冷たい陽光が差し込む朝だった。
見たこともない灰色の小鳥が、屋根から突出した氷柱を啄んでいた。
外では、鈴の音が静かな都市を覚醒させようとしていた。
目が覚めた男は、これが現実のものだとは到底思えなかった。
「……そういや、イェラグだったな」
馬小屋の干し草の中で目を覚ます。
あまり衛生的とは言えない寝床だった。
それでも、厳寒極めるイェラグで一夜を過ごすにはこの方法しかなかったのだ。
「起きたか。凍死したかと思ったぞ」
テキサスが水を汲んで運んでくる。
薄氷が張った桶。気温は氷点下を下回っているようだ。
「教会で炊き出しがやっているらしい。体を拭いたらそこに向かおう」
男が頷く。
テキサスと視線が合う。
それは、服を脱ぐから外に行っていろという合図だった。
未だぼやける眼を擦りながら、男は外に出た。
というよりも放り出された。
「……さっむ。作物すらまともに育たないんじゃないのか?」
男は独り言を呟きながら道を歩く。
普段から身に着けていた上着はテキサスに貸した。
震える体に鞭打ち、何とか体温を上昇させようと体を動かした。
教会から鈴を持った乙女たちの行列が出てくる。
皆、プラマニクスのような恰好をしていた。
「……修道女か。ご苦労さまだな」
閉鎖的な空間では、その地域特有の文化が形成されていく。
イェラグは山脈に囲まれた土地ということもあり、近現代に至るまで外界との接触を拒んできた。その暗黙の了解を破ったのは他でもない、カランド貿易の主宰なのだが、いまだに国民の多くは外界との接触に寛容的ではなかった。
テキサスと共に、この都市区画に入ることが許されたのは、男が専門的な知識を持っているという理由からだ。まさに特例中の特例。
実際に道を歩くと、若年層からは会釈を返されたが、老年層からは微妙な態度を取られることが多かった。冷たいのは、気温だけではなかったのだ。
「働かなくてもいいってのは、本当に素晴らしいことだな……」
男は背骨をコキコキと鳴らした。
イェラグは広大で肥沃な土地とは言えなかった。
限られた資源は貴族などの上流階級の人間たちが占有している。
それでも民草が反乱を起こさないのは、イェラグが古き神々を信仰しているからであった。巫女としての、プラマニクスの存在が極寒の大地を国家として成り立たせていたのだ。
子どもたちが男の横を通り抜ける。
雪が宙に舞い、男のズボンの裾に降りかかる。
しかし、子どもたちはそのような事に気づく素振りも見せず、そのまま道を駆けて行った。
「……誰もが友と呼べるものを持ち、そして道を走った」
倒れた朽ち木の幹に、一人の女性が座っていた。
「貴様にもあのような時があったのだろうな……」
男が立ち止まる。
「まるで自分にはなかったというような言い方だな」
女性がスカートの裾を持ち上げ、朽ち木の端に移動する。
しかし、男はそこに座らなかった。
男が静かに喋る。
「……私はお前のことを知っている」
女性が呟く。
「私も貴様のことを知っている」
男と女性は短いながらもハキハキと質疑と応答を繰り返した。
「なぜここに居る」
「貴様こそ、なぜここに居る」
「自慢の駒はどうした?」
「駒ではない。お前こそ自慢の同胞はどうした」
「大将自ら始末しに来たのか」
「偶然だ。ご希望とあれば意向に沿うつもりだが」
女性は指先から火をポッと出すと、しばらくその火を見つめたあとに周囲に放った。
その火は蝶のように男の周囲を飛び回った。
やがて、枯草の上に落ちると、その蝶は新たな火種となり、焚火が完成した。
「貴様はどこに向かう」
「ここではないどこかに向かう」
「…………」
「…………」
パチパチと音を立てて枯草が燃える。
赤く揺らめくその炎は、二人の瞳には眩しく映ったはずだ。
理想は違えど、目的は同じであった二人は、誰にも察知されないような都市の片隅にて会話を交わす。
「火は好きか」
「お前よりかは好きだ」
「私のことは嫌いか」
「嫌いだね。不俱戴天の仇だよ」
「私は貴様のことが憎い」
「お互い様だ。意外と馬が合うかも知れんな」
男は火に手をかざす。
その姿を見た女性は、消えかけた炎に新たな火を注いだ。
「私たちは南に向かう」
「その言葉、私ではなくチェンに伝えろ」
「貴様はどこに向かう」
「訂正しろ。貴様
「ならば貴様らはどこに向かう」
「さっきも言ったはずだ。ここではないどこかに」
女性は男の傍らに移動した。
男は女性とは正反対の方に移動した。
「……空席がある。貴様のせいで空いた席だがな」
「お断りだね。他を当たってくれ」
そう男が答えた時、すぐ後ろでパキッと枝が踏まれる音がした。
男が振り返る。
そこには、テキサスが立っていた。
「すまない、遅くなった」
男が横を見る。
しかし、女性の姿はそこにはなかった。
男が種火を蹴り上げ、立ち上がる。
「……いや、待っていないさ」
女性が座っていた付近だけ、雪と大地が溶けていた。
テキサスが来ている服は質素な物に変わっていた。
どうやら馬屋の夫妻が貸してくれたらしい。
イェラグの民族衣装に身を包んだテキサスは、長いスカートに慣れない様子で男の隣を歩く。
「……馬子にも衣裳だな」
「そんなこと言うな。似合ってるぞ?」
テキサスが自身の髪先を触る。
「ヒラヒラした服装はやはり慣れない」
教会に到着した二人は、欠けたお椀に注がれたスープを飲む。
薄い塩味のソレは、お世辞にも美味しいものとは言えなかった。
男がテキサスにお椀を差し出す。
「鶏肉が入っていた。二人で分けよう」
「あぁ……。そうだな……」
冷えた体に暖かなスープが染み渡る。
男はロドスの食堂で朝食を作るグムやマッターホルンの後ろ姿を思い出した。お金さえあれば、美味い飯がいつでも食べられるという風に錯覚してしまっていた。
不思議と腹は減っていなかった。だが、肉体が栄養を欲していた。この日、男は初めて飢えという感情を理解した。
修道女たちが鈴を掲げ、唄を歌う。
多くの住民たちがその唄を聞いていた。テキサスたちはその集団の後ろで座り、今後の予定を計画するのであった。
「距離的に考えて、イェラグを抜けるには最低4日かかる」
「補給地点が安定していないぞ」
テキサスがボロボロの地図を出す。
トランスポーターが使用する、流通経路が記載された秘密道具であった。
「道中に集落がある。交渉材料が無いから友好的に接してくれるとは思わないほうがいいだろう」
「いくら時間がかかっても構わない。だが、南にだけは行きたくない」
テキサスがこめかみを押さえた。
「……西に向かおう」
都市の入り口から何やら騒がしい音が聞こえてきた。
男がテキサスの腕を掴み、住民の集団の中に入る。
突然の行動に、テキサスが男に質問した。
「なんのマネだ!」
「シッ! 静かに! ロドスの連中だ……」
車両から出て来た者たちは確かにロドスの制服を着ていた。
見たことがない者が殆どであったのは、彼らがロドス本部の職員ではないからだろう。
「……どうする」
「状況が変わったな。物資が整い次第ここを出発しよう」
テキサスが頷く。
【数日後】
二人はイェラグの都市を発った。これ以上潜伏を続けて捕縛されるよりも、荒野を疾走する方が遥かに安全だったからだ。
次の目的地はウルサス。チェルノボーグを避けるためにはかなりの距離を大回りする必要があった。
アーミヤたちに先回りされていないことを祈りながら、男はエンジンを吹かす。
テキサスは男の腰に手を回してバイクに乗っていた。俗にいう二人乗りとかいうやつである。
そして、遥か後方に見えるカランド山脈を見て、静かに呟いた。
「私がアーミヤなら、シルバーアッシュの屋敷で待ち構える」
男はフッと笑った。
「今も待ち構えているさ。そもそも、私ならシルバーアッシュ家に辿り着く前に凍死だろうな」
「……そうだな」
テキサスは男の背中に顔を寄せた。
上半身に刻まれた、未だ癒えぬ傷を隠すように。
パチパチと乾いた枝が弾ける音でテキサスは目覚める。
どうやら、移動の最中に眠ってしまっていたらしい。
耳をピクピクと動かしながら辺りを見渡す。
景色はすっかり暗くなっていた。
「もう少し眠っていても良かったんだぞ?」
男がテキサスに話しかける。
「……頭がボーっとする」
「ハハハ、水でも飲むか?」
テキサスはゆっくりと立ち上がった。
ここは洞窟の中らしい。話の内容を聞く限り、まだイェラグの領域だそうだ。
「このまま突っ切っても良かったんだが、お疲れかなと思ってな」
男はそう言いながら焼き魚をテキサスに差し出した。
ロドスの庇護下から抜け出して数日。
およそ文化的とは程遠い逃亡生活だが、それでも困難を極めるものだとは思わなかった。
次第にこの状況に慣れていく自分の適応力に驚きつつも、どことなく恐ろしさも募っていった。
テキサスは男の隣に座ると、ちびちびと水を飲み始めた。
そして、川魚に串を刺しながら男が話す。
「……クルビアに知人が居るんだ。財宝だか何だかを見つけて移住したらしい」
クルビアは感染者からすれば、まさに楽園のような場所だった。
テラの至る所からその楽園を求めて人々が旅をした。
しかし、良い話というものには必ず裏があるのだ。
クルビアという土地がいつまでも感染者の楽園と呼ばれているのは、その領域に踏み込めた感染者の数が少ないからであった。
ウルサスの中枢を抜け、カズデルの傭兵団を回避しながらウォルモンドの大裂溝を渡る。その後、運が良ければイベリアに監禁され、悪ければエーギルで発狂する。
天国に向かうまでの道が地獄。
ワンチャンに賭けた世捨て人の間で、まことしやかに囁かれてきた伝説。
今後、そこに向かおうというのだ。
「上手く行けば、2ヶ月後には到達できるはずだ」
「希望的観測は大体外れるものだ。そして嫌な予感ほどよく当たる」
テキサスは焦げがついた魚を手に取る。
「……私は、どこにだって行ける」
男がテキサスの魚と交換する。テキサスの手には綺麗に焼けた魚の姿があった。
「クルビアに拘る理由は何なんだ?」
「クルビアの西に、感染者を支援する機関があるらしい。そこなら、私たちは安全に暮らせるはずだ」
男はテキサスの方を向いた。
「一緒に暮らすってか?」
テキサスは答えなかった。
魚の尾びれを口に放り込むと、そのままサッと横になった。
それから男の方を向くことはなかった。
うっかりと口を滑らしたオオカミは、不思議と微笑んだまま洞窟の岩壁を見つめるのであった。
【数週間後】
次第に頬に当たる風が温かくなっていくことに気が付いた。イェラグから脱出したのだ。
それからの数週間は走りっぱなしだった。道中、親切なキャラバンの前を通らなければ、そのまま干からびていたことだろう。
奇跡が2、3度連続して起きた。野営しても獣に襲われることもなければ、劣悪な環境下に身を置いているというのに鉱石病を発症することもなかった。
二人は神の存在をにわかに信じるのであった。我々は祝福されている、と。
やがて、降り注ぐ日光は暖かなものへと完全に変化した。
気が付けば二人はウルサス帝国の大門の前まで来ていた。
既にボロボロとなったエクシアの忘れ形見を引っ張って検問を受ける。
『……次』
「…………」
「…………」
二人は身分を証明できる物を提出した。
厚いガラス窓の向こう側で、屈強な憲兵が二人の顔を交互に視る。
もし、ロドスが二人に対して指定捜索願いを出していたら、この大門の前で旅路は終了してしまう。
テキサスは俯いて黙っていた。
『……入国許可証』
「……必要なのか?」
男が問う。
近々、ウルサス帝国は天災を避けるために大規模な移動を行うらしい。毎年、そのどさくさに紛れて身元が怪しい者が潜伏しに来るようだ。そう、二人のような逃亡者が。
「去年来た時は必要なかったはずだが……?」
『……今年は違う』
男は服の内側を探すフリをする。いくら探しても見つからないというのに。
服の裏側を向けた時、テキサスは男が何かを言っていることに気が付いた。
「(逃げろ……! 私に無理やり同行させられていたと言え……!)」
テキサスは首を横に振る。
「(そんなことは出来ない! 私が、私が何とかする……!)」
『……早急に』
バンッ!!
テキサスがくしゃくしゃになった二枚の紙切れを叩きつける。
トランスポーターが依頼品を輸送する際に使用する許可証。もちろん、男の分は偽造品だった。
憲兵がガラス窓の下の隙間から紙切れを取る。
ニセモノだとバレた瞬間、二人は外に放り出されることになる。いや、テキサスたちの場合は公文書偽造で牢獄に送られ、そこで下らない余生を過ごすことになるだろう。
とにかく、憲兵が手の横にあるボタンを押さないことを祈ることしか出来なかった。
『……感染者か』
「ッ! ……違う」
『……輸送品は』
「え、あッ、これだ! このバイクだ……!」
『……期限が切れている』
「あ、そ、それは申請が遅れただけだ……」
『……確認を取る』
「……ペンギン、急便……」
テキサスの顔は青白く、額からは脂汗が流れ、息も絶え絶えの状態であった。
それでも憲兵は龍門のペンギン急便アジトに連絡を入れる。
ソラとクロワッサンを引いたら死亡。モスティマを引いたら即死。皇帝を引いたら致命傷。
テキサスは震える手で男の袖を握った。
その時、すぐ隣の検問所からループスの男女が憲兵に縛られて連行されていった。叫ぶループスが二人。憲兵は無情にも二人を引き裂き、それぞれ別の車両に乗せて行った。
二人は、その一連の様子を脳裏に焼き付けざるを得なかった。次は自分たちかもしれない。そのような不安が胸を締め付ける。
『……二人の関係は』
「……えっと、それは……」
テキサスが言葉に詰まる。
過呼吸を引き起こしながら、吐きそうな顔をして男を見た。
『……二人の関係は』
男がテキサスの手を握る。
そして、テキサスは目に涙を浮かべながら答えた。
「私たちは、仲間だ……! 同僚だ……!!」
ガラス窓を挟み、しばらくの間沈黙が流れる。
憲兵が仮入国許可証にハンコを押した。
『……行ってよし』
「……!! 本当か……!」
『……次』
二人は検問所を抜け、大門を潜り抜けた。
そこに広がっていたのは、帝国としての栄華を象徴する建造物の数々であった。
全身の緊張が消えたからか、テキサスはペタリとその場に座り込んだ。
男は彼女の脇の下に手を入れると、そのままヒョイと持ち上げて、バイクの運転席に乗せた。
男とテキサスは、街道の片隅で気持ちを落ち着けるのであった。
「入国許可証を作りに行くぞ……」
「あぁ……」
【ウルサス帝国 検問所】
厚いガラス窓の内側にて、屈強な憲兵が一人の女性と話をしていた。
『……人が悪いですよ』
「うちの者が迷惑をかけたな」
その言葉遣いから、どちらの階級が上かは想像するに難しくなかった。
『……お望み通り、『友人』以上の関係を宣言したら追い返すつもりでした』
「あぁ、ご苦労だったな。これで
『……満足ですか。ケルシー子爵』
「やめろ。私は医者だ」
ケルシーはどこからともなく、二枚の入国許可証を取り出した。
「これを彼らに渡してやってくれ。誰からは伏せておくように」
『……了解しました』
憲兵は仕事が増えたことに対して露骨に嫌な顔をした。
他の憲兵たちは、ケルシーに絡まれるのが自分じゃなくて良かったと思うのであった。
テキサスと男の二人は、都市部の銀行で下ろした貯金を使い、物資を整えた。
ボロボロになったバイクの修理に、保存食の調達。情報の収集も欠かせなかった。
一日中都市部を歩き回り、ヘトヘトにくたびれた二人は、安価な宿を借り、入室した瞬間にベッドに飛び込んだ。
「ぐぁぁ……! 流石に疲れた……」
「明日の予定はどうする……」
テキサスがシーツに顔を埋めて質問した。
「明日の予定は明日決めよう。今日はもう休もう」
テキサスの返事はなかった。どうやら男の返答を聞く前に眠ってしまったようだ。
男は彼女の上半身に毛布をかけると、足場が軋むベランダに出てタバコを吸い始めた。
夜空はどんよりと曇っていた。
明日は雨が降るだろう。出発を延期することを視野に入れて、目的地までの距離や時間を再計算する。
「……予定よりかなり遅くなるな」
男は、このままウルサスの地で暮らすのも悪くないと考えた。
しかし、薄汚れたシーツの上で寝息を立てているテキサスの姿を見ると、男は先への道のりを急がなければならないと感じたのであった。自身が起こした不祥事に巻き込ませたという責任感が、当事者として何よりも強かったのだ。
この先、上手く行くのかという不安感を胸の中に押し込む。
一言でも口に出してしまったら、そのまま全てが崩れてしまうような気がしたからだ。きっと、眠っている女性も同じことを思っているだろう。
これ以上考えても不毛だと結論づけた男は、吸い殻を靴の裏でグシグシと踏みつぶし、静かに室内へと戻っていった。
そして、女性にベッドを譲り、男はソファーに横になった。女性とは反対方向を向き、しばらくした後に寝息を立て始めた。
涼しげな風が入り込む窓際に、二枚の入国許可証が入った封筒が投げ込まれた。
そんなことも知る由もなく、二人は死んだように眠るのであった。
【三日後】
テキサスと男は、ウルサスのどこかのレストランで朝食を取っていた。
傍から見たらただの観光客だろうか。新聞を広げたテキサスは、二人に関する記事が無いかを確認した。やがて、新聞を四つ折りにして、正面に座る男に対して首を横に振った。どうやら、どこにも逃亡者に関する情報は記載されていなかったようだ。
ウェイトレスが注文した料理を運びに来た。
もし、男が感染者だと知れたら、このウェイトレスは憲兵に通報し、労働局の人間が直ちに捕縛しに来るだろう。
表面上はニコニコとしているウェイトレスの姿に、テキサスは嫌悪感を催したのであった。
「……この国はあまり好きじゃない」
男がパンケーキの切れ端を口に運ぶ。
「なら早く出発しようか。輩に絡まれるのも面倒だからな」
「……あぁ。助かる」
テキサスはフォークとナイフを握らなかった。
ただ運ばれてきたオムレツを見るだけで、手を動かそうとしなかった。
男が問いかける。
「……もう少し休んでから出発するか?」
テキサスが胸を押さえて答える。
「いや、少し苦しくなっただけだ……」
テキサスは水を飲むと、いつもと変わらない様子で朝食を食べ始めた。
男は彼女の姿に心配しつつも、彼女の言葉を信頼し、予定通りの行動を取るのであった。
男が車庫に置いておいたバイクを取りに行く。エクシアの所有物だったソレは、彼女に敬意を表して「アップルパイ号」と名付けられた。
命名者はテキサス。男が「エクシアと愉快なペンギン号初号機」と名前を付けようとしたが、いい歳して流石に恥ずかしいということで却下した。
その間、テキサスは一人静かに薬局に向かうのであった。
探し物は包帯と消毒液。ついでに鎮痛剤なんかもあったら購入を検討していた。しかし、薬局の棚には、包帯どころか絆創膏の一つの置かれていなかった。
「一体どういう事だ」と首を傾げるテキサス。
その姿を見た薬局の老主人が、曲がった腰で話しかける。
『観光客かい? 見ての通りだよ。奥の倉庫にも残ってないんだ』
「……それは残念だ」
老主人は申し訳なさそうな表情をした。自国民以外の人間に対する意地悪ではないらしい。どうやら本当に品が枯渇しているようだ。
『あっちこっちにケンカ売るから、軍が生活資源を制限してるんだ……。特に医療品は差し押さえみてぇなもんさ』
「……」
老主人は壁面に掛けられた写真を見た。それは遥か昔の戦争の物だった。茶色の焦げるようなたてがみをした青年が写っていた。
希望に燃え、戦地に赴く青年の姿であった。
それが今やどうだろうか。老主人の瞳に覇気はなく、帝国という国家制度に縛られた老人の姿がそこにはあった。
奪う側から奪われる側へ。
退役した彼が何を思い、なぜ薬局の主人をしているのかは聞けなかった。
テキサスは唇を噛んだ。彼女が切り捨ててきた者たちにも夢があり、希望を抱き、家庭を持っていた者だって居たはずだ。
アーミヤを出し抜き、ラップランドが囮となり、エクシアを打倒した後に立っている自分の姿をロドスに居るオペレーターたちはどう思うだろうか。
行く先のない逃亡生活を悪くないと思い込んでいる自分が憎くなった。
想い人と寝食を共に出来るという状況に、喜びを見出していた自分が憎くなった。
戦場に希望を見出した青年と、皆を裏切り『ドクター』と共に逃亡する自分は何が違うというのだろうか。
その先にて待つ絶望に背を向け続けている自分と、国家の繁栄の正体に気づいた老主人の姿は何が違うというのだろうか。
今、自分の首を差し出せば、アーミヤはドクターを許してくれるのではないだろうか。
ウルサスの検問所にてドクターが庇ってくれたように、今度は自身が庇うべきなのではないだろうか。
まだ、間に合う。
ドクターを騙してロドスに戻ることだって出来る。その後、自分は一人で行方をくらませばいいだけの話なのだ。モスティマのように、数年後にフラっと戻ればいいだけなのだ。
しかし、テキサスはその一歩を踏み出すことが出来なかった。
繋いだ手を離したら、二度と繋げなくなると感じたからだ。怨嗟と化した皆の想いを背負いきるほど、彼女は完成された人間ではなかった。
【ウルサス帝国領 ????】
入国にはかなりの手間がかかったが、出国する際は全くと言っていい程順調に事が進んだ。
ウルサス領は寒冷地帯であったが、イェラグ領を抜けて来た二人にとっては大した気にもならなかった。
次第に木々がちらほらと見られるようになってきた。ウルサス帝国領を抜けんとしていたのだ。道中、サルカズの傭兵団の行軍を発見し、安全を確保するために身を隠した。
やがて、サルカズの傭兵団は二人が通った道に向かって進軍して行った。
一連の様子を見て、近域の安全が確認できた男は、なるべく静かに立ち上がった。
「……テキサス? どうかしたか?」
しかし彼女は立ち上がらなかった。中途半端に揺れ動いた心は肉体を支配していき、そして彼女の足をその場に縛り付けた。
男はテキサスに小さな袋を差し出した。
可愛らしく梱包された、手のひらサイズの小さな袋。エクシアが男に渡した袋であった。
男はその場にしゃがみ込み、テキサスの目線と自身の目線を合わせた。
「これは……。エクシアのアップルパイか……」
とても懐かしい匂いが袋から放たれた。
ペンギン急便のアジトで、飽きる程鼻腔を通過した匂いだった。
大きな仕事を完遂した時、年末年始の多忙を落ち着かせた時、誰かの誕生日の時、新たな仲間が加わった時、珍しいお客さんが来た時、ソラが泣いて戻って来た時、ラップランドとテキサスがケンカをした時、クロワッサンが酔いつぶれて廊下で寝ていた時、皇帝がワインを開けた時、そして、モスティマが帰って来た時。
エクシアは必ずアップルパイを作ってくれた。
味も何も変わらない。ケーキ屋で買った方が100倍美味しいアップルパイ。
一口噛むごとに、共に笑い合った思い出が脳裏をよぎる、魔法のアップルパイ。
テキサスの瞳から、珠のような水滴が流れ落ちた。
風が草木を揺らす。彼女は嗚咽を漏らしながら、ただひたすらにエクシアのアップルパイを口に入れた。
そして、彼女は食べ切るタイミングで袋の底に小さな紙片があることに気がついた。
袋を逆さまにして紙片を手のひらの上に落下させる。
二つに折られた紙片。どうやら何かが書かれているらしい。
男が呟いた。
「……見ないのか?」
テキサスは、静かにその紙片を開いた。
そこに書かれていたのは、
男は泣きじゃくる彼女の姿を目に焼き付けていた。声をかけた所で、彼女自身の問題は彼女自身にしか解決できないからだ。
比類なき強さを誇る者の涙。一体誰が邪魔できるというのだ。
やがて、テキサスは前を向いた。
そして、テキサスの眼を見つめる男の眼を見て、確かに宣言した。
「私は西に向かう! クルビアへ向かう! 誰に道を塞がれようとも、その道が存在しなくてもだ!! だから黙ってついてこい!!」
その瞳に迷いはなかった。
ロドスを脱出してからの彼女に感じられた、どことない不安定感は露に消えた。
赤く充血したその眼は、自信と決意に満ち溢れていた。
アーミヤが理想の為に危害を加えるのなら、自身も理想の為に足掻いてみせようと。
男は、ドクターは彼女の宣言に答えた。
「何処までついていこう。死が我々を別つまで、共に安息の地を目指して歩こう」
ドクターが手を差し出す。テキサスはその手を固く握った。
離させないようにではなく、お互いが離さないように。
どんよりと曇っていた空は、いつの間にか晴れていた。突き刺すような陽の光が、二人の歩いた道を照らす。迷いなき旅路へ。苦難の先へ。神が与えし試練など恐れるに足りず。
ただ、上半身に刻まれた切創を隠して。
【ウルサス帝国 大門】
多くの憲兵が数名の集団を見ていた。
誇り高きボジョカスティ大尉を打倒したと言われる者たち。そこらの警備をしているお坊ちゃまの兵卒からすれば、彼女らはまさしく恐怖の化身であっただろう。自身より遥かに階級が上の人物が、彼女らに対してへりくだった態度をしていたということが余計ソレを助長させた。
「苦難陳述者……がモスティマの動向を探っているみたいです」
「フッ……。失礼。名前のセンスが良くてな……」
カズデルの聴罪師の衣に身を包んだ女性が、ムッとした顔をして白衣の女性を睨み付ける。
「……真面目に聞いてください」
すぐ側では、石棺のような物を浮遊させている少女が飛び回る蝶を追いかけていた。そして、その少女を追いかけるようにチェーンソーを背負った女性が一人。
後方に座っていた巨乳のサルカズは暇そうに髪先をいじっていた。
白衣の女性が聴罪師に問う。
「……時にシャイニングよ。敵の作戦が分からず、それでいて敵の正体も分からないという時はどうすればいい?」
「難しい質問ですね……。ケルシー医師、ご教授ください」
「圧倒的火力で待ち伏せする。脳死でゴリ押しとか言うやつだ」
シャイニング。そう呼ばれた女性はそれでいいのかというような表情をした。
白衣の女性の上空に飛空艇が出現する。
周囲に居た憲兵たちが慌てて退散する。その飛空艇の装甲には龍門近衛局のシンボルが塗られていた。
そして、その内部から声が聞こえた。
「お望み通りの飛空艇だ! どこに向かう!!」
白衣の女性は答える。
「……クルビアに。バベルの跡地で迎え撃つ」
彼女の言葉を聞いた集団は、一斉に立ち上がりそれぞれの武器を手に取った。
ある者は剣を、ある者は爆弾を、そしてある者は電卓を。
破壊のプロフェッショナルたちを集めたケルシー小隊は、テキサスたちが苦労して通った道をスルスルと抜けていくのであった。
今更なんですけど、ネタバレ注意です。
タグに増やしておきます。