ご主人様の怒号が聞こえた。瞬間、肩が跳ね上がった。何か怒らせたかと思ったが、どうやらテリトリー内に誰か入って来たらしい。おそらく鬼殺隊士だろう。
ああ嫌だな。嫌だ。嫌。怖い。やりたくない。人の命を奪うのは怖い。心の臓から凍りつくような心地がするもの。
やりたくないと叫ぶ心を置き去りにして、体が素早く動き出す。あってもなくても大差ないのかもしれないけどマフラーで防寒して、ブーツを履いて外に出れる準備をする。そうこうしてる間にしおりちゃんが鍵3つをガチャガチャ鳴らしながら開けてくれたみたいだ。
体だけが急くように飛び出した。部屋の外に出たのは何ヶ月ぶりだろう? 日付を数えた所で虚しいだけだから数えてはいないけど、久しぶりなことに間違いはないのに、解放感なんてまるでなく、ナイフを三本取った手も体の芯も冷えきっていた。
そのまま家を飛び出す寸前に「南西だ」と部屋から出ないで高見の見物のご主人様が、侵入者の位置を教えて下さったから、「ありがとうございます! 必ず排除して参ります」と機嫌を損ねないよう、神経尖らせて返事した。
家を出たら雪が降っていた。咄嗟に地面を確認したら、雪は積もることなく消えていたから走っても滑らないなと判断して、南西に向かって走り出した。初雪だろうに風情がないなって心の中だけで自嘲した。
見えた。黒い隊服。間違いない鬼殺隊だ。――ああ残念、一般人なら殺さなくても良かったかもしれないのに。いや、宣言してしまったから無理か。
ぱっっと顔上げて見えた蜜柑色の瞳が覚悟の光を宿していた。これじゃあ助けを求める振りして騙すのは無理だ、やっぱり奇襲しかないなと、相変わらず嫌だ嫌だと喚く心を無視して、頭が冷徹な判断を下す。
ビュンと勢いをつけて心臓目掛けてナイフを投げた。
隊士は一瞥さえせずに、軽々しくナイフを避けた。
ナイフがテリトリーの外まで飛んで行ってしまったから、もう取りにいけない。なんて事だろう。かすり傷一つつけずに武器を一つ失ってしまった。今までの人よりずっと強いどうしよう!? 嫌だと喚いていたのが嘘のように、相手を殺せそうにないことに慌てていた。
私の妙に冷静な部分だけが、やっぱり私って最低って再確認していた。
慌てて焦って、強い人だってわかったのに接近戦を仕掛けた。
右手のナイフを振りかぶって、それをフェイントに左のナイフを突き刺す。それでも、未来でも見えてるのかってくらい何気なく躱され、左のナイフを叩き落とされ、右手を捻り上げられた。右腕しか掴まれていないのに足が地面から離れた。どうしよう? どうしよう? せめて最後のナイフだけは掴んでいたけど、それもあっさり取られてしまった。
取られたナイフ2つを隊士はテリトリーの外までぶん投げた。
えっ? なんで? 踏み割るなりなんなりした方が良くない? それとも鬼殺隊にご主人様のテリトリーの情報伝わっていたのか。どうしよう、だとしたらまたご主人様に怒られる!
頭が混乱でいっぱいになっていたその時、隊士にギュっと抱きしめられた。
「もう大丈夫、大丈夫だよ。君を支配していた鬼は俺が倒す。絶対にだ。だからもう君は食べられる必要も、あんな鬼のために鬼殺隊士を殺す必要もない。大丈夫なんだ。だから安心してくれ」
知ってるの? あの部屋で毎日行われる惨状を。本当の本当に倒してくれるの?
「ほん、とう?」
聞いておいて無理だと思った。到底信じられなかった。ご主人様は私の生活の全てで、もはやご主人様の居ない生活を前世の経験で知っているはずなのに、これっぽっちも想像出来なかった。
「本当だ。本当だよ。俺は必ず君を助ける!あの鬼を倒す!信じてくれ!!」
それでも、真摯に言い募る様子を見て彼の強さを思い出した。私なんかより何十倍も強かった。もしかしたら、もしかしたら有り得るのかもしれない。
「ほんとうに……よかったぁ」
そう、ほんの少しだけど思ったら、口から安堵が滑りだして座り込んでしまった。人がご主人様を倒すならともかく、私自身率先して反抗するなんて出来やしないという体の反応だったのかもしれない。
そうちょぴりの安堵を感じて、ようやくしおりちゃんのことを思い出した。
「あのね、あのですね、中にまだ私と同じ女の子が居るんです。私が負けたから、ご主人様はきっとあの子を食べてしまう! お願いします! あの子も助けて!!」
安心しないと気を配れないなんて、私はあの子を守ると誓ったというのに……。私を助けるために死んでしまったであろう姉様たちに比べて、私はなんて浅ましいことだろう。
「ああ、もちろん助ける。大丈夫だから、ここから動かないで待っていてくれ」
相変わらず、かっこいいくらいに断言してくれる彼ならこの状況を変えてくれるかもしれないって再度思ってコクコクと頷いた。
そうして彼は1ミリも迷うことなく、まっすぐにご主人様の所に走っていったのである。
呆然と見送ってから、追いかけなきゃと思い至った。でも、立ち上がることは愚か、腕1本動かすことは叶わなかった。
主人様は本当に絶対的な支配者で、捕食者で、何一つ逆らえない相手だと骨の髄まで理解していたから。たった1度逃げ出したあの日と、始めて鬼殺隊士を殺そうとして出来なかったあの日から、もう大層久しぶりの小さな小さな反抗の芽だった。それが、ご主人様にバレてしまうのが恐ろしかった。
だから、私が縋り着いたせいで死んでしまうであろう人がいるのに、やっぱり何も出来ないままだった。ただ私の浅ましさに唇を噛んだだけだった。
帰ってくるなんて思ってなかった。ご主人様が激昴してやってくる様はありありと想像できたのに。
だから、本当に驚いたのだ。余りに都合がいいから現実じゃなくて夢だと思った。
「大丈夫だ。もう君を支配していたあの鬼はいない。死んだんだ。もう毎日君が痛い思いをすることは無い。君の言っていた娘もこの通り生きている」
安心させるように力強く、澱みなく断言した。しおりちゃんを、地面に横たえて見せてくれた。
「ほん、と、に」
声が震えた。
「ほんとに本当?」
本当じゃなくても良かった。夢でも何でも心底安堵した。
「ああ本当だ。もうあの鬼はいない。信じられないならあの家に確認しにいこうか?」
目頭が熱い。ボタボタと何かが滴り落ちた。もう何年も流れなかった涙だった。私の涙は涸れていなかった。
ご主人様の死を確認することは出来ないのに、実感なんてまるで湧かないのに、ひたすら私だけを案じる言葉に真実があると信じられた。さっきまでまるで信じていなかったのに本当に都合のいい女だった。
彼は、隊士だけじゃなくてコイツも殺せと言われた人語を解す鴉に何かを囁いてからは、壊れたように泣き続ける私の背中をずっと摩ってくれていた。「生きていてくれて良かった」と、そう呟いているのが聞こえた。
どのくらい時間がたったのだろうか。私の涙にひと段落が着くと、彼は細々と会話を始めた。
「俺は辻宮千里だ。鬼殺隊で隊士をしてる。鬼殺隊は知ってるんだよね」
確信を持った問いだった。聞かれた内容に理解が追いついたら、急に足元が無くなったような心地がした。
「あっはい……あのその一応知っています」
だんだん声が小さくなって、最後は碌に聞こえなかったんじゃないかと思う。
言わなきゃ! それでも言わなきゃ! 私がひ、人殺しだってこと。
「――あの、あの私っ」
「いいよ。俺は責めないし無理に聞こうとも思わない。それより君の名前を聞いてもいいかな?なんて呼ばれてた?」
遮られた。責めないって言葉に見苦しくも安堵して、それから私の罪が宙ぶらりんになった。
とにかく、聞かれたことには早く答えなければいけない。でも、どうしたらいいんだろう? 名前なんてないし、前世の名前だってもう私のものじゃない。
「えっ……その、名前は知らなくて……、でもご主人様には26番って呼ばれていました」
慌てて出てきたのは結局、今生の呼び名だった。
「そうか。他の娘も数字で呼ばれてたのか?」
少しの驚きもなく、ただ事実を受け止める様子を見て、少し落ち着きを取り戻した。
「はい。ここに移動して来る前の姉様たちもみんなです。でも、27番ちゃんはしおりっていう名前があるらしいんです。私は、呼んであげられなかったけど」
「名前は、これからいっぱい呼んであげればいいんだ。君もしおりちゃんもまだ生きているんだから」
なぜだか自分を責めるような声色の返事が帰ってきた。何故だろう。責められるべきは私なのに。
「そう、ですよね。ありがとうございます」
「それからさ、名前がないなら俺が決めてもいい?」
罪悪感を帯びた決意の声がした。
「いえ、そのありがたいですけど、そんなっ勿体ないことは」
本心だった。私の呼び名なんて数字で十分。
「いいんだ。俺が君に贈りたいんだよ。ねっ」
それでも、と言葉を重ねられて続きを捲し立てられた。
「立華っていうのはどうかな? 音は雪の結晶の六花からだけど、立つに華やかって書くんだ。君に数字は似合わないよ。それに初雪の中に立つ君が本当に綺麗で見惚れてしまったんだけど、どうだろう?」
覚えた詩を暗唱するかのように少し恥ずかしげだった。なにもかもを見知ったような、この人の人間らしさが見えた気がした。
この人はどれだけのものを私にくれるのだろう。私に数字が似合わないなんて、そんなことあるんだろうか? 今考えたとは思えない程綺麗な、醜く浅ましい罪だらけの私には不釣り合いな美しい名前だった。
感激で言葉が出なかったら、せっかくの名前を取り下げられてしまいそうだったから、私には勿体ないと知りつつも、嬉しいって言葉が溢れた。
「いえ、嬉しいです! 立華がいいです! 本当に!」
「そう、良かった」
「本当に名前も、私もしおりも助けて下さってありがとうございます」
自然にお礼が言えた。ご主人様に言う恐怖と痛みから無理に言っていた、ありがとうございますとは違くて、心からの感謝の念だった。
「いや、俺も立華を助けられて良かった。こちらこそありがとう」
感謝を当たり前のように受け取る彼が、痛くて苦しくて恐ろしい闇夜を切り裂くただ一筋の光だった。
* * * * *
四人の人影が山登りに疲れた足取りで、それでも急くように駆けてきた。誰だろう? 着物の男女と少年、それから目元以外を隠した
「しおり!」
そう言って駆け寄る三人。千里さんが「守り切れずこのような状態に……」とか言ってる。あまり私の耳には届かない。
――ほら、やっぱりそうだ。家族いるんだ。そうだよね。いないはずない。いなかったら人質なんてなれないもの。そうだよ。私が、私がいたからこんなことになったんだ。ごめん。やっぱり守ることなんて出来てなかった。眠ったままのしおりちゃんと心配するご家族、説明している千里さん。ずっと三人しかいなかった世界に急激に人が増えて、それも家族なんて私よりずっとしおりちゃんに必要な人で、なんにも出来ずにただ置いてけぼりだった。
「なぁ大丈夫か?」
黒衣の人が言う。緩慢と頭を持ち上げた。
「あぁ、やっぱりだ。良かった! 無事で良かった!」
目元だけが覗いている、そのネイビーの瞳を見てぼんやりとしたデジャブを感じる。でも誰なんだろう。知り合いなんているわけがないのに。
「ごめんなさい。誰ですか?」
「あぁ、僕は永留慧一と言います。二年くらい前に君に逃がしてもらった鬼殺隊士って言ったら伝わるかな?」
二年前……? 逃がした? 殺ろしてないってこと? ゆっくりと思い出すと同時に、あの恐ろしいお仕置きを思い出した。
「ごめんなさい!ごめんなさい!ちゃんと止めを刺さなくてごめんなさい!反省してます!だからっ痛くしないでください!いやっごめんなさ」
「おちついて!」
腕が頭を守る前に肩をつかまれてそう言われた。
「大丈夫だよ。もうその鬼なら千里が倒したはずだよ。もういないよ。ごめんね、思い出させて」
はぁはぁと息が乱れている。いない? そうだよ。さっき千里さんが帰ってきたじゃない。私としおりちゃんが揃って家の外にいるんだもの。ご主人様がいたらこんな状況ありえない。
「ごめんなさい。取り乱しちゃってごめんなさい」
「よかった。大丈夫だよ。僕のこと覚えてるか? あぁ、ごめん。無理に思い出さなくていいんだよ」
「いえ、その覚えています……。あの、生きていてくれて良かったです」
もうこの手は既に真っ赤だけど、それでも生きていてくれて良かった。私が痛い思いをするだけで、今生きている人がいる、なんだかその事実に救われるような気がした。
「そうか、そうかぁ。良かった。生きててくれて」
この人も私が生きてて良かったって思うの。千里さんも慧一さんも、なんで私なんかにそんなことを思うのだろう?
それからしばらくして千里さんと慧一さんが何か話した後、
「あの家の現状を確認しに行くんだけど、一緒に来る? あの鬼がいなくなったのを確認した方が安心できるかもしれないだろ?」
「あぁ、もちろん怖かったら来なくてもいいんだよ」
そう誘ってくれた。確かに、まだ現実感がないから、確認した方がいいのかも……。 それに案内って形なら役に立てるかもしれない。
「……あのっ案内します。その、行きます」
「うん。わかった」
「無理しないでね」
歩いている途中であることに気が付いて、視線が地面にまで落ちる。
「あの……、鬼殺隊って他の人とか、遺族の人とかと連絡って取れたりします、か?」
「あぁ、俺の仕事がそういうことも担ってるけど、どうして?」
「いえ、その――この後、お渡ししたいものがあります」
少しきょとんとしていたが、納得してくれたみたいだった。
いつもの日本家屋にたどりついた。あっという間だった。そういえば案内するなんて言ったけど私、出入口と私の部屋しか知らない。あと、私の部屋の隣にしおりちゃんの部屋があったことくらい。
「とりあえず全部屋、周ろうか? 確認するにもちょうどいいだろうし」
だから、千里さんの言葉に安心した。急いで頷く。それなら、部屋に通りかかった時に説明できる。数が多い訳ではない部屋をすべて確認して、たまに説明を挟んで進む。どこにもご主人様はいない。気配もしなかった。
そうして一番奥の私の部屋までたどりついた。
「――えっ嘘だろ。これ、全部血なのか……?」
「ほら、もういなかっただろ?」
なにか震えた声で呟く慧一さんを置いて千里さんがそう言った。
「あの、でも死体もありませんでした……よね?」
「あぁ、鬼は死体が残らないんだ。逃がしてないから、いなければ確実に死んでるよ」
「そうなん、ですか」
「まだ安心できない?」
「あっ、いえ、そんなことは無いです」
もともと人間とは別の妖怪か何かみたいだったもの。なにがあっても驚かない。やるべきことを思い出して部屋を歩く。慣れた手つきで床板を剥がした。何度も見ては後悔した私の罪の証たち。
「あの慧一さん。これ、その……」
視線が定まらない。右へ左へ揺れながら落ちていく。
「その、鬼殺隊士の遺品、です。あの……渡してあげてください」
言えなかった。殺したの、私だと言うのに、これじゃ私は手を下してないみたいに聞こえてしまう。慧一さんのことだって怪我させたんだから、隠そうとしたってすぐわかってしまうだろうに。
「うん。わかった。これだけでも残って良かったよ。ありがとう」
やっぱり目線を上げられない。
「いえ、ごめんなさい」
「ううん、いいんだ。頑張ったね。よく頑張った」
また、床まで崩れ落ちた。私、頑張ってた? 本当にこんなんで頑張ったなんて言える? ほんと? 気づかず声に出ていた言葉に慧一さんも千里さんも、一も二もなく頷いてくれて涙が頬を流れるのが止められなかった。
* * * * *
あれほど私の行動範囲を縛っていたテリトリーを、あっさりと抜け出ることが出来て驚いた。びっくりして立ち止まってしまったけど、慧一さんの呼びかけに慌てて追いかけるはめになってしまった。
山を降りた光景にまたも驚くことになってしまった。
だってそこにあったのは、コンクリートの道でも、高層ビルでもなく、チカチカしたライトの看板を掲げるお店でもなかった。
土むき出しの道、着物を当たり前のように着こなして道を歩く人々、かやぶき屋根の家々、電柱は辛うじてあったけど木製だった。
「あっあの、これって、撮影かなにかですか……?」
私がこんなことを聞いてしまったのも当たり前だと思う。
「ん? さつえい? なにそれ?」
でも、そうまったく未知の返答が返ってきたというような反応をされてしまったら何も言えない。次から次へと事が起こって混乱する頭で考えていると、千里さんに急に内緒話でもするようにささやかれた。
「今は、明治だよ」
「えっ……?」
明治って、あの江戸時代の次の、明治天皇の? 歴史の教科書上の話の? 過去の?
「そう」
えっ、えっ、えっ、なんで? どうして? 私がかつていたのは、平成通り越して令和だったのに? タイムスリップでもしたの?
混乱したまま、気が付いたら電車だか列車だか名称ははっきりしないけど、とにかく乗り物に乗ることになっていた。
ここまで来たら受け入れざるを得ない。たまに洋服着た人はいたけど皆スーツとかワンピースとかなんだかフォーマルな感じだったし、着物の方が圧倒的に多い。人力車も通ってたし、今じゃ――いや違う、令和じゃもう鎌倉とか京都でしか見ないというのに、この列車だってモクモクとした黒い煙をあげて走っているからきっと石炭で動いているんだろうし、揺れが酷いもの。乗り物酔いはあまりしない体質らしいのが幸いだったけど。
とにかく無理に現代で状況を考えるより素直に過去だと思う方が早かった。
混乱をそう飲み込んで前を見ると、並んで座っていたボックス席の向かいで何かを必死にメモしていた千里さんが不意に顔を挙げた。
「そういえば、立華の苗字どうしようか」
「私の?」
この時代も苗字って必要だったんだっけか、と記憶を辿るが分からない。日本史を選択しなかったことが悔やまれる。今となってはあまりにも遅いけども。
「あれ、無かったの? それだけしっかりした名前があるからてっきり知ってるのかと思ってたけど」
「いえ、この名前は先程千里さんが下さったもので、私自身はずっと27番って呼ばれていました」
「千里が! って、えっ数字で!?」
「えっ、ちょっと待って。俺のこと今なんて呼んだの?」
慧一さんと千里さんが次々に驚いた。一人でぶつくさ驚いている慧一さんより、まず千里さんの疑問に答えようと思った。
「えっと、千里さんと……、失礼でしたか?」
怖々と顔を上げて見る。
「いや、その、呼び捨てにしてくれ。敬語もいらないって言うかやめてほしい」
そう言って空調が暑いのか顔がほんのり火照った千里さんがいた。
「……はい。わかりました。って、えっと、わかった、よ」
その、恩人にそんな風に言われたら断りようもなかったから頷いたんだけど、長年染みついた言葉使いは、敬語か年下に向けた話し方の二択だったからなんだか慣れなくて、つっかえてしまった。どど、どうしよう?
「うん。そうしてくれ」
なんだかちょっと恥ずかしくなって視線を逸らしたら、微笑ましい驚きに満ちた顔で千里さん――いや千里を眺める慧一さんが映った。
「で、そう苗字の話だろ! 俺の苗字をあげるのは、こう辻宮としても、母親たち的にも良くないだろ。個人的にもあんな親の苗字はどうかと思うし、なっ!」
「まぁ、確かになぁ」
慌てたように強引に話を進める千里に、ちょっとにやにやした慧一さんが返す。
「あの、そんなに苗字って大事ですか? 必要なら佐藤でも鈴木でもいいですし……」
「いや、そんな」
「まぁまぁ。それなら俺の苗字貰って欲しいな。永留って言うんだけど、僕の妹になってくれないか?」
妹? 私が? 前は一人っ子だったしあそこでは姉代わりではあったけど……。
「その、嬉しいですけど、そんな恐れ多いこ」
「じゃあ決まりだな! 千里だってこれを狙って話を振ったんだろう? ばればれだったよ」
そう私を遮って決まってしまった。
……妹。ってことは家族だよね。私なんかといいの? いいってことよね? 嘘じゃないよね?
「えっと、よろしくお願いします。その、慧にっさん」
「慧兄さんかぁ。いいねいいね。兄妹っぽくて」
私、慧一さんって呼ぼうとして噛んじゃっただけなのに……。
「いえっあの! 噛んじゃっただけで、その」
「うんうん良い呼び名だね。気に入ったからそうやって呼んでくれない?」
「俺もそっちの方がしっくりくると思う」
そうやって肯定されて微笑まれると、もうなんにも言えなくなってしまった。
「……んっと、わかりました。慧兄さん」
なんだかそのわいわいした時間が無性に嬉しくて、私がいたのは死後の地獄なんかじゃなく正真正銘の現実という実感が沸いたような気がした。だってあそこを形容するのに地獄以外の言葉が見つからないし、前世と言うべきか生前と言うべきか、かつての人生で大罪を侵した自覚はなくとも虫程度なら殺したことだってあったから、そういう自覚のない罪を暴く地獄なんじゃないかと思ったことだって一度や二度じゃなかったのだから。
でもそれは違った。きっとこれは現実で、真実私は生きている。そう信じることにしたんだ。
ああ、幸せってこれなんだなぁ、壊れないでほしいなぁって心から願える温かな時間だった。
* * * * *
列車を乗り継いでそこからさらに歩いて、見事な花が咲き誇る大きなお屋敷にやって来た。ここも日本家屋。なんだか見慣れない建物と、久しぶりの人混みで眩暈がしそう。
「ここは、鬼殺隊の医療用の屋敷。君たち二人は一般人だけど血鬼術――ええと、鬼が使う特殊な術で、君たちで言うその黒い痕のことなんだけど――がかけられて解けていないから、一度ここで一度検査してもらいたいんだ」
どこか聞く前に疑問を解消された。千里さ、千里は本当に気の利く人だと感心した。いや、上から目線じゃなく純粋に!
「ええと、良いんですか? そんな大事そうな施設に部外者が入って……」
「うーん。あんまりよろしくないけど、他に血鬼術を診れる人いないからね」
「許可も取ってあるから気にしなくていい」
慧兄さんと千里が次々に言う。しおりちゃんのご両親が丁寧に感謝の念を述べるのを見て、私も続いた。その後、感謝もほどほどに屋敷に入らせて貰った。
案内された病室でいまだ昏睡中のしおりちゃんは先に簡単に、今は私を診察してもらっていた。診察というよりは問診の質疑応答という感じだったけど。
「これは確かに血鬼術でしょうね。この黒い痕が傷を覆って出血や体の体積が減るような怪我を治す。一見、人に有益なものにも見えるけど実際は鬼の為だと思うわ」
長い黒髪が艶やかな、たおやかな女性がそう言った。ここの医者の一人だそう。でも、千里と同じ制服を着ているし、あまり医者には見えない。かと言って屈強な鬼殺隊士という感じでもないから、どういう立ち位置の人なのだろうか。
「は、はい。ご主人様が食べるためのものだったので、そうだと思います。私も」
「そう……」
目線を下げて暗い声色で同意を示された。ふるふると首を振り、顔を上げて言うことには、
「そうなると大変ね。覚えている限りでも四年はずっとこの血鬼術をかけられていたのよね。もう一人の子が生きているのもこの血鬼術の影響のようだし、迂闊に治すわけにもいかないわ」
……それは考えていなかった。そもそもご主人様が死ぬとか、死んだ後とか、考える余裕なかったもの。
「……じゃあ、治さない方が良いってことです、か?」
「今はどちらともいえないわ。だからしばらくは検査入院って形でここにいてくれるかしら?」
検査入院……。行き先も他にないし、選択肢はないに等しい。
「あっ、はい……わかりました。あのっ、私はいいんですけど、しおりちゃんはちゃんとご両親に話を……」
「それは、もちろん。私は胡蝶カナエ、ここの薬学の担当をしているの。貴女たちの主治医ということになるわ。よろしくね」
「はい。よろしくお願いします」
そうして、ふわりと軽やかにカナエさんは病室を出て行った。……出て行こうとしたら、タイミングを図ったように入って来た千里に呼び止められたようで一言二言話したあと、新たな診察用の器具かなにかを持って、また戻って来た。
「ごめんなさいね。確認しておきたいことが増えちゃって……、今のうちに診察してもいいかしら?」
「えと、大丈夫です」
そして、されるがまま診察された。今度は注射とか、採取した血の反応を確かめるとか色々。私の知ってる診察に近かったようにも思った。
「確かに稀血みたいね、千里くん。普通のとは少し反応が違うけど……」
「やっぱり……」
「もう少し診察を続けないとわからないけど、しおりさんと立華さんで効き目が違うから貴方の予想が会ってる可能性は高いわ」
私に話かけている訳ではないのは分かるけど、言っている内容がよくわからない。どういうこと?
「あの、どういうことですか」
「ああ、ごめんなさい。えっと稀血っていうのは、鬼にとって栄養価の高い人間のことでね、狙われやすくて危険なの。二人ともそうだから、これは貴女たちにかけられた血鬼術の影響の可能性もあるわね」
「しおりちゃんも、ですか? ご主人様は私以外食べなかったのに」
言ってしまってから、私としおりちゃんは役割が違っていたことを思い出した。それに私がかばっていたんだから食べなくても当たり前だった。
「それなんだけどね、貴女の方がより強力なのよ。それでね、まだ確定してることじゃないんだけど、立華さんは稀血にかかりやすい体質なのかもしれないわ」
「体質……」
「そうよ。稀血も体質なんだけど血鬼術の効きやすい体質とかもあるの。どっちも珍しいけどね。そうだとしたら説明もつくわ。詳しくわかったら伝えるけど、もし鬼に会うことが会ったら気をつけてね。でも、安心して。ここは私が守ってるから安全よ」
そんなことを言われてもいまいちピンとこない。安全な環境ということさえよくわからないのに、危険な体質なのに安全といわれても実感なんてあるわけがない。
「ありがとうございます」
それでも私が言えることはそれしかなかった。カナエさんはその返事に安心したように微笑んで、千里に向き直った。
「千里くんもそれで安心してくれる? ここにも柱がいるのよ」
「……そうですね。よろしくお願いします」
千里は納得したような妥協したような曖昧な表情で頷いて、今度こそ二人は部屋を出て行った。
もう部屋にいるのは、私としおりちゃんの二人だけ。始めの方は千里が隠していたから、気づいた後にも何か行動を起こすタイミングのなかった、彼女の無くなって黒い痕が覆っている左足をそっとなでた。
「ごめんね」
私があんなことをしなければ、私が千里に任せずに動いていれば、今までと同じようにしおりちゃんがこんな姿になることは無かったのに。二人きりの空間で深く深く後悔の底に沈んでいく心地がした。
* * * * *
ここに来て五日が経った。しおりちゃんはまだ起きていない。私がすることは何もなくて、どうにも落ち着かなかった。
突如、扉が開いた。
見覚えのない男子が顔を覗かせる。彼の深緑の羽織がふわりと翻ったのが見えた。
「お前か」
静かな怒りに満ちた声が部屋に反響する。――あの、羽織は、わ、たしが、殺した、あの人、の。瞬間的に逸らした目線を、恐る恐る彼の顔にまで持っていく。
「――――ッ!」
悲鳴にも狼狽にもならない何かが漏れる。冷水を被ったに等しい恐怖が襲い来る。
生きていた殺し損ねた殺したごめんなさいごめんなさい許して嫌怖い違うここは病室ご主人様は死んだごめんなさいじゃあ何幽霊怖い何なのやっぱり生きてた嫌私は実際に殺したどうして死んだ筈許して刺した感覚溢れ出る鮮血虚ろな目覚えてる怖いごめんなさい嫌なんでごめんなさいどうして……!
「やっぱりお前が兄さんを!」
駆けだした彼が振り上げた何かが反射する。眩しい。あれは……ナイフ?
「殺したんだな!!!」
そう、振り下ろされたナイフを反射的に、体がうまく動かない頭を置き去りに勝手に、掴み取り、投げ捨て、制圧した。
それでも憤りのまま、ベットに乗り込み、硬く握り締めた拳を何度も何度も叩き付けられる。鈍い痛みが広がった。
「返せよ!兄さんを返せよ!」
痛みで鈍った頭では、癖になった謝罪を弱弱しく知り返すことしかできなかった。
「じゃあ!死ね!死んで償えよ!」
「駄目です!」
その言葉を聞いた瞬間、彼を突き飛ばしてそう叫んでいた。
思考がクリアになって、ただ一つの明確な答えが浮かんでいた。
「駄目!駄目なんです。死んじゃ駄目!だって死は絶対罰にも償いにもならないんだから!」
だって、死んだってぬくぬくとした次の生が続くだけ。
ベットの端で尻もちをついた彼があっけに取られて、黙った。
「それは単なる逃げ!もっと言うなら救い!だから私は、生きて生きて苦しんでこの罪を償わなきゃいけない!もちろん被害者の貴方が、罪を償う必要も、苦しむ必要もなく、罪から逃げて楽になってでも私の死を望むなら、今すぐにでも死にます!どうなんですか!」
口が一気にまくし立てたから、はぁはぁと息がちゃんとできてない。慌てたような足音が響いた。私を睨みつける彼は、視線こそきついものだが、口は言葉を吐き出すことなくただ開閉を繰り返していた。
突如、慌てた様子のカナエさんが空間に乱入した。驚いた様子はあるものの、冷静さを失うことなく深緑の羽織の彼をベットから引きはがす。
彼はその状態に構うことなく、ようやく見つかった言葉を吐き出した。
「じゃあ鬼殺隊入って!鬼殺して!そうやって最後は鬼に殺されて死ね!」
カナエさんが「何を言ってるの」と瞠目しながらも彼を引きずって出ていくのと引き換えに、ひどく焦った様子慧兄さんが入って来た。
「大丈夫か、落ち着け。気にする必要ないから」
私より、よっぽど慌てている慧兄さんがそう言って、背中をさすってくれた。数瞬後、呼吸が整ったのを見て「水でも飲むか?」と、立ち上がろうとする彼の袖をそっと引っ張った。
「ん、どうした?」
「私、鬼殺隊士になるね」
私との戦闘をきっかけに鬼殺隊士を辞めた慧兄さんは、きっといい顔しないだろうと分かっていながらも、そう宣言した。
彼の言う通り私の口が語った通り、私はこの命を懸けて、鬼殺をしてできるだけ多くの人の命を救うことでしか、償えない。いや、そうまでしても贖罪には足りないかもしれない。それでも、死に逃げず、次の生に救いを求めず、苦しい道を突き進むしかない。きっと、そうしなければ、私が生きていていい価値なんてないと思うから。
立華ちゃんの名前が決まって鬼殺の決心がついた所で第一章「銘々起点」終了です。起承転結の起に当たります。長かった。特に今回一万字超えてしまいました……。
今後は幕間を挟んで二章に進みます。二章が一番長くなるかと思われます。二章開始までに少し間が開く可能性があります。今後は主人公二人以外の目線の話も読めますので楽しみに。