ギルデロイ・ロックハートという隣人
ハリーから見て、ギルデロイ・ロックハートほど信頼できる隣人もいなかった。
ダーズリーたちと良好な関係を築きつつ、ハリーにも親切にする。この巧みな立ち回りをほんの1パーセントでもハリーに伝授してくれれば、生きるのがずっと楽になるのではないかとすら感じる。しかも、ハリーの10歳の誕生日に郵便でちゃんとしたプレゼントをくれた唯一の人物だ。
ただ、ペチュニアおばさんが「知的教養人の顔」と形容する、どこか遠くを見るときの表情だけは少し苦手だった。まるで、何か大切なものが抜け落ちてしまったような、あるいは深い傷を負っているような――
「ハリー。そろそろご家族が帰ってくる時間だ」
「うん。でも……」
ハリーは椅子の背もたれから身を起こして、読みかけの小説の背表紙を撫でた。まだここにいたいとわがままを言うほどの図々しさはなかったが、かといって言われてすぐに家へ帰るほど諦めているわけでもない。
ギルデロイの家はとても居心地がいい。棚にはダドリーの写真ではなく異国情緒のある置物が飾られているし、恒星の軌道を再現することができる天球儀という模型や、ずっと遠くの土地が書かれた地図、それにたくさんの本が置かれているのだ。
ハリーはその本を自由に読む許可を与えられていた。本に少しも興味を示さないダドリーは寄り付きもしないし、本を出している作家というダーズリー基準でしっかりした身分の隣人にハリーを押し付けられるならバーノンおじさんやペチュニアおばさんにとっても万々歳らしい。ハリーにとってここはオアシスだった。
それでも、ギルデロイは夕方になれば必ずハリーをダーズリーの家に帰らせる。家出は決して許さないし、ペチュニアおばさんが食事を用意しないようなことがあれば穏やかに、丁寧に、しかし淡々と保護者としての義務を諭す。バーノンおじさんも常識で語られるとぐうの音も出ず、必然的にハリーの生活環境は彼が越してきてから随分ましになった。
取材旅行で家を空けている期間が長いことだけがハリーにとっては残念だった。作家として世界中を巡っている彼は、突然いなくなっては突然帰ってくる。ダドリーはお土産にお菓子をもらえるから喜んでいるが、彼が旅行のたびに怪我を増やしているのをハリーは知っていた。
「それが気に入ったのかい」
ハリーは頷いた。『狼男との大いなる山歩き』は父を撃たれた人狼と子を噛まれた猟師が互いをそうと知らずに山の旅路を共にする物語で、軽妙ながらどこか暗さのある語り口がハリーをぞくぞくさせた。
時々、ハリーはギルデロイの小説が本当にあったことなのではないかとすら思ってしまう。しかし、そのことを彼に言うと少し苦しそうな表情をするので、ハリーはこの気持ちを内緒にしていた。一度だけ口にした時、「あるいは本当の出来事であった可能性も存在したのだろう」と不思議な返事があったこともそろそろ忘れつつあった。
「今どのあたり?」
「猟師のブライが崖から落ちて、人狼のウォーレンがそれを助けるために変身したところ。ウォーレンは死んじゃうの?」
「それを聞いてしまったらつまらないだろう?」
「うん」
「さ、栞を挟んで。明日、また放課後に来るといい」
ここが学校で、授業を教えてくれるのがギルデロイだったらどれほどよかっただろう。
ハリーは本にギルデロイからもらった栞を挟んで本棚に戻し、立ち上がった。窓の外はもう夕焼けを通り過ぎて夜の色を帯びつつある。
ダドリーが駄々をこねて遊園地に行ったおかげで、ハリーは一日読書を満喫できた。ダーズリー家の人、特にダドリーはパレードに少しも興味がないから、そろそろ遊び疲れて帰ってくる頃合いだ。
ギルデロイの机にちらりと目をやると、書きかけの手紙が置かれていた。羊皮紙の上等な便箋の上に羽根ペンで綴られた宛先は、ハリーにとって耳慣れない名前だった。
「アーマンド・ディペットって?」
「ん? ああ、お世話になっている先生だ。誕生日パーティーを欠席する言い訳に苦しんでいてね」
「パーティー……」
ハリーの脳内に「偉い先生たちのパーティー」のイメージが浮かび上がった。口髭を蓄えた大人たちがタキシードを着て、カクテルグラスを手に笑いあうのだ。ハンサムなギルデロイはそこに混ざっても違和感がない。
「行ってみたいかい?」
「うーん。ギルデロイは行かないんでしょ?」
「もちろん。私は人目を気にする性質でね」
くすくすと笑いあうこの時間のほうがアーマンド・ディペットのパーティーより楽しいことは間違いなさそうだった。
この調子なら、来週に控えた11歳の誕生日も楽しく迎えられるかもしれない。ハリーはそう期待していた。だから、帰宅した時に自分宛の手紙が届いていた時も、上機嫌のままだった。
サレー州 リトル・ウィンジング プリベット通り4番地 階段下の物置内
ハリー・ポッター様
それから激動の一週間を経て、ハリーは誕生日プレゼントとしては大きすぎる真実を明かされる。そのころギルデロイが恐怖に震えていたなどと、たとえ語られてもハリーは信じなかっただろう。しかし、すでに物語は始まったのだ。