
【ロドス 連絡通路】
「(ちょっかいをかけに行くだけだったんだが、むしろ疲れてしまったな……)」
心中の思いとは裏腹に、ドクターの足取りはどこか軽やかなものだった。
道を歩けば、たくさんの人が挨拶をしてくる。
曲がり角でサイレンスとぶつかった。
どうやらイフリータを探しているらしい。
ケルシーの匂いがすると言って、全身に消毒液を散布された。
道中でアンジェリーナが飛び乗ってきた。
重力を無視できる彼女の攻撃を予測するのは不可能に近かった。
私が通るまで、ずっとここに居たらしい。
食堂の前にて、シルバーアッシュとすれ違う。
彼の隣にはプラマニクスが居た。復縁したのだろうか。
しかし彼の表情は曇っていた。
彼女は「これからもよろしく」と微笑んだ。
連絡通路でエクシアと会った。
社交辞令的な会話を済ませると、ドクターのふと自身のケータイを開いた。
そこには不在着信が数百件。どれも昨日のエクシアからだった。
エレベーターに乗るとスカジと遭遇した。
彼女から多くのお菓子をプレゼントされた。
チョコレートからは銀色の毛髪が飛び出ていた。
自販機の前で二ェンと会った。
彼女から原型を留めていないガラクタをもらった。曰く、何かに使えるとのこと。
よく見ると、ガラクタの一部はドクターの顔のようにも見えた。
事務室の裏でリスカムに呼び止められた。
訓練が終わり、直近のBSW支部に戻るらしい。
ポケットに小さく折りたたまれた紙を入れられた。リスカムとの専属契約書だった。
執務室の前でアズリウスと会った。
「…………」
彼女は喋らなかった。
「……完成したのか」
アズリウスが頷き、
「えぇ、お望み通りの物を作製致しましたわ」
ドクターが手を出す。
アズリウスは小瓶を取り出して手の上に置いた。
「……質問がありますの」
「……なんだ」
「わたしは、あなたにとってどういう存在ですの?」
ドクターは指で小瓶を挟むと、上下に振って薬品を揺らした。
「そうだな。少なくとも、大切な人だと思っているよ」
アズリウスの表情は凍てついたままだった。
「どうですか? わたしの言った通りでしょう?」
「
「アズリウスさん。ドクターは自分のことしか考えていませんよ?」
「そんなの、許せませんよね?」
「……アーミヤ?」
後方から声が聞こえた。つい先程聞いたばかりの声。
か細くも、どこか力強い声。
ドクターが振り返る。
「はい。
ドクターが内ポケットに忍ばせた拳銃を握る。
「動かない方がいいですよ。アズリウスさんが渡したのはニトログリセリンです。いつ爆発しても不思議ではありませんので」
アズリウスがドクターの背中にボウガンを突き付ける。
共に爆死することを恐れていないのか。
「何がお望みだ……?」
アーミヤの口元が吊り上がっていく。
「いえ? 何も望んでいませんよ? 言ったところでドクターは叶えてくれませんから」
生唾が喉を通り抜ける音が響いた。
「まさかこんなに上手くいくなんて……。ふふ、ふふふふ? あははははは!」
「なにを、そんなに……」
ドクターの呂律が回らなくなっていく。
「あははは! あぁ、あはは! はぁ、はぁ……。そろそろでしょうか?」
アズリウスが頷く。
アーミヤが足元がおぼつかない様子のドクターに抱き着いた。
「ファントムさんやグラベルさんを呼ばれたら困りますので……」
「ドクターにはケルシー先生の部屋で睡眠剤を飲んでいただきました!」
アーミヤはコーヒーを間違えて飲んだのではない。
あらかじめ口に含んでおいた睡眠剤を混入させるために、間違えたフリをしてコーヒーに口をつけたのだ。
「(意識が……! こんなところで……!)」
「そうですよね。こんな道半ばで倒れてしまうなんて残念ですよね。でも、ドクターがわたしたちを捨てようとしたのが悪いんですよ?」
アズリウスが小瓶を回収する。
「ドクター、『人を呪わば穴二つ』ですからね」
朦朧とする意識の中で、ドクターは二人に抱えられて執務室に運ばれた。
椅子に座らせられると、アズリウスが小さなアタッシュケースを開く。そして、透明な液体が入った瓶を取り出した。
「これは委託された薬品とは別のものですの。記憶障害が起こるギリギリまで希釈させたものですわ」
「作用は、信頼度を上昇させるもの。言ってしまえば『好感度の限界突破』」
「これを
アズリウスが椅子に座るドクターの、だらりと伸ばされた手を握る。
強く握ると、ドクターが握り返してきたのが分かった。
「怖がることはありませんわ。安全性能は確認しておりますので」
様子を見ていたアーミヤが呟く。
「アズリウスさん。気が変わりました。やっぱり注射してください」
「…………はい?」
アズリウスが聞き返す。
「聞こえませんでしたか? 血中に直接入れてください」
「おっしゃる意味が分かりませんわ……。これは飲み薬なのですよ?」
「はい。承知の上です」
ドクターは何も喋れなかった。
もはや意識は失っており、逆らえぬ重力に身を委ねていた。
「そんな、危険ですわ。ドクターに何かあったらどうしますの?」
「アズリウスさん。ドクターに注射してください」
「ヴァ―ミルさんを初期化させた時ですら苦労しましたのに……」
「……念には念をですよ。ドクターのことですので、効いているフリをして逃げ出すかもしれません」
「……分かりました。遅効性のものですので、作用が現れるのは目を覚ました後かも知れませんわ」
「らしいですよ? それでは、ドクター。おやすみなさい」
天使か悪魔か。魔術師か詐欺師か。それとも人か獣か。
どちらとも取れる笑みを浮かべたアーミヤは高らかに嗤うのであった…。
【ロドス 研究棟】
白衣の研究者が本を読んでいた。
学術雑誌とはまた違う雑誌に付箋をつけていた。
「ケルシー、まだ読んでる……。休憩、しないの……?」
「あぁ、楽しい時間というものは苦痛とは正反対のものだからな」
レッドが首をかしげる。
「さて、どうしようか……」
ケルシーは観光雑誌をペラペラとめくりながら紅茶を飲む。
本棚の端の端から取り出してきたであろうその雑誌たちは所々にキズがあり、虫食いも目立っていた。
よく見ると、雑誌の発売日も遥か昔のものだった。
ケルシーは年甲斐もなくはしゃいでいたのだ。
「龍門は長官殿に良い顔をされんから、残念ながら炎国は除外だな。ウルサスとエーギル地区は論外だな」
レッドが毛並みを整えている。
「……レム・ビリトン、は……?」
「あそこは寒い。錆臭いしなによりアーミヤが嫌う場所だ。連れていくわけにはいかない」
ケルシーは2冊目の雑誌を手に取った。
「……カズデルか。そうか、この時はまだ内戦が起きる前か……」
何かを思い出したかのような表情をするケルシー。しかし、感慨に耽っていたのはほんの数秒だった。
「ケルシー、これ、見て。レッド、ここに行きたい」
色が落ち、日焼けしたページが机に置かれる。
「……なんだ」
【特集2ページ】
クルビアの西の西にある山脈の村に突撃!
感染者に対する差別意識が少ないこの地方は、多くの者が第二の人生を夢見る理想郷だろう!
しかし! 世界は持たざる者に対して容赦はしない!
足が動く内に死に場所を探せと世間はうるさいが、くたばる前にいい景色見ときたいよな!
もし、オマエが新生活を夢見るバカだっていうのなら、この村を訪ねるといい!
近年の高齢化によって、林業が停滞! とにかく働き手が必要という状況なのだ!
肥沃な土地で療養生活を送りたいのなら、ダチと共にいますぐ向かう以外ない!
なに? クルビアに向かうまでに石になっちまう?
そんなやつでも安心! 山脈の麓には感染者の権利を保障する機関が停泊しているんだ!
そこのお医者さんに診てもらえば完璧だろ?
しかも、カズデルの■■■■殿下がいらっしゃるって噂だぜ!
これは行くしかないな!
「…………ふん、下らんな」
「……ケルシー?」
「この機関というのはバベルのことだ。まさかこんな物がまだ残っていたとはな」
レッドが左右に体を揺らしながら、
「ばべる……? 難しいことば、きらい……。つまり、どういうこと?」
「この理想郷はもう存在しないということだ」
レッドが耳と尻尾を垂らす。
「そう……。ざんねん、とても、ざんねん……」
「(クルビアかシエスタを提案するか……。ドクターもアーミヤも気に入ってくれれば良いのだが)」
「(まぁ、詳しい話は今度三人で決めるとしよう)」
「(それまで二人が元気でいてくれたらいいのだがな……)」
決して表に出さない感情。
氷が如く冷え切った女性だと思う者もいるだろう。
しかし、それが彼女の正体ではない。
長く苦楽を共にした者には分かるだろう。
暗く、深い澱みの寵愛を一身に受けたアーミヤが、策謀の果てにドクターを蹂躙しているとも知らずに、彼女は三人で手を繋いで歩く日を夢見ていた。
▽ ラスボス が あらわれた !