方舟の主と◯◯たち   作:山田澆季溷濁

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今回のお話は『血』に関連する描写があります。
苦手な方はごめんなさい。


救章 逃う者
新生(アーミヤ)


【ロドス ????】

 

「なんだ……。もう朝か?」

 男はベッドの布団を払う。

 時刻は06:00。朝日がカーテンの隙間から差し込む。

「……とてもいい朝じゃないか」

 

 男は顔を洗い、寝ぐせを直す。そして、ロドスの制服に腕章をつける。

「そうだ、アレはどこにやったかな?」

 引き出しの奥をまさぐる。

 取り出したのは身分証明書。

 そこには確かに『ドクター』と書かれていた。

 

 私室の扉を開ける。

 心地よい涼風が顔をすり抜ける。

 ドクターの丁度胸にあたる位置に、二人の頭が見えた。

 一つはウサギの耳を持つコータスの少女。もう一つは青いパーカーを着たアヌーラの女性。

 

 アーミヤとアズリウスであった。

 

「……おはようございます。ドクター」

「……ごきげんよう、ドクター」

 二人の挨拶に、

「おぉ、こんな早くから大変だな。おはよう、二人とも」

 少し膝を曲げて、目線を合わせてから挨拶した。

 そして、アーミヤとアズリウスの頭をクシャクシャと撫でるのであった。

 

「きゃっ! ドクター……?」

「あ……。い、いま、わたくしに触れてくださったのですか? ……も、もう一度。もう一度お願いできないかしら……?」

 

 ドクターはニッコリと笑って、

「また今度な! 朝飯でも食べてくるよ!」

 

 

 足早と歩き去っていくドクター。

 二人はその背中を追わず、静かにその場に立っていた。

 そして、ドクターの姿が見えなくなると、

 

「ふ、ふふ、ふふふふふ?」

 

「あはははははははは! あはははははははは!」

「あはは!! やった! やりました! 見ましたか!? ドクターのあの笑顔を! 聞きましたか!? ドクターのあの声を!」

「わたしの頭を撫でるなんて今までありませんでした……! アズリウスさん! これは()()ですよ!」

「ドクターがわたしたちを愛してくれますよ!? あはははははははは!!」

 

 月の狂気にでも触れてしまったかのように歓喜するアーミヤ。

 アズリウスも、自身に触れてくれたことの驚きと喜びを隠せないでいた。

 

「あ、あぁ、満たされていく……。これが、安らぎでしょうか……。あぁ、涙が」

 

 それが偽物だったとしても、彼女たちには何の問題もなかった。

 そもそも、どちらが本物とかいう話ではなかった。

 どちらも本物なのだ。

 

 

【ロドス 食堂】

 

 食堂に集まっていた人たちはさぞ驚いたことだろう。

 こんな朝早くにドクターが来るなんて。

 不思議な視線を送られるドクターには、どこか普段とは異なる清潔感が見られた。

 

「……? どうかしたのか?」

 職員の一人に話しかける。

『い、いえ、朝食を食べに来られるとは珍しいですね……』

 ドクターは髪先をいじりながら、

「そうか? 皆が気張ってるのに、一人だけ寝ているわけにもいかないからな」

 

 厨房から運ばれてくる朝食を待つ。

 早朝から仕事が入っている職員たちがドクターを取り囲む。中には、ドクターと初めて喋ったと言う者もいた。

 

『あの、オレ! ドクターが指揮する部隊に助けられたんスよ! 今は整備の雑用やらされてんスけど、いつか行動隊に異動したいって思ってまス!』

『わたしも! 龍門のスラムで助けて頂いた者です!』

『姉貴の小隊には同行できなかったけど、おれぁアンタのおかげで長生きできるみてぇだ。ホント感謝してるよ』

 

 このロドスには様々な考えを持つ者が集まっていた。その根幹には『感染者の社会的地位を確立する』という共通認識があったが、個人的な想いからロドスに合流した者も少なくなかった。

 ドクターを取り囲む一般職員たちがそうだった。

 

 フロストノヴァ率いるスノーデビル小隊も、その中に入っていた。

 

「……朝からモテモテでいい気分だね!」

「あれ?」

 ドクターが囲みの者たちをかき分ける。

 そこには注文した串カツ定食を持ったグムが立っていた。

 

「はは……。見苦しい所を見せてしまったかな?」

「もう! 4:30起きのグムたちのことも考えてよね!」

 腰に手を当ててプンプンとするグム。

 厨房担当のオペレーターの中でも、特に美味しいと話題の料理を提供するグムは、それ故に朝が早かった。

「ごめんごめん! グムの料理が食べたくて早くから来たんだけどね、こんな囲まれるとは思ってなかったよ」

「むむむ……。そうやって褒めてうやむやにしようとする……」

 ドクターが箸を手に取る。

「いいや? 本心だよ。グムは何でも出来るからね。ズィマーにも見習ってほしいね」

 

 湯気が立ち上がる白米に味噌汁。

 カリカリに揚げられたカツは、グムの腕前を証明するには十分すぎるものであった。

 

「あはは……。ズィマーお姉ちゃんは飽きっぽいからね……」

 ドクターが音を立てて漬物をかじる。

 思えば、グムがドクターの素顔を見るのは初めてだった。

「あぁ、やっぱり美味しいな! グムの旦那になる男が羨ましいよ」

 

 いきなりな発言にグムが背筋を伸ばして固まる。

 目を白黒させた後に、何かに気づいたような顔をしてドクターに問う。

 

「ふ~ん? そんなこと言ってもお金は払ってもらうんだからね!」

「ははは! そんなつもりは無かったんだけどな!」

 ドクターの笑顔を見たグムがニッコリと笑う。

「でも、俺はグムが作ってくれたご飯が一番好きだな」

 

 長くドクターの料理を作ってきたが、そんなことを言われるのは初めてだった。

 恥ずかしさと嬉しさの狭間で少女は戸惑った。

 

「うぅ、今日のドクターは大胆なんだね……」

「ははは! グムは俺みたいな悪い男に騙されるなよ!」

 

 完食したドクターは軽快な足取りで食堂を出る。

 特に朝からすることも無いので、早めの内に執務を片付けてしまおうと考えたのだ。

 

 

 

【ロドス 研究棟】

 

 夜遅くまで論文の作製に勤しんでいた者たちのおかげで、研究棟は静寂に包まれていた。

 音を発生させていたのは、空気を循環させるための換気扇だけだった。

 そんな研究棟の通路を一人の女性が歩く。

 

「(数カ月に渡り張り込んでいたが、やはりこれは異常だ……)」

「(ドクターはアーツが使用できないと言っていたが、あやつの循環器系には確かに鉱石病の兆候が現れている……)」

 

 彼女の名はワルファリン。

 ロドスの古参組の一人にして、誇り高きのブラッドブルードの古強者。

 とはいっても、小柄な体格と普段のやらかしの数々が彼女の偉大さを帳消しにしていた。

 

「(ケルシーの日記の件もそうだった。ドクターが覚醒してから、間違いなく何かが歪んできている!)」

 額に白光る髪をへばりつかせ、ワルファリンは通路を駆ける。

 種族としての特徴から、彼女は悠久の時を過ごしてきた。その中で形成されていった知恵の泉が彼女に警鐘を鳴らしている。

 

 何かがおかしい、と。

 

「あれ? ワルファリンさん。どちらに行かれるのですか?」

「おぉ、アーミヤか! いま少し急いでいる! 後にしてくれ!」

 

「ロドスの異常ならドクターが温床ですよ」

 アーミヤがポツリと呟く。

 ワルファリンが立ち止まる。

「……アーミヤよ。話が早いというのは助かるな」

 アーミヤが首を傾げてニッコリと笑う。

「はい。少しお話しませんか……?」

 

 アーミヤとワルファリンは通路に設置された小さなベンチに腰掛ける。

 小柄な二人は、遠くから見れば精巧に作られた人形のようだった。

 

「妾が考えていたことは『ドクターのアーツ』についてだ。それについての説明は必要か?」

 アーミヤが表情筋を動かさず、

「いえ、見ていたので大丈夫です」

「妾たちがお主に叱られたことを憶えているか。ケルシー(アホ)ドクター(バカ)がマジバトルした時だ。その時から思索していた」

 ワルファリンが眉間にシワを寄せる。

 珍しく真面目な表情だった。

 

「ドクターに検診と偽って生体情報を収集するのは非常に骨が折れた。ケルシーにバレたらアウトだからな」

 アーミヤが耳を動かす。

 どうやら偽るという点に反応したようだ。

「ドクターの血がロドス全域に影響を与えているということに辿り着いたのは昨日の出来事だ」

「それなのに、なぜおぬし(アーミヤ)が妾と同じ考えをしている? いつ気づいた?」

 

 ワルファリンがアーミヤの瞳を覗き込む。

 紅く光る眼光は、突き刺すような、それでいて年長者としての冷徹さを秘めていた。

 アーミヤが答える。

「……気づいたのではなく、知っていました」

「………なに?」

 ワルファリンがアーミヤを睨みつける。

 研究者としてのプライドからではない、ロドスの状態を無視してきたとも取れる発言だったからだ。

 

「あはは……。わたしは昔から()()しちゃいますからね」

「アーミヤよ。ケルシーの弟子だからと可愛がってやってたが、おぬし、どこまで知っている?」

 アーミヤがワルファリンを睨みつける。

「まるで自分は全てを知っているみたいな口振りですね。本当は何も知らないくせに」

 

「いいですか? ワルファリンさん。あなたが長い時間を……。いえ、ブラッドブルードからすればほんの僅かな時間でしょうか?」

「まぁ、たくさん調べて気づいたみたいな素振りをしていますけど、そこが()()()()()()なんですからね?」

「ワルファリンさんはロドスを元の状態に戻したいみたいですけど、それだと少し困ってしまうんですよ」

 

 アーミヤがベンチから立ち、クルクルと回りながら踊る。

 窓から差し込む朝の光が、彼女の姿を煌々と照らしていた。

 まるで、正しく美しい世界が彼女の味方をしているかのように。

 

「アーミヤ! いい加減にせよ! ケルシーに言いつけるぞ!」

 たまらずワルファリンが立ち上がる。

 アーミヤはコートの裏から輸血パックを取り出した。

「……ッ! それは……!」

 

「あはは! ワルファリンさん、これが大好きですもんね?」

「なぜ、アーミヤがそれを持っている……!」

 ワルファリンが喉をかきむしる。砂漠で遭難した者が水を求めるかのように。

「紛れもない400ccの血液。純粋なドクターの血ですよ……?」

 

 アーミヤが輸血パックを上下に揺らす。

 餌を与える過程で遊ぶ飼い主が如く。

 そして、アーミヤは床に数滴の血液を垂らした。

 

「あ、あぁ! 血だ! 間違いない! ドクターの血液だぁあ!」

 ワルファリンが僅かな血液の水溜まりに寄る。

 その姿には角の無いサルカズとしての威厳は無く、ただ小さな手で血液をかき集めるのだった。

 

「あはは……。そんな必死にならなくても……って聞こえてますか?」

「ア、アーミヤがなぜドクターの血を持っている! ケルシーがそのような許可を出すわけがない!」

 アーミヤが輸血パックを左右に揺らす。

 ワルファリンはそれに釣られて顔を左右に揺らす。もはやアーミヤの目など見ていなかった。

 

「……ドクターから直接頂きました。これは昨日採取したものでしたっけ?」

 ワルファリンが手を伸ばす。

「昨日!? 昨日のドクターの血液だと!?」

 アーミヤがベンチの上に立ち、輸血パックを上に掲げる。

 その姿は二人の少女がおもちゃの取り合いをしているようにも見えた。

 

「わたしは知ってるんですよ? ワルファリンさんがドクターの血液サンプルを横領していること」

「診察と称して採血した物のにおいを嗅ぎながら、深夜にあんなことやこんなことをしていることも……」

 アーミヤがワルファリンの鼻先に輸血パックを当てる。

 その匂いを嗅いだワルファリンは、体をビクつかせながら膝から崩れ落ちた。

「でも、採血と言っても、精々20㎖ですよね? もっと欲しいと思いませんか?」

 

 悪魔の囁き。

 ケルシーの袖を握っていた少女の姿は、今や面影すら残っていなかった。

 

「欲しい! あっ! 違う! 欲しくない! 妾は科学者だ! ロドスの高潔なる医者なんだ!」

 

「昨日の血ですよ? 20㎖じゃすることもできませんよね?」

「息抜きも大切ですよ? 試しに……」

 

 アーミヤが血液を垂らす。

 数滴ではない。捻った蛇口のように鮮血が垂れる。

 

「あ! あぁ! もったいない! ンぐッ! ……ガブッ! ゲホッ! あぁ! こぼれてしまった!」

 ワルファリンが口を空けて迎え飲む。

 彼女の同胞がその光景を見たらどう思うか。

 

「あはは! 美味しいですよね? もっと欲しいですか?」

「欲しい! まだまだ足りん!」

 

「じゃあわたしの味方になってくれますか?」

「う、うううう! それはぁ…………!!」

 

「ケルシー先生は我慢しすぎて壊れてしまったということを憶えていますか?」

「うううううう!! ダメだあぁ……! 妾は誇り高きサルカズなんだぁ……!!」

 

「ヴィクトリアの10年もののワインにドクターの血を少々……。こんな贅沢ができるんですよ?」

「ううううう! う˝う˝う˝う˝う˝う˝う˝!!」

 

 喉をかきむしりながら葛藤する。

 アーミヤはその隙を見逃さなかった。

 

「じゃあ、特別にドクターの首に嚙みついてもいいですよ」

「ちょ、直接飲んでもいいと言うのか!?」

「はい! 抱き着きながらゴクゴクと……。二人だけの空間で! 誰も止めやしませんから!」

「なる! アーミヤの味方になる! 妾はアーミヤの味方になるぞ!!」

 

 ワルファリンの瞳には、ロドスの未来など写っていなかった。

 ただ欲望に溺れた、たまらぬ血に飲み込まれたブラッドブルードが一匹……。

 

「では、これ(輸血パック)は前金ということで」

 アーミヤが遠くに放り投げる。

 ワルファリンは落下点に飛び込み、その袋を我が子のように胸に抱いた。

 

「ケルシー先生はよろしくお願いしますね? ワルファリンさん」

 ワルファリンは返事をしなかった。聞こえていたかもどうか怪しかったが、アーミヤはニコリと笑うと、職員たちが起きてくる前にその場を後にした。

 

「あぁ、あたたかい……。妾の血だ……。妾のドクターの血だぁ……」

 

 アーミヤがメモ帳を取り出す。

 そして、ワルファリンの名前に線を引いた。

 

 

 

【ロドス 執務室】

 

「ふぅ、こんなものかな。そろそろ休憩でもするか」

 

 ドクターは執務に精を出していた。

 以前なら数時間かかっていた事も、現在の彼には何の造作もなかった。

 ドクターは冷水を飲んで気持ちを引き締める。

 

 その姿を陰ながら見ていたアズリウスは、彼の行動の意味を問うた。

「コーヒーは飲まれませんの? お好きな銘柄を準備していますのに……」

「ははは! 朝からコーヒーなんて飲んでたら夜に眠れなくなってしまうよ」

 ドクターはアズリウスのデスクに腰掛ける。

「それとも、寝ない夜を俺と過ごすってのなら話は別だけどな?」

 

 ドクターはアズリウスの顎を人差し指で持ち上げた。

「そ、そのようなことは……!」

 からかうような表情で、

「? そういう話じゃないのか?」

「からかうのはよして下さいまし……」

 アズリウスは跳ねる心臓を抑えるのに必死だった。

 

「からかいじゃなくて本気だったら?」

「はぇ……?」

 

 ドクターがアズリウスの髪を撫でる。

 男性特有の太く角ばった指が、アズリウスの桃色の髪をすり抜ける。

 

「あ、えっと、髪、指、あ、あ、あ」

「ははは! この辺にしとくか! さて、残りの作業にでも戻りましょうかね?」

 

 アズリウスはひとしきりキョロキョロした後、ピタリと固まって動かなくなってしまった。

 

「……続きは夜にしような?」

「あうぅ……」

 

 アズリウスのペンを動かす速度が遅くなったのは仕方のないことだった。

 

 

 

【ロドス 事務室前】

 

 一人の男が歩いていた。

 ドクターの忠臣。自立する幻影。

 彼を自身をファントムと名乗った。

 

「…………」

 男が通路を歩いても、誰一人として反応しない。

 誰も彼の存在に気づいていないのだ。

 

 彼が信頼する者は二種類。

 ミス・クリスティーンと、ミス・クリスティーンが信頼する人間。

 もし、彼と親密な関係を築きたいのなら、ミス・クリスティーンに気に入られる必要がある。

 もっとも、気に入られる以前に彼を見つけること自体が困難を極めるものなのだが。

 

「こんにちは、ファントムさん」

「……これはこれは、呼び止められるのは慣れていないのでね」

 

 アーミヤは一つの籠を持っていた。

 多くの人が慌ただしく事務室に入っていく。

 その流れに逆らうかのように二人は向き合っていた。

 

「こうしてお話するのは初めてではないでしょうか」

「確かにその通り。私が指し示す方向に君は居ない。会話が無くて当然である」

 あまり好意的ではないファントムの返答にアーミヤは苦笑いをする。

 

「ところで、クリスティーンさんはどちらにいらっしゃるのですか?」

「……彼女は自由の体現者だ。彼女は気に入った場所に居る。それは私にも分からないことだ」

 

 アーミヤが籠を置く。上には布が被せられており、当然外からは中の様子が伺えなかった。

 

「ここに籠があります。中にはファントムさんの大切な物が入ってます」

「…………」

 アーミヤは言葉を続ける。

「シュレディンガーの猫ってご存知ですか?」

「……物理学的実在の量子力学的記述が不完全であると説明するために用いた思考実験のことだ」

 

 アーミヤがニッコリと笑った。

 ファントムは籠の中身に気づいていないと言われれば、それは嘘だった。

 

「まぁ、実際にはありえない話なんですけどね? ですが、今の状況はそれに近いものなのかも知れません」

「籠の中には、クリスティーンさんがいらっしゃいます。そして、わたしは瞬きよりも早くクリスティーンさんを殺害することができます」

 

 ファントムが半歩下がる。

 籠の中にミス・クリスティーンがいるとは確定していなかったからだ。

 アーミヤの戯言かもしれない。

 あくまでも冷静に、暗殺者としての本懐を彼は忘れなかった。

 眉間にシワを寄せながら。

 

「やはりファントムさんは賢いですね。敵として対峙したらと思うと恐ろしいです」

「クリスティーンさんは籠の中にいないかも知れませんし、わたしはファントムさんのナイフより早く彼女を殺害することはできないかもしれません」

「そもそも、彼女が生きているかどうかも分かりませんね……」

 

「それでも、わたしと敵対しますか?」

 ファントムの額には、微かに汗が流れていた。

 そして、重い口が開かれた。

「何が目的だ? まさか、金銭などとは言うまいな?」

 アーミヤが一つの書簡を宙に投げる。

 ファントムの前で開かれたそれには、確かに『異動願』と書かれていた。

 

「そこにサインをしてください。ハンコは不要です」

 ドクターの護衛から、アーミヤの護衛への異動願。

 ドクターから引き離そうとする企みが見え見えであった。

「……断る。と、言ったら貴公はどうする」

「クリスティーンさんの身柄は保障できませんね。あっ、もしかしたら既に遺体かも……」

 

 ファントムが前傾姿勢になる。

 その瞬間、アーミヤの手から黒いアーツが発射され、籠の上部を掠めた。

「ふふ? 今のでどちらが早いか証明されましたね?」

「……これは脅迫だ。不当な扱いを請願する」

 

「では、こうしましょうか」

「わたしは猫を拾いました。その猫の保護者を名乗る人物が現れましたが、身元を確認できる物がありませんでした。ですので、丁度持っていたこの紙に氏名を記入しました。これでどうですか?」

 

 アーミヤが再びアーツを発生させる。

 黒く揺らめく炎のようなそれは、籠の中身に対して一直線になるように動いていた。

 

「……納得した。しかし、忠誠を誓ったわけではない。闇夜と背後に気をつけろ……」

 

 ファントムは書簡にサインした。

 裏切りではない。こうする以外に方法はなかったのだ。

 

「一つ質問する。私は何人目だ?」

「うーんと、サイレンスさんに、プラマニクスさんに、へラグさん。スカジさんとロサさんに……。全員合わせるとファントムさんで53人目ですね」

 ファントムが冷ややかな目で、

「玉座にでも座るつもりか……」

 アーミヤが口に手を当て、クスクスと笑う。

「まさか、不安要素を排除しているだけですよ」

 

 アーミヤはメモ帳を取り出し、ファントムの名前にペンで線を入れた。

 

 

 

【ロドス 執務室】

 

「そしたらアイツが言ったんだよ。『王も死んだらただの人になる。生存しなければ元も子もない』ってな」

「……それで、ドクターは何と返答されましたの?」

「それで俺が言ってやったんだ。『死んだら考える』ってな!」

 

 ドクターとアズリウスが談笑していた。

 決して執務をサボっていた訳ではない。むしろ本日の業務は既に終了していたのだ。

 よって暇を持て余した二人は執務室にて雑談に耽っていた。

 

 アズリウスからしてみれば、その時間は蜜のように甘い時間であった。

 何が嬉しかったかと言うと、自分が想いの丈を伝えると、ドクターも返事を返してくれるということだった。

 

「すまない、ちょいと外の空気を吸ってくるよ」

 ドクターが椅子から立つ。

「……一人で行けますか?」

「バカにすんなよ!」

 

 ドクターが執務室から出る。

 時刻は既に正午を回っていた。

 ドアを閉めた執務室の正面を一人の女性が陣取っていた。

 

「……久しいな」

「おぉ、テキサスか。ロドスで会うのは久しぶりじゃないか?」

 テキサスが頷く。

「最後に直接会ったのは、ケルシーたちと激突した時か」

「ははは、よく憶えているなぁ。それで、今日はどうしたんだ?」

 

 テキサスとドクターが通路を歩く。

 向かう先は。かつてエクシアの独白をソラが聞いた所だ。

 

 二人はゆっくりとした足取りで向かう。

 

「特に大事な話はないのだが、急に連絡が途絶えたからな」

「おぉ? もしかして心配して来てくれたのか?」

 テキサスが顔を逸らす。

 図星だったのだろうか、自身の感情に正直ではない彼女は、不器用ながらもそれを行動に表したのだ。

「ドクターだけではない。他の連中とも連絡がつかない。何か知っているか」

 

 ドクターがケータイを開き、履歴を確認する。

 確かにそこにはテキサスの言う通り、モスティマやラップランドの名前だけが消えていた。

 

「……不思議だな。モスティマならいざ知らず、ラップランドも失踪するなんて。まぁ、いざとなればロドスから連絡を入れるから大丈夫だとは思うが」

「……そうだな」

 

 テキサスはドクターのケータイを流し目で覗き見た。

 多くの名前が記載されている連絡欄には、一人一人にしっかりと返事を返した形跡があった。

 

 通路を通る度に、たくさんの職員やオペレーターたちがドクターに会釈をする。

 中には、テキサスを置いて会話をする者だっていた。

 ドクターはそんな者たちに嫌な顔ひとつせず対応していた。

 

 テキサスはそんなドクターの姿に一抹の不信感を抱いた。

 彼はここまでお人好しではない、と。

 

「いやぁ~、すまんすまん。少し話すつもりが長くなってしまったよ」

「待つのには慣れている」

 テキサスは自身が抱いた不信感を証明するために、彼に対してカマをかけることにした。

 

「想い人に待てと言われればいくらでも待てるさ」

「ははは! ならいつか迎えに行かなくちゃいけないな!」

 

 テキサスが胸に抱いた疑惑が確信に変わった。

 この男はドクターではない、別のナニカだと。

 

 

【ロドス 甲板】

 

 二人は甲板に座る。

「ほれ、吸うか?」

 ドクターがテキサスにタバコを突き付ける。

「……禁煙中だ。吸いたくなるから見せないでほしい」

 

 ドクターはケタケタと笑いながらタバコを片付けた。

 その代わりにチョコレートを一つ、テキサスに勧めた。

「これも制限中か?」

「いただこう」

 

 西から風が吹いていた。

 暖かなそよ風がテキサスの髪を揺らす。

 そして、彼女は自身の髪を落ち着けると、ドクターにある質問をした。

 

「……貴様は、誰だ」

 ドクターが首を傾げて、

「誰って……、俺はドクターだぞ? まさか違うのか?」

 

 ドクターがテキサスの目を見る。

 その黒い瞳孔は、間違いなくドクターのそれだった。

 しかし、テキサスが主張するのは外見的な意味ではなかった。

 

「……彼の一人称は『私』だ。今まで『俺』なんて一言も言わなかった」

 

「ドクターがケータイの返信を全員にするなんてあり得ないことだ。面倒だと思ったら既読無視をするからな。これはわたしがよく理解している」

 

「それに、ドクターがわたしたちの想いに答えるなんてありえない」

 

 酷い言われようだが、ドクターは静かに彼女の言葉を聞いていた。

 言い返せなかったからではない、ドクター自身、いまいち実感できない部分があったからだ。

 

「わたしはドクターのことを愛している。ドクターはわたしのことをどう思っている」

 ゆっくりと口を開く。

「俺も、テキサスのことを愛しているよ」

 

 テキサスがうつむく。

 ドラマや映画で言うなら、とても感動的なシーンなのだが、彼女の心中はそんな幻想的なものではなかった。

 

「確定だな……」

「本物のドクターならこう言う。

『少なくとも、私はキミを大切な存在だと思っているよ』

とな」

 

 ドクターが頭を抑えてうずくまる。

 まるで檻から解放されたい獣のように。

 苦悶の表情を浮かべた彼にテキサスは追い打ちをかける。

 

「わたしはドクターと毎日のように連絡を取っていた。しかし、ある日を境にその連絡が途絶えた」

 テキサスが腰に差した剣を抜く。

「今日ロドスに来たのは、ドクターの身に何かあったのではないかと考えたからだ」

「答えろ。わたしと電話をしなかった三日間、貴様の身に何があった!」

 

 ドクターが頭を抱える。

 いや、頭ではない。その中の脳を抑えているかのようにも見えた。

 テキサスは確信した。ドクターは何者かの手によって洗脳されていると。

 

 

「ダメだよ。そんな根性論じゃアーミヤを出し抜くことは出来ないね」

 テキサスの後方から声が聞こえた。

「モスティマ……! どこに行っていたんだ……!」

「ふふ、少し遠い所で準備してたんだよね」

 

 モスティマがテキサスの肩を触りながら、ドクターの傍に寄る。

 彼女の様子は、エクシアとトランプを楽しんでいた頃とは一線を画していた。

 つまるところ、モスティマもおかしくなっていたのだ。

 

「テキサスの疑問を採点してあげるよ。まぁ、ほぼ100点みたいなものだけどね」

 モスティマがドクターの頬を撫でる。

 

「……ドクターが別人になってしまったっていうのは本当。犯人はアーミヤとアズリウス」

「アーミヤはドクターを自分たちで独占しようとしている。だから、ドクターを薬漬けにしたんだ」

「そして完成したのが

『自分を愛する者を愛する男』」

 

 テキサスは絶句していた。

 事態が自分の思っていた以上に深刻だったからだ。

 そして、震える声でモスティマに問う。

 

「なぜ、モスティマがそれを把握しているんだ。止めるべきだとは思わないのか」

 モスティマの口角が上がっていく。

 

「テキサスには感謝してるよ。ドクターの異常を看破してくれたおかげで、一時的にだけどドクターの洗脳が緩くなったんだから」

「…………今、ドクターの脳内はとても不安定な状況なんだ」

 

「ここで、『ドクターの恋人はモスティマ』って吹き込んだらどうなるんだろうねぇ!」

 

 テキサスがモスティマに掴みかかる。

 剣の切っ先を向けなかったのは、仲間としての情けだろうか。

 しかし、モスティマの襟を掴んだ手はポトリと抜け落ちた。

 

「……なんだ? なにが起きた……?」

 テキサスは自身の身体が痺れ、地に崩れていくのが理解できた。

 

「……テキサスが居る場所は風下だからね。ホント、見えない兵器ってのは恐ろしくも便利だね」

「貴様も、薬か……」

 テキサスは混濁する意識の中で、ドクターに寄り添うモスティマの姿を見た。

 

 

 今まさに黒い影がロドスを支配せんとしていた。

 ある者は徒党を組み、男を独占しようとし、

 ある者は二人だけの世界を作ろうとし、

 ある者は男を救おうとした。

 

 様々な思惑が交差する中で、全員が幸せな結末を迎えるには、男の人生を彼女たちに捧げる以外方法はなかった。

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