ハリー・ポッターと慧眼のロックハート   作:海野波香

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むかしむかし

 心身ともにひどく疲弊していたが、使い慣れた転移術を失敗するほどではなかった。

 しかし、西アフリカのシエラレオネ共和国で借りた暖炉からサリー州の自宅へと飛行し、さらにそこからデボン州のオッタリー・セント・キャッチポールへの転移となると話は別だ。見慣れた窓明かりを目にした瞬間、彼の肩にのしかかった疲労感は重みを増した。

 ギルデロイは手書きの看板に寄り掛かって呼吸を整えた。何も食べていないのに嘔吐しそうだ。

 看板に記された「ヤドリギはご自由にお摘みください」という冗談にも思える真面目な親切心。旧友の温もりだけが救いだった。

 闇夜の中、半ば這うようにして庭を抜け、戸を叩く。

 

「――ギル、君が我が家に帰るときは決まって何かしらの傷を負っているが、癒者を駐在させたほうがよいかね」

「面目ない限りだが、皮肉に返事をする余裕もない。手を貸してくれ、ゼノ」

 

 家主、ゼノフィリウス・ラブグッドが小さく嘆息して杖明かりを消し、ギルデロイの腕を引いて肩を抱き上げた。それから杖を一振りして、ギルデロイの鞄を浮かばせた。

 

「また少し軽くなった」

「鞄が?」

「体が。あまり無理をするとルーナが泣くぞ」

「それは……困るな。私にはレディの涙が一番きく」

「なら気をつけることだ。パンとスープがあるが」

「いや、いい」

「ギル」

「わかったよ、スープをくれ」

 

 塔のような家に運び込まれ、椅子に安置されて、ようやくギルデロイは落ち着いて息をすることができた。二階から印刷機の音がする。今日も『ザ・クィブラー』は絶賛販売中。今月号はイラクサの茎の妖精トラプータ捕獲キットがついて1シックル。

 螺旋階段がどこまでも続く天井を見上げるうちにスープとしてはいささか香ばしすぎる匂いが漂いじめた。ラブグッド家の人々は一般と少し離れた味覚を有する。真の意味でレイブンクロー的な一家は実験と生活の区別がついていない。

 ゼノフィリウスの娘であるルーナもその気質を強く受け継いでいる。豊かな想像力とそこから前進する行動力は母親に似ている気もする。

 テーブルの上に極彩色の鳥が描かれたスープ皿が置かれ、そこに深い夕陽色のスープが注がれた。材料は不明だが、少なくともトマトではなさそうだ。

 

「さ、スープだ。私とルーナはもう食事を済ませた」

「ありがとう。鞄の中にミーンタイムブルワリーのビールが入っている」

「IPA?」

「ペールエール」

「そうか。まあ、手間賃にもらうとしよう」

 

 酸味と苦味の奥からえぐみが猛進してくるスープを口に運びながら、ギルデロイはゼノフィリウスがビールの王冠をマンゴーの形の栓抜きで外すのを見ていた。

 

「収穫はあったのか、ギル」

「ヨハン・ホフマンを捕まえた。覚えているか、1年下の」

「授業中に野イチゴを探して迷子になった彼か?」

「そう、彼だ。モーリタニアの山奥で隠遁していたが、予見者として協力はしてくれるらしい」

「朗報だな」

「ああ。それから……例の少年が入学許可証を受け取った」

 

 一瞬の沈黙を埋めるように風が窓を鳴らした。

 予言について、ギルデロイは可能な限り沈黙を保っている。それは協力者であるゼノフィリウスに対しても同じだ。ただ、破滅の予言があったこと、生き残った男の子と闇の帝王がそこに関わっていることだけは伝えざるを得なかった。

 つまり、ギルデロイ・ロックハートの破滅が一歩近づいたのだ。

 ちりちりと蝋燭の芯が囁いている。夜の虫が物悲しい曲を奏でている。茶褐色のボトルから炭酸の弾ける音が聞こえる気すらした。

 ゼノフィリウスが飲みかけのボトルをテーブルに置き、ずいとギルデロイの前へ押し出した。

 

「おい、こっちは死にかけだぞ」

「なら飲むべきは生命の水だ。アグリッパでも私と同じように言っただろう」

 

 真顔で冗談を口にする友に目で促され、ギルデロイは渋々ボトルを手に取って口に運んだ。強い苦味と炭酸が脳を刺激する。思考にかかった靄が消えていくのを感じながら、ギルデロイはビールを流し込んだ。

 飲み干してボトルをテーブルに置くと、ゼノフィリウスが小さく肩をすくめた。

 

「飲めとは言ったがね、私の取り分をもう少し残してくれてもよいのではないかな」

「鞄に入っている残りは好きに飲んでくれ。……わかっていてもくるものがあるな」

「まあ、ホグワーツが彼を取りこぼすはずもなかった」

「それはそうだが」

「今年ということは、ルーナから見て1年先輩になるのか」

「それはなんとも、愉快な時代になるな」

「ホグワーツ創設以来最も価値のある時代だ」

 

 親馬鹿具合に呆れつつ、ギルデロイは杖を一振りして鞄から手帳を呼び寄せた。

 この手帳はギルデロイが運命を回避するために必死で抗った全ての道のりと、今見えているあらゆる可能性を記したものだ。そしてその半分はラブグッド家の人々によって埋められている。しかも、その情報源には『ザ・クィブラー』の読者も含まれているのだ。

 手帳に書き殴った諸々の情報を整理しつつ、魔法で文字を整えて清書していく。今回はアフリカの魔法学校であるワガドゥへの訪問だった。

 

「ワガドゥはどうだった?」

「連中にとって運命は抗うものではないらしい。運命と一体化することで超越者になる伝説はあったが修行に100年かかる」

「ディペット先生に長命の秘訣を教えてもらうしかないな」

「どうせベリーの話しかしないだろう。ただ、向こうの戦闘術を短期集中で叩きこんでくれたのは収穫だった」

「襤褸切れになっている理由はそれか」

「男前が上がったと言ってくれ」

 

 ゼノフィリウスは鼻で笑った。

 1983年に予言の記憶を覗いてから8年間、ギルデロイはこのラブグッド家を拠点として世界中を飛び回り、生き残る術を探し続けた。そのほとんどが期待外れに終わったが、それでも徒労ではない。そう信じねば気が狂う。

 マグル界では小説家としてある程度自由の利く地位を確立し、魔法界では研究者崩れということになっている。自分にとって都合のいい身分を構築しているのは予言の中のギルデロイ・ロックハートと同様で、安泰になればなるほど砂上の楼閣であることを意識せざるを得ない。

 そんな中で信頼できる友の存在は極めて大きかった。だから、彼の雑誌に寄稿するくらいのことはなんでもなかった。

 

「雑誌の読者から何か情報は?」

「ギリシアにトルコ石色のワインで未来を見る占術師がいるらしい。2カ月前、自由市の火災を予言して対策を取り、すんでのところで串焼きの屋台から失火するのを回避した」

「ホットリーディングじゃないのか?」

「ホットリーディング?」

「調べておいた情報をさも占術で言い当てたかのように語るあれだよ。当代のトレローニーが得意な」

「ああ……。まあ、確定していない以上訪ねても損ではないのではないか」

「そうだろうな」

「明日には発つのか?」

「いや、数日イギリスに残る。ルーナと話したいし、あの少年にプレゼントを買ってやらねばならない。それに」

 

 ロックハートはちらりと戸棚の上に飾られた小さな写真立てに目をやった。

 

「パンドラの墓に挨拶をしたい」

「そうか。……そうだな」

 

 写真立てには3人の姿がある。テディベアを抱いて所在なさげに立つルーナ。その肩に手を添えるゼノフィリウス。そして、カメラに興味津々とばかりにこちらを覗きこんでいる女性。ゼノフィリウスの妻であり、ルーナの母であり、ギルデロイにとってはちょっとした天敵だった人だ。

 新呪文開発実験の事故でパンドラ・ラブグッドが他界して半年。

 事故の日、ギルデロイはチベットにいた。崑崙山脈の秘宝と仙人の伝説を調査していた時、ルーナに渡してあったシラセゼミの抜け殻がルーナの危機を知らせて鳴きはじめたのだ。のろまの僧侶に金貨を押し付けて煙突飛行ネットワークにねじ込ませ、全速力でラブグッド家へ帰ったが、そこにはパンドラの物言わぬ屍と意識を失ったルーナ、そして泣き叫ぶゼノフィリウスの姿があった。

 パンドラの死から生じた悲しみの気配はまだこの家から抜けていない。

 

「私とルーナも行こう」

「ルーナも?」

「あまり籠っていると健康に悪い」

「深すぎたんだよ、衝撃も悲しみも」

「父として、ルーナには健康であってほしいと思う。これはエゴか?」

「エゴだ。だが、親とはそういうものなんだろうな」

 

 幾分調子が戻ってきたことを自覚しながら、ギルデロイは手帳を閉じた。

 文字の配置を整えるインクと写真や地図を取り込む手帳はパンドラが発明したものだ。冷淡な言い方をすれば道楽でしかない雑誌の編集長というゼノフィリウスの活動は、経済面のほとんどを妻であるパンドラの発明によって支えられていた。

 

「まあ、親子でゆっくり話し合うのがいいだろうな。私も可能な限りで手を尽くす」

「すまないな」

「よせ。そこで謝られるといたたまれない」

 

 スープ皿を清潔にし、そのまま食器棚へ。明日からしばし羽休みだ。

 いつも借りている部屋でベッドに横たわり、ラブグッド家のBGMとしてすっかり馴染んだ印刷機の声を感じながらギルデロイは眠りについた。

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