過去からの客   作:紫 李鳥

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 食堂の三組の客に笑顔で一礼すると、厨房に戻った。テーブルに自分達のおかずを並べている行弘を横目に、ビール瓶とグラスを盆に載せた。

 

 

()いでほしい?」

 

「ああ」

 

 高志が嬉しそうにグラスを持った。

 

「最初の一杯だけよ」

 

 瓶を手にした。

 

「ああ」

 

 順子の顔を見詰めた。

 

「ゴクッゴクッ……。ふぁ~、(うま)い。一杯、どうだ」

 

 高志が返杯のグラスを差し出した。

 

「駄目よ、仕事中。それに、呑むと癖悪いもん」

 

「そうだっけ?」

 

 高志は手酌をした。

 

「覚えてないの?」

 

「いいことしか覚えてない」

 

「例えば?」

 

「ん?そうだな。……蓼科(たてしな)の友人の別荘に泊まったこととか、隠岐(おき)の島の民宿に泊まったこととか――」

 

「ああ、覚えてる。素潜(すもぐ)りでサザエ採って食べたね」

 

「ハハハ……。そうだよ。お前、泳ぎ得意だったもんな」

 

「ほら、お前って言ったよ。気が緩むとすぐボロが出るんだから、気を付けてよ」

 

 忠告すると、腰を上げた。

 

 

 厨房に戻ると、行弘が先に食べていた。

 

「何、やってんだ。遅いから先に食べてるよ」

 

「ビール勧められたから断ってたのよ」

 

 ご飯をよそうと、行弘の前に座った。

 

「どこから来たって?」

 

 味噌汁を(すす)りながら、行弘が上目で視た。

 

「……東京みたいよ。宿帳見なかったの?」

 

「二、三日泊まるなら、後で挨拶に行くか」

 

「行かないほうがいい」

 

「なんで?」

 

 ()に落ちない顔で、胡瓜(きゅうり)の漬け物を口に入れた。

 

「なんか、酒癖悪そうだから」

 

 だし巻きを頬張った。

 

「……お前、なんか変だな」

 

 行弘が疑う目を向けた。

 

「どうも、ごちそうさまでした!」

 

 食堂から声がした。順子は腰を上げると、物が入った口を手で隠しながら食堂に行った。

 

「どうも。お粗末さまでした」

 

「ほんに、美味(おい)しゅうございました。山菜あり、川魚ありで、久し振りに自然の幸を満喫しましたよ。温泉もいい湯でしたし」

 

 老夫婦の片割れが、朱色(しゅいろ)丹前(たんぜん)の衿元を整えながらそう言って階段の前で会釈をした。

 

「ありがとうございます。そう(おっしゃ)っていただけて、とても光栄です。どうぞ、お部屋でおくつろぎくださいませ」

 

「そうさせていただきます。お休みなさい」

 

「お休みなさいませ」

 

 頭を下げた。厨房に戻ると、食事の続きをした。

 

「な?お前、なんか変て」

 

 食後の煙草を()んでいた行弘が、煙たそうに目を細めた。

 

「何よ、さっきから変、変て。挨拶に行きたきゃ行けばいいじゃない。あなたこそ変よ」

 

「じゃ、行ってこ」

 

 煙草を揉み消すと、いそいそと腰を上げた。

 

 高志がボロを出さなきゃいいけど……。順子は危惧(きぐ)した。

 

 

 ドアをノックすると、

 

「はーい」

 

 高志が返事をした。

 

「あ、いらっしゃいませ、(あるじ)の芦川です」

 

 ドアを開けた高志が無表情の顔を向けた。

 

「これはこれは。初めてのお客様と言うことで、ご挨拶に伺いました」

 

「はい。あ、どうぞ」

 

 中に入れた。

 

「春の香りに誘われて、ぶらっと旅をしていたら、この宿があったものですから」

 

「当宿にお越しいただき、誠にありがとうございます。あれ?ビール空ですね。お持ちしましょうか」

 

「いえ。一本だけにしとかないと、後が怖いもんで。アハハハ」

 

「え?アハハハ」

 

 目が合った行弘は、意味が分からぬままにつられ笑いをした。

 

「どうですか、一緒に呑みませんか」

 

「えっ?」

 

 突然の誘いに、高志が驚いた顔をした。

 

「お一人でいらっしゃるお客様が少なくて、一緒に呑める人がなかなか居ないんですよ」

 

「……はぁ」

 

越乃寒梅(こしのかんばい)という、新潟の旨いのがあるんですが、日本酒は大丈夫ですか?」

 

「ええ、まぁ」

 

「じゃ、用意してきますね。冷やと(かん)、どっちが」

 

「……じゃあ、燗で」

 

「承知しました。すぐ用意しますので」

 

 行弘は自分のペースで事を進めると、出ていった。

 

 

 鼻歌交じりで下りると燗の用意を始めた。

 

「何やってるの?」

 

 皿を洗いながら訊いた。

 

「増田さんだっけ?一緒に呑むの」

 

「えっ?」

 

 唐突な返答に、順子は狼狽(うろた)えた。

 

 ……高志は酒が弱い。酔った勢いでボロを出す可能性がある。……どうしよう。

 

 順子の不安をよそに、行弘は小鉢とぐい呑み、二本の徳利を載せた盆を運んでいった。

 

 順子は洗い物を途中にして、水を止めるのも忘れていた。――二階の二人を気にしながら後片付けをすると、不貞腐(ふてくさ)れて布団に潜った。面白くなかった。一人だけ仲間外れにされたみたいで。あれほど呑まないと約束したのに。行弘の言いなりになっている優柔不断の高志に腹が立った。収まらない興奮のまま、何度も寝返りを打った。

 

 間もなくして、厨房から物音がした。行弘が追加の燗の支度をしているようだった。足音と共にドアが静かに開いた。

 

「……もう寝たのか」

 

 行弘の声だった。寝た振りをして返事をしないでいると、静かにドアが閉まった。(やが)て、階段を上がる足音が聞こえた。寝付かれぬままに、高志との思い出を手繰り寄せた。――

 

 

 

「シェークスピアをアレンジしてみようと思うんだ」

 

「例えば何?」

 

「うむ……、『ハムレット』とか」

 

「『ハムレット』って、デンマークの王子の話でしょ?“生きるべきか死ぬべきか”の」

 

「ああ。正確には“生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ”だけどな」

 

「それをどうするの?」

 

「喜劇にしてみるんだよ」

 

「例えば?」

 

「例えば……オフィーリアをブスにして、“尼寺へ行け”を“山寺へ行け”とかにしてさ」

 

「アハハハ……面白そう」

 

「な?台本書いてみようぜ。代筆、ヨロシク」

 

 

 

 

 ――そんな楽しい時期もあった。


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