母校に再び踏み入る際はもっとポジティブな理由を持っていたかった。ギルデロイはため息を笑顔で誤魔化して、久しぶりのホグワーツ大階段を上った。
学生時代はこの登山とアスレチックの複合施設的性質があまり好きではなかった。汗で髪が崩れる。しかし、今思えば魔法による怠惰の権利を獲得した魔法族にとって貴重な運動の機会であったのだ。戦闘訓練の経験が少ない英国魔法族が先の戦争を生き延びたのは、もしかするとホグワーツ城に与えられた健脚と優れた肺機能によるものなのかもしれない。
しもべ妖精に任せなかった旅行鞄が重い。気分はもっと重い。
ギルデロイは今からかつての友人と再会する。しかし、それは旧交を温めることにはならない。
「彼」の居室である執務室へとたどり着き、ギルデロイは扉をノックした。
「――ど、ど、どうぞ」
わざとらしい吃音。
弱者を演じるのは秘密を隠すうえでとても有効な手段だ。ギルデロイはメキシコで乞食のふりをした呪術師にマヤ文明の遺物を奪われかけたときにその有効性をよく理解した。
扉を押すと、ニンニクのにおいがギルデロイを包み込んだ。
「やあ、クィリナス。まだこの仕事に参っていないとは」
「……ギルデロイ?」
「いかにも。久しぶりだ、教授閣下」
机の向こう、書類の山を挟んで、見慣れないターバンで頭を覆ったクィリナス。ギルデロイの旧友だ。かつてはマグル学の教授であり、その前はレイブンクロー生としてギルデロイやゼノフィリウスの後輩だった。
彼はしばらく固まっていたが、ギルデロイが部屋に入ると慌てたように椅子から立ち上がった。
「ど、どうして? いや、なぜ?」
「君にとっては意外かもしれないが、友人を訪ねるというのはそれだけで訪問の理由になる。ちょうどイギリスに帰ってきたところでね。今、忙しいか?」
「あー、まあ、とても忙しい」
「なるほど。では土産だけ置いて早々に退散しよう」
床に置いた鞄から封筒を取り出す。受け取ったクィリナスがゆっくりと開き、目を瞬かせた。
ギルデロイが渡したのは楽譜だ。学生時代、ハープ奏者でもあるクィリナスは談話室の隅でハープを爪弾いていた。あまり寮に馴染めていないクィリナスだったが、彼の情感に満ちた演奏を嫌う生徒はあまりいなかったとギルデロイは記憶している。
ギルデロイはクィリナスに楽譜を送り、クィリナスはギルデロイに旅先の絵葉書を送る。卒業してから続いていた二人の縁はその程度だが、だからこそ続いていたのかもしれない。
「先日、ウイグルまで足を延ばしたものでね。向こうの遊牧民が昔から弾く曲だそうだ」
「なるほど。……なるほど」
吃音も怯えもどこへやら、クィリナスは楽譜に指を這わせて口先を鳴らしはじめた。
「これはあまりハープ向きではない」
「そうなのか?」
「バイオリンでやるのが一番いい。ハープでやっても音の重なりが出しづらい」
「そこは腕でなんとかしてくれ。仕事はどうだ? 防衛術に転科とは、思い切ったな」
クィリナスは弾かれたように楽譜から視線を上げると、目を泳がせた。
レイブンクロー寮で1年下の後輩として彼を見てきたギルデロイとしては、この男に防衛術の教授が務まるとは到底思えない。それどころか神経質で意地っ張りな性格は教師に向いていないと断言できるほどだ。
履修する生徒の少ないマグル学で半ば研究職としてホグワーツに籍を置いていると聞いた時は安心していた。しかし、今はどうだ。
「一応、私も最近は古代魔法の研究者として名が売れつつあってね。カリキュラム次第だが、何か資料が必要なら声をかけてくれ。もちろん、スピーチのトレーニングがご希望ならそちらも」
「あ、あ、その」
「忙しいところに押しかけて悪かった。元気で」
ギルデロイは鞄を持ち上げ、クィリナスに別れを告げた。
背後から別れの挨拶はなかった。
「……元気なものがあるか。なあ、クィリナス。何に手を出したんだ、お前は」
ギルデロイはいっそう重く感じる鞄を担ぎなおして、校長室へと向かった。
もし彼が助けを求めてくるのなら、ギルデロイは力を貸しただろう。しかし、そうしなかった。ギルデロイには助けられないと思ったのかもしれないし、助けを求めることすらできないのかもしれない。どちらにせよギルデロイは何もできない。そして、そこで寄り道している余裕もない。ギルデロイは自分の運命と戦うので精いっぱいだ。ギルデロイの杖は一本しかない。
「――チョコレートマフィン」
あらかじめ伝えられていた合言葉を唱え、ガーゴイルの石像に導かれて校長室へ。
「お待たせしました、ダンブルドア」
ダンブルドアはギルデロイを見て頷いた。そして、手を差し出した。ギルデロイは鞄を開き、一枚の石盤を取り出し、渡した。
「マヤ文明の託宣盤です。クィリナスに影響している存在について記されたはずです」
「見事なものじゃ。この叡智の一かけらでも儂に備わっていればのう」
「ご謙遜を。記号の対照表は必要ですか?」
「おお、幸いにして、読み解く程度であればそれほど困難ではない」
ダンブルドアは石盤の表面に刻まれた紋様を指でなぞっている。まるで盲人が扉を探すかのように、丁寧に、何度も。
やがてダンブルドアは石盤を机に置き、大きく息を吐いた。
「なんとも。いや、そうあるべきなのかもしれん」
「お聞かせ願えますか。聞きたくはありませんが」
「そうであろうとも。ヴォルデモート卿の霊魂じゃよ。彼の中でヴォルデモート卿が息づいておる」
そうですか、とギルデロイは小さく返事をした。
思ったよりも衝撃は少なかった。ギルデロイは蘇ったヴォルデモート卿の姿を知っている。なぜクィリナスがヴォルデモート卿の軍門に下ったか、そこだけが疑問だ。そして、彼を憐れむ気持ちがこみ上げない自分自身の精神状態についても。
「儂もお聞かせ願おうかのう。クィレルが闇に屈した理由について心当たりはないかね」
「特には。学生時代からその兆候があったとは思えません」
「そうであってほしいが、そうでないことのほうが多いのじゃよ、ギルデロイ。すべての物事には始まりがある」
「そして終わりも。彼の結末はどのように?」
「そこは儂が責任をもって対応すると約束しよう」
「結構。ご存知かもしれませんが、彼は悪人ではなかった。苦しみの少ない終わり方であることを願っていますよ」
校長室を辞去しようとしたとき、ダンブルドアはギルデロイを呼び止めた。
「ギルデロイ。正直に言えば、儂は君をまだ疑っておる」
「ええ、そうでしょう。自分でもこの立場は疑わしい」
「だからこそ、示してほしいのじゃ。君が闇に属さず、結社や組織に屈さず、悪に染まらず、儂とともに魔法界の未来のために尽力してくれることを」
「もちろんです。破れぬ誓いをお望みなら、そうしますが」
ダンブルドアは意外そうに眉を上げた。
破れぬ誓いは魔法界における最も古い契約のひとつだ。誓いに背けば死が訪れる。ただそれだけだが、それゆえに強力であり、残酷だ。
しかし、ダンブルドアの信用を命一つで買うことができるのなら、ギルデロイにとっては安いものだった。
「いつか、それを求める日が来るやもしれん。しかし、信じてみたい気持ちもある」
「光栄ですね」
「そう思ってもらえるうちは幸せじゃのう。ああ、それから」
ダンブルドアが羽根ペンとともに差し出した『イエティと過ごす一年間』に、ギルデロイは著者として快くサインをした。