どう考えても、俺が三股疑惑かけられるのはまちがっている。 作:サンダーソード
きっかけは、昨日の一件の話し合いの中で由比ヶ浜がふっと言った台詞。
『なんでこの人たちヒッキーの三股を秘密にしてたことばらすみたいに言うんだろね? あたしたち別に隠してないのに』
これのおかげで気付いてしまったのだ。首輪つけた初回の日以来、奉仕部の外では殆どが一対一だったことに。精々がお互いの会話に出すか、然程も長くない移動時間で並んで歩いた程度。馬鹿げたラブレターの原因の一端もここにあるのではなかろうか?
うっかり血迷ってそんな話を一色に漏らしてしまったらどうなるかは目に見えてるよな。こうなるんだよ。
「ゆきのん、どうかなこの卵焼き。結構うまくできたと思うんだけど……」
「……ええ。非の打ち所がない、とまでは言わないけれど。十分、美味しく食べられる範疇に収まっていると思うわ」
「やったー! やったよヒッキー! いろはちゃん!」
「この喜びっぷりに元々の腕前が透けて見えますね……」
「ああ。本当に頑張ったと思うぜ。……すげーよな」
四人で机を寄せ合って、仲睦まじく食べる昼食。俺たちの賑やかな会話とは対照的に、周囲は静まりかえって俺たちの一挙手一投足に注目している。
ここは2-F、昼休みの最中。俺たちは満座の教室を舞台に、総出で演劇を繰り広げていた。
今日の朝、寝起きがあまり良くなかった。学校に行こうと靴を履いたら、靴紐が切れた。登校中、黒猫に横切られた。天気は良かったのだが、不思議と空は陰って見えた。
嫌な予感がしている。授業中から、比企谷も結衣もうっすら緊張しているように見えるのだ。時間を追うごとにそれは顕著になっていって、お互い視線を交わし合う回数も増えている。そう、ちょうど一昨日辺りの雰囲気に近いような。つまり、嫌な予感がしているのだ。
そして緊張がピークを迎える昼休み。一周回って落ち着いた様子を取り繕うことに成功している比企谷は、四時間目の勉強道具を机に仕舞って鞄をごそごそと漁っている。結衣は胸に手を当てゆっくり呼吸しながら、そんな比企谷をじっと見ていた。お目当てを見つけたらしい比企谷は、手首に巾着を引っかけてこちらに、というか結衣の方に向かう。
「結衣、行こうぜ」
「うん」
大分慣れたのか、あいつの誘い方も随分スマートになった。それでも毎回結衣は内心を隠さず嬉しがっている。……どう見ても恋人関係なのに比企谷の方は三股かけてて、しかもそれが公然で秘密にする気配の欠片もなく、当人たちにもなんの不満も見られない、って改めてわけがわからないけどな。その上雪乃ちゃんと結衣だけならまだしも、その中にいろはまで入ってるのは一体何があったんだ。
まあどうあれ、今日は彼らは部室に行くんならそれなりに穏やかな昼食にはなるだろう。優美子は寂しがりそうだが。彼女のアピールがだんだんエスカレートしてきてるのもまた悩みどころだ。想われること自体は嬉しくないわけじゃないんだが、応えられない以上心苦しさはどうしても残る。
できれば結衣には放課後一緒に遊んであげてほしいものだけど、当面はそんな余裕も取れな嫌な予感が瞬間的に膨れ上がった。二人が同時にポケットに手を伸ばしスマホを確認したからだ。
「あー……」
「どうする?」
「しょうがないし、一昨日とおんなじでいいかな?」
そんなことを話ながら、結衣がスマホの表面を撫でる。予感は確信に変わりつつあり、その二分後には確信が確定した。
「ごめんなさいね。今日は平塚先生が忙しいようで捕まらなかったのよ」
「やっはろー。気にしないでよ、しょうがないんだし」
「まー鍵がないと入れませんしね。誰が悪いってわけじゃないですし、そういうこともありますって」
ざわつく教室を一切意に介さず、雪乃ちゃんといろはが乗り込んできた。当然のように首輪付きで。
「教師は大変だな。やっぱ俺働きたくねえ……とは、さすがにもう言えねえけど」
「あら。こんな形であなたの思想の更生を目の当たりにできるとはね。ふふっ、平塚先生にはいい報告ができそうだわ」
「茶化すなよ。原因、分かってるんだろ」
「あたしは嬉しいな。……将来のこと考えるとさ」
「先輩、こんなこと言われてますよ。冥利に尽きるんじゃないですか?」
「……ノーコメントで」
……あれだ。なんだ。もうゴールしてもいいんじゃないかな、俺。よく考えたら俺が気をもむ必要なくないか? 当人たちがこの有様なら。望んでやってるってことだよな? つまり俺は自由だ。
……なんて器用に切り替えられたら苦労はないのかもしれないが。俺にそれは選べない。でもあの野郎一発くらい殴りたい……八つ当たりとは分かっちゃいるが。結衣に話しても躱されるばかりだし、いろはに頼んだ伝言の効果も未だに見られず、散々悩みながら雪乃ちゃんに送ったメールは梨の礫。……いっそ着信拒否されていなかったことに驚くべきか。
いつの間にか比企谷の席周りの机を並べて、四人はお弁当を広げていた。驚いたことに、全員が自作の品目を含むらしい。一対一の恋愛関係ですらああまでうまく行くことは稀じゃないかと思えるくらいには、彼女らの笑顔は満たされているように見えた。
……やっぱりどこかで一遍あの野郎から話を聞き出したいところだ。彼ら自身があの様だから噂の燃料には事欠かない。新旧問わずチェーンメールも回り続け、廊下側の窓からは以前よりも遙かに増えた通行人が確認できる。火種もガソリンも潤沢すぎる上に当の本人たちが積極的に火付けしている有様だから、俺の鎮火作業など焼け石に水もいいところ。奴にとってはお節介以外の何物でもないのかもしれないが、せめて何考えて何してるのかとどうあってほしいかくらいは聞き出したい。単純に押さえるにも限度が……なんて言っても、最初から一度たりと俺の制御下に抑えられたことなんてなかったけど。それでも漠然と抑え込もうとするだけの今よりは方向性が見えるだけマシにはなるだろう。そもそも抑え込まない方が彼らにとって都合がいい可能性もあるし、もしそうなら俺のやってることは邪魔にしかなってないってことになってしまう。それは避けたい。あと一発殴りたい。
現実逃避気味にそんなこんなを考えながら、俺は重い重い溜息を一つ吐いた。……昼食、入るかな。
美味しい楽しい昼食が一段落して、わたしは時計に目を向ける。昼休みはまだそれなりに残っていた。と言うより、意図的に時間を残したと表現する方が正確だろう。
実際ここまでだけでも十分周りに見せつけられただろうとは思うけど、本日のメインディッシュはこれからだ。以降のおままごとのために、予め各自の持ってくるお弁当の量を少なくしていたのだ。わくわくしますね。
「雪乃」
「? 何かしら」
向かいの席で談笑する雪乃先輩と結衣先輩に、深呼吸して気合いを入れ直した先輩が呼びかけた。手には柘植櫛。顔には笑顔。口には此度のキーワード。
「この前は手櫛なんかでやっちまったからな。……お前さえよければ、また、行動で示させてくれないか。――感謝を」
行動で示したい、と。まあ先輩が櫛持った時点で意図は明白だからキーワードもクソもなかったですねこれ。
「……ええ。よろしくお願」
「はいはいはーい! 先輩、わたしたちもやってほしいです! 叶うなら雪乃先輩より先に!」
だが雪乃先輩の受諾をわたしがここでインターセプト。今回の主旨は仲良く三股を見せつけることだ、と先輩には説明してある。みんなで一緒にやってもらうのだ。ふふ、みんなで一緒。先輩の嫌いそうな言葉です。
ま、悪いことしてるわけじゃなし。錦の御旗を掲げる陰で夜のおかずを回収したってバチは当たりませんよね。長く苦しいkonozamaだった昔も今ではすっかりamazonです。
「い、いろはちゃん」
「ぶっちゃけ結衣先輩もやってほしいでしょ? でもこと髪のことになると、さすがに雪乃先輩の後は辛いじゃないですか-。あの黒髪ロングは反則ですよ。あれと比べられちゃさすがに勝てませんもん。だから先輩、わたしたちを先にお願いします!」
そう言われてしまえば、結衣先輩も期待と不安を混ぜ合わせて先輩に視線を向ける。……たまに結衣先輩これが演技ってことを忘れてるんじゃないかと思うことがある。だってこれ全部織り込み済みで演じてますってんならこの人の天職女優ですよ。
「……俺としちゃもちろん、やぶさかじゃねえけど。雪乃がそれでよけりゃ、だが」
先輩は雪乃先輩の意向を伺う。伴って、わたしと結衣先輩の視線もそちらを向く。
「あなたたちも八幡くんの感謝を受けるに足るだけのことはしているでしょう。私はそれで構わないわ」
雪乃先輩は反則に艶めく髪を揺らし、頷いて許可を出した。いやほんとにあれはダメですって。最強すぎる。
わたしたちは並べた机を元に戻し、椅子を一脚だけ拝借して先輩に背を向けるように並べる。
「じゃ、先輩。よろしくお願いしますね?」
「おう」
最初はわたしだ。椅子の足を鳴らしてすとんと座る。その際にボイレコを立ち上げるのも忘れない。
今回の台本は三人とも同じことをしてもらうだけあって、差別化がキモだ。今からしてもらうことを考えるとわくわくが止まらない。
「じゃ……始めるな」
「はい」
先輩は丁寧に髪をくしけずる。ぶっちゃけイケメンにこれやってもらってるってだけでも相当昂ぶる。普通にお金取れるわこれ。
「少し痛んでるか? あんまり根詰めすぎるなよ。疲れたらちゃんと休めな」
「えっ痛んでるってマジですかショックなんですけど……あそうだ先輩今のでちょっとお願い思いついたんですが!」
わたしはぎゅるんと振り向いて先輩にキラキラとした視線を飛ばす。多分キラキラ。ギラギラまではしてないはず。
「お前、思いついたって……なんだ?」
「だから今の先輩の台詞で思いついたんですよ幽白知ってますよね! ほら分かるでしょ髪が痛んでるんですよ!?」
わたしがこれを言った途端、ガタッて椅子を鳴らして立ち上がった女子がいた。目の端で確認したらあの結衣先輩の友達の、えーと、そう、確か海老名先輩? が目を爛々に輝かせながらこっち見てた。
そう、これがわたしのやりたかったこと、演劇の中で別の役どころを演じる劇中劇だ。先輩がそういう演技もできるんだって周囲にアピールするため云々やっぱこれ嘘くさすぎますねええわたしがやってほしいだけです。
「あー……いや、確かに冨樫漫画めっちゃ好きだし印象的なシーンなら台詞丸覚えしてるけどよ……。あんなの俺がやっても面白いか?」
「面白いに決まってるでしょ誘ってるんですかその口塞ぎますよ!?」
「じゃ、いいけどよ……。いろは、前向け」
促されるまま、わたしはバッと前を向く。程なく、先輩の両の手のひらがわたしの髪をかき分けながら前に伸びてきて、わたしの首を包み込むように覆う。これだけでもちょっとクるものがある。
「……少々髪がいたんでいる」
首輪に当てた小指を支点に、他の指先は頬に触れるか否かのギリギリを演出する。背筋にゾクッとした震えが走り、それが直接的な刺激によらない快感であると遅れて理解する。
「トリートメントはしているか?」
耳元で囁かれる声は否が応でも劣情をかき立ててくる。というかもう言葉を飾らずに言うけどこの人エロすぎ。いやそういう風に仕立ててるのはわたしたちだけど当人の素質が半端ない。本気で恥じらいながらやってるのも花丸だわ。
「手入れは十分にした方がいい。人間はいたみやすいからな」
「ふわわわ……」
教室を視線で一撫ですると、誰も彼もがこっちを見ていた。そりゃそうだ。
すぐ隣にいる結衣先輩と雪乃先輩は顔を赤らめながら固唾を呑んで見守っている。翻弄されるわたしを自らと置き換えて想像しているのか、それとも自分の番のことを考えているんでしょうか。
さっき立ち上がった推定海老名先輩は、仁王立ちしたまま拳を突き上げ、燃え尽きたような笑顔で鼻血まみれになっていた。その隣で、三浦先輩はこっちを横目に見ながらウェットティッシュを何枚も乱暴に取り出している。逆側では戸部先輩が海老名先輩とこちらをくりかえし高速チラ見。葉山先輩はどこか疲れたような笑顔で冷や汗をかいていた。心なしか顔色も悪い。
少し離れたところではヤンキーみたいな人が顔を真っ赤にして食い入るように見つめてきていた。顔に太字の筆ペンで羨ましいって書いてますねあれ。ヤンキーでもこういうのはやってほしいのかぁ……。
他方、呆れたように片肘ついて含み笑いしているような人もいた。なんか爬虫類っぽい目してるなあの人……。この空気に飲まれてないとはやりおる。
とはいえそんな人はやっぱり稀で、クラスの大半が羨望か嫉妬を土台にしたような表情を浮かべてるように見える。ええ、わかりますとも。わたしも何も知らずにこんなん見せつけられたらそりゃねえ。
「……結構恥ずかしいな。こういうの」
今更何言ってんだ感アリアリの台詞ですけど、照れ笑いながら言ってるこの台詞がまたクソ萌える。これは勝てない……今のままではってなもんですよ。
「……よし、と。手櫛を通しちまったところも梳きなおしたし、こんなもんでいいか?」
「ふぁ? あ、はい。オッケーです。ありがとうございました。大満足ですよ花丸あげちゃいます」
「大袈裟だな。こっちの感謝を行動で示しただけだっての。じゃ、交替だ。――結衣」
「う、うん」
足にうまく力が入らなかったけど、それでもどうにか不自然に見えないようわたしは立ち上がった。まだボイレコを切るには早すぎるだろう。期待してますよ、結衣先輩?
あたしはドキドキしながら椅子に座る。前に部室でヒッキーの髪をいじったときのコトを思い出した。あのときはヒッキーが奉仕部を守ってくれたことが嬉しくって、でも抱きついたりするのが恥ずかしくって、それで……。
「結衣」
「えっ? あ、な、なに?」
思い出にひたってたら、後ろからのヒッキーの声に引き戻されてパッと振り向く。そうだった、今はおままごとの途中だった。うっかりしてるとみんなに迷惑かかっちゃう。
とはいっても、実はあたしの台本はあんまりない。……この前のやつがほんとに嬉しくって、ヒッキーのふっとした言葉がまた聞きたくって、そういう風にしてもらったんだ。
いろはちゃんは漫画の真似するからって台本をガチガチに固めてた。あたしはこうしたいって言ったら、むしろ逆に差別化にちょうどいいとかで簡単にオッケーがでた。……ヒッキーはちゃんと用意しろって反対してたけど。
「お団子、そのままでいいのか?」
「あ、そっか。このままだとやりにくいよね。ちょっと待って……ん、しょっと」
あたしの台本はここだけだ。下手するとヒッキーがずっとだんまりになっちゃうかもしれないから、って。最初のお話のきっかけに、髪をとかす前にシニヨンを解こうってことになった。
ヒッキーからもらった大事な大事なシュシュを手首に移して、お団子をほどく。しゅるりと音を立てて解放された髪が重力に従って落ちる。あたしは目を閉じてふるっと首を振って、少しクセのついた髪を一瞬だけふわっと広げた。
「これでいっかな。じゃ……ヒッキー?」
あたしの準備ができてヒッキーの顔を見ると、ヒッキーは眼鏡の奥の目を見開いてあたしを見ていた。ぽかんと小さく口を開けて、ほっぺもなんだかちょっと赤い。椅子いっこぶんの距離で見つめ合ってると、ヒッキーははっとしたみたいに目を逸らした。
「ヒッキー……?」
「あ、や、なんでも……。あ、いや……」
あわててクシを構えて、ヒッキーは口ごもる。でも、思い直したように首を振って、あたしから目をそらしたままぽつりと言った。
「…………髪、解くのに見蕩れてた」
ぼっ、と顔に火がつく。きっと多分、クラスに聞かせるためにすっごくがんばって言ってくれたんだろうっていうのが分かって、あたしもヒッキーの顔を見られなくなった。
「あ、ありがと……」
ガチガチになったまま前を向いて、髪をとかしてもらう準備ができたことをその言葉で伝える。
ヒッキーは何も言わずにあたしの髪に手をかけて、ていねいにクシを通しはじめる。お互いに何もしゃべらないままそれは続いて、最初は緊張していた手つきも時間が経つにつれてだんだん優しくなってくる。あたしもふわふわした気分になっていって、いつの間にか目を閉じている自分に気が付いた。
クセのついたところを引っかからないように挟む手がくすぐったくて、小さな笑いが口から零れた。ヒッキーは一瞬ぴくってしてあたしの髪を離しちゃったけど、あたしが気持ちいいって思ってるのがちゃんと伝わったのか、すぐにまたすくいなおす。
……あ、そういえば犯人探さないとなんだっけ。あたしは閉じた瞳を薄く開いて周りを見る。えーっと……。
なんか穏やかな顔してるゆきのんとかなりにこにこしてるいろはちゃんの向こうで、青い顔の笑顔した隼人くんに熱視線送ってる優美子がいた。がんばれ優美子。とべっちは姫菜をちら見しながらヒッキーの手元……クシかな? を使いたそうに見てる。姫菜はカタい顔でこっちしか見てないけどもうちょっととべっち見たげて? 大和くんと大岡くんはなんかもう信じらんないって顔してた。……そこまでだったかな。
離れたところでは、いつの間にかポニテをほどいた沙希がめっちゃ羨ましそうにこっち見てた。沙希もこういうの憧れるのかな。……ヒッキーは絶対渡せないけど。
さがみんは見てらんないって感じの半笑いだけど、夏祭りのときみたいな嫌な感じの空気はあんまり感じなかった。
彩ちゃんはヒッキーをにこにこして見てる。他のクラスメイトも、そんなにおかしな反応はしてないと思う。……犯人、わかんないや。あたしはまた目を閉じて、ヒッキーの手のひらにあたしを任せた。
気持ちいい時間はあっという間。お互いの息遣いと少しだけのふれあいのやりとりは、すぐに終わってしまった。……こんなちっぽけなやりとりがちゃんと通じ合えたのは、みんながあたしたちを邪魔しなかったからなんだろう。クラス中が静まりかえってあたしたちに注目してたのがよく分かる。
「ん……。終わりだ」
「ありがと、ヒッキー。とっても気持ちよかった」
振り向いて感謝を伝えると、ヒッキーはどぎまぎして目をそらす。それを見てるとなんだかあたしまで恥ずかしくなってきちゃう。
「じゃ、じゃあゆきのん、交替……」
「あ、あのだな……」
立ち上がろうとしたところを、ヒッキーの声に引き留められる。そのタイミングにあたしはびくっとして、椅子を鳴らしてまた座る。勢い、椅子が後ろにずれてヒッキーとの距離が少し縮まった。
「その……それも似合う、と、思う。いつものも悪くねえ、けど」
近付いた距離で聞こえた、たどたどしくつっかえながらのその声は、ヒッキーの赤くなった顔とあわせてあたしをとろかせる。
用意したお話のきっかけはお話のきっかけにはならなかったけど、別の形であたしに幸せをくれたのだ。
「待たせたな、雪乃」
「いえ、見ているだけでも悪くなかったわ。じゃあ……」
「ああ……」
私は着座して後、言葉少なに身を委ねる。この先に待つ展開を考えると、それだけで頭が心地よい熱で茹だっていく。
比企谷くんはわたしの髪の房を左の掌で掬い上げ、滑らせるようにその感触を確かめて。
「……ああ、やっぱり最高に綺麗だ」
「っ……」
これだ。これが私の台本の方向性。
私の黒髪を、比企谷くんに褒めちぎってもらうのだ。元々比企谷くんに髪を梳ってもらうこの演目は、私が密かに自信を持つこの長い髪の毛を見て一色さんが考えついたものだった。
「この前は俺の指なんかでやっちまったからな……。あんなんでも礼として受け取ってもらえたから」
台本の力を借りて、比企谷くんが真っ正面から相手の魅力を褒めそやす。つまり、いわゆる正統派。
「だから今度はもっと丁寧に、この、う、美しい黒髪を梳りたくてな。持って来ちまった」
そう言って、彼は柘植櫛で私の頬に軽く触れる。私は不意の快感を抑え込むために、今座っている椅子の天板を両手で握った。
「あ、あら。ひ、八幡くんは女性の黒髪が好きなのね」
「そう、だな。そうかもしんねえ」
比企谷くんの台詞を聞きながら丁寧に梳かされる髪の感触を味わう。長髪であるが故に、必然的に一度に梳る時間も長くなる。
「正に烏の濡れ羽色っていうやつか。古くから見返り美人図が好まれてきた理由も、これを見れば誰だって理解できる」
これが台本だと頭では分かっていても、比企谷くんの言葉に私の身体が反応する。背筋を通り抜けるのは快感の奔流だ。
「本当に……あー、普段から気を遣ってるんだろうな。っと……櫛を通していてもまるで引っかかりがねえ。俺の髪の毛と同じもんで出来てるとはとても思えねえわ」
「知らなかったかしら? 女性の髪の毛は男性のそれとは価値が違うのよ」
「知ってた、けど。今日で更に思い知った」
お互い所々で辿々しくなりながらも、二人の舞台は続いていく。彼の口から紡がれる賞賛に頭がくらくらしてきそう。
「…………」
背後からの台詞が聞こえてこない。……どうしたのかしら。次は「こんなんでほんとに礼になってるのか不安になる」なのだけれど……もしかして、台本を忘れたの?
……思い返せば、彼の辿々しさの種類が変遷している気もする。最初は照れからのそれだったのに、後半は純粋に台詞が出て来ないが故のものになっているような……。
「こんな艶やかな髪の毛になら、つ、繋がれてもいいって思えるんだろうな」
「っ!」
待ってちょっと待って待ちなさい比企谷くん。いきなりアドリブを投げるのはそれは反則というものでしょう。えっと、これは確か仏教の故事成語で……。
「……あ、あなたを繋いでおけるなら、丹念に手を入れてきた甲斐もあったと言えるかしらね」
女の髪は大象も繋ぐと、いやそうじゃないわ今私あなたをって言った? ここは意中の男性を、としなければ現状の雰囲気のみで押し通す演劇として偽証に……いえ偽証であるかは別にして言質の形になってしまうわね……。ただ犯人を勘違いさせるムードを出していただけと言い張れなくなって
「たとえようもなく綺麗で、絵にも描けない美しさっていうのはこういうのを言うんだろうなって思う。思ってた。いつも」
ひぃぅ……。だから待ってちょうだい私の心臓がもたないし耳が甘くて思考が一々止まってしまうから……。
一色さんと由比ヶ浜さんと先にこなしたお芝居と私にありったけ投げかけた美辞麗句、演劇の真っ只中で台詞を忘れた焦燥、そして止まってはならないという強迫観念。それが彼の枷を緩めたのだろう、きっと多分。
なんて頭の片隅で懸命に考えようとしているけれど、思いつく端から投げかけられる彼の賞賛に気もそぞろ。とてもじゃないけどいつものように気の利いたレトリックを言い返すなんて出来やしない。さっきみたいに遺漏するのが関の山。……だってこれ、こんなに余裕ない比企谷くんが必死で口にしているということは、敢えて褒め言葉を探しているという不純さはあるにしても――まちがいなく本音でしょう……?
散発的に背後から飛んでくる溢美の言に頭が茹だって目が回りそうになる最中、どうにか身を蕩かせることなく体裁を保とうと視線があちらこちらに飛んでいく。
セミロングのままの由比ヶ浜さんは微笑ましそうに私を見守り、一色さんは声もなく欣喜雀躍している。
三浦さんは自分の髪をまさぐりながらあの男に秋波を送っているが、肝心のお相手は腹部を押さえて机に突っ伏したまま。その横の海老名さんは強張った顔でこちらに注目していて、戸部くんは熱心にノートを取っていた。
青みがかった黒髪を解いた川崎さんは、自分の髪を手櫛で梳かしながらも比企谷くんの言葉に合わせてその身を震わせている。相模さんはそんな教室全体を見てにやにやと笑っていた。
かように情報は視界には入るものの、意識はほぼ全て比企谷くんの甘い賛美に奪われていてその分析がまるで出来ない。由比ヶ浜さんが喜ばしげに私を見守ってくれることが私を心地よくさせてくれる――というのが精々で、それ以外はもう目にしたものが目にしたもの以上の意味を保てておらず、何を意味するかも分からない。熱暴走でも起こしそうな意識が、自分が息を吸っているか吐いているかすらも曖昧にしていく。
「……よし、これで終わりだ。お疲れさん」
だから辛うじてその言葉の意味を掴み取れたのは一つの奇跡だったのかもしれない。咄嗟に体裁を取り繕って返事をする。
「はふ……んっ、ええ、ありがとう。改めて、あなたの感謝の気持ち、受け取ったわ」
「……雪乃」
「なにかし……っ!」
私の名を呼ぶ彼に振り向けば、慣性に従って広がる髪の毛。比企谷くんは舞い散る房を一掬い、口付ける。衝撃が私の体中を貫き、くらりと脳髄を揺らした。
「…………」
そう。すっかり一切合切完璧に何もかもが金甌無欠で抜け落ちていたけれど、これは台本にあった行為だったわね……。比企谷くんも、台詞とは別にある振る舞いだったから忘れなかったのでしょう。実際、その後に口にするはずの台詞も出てこずに、林檎のように赤くなって私を見つめているばかりなのだから。
「…………」
さりとて、言ってしまえば私も既に同じ様。真っ赤な顔と真っ白な頭で、羞恥と昂揚に狂わされたまま、昼休みの終わりを告げるチャイムに正気を戻されるまでずっと見つめ合っていた。
前言違わずこの上なく期待……もとい予想以上に重くした一発を結果的に作り上げた一色さんに感謝を抱き、さりげなく由比ヶ浜さんに支えられながら私は騒然とする教室を後にした。
……髪は女の命。大事にしましょう。これからもずっと。