過去からの客   作:紫 李鳥

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 行弘は俯せで煙草を()みながら、

 

「……お前とは別れないからな」

 

 そう、ぽつりと言った。

 

「……」

 

 感付いている……。順子は思った。

 

 

 高志が文庫本を片手に散歩に出たのを見計らって、散らかった座卓の片付けと掃除をした。

 

 ――献立の下拵(したごしら)えをしていると、二組の予約客がやって来た。

 

「増田さんと一緒に食べるから」

 

 行弘はそう言って、酒盗(しゅとう)と適当な(さかな)を盆に載せると、一升瓶をぶら下げて二階に行った。

 

 順子にはどうすることもできなかった。行弘のやりたいようにさせるほか、(すべ)がなかった。

 

 

 温泉から上がった客は、旬の料理を平らげると満足げに部屋に戻った。その夜も、行弘は高志の部屋に泊まった。まるで、高志を軟禁するかのように……。

 

 

 行弘が下りてきたのは、朝食を済ませた客が帰った後だった。

 

「また、増田さんち?」

 

 不良息子を(とが)めるような物言いで、トマトジュースを手渡した。

 

「……まぁね。なかなか話が面白くてさ。気が付くと朝」

 

 行弘も小学生並みの返事をすると、悪ガキみたいな目を向けた。

 

「……お客さんに迷惑かけないようにね」

 

 同い年なのに、順子は母親みたいな物の言い方をした。

 

「は~い」

 

 浮かれた返事をすると、空にしたグラスを流しに置いた。見計らうように高志が下りてきた。

 

「お早うございます」

 

 挨拶しながら高志が順子を見た。

 

「あ、お早うございます」

 

 高志を一瞥(いちべつ)すると、冷蔵庫を開けた。

 

「増田さん。すいませんね、昨夜も付き合わせちゃって」

 

 順子が用意した食事を()りながら、行弘が無遠慮(ぶえんりょ)な口を利いた。

 

「何だか、ご主人と呑むのが癖になりそうですよ。ハハハ……」

 

 人の()い高志が、配慮のある言葉で返した。

 

 

 行弘が買い出しに出掛けて間もなく、高志の布団を畳んでいる時だった。湯から戻った高志が、背後から不意に抱き付いた。

 

「……順子」

 

 耳元で囁きながら、その手で乳房を掴んだ。

 

「……駄目」

 

 言葉とは裏腹に、順子の体はその指先に応じていた。高志は順子を正面に向けると、唇を奪った。

 

「うっ」

 

 順子は力を振り絞って高志の腕から(のが)れた。

 

「やっぱり、あなただったのね。私には夫が居るのよ」

 

 あのキスをした相手が誰だか分かった順子は、高志を睨み付けた。

 

「俺にだって女房が居る。だが、いつでも別れられる。お前ともう一度やり直したい」

 

「何言ってるの?もう私達終わったじゃない。二十年も前に」

 

「俺の中では終わってない。お前が勝手に出て行ったんじゃないか。書き置きをして――」

 

 その瞬間だった。クラクションが鳴った。急いで下りると、行弘が玄関に立っていた。

 

「何だよ、さっきから呼んでんのに」

 

 (しか)めっ面をした。

 

「客室を掃除してたのよ。どうしたの?」

 

「財布忘れた」

 

「もう、おっちょこちょいなんだから」

 

 

 

 厨房に財布を取りに行くと、小走りで戻った。

 

「はい。行ってらっしゃい」

 

「おい、ブラウスの(ぼたん)外れてるぞ」

 

 行弘が鋭い目を向けた。順子は慌ててカーディガンの下に着たブラウスの胸元に手をやると、俯いた。(やま)しいことに心当たりがある順子は、行弘の顔をまともに見ることができなかった。

 

「……行ってくる」

 

「……行ってらっしゃい」

 

 

 順子は部屋に入ると、鍵をした。

 

 ……このままだと、私とのことを行弘に喋る可能性がある。……どうしよう。

 

 順子は卓袱台(ちゃぶだい)に腕枕をしながら悶々とした。――

 

 

 部屋を出たのは、行弘が帰ってきた後だった。昼食を作ると、

 

「俺が持っていく」

 

 行弘は無愛想にそう言って順子を横目で視た。運び盆に載せると、階段を上がった。――すぐに戻ってくると、順子の前に座った。口数(すく)なく食事をする行弘を瞥見(べっけん)すると、何やら考え事でもしているのか、沈んだ顔をしていた。言い知れぬ不安が、(もや)のように順子の体を覆っていた。

 

 食事を済ませた行弘は、煙草をポケットに入れると、何も言わずに二階に上がった。

 

 ……高志とのことに感付いて、その確認をするために行ったのだろうか。根拠のない思い込みは、孤立無援(こりつむえん)のような心細さにさせ、順子の気持ちを暗くしていた。

 

 

「読書ですか?」

 

 文庫本を手にして壁に(もた)れていた高志に、開いていたドアから声をかけた。

 

「……ええ」

 

 高志が顔を上げた。

 

「何を読んでるんですか」

 

 座卓の傍らに胡座(あぐら)をかくと、灰皿を手前に寄せた。

 

「太宰です。昔のを読み返してるんですが、年齢と共に読後感も変わるもんですね。違った視点が発見できますよ」

 

「私も、太宰や志賀直哉を読み(ふけ)ったものです。好みが似てますね」

 

「ほんとに」

 

「……どうですか、散歩でも」

 

 行弘は煙草を消すと、腰を上げた。

 

「……そうですね。天気もいいですし」

 

 高志は(しおり)を挟むと、立ち上がった。

 

 

 

「……散歩に行ってくる」

 

 食堂の拭き掃除をしていた順子に声をかけた。

 

「ちょっと行ってきます」

 

 行弘の後ろを行く高志が、“心配するな、俺達のことは喋らないから”と言うような目を向けた。

 

「……行ってらっしゃいませ」

 

 順子の中にまた不安が(よぎ)った。……どうか、何事も起きませんように。そう祈りながら、よろよろと椅子に腰を下ろすと、頭を抱えた。


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