塔より舟へ、聞こえていますか 作:ニューラル・コネクタ
───端末の電源を切った。
かつてのオペレーターの言葉を反芻する。
思考は極めて冷静、動揺とは程遠い。
そしてやる事は変わらない。
それが私の答えであり、ドクターへの対応だった。
別段、内容が気に食わなかった訳でもない。
かといって、その全てを知っていた訳でもない。
しかし、今それを知ってもどうしようもない。
…既に、ドクターは目覚めた後であり、そして指揮能力を発揮してしまい、多くの者が期待を向け始めた。
彼の記憶の一切は、消えた。
疑わしくはあるが、顔を合わせた時のあの反応からすれば、それは真実なのだろう。
…この状況すらも〝記憶を失う前の彼〟による作戦だとすれば、話は違ってくるが
意味のない仮定だなと思い、私はコーヒーを淹れる。
───熱湯を用意する最中、過去が頭をよぎる。
今からそれなりに昔の話。
あの時、彼はは疲れていたのか、袋麺を片手にこんな事を言っていた覚えがある。それも得意げな顔をして。
〝私は即席麺を食うのに椀もフォークもいらない。
口の中に乾麺、粉末、熱湯を注いで三分。
それだけで事足りるんだ、凄いだろ?〟
…あれは彼なりの冗談だったのか、それとも距離を縮めようとした結果なのか。
それとも…
今にして思えば、それきりだったのだ。
彼が私へ言葉をかけたのは。
そしてそれを契機に…死体が積み重なった。
「……………ああ」
何となく、自分の名札を見る。
そこに当然のことながら、は〝ロドス・アイランド医療責任者〟という肩書きの下に、
───どうしてか、これが今になって酷く苦しい。
あのオペレーターのメッセージは、現状を変える力こそ無かったが…私に「もしも」を考えさせる程度には、影響力があった。
もしも、本当に「助けて」という声だったら。
もしも、それが真実で、私が答えていたら。
塔が崩れることも、斬首の結末も───私と彼の関係も、何もかもが違っていたかもしれない。
───バベルの頃。三人で並び立っていた時。
その時の私達が、頭をよぎる。
「彼女」はいつも中心で、私達はその横に立っていた。
なのに私と彼には、手を取り合った経験も、深く言葉を交わした記憶も、無かった気さえしてしまう。
それほどまでに、溝は深かった。
そして近いのに、どこまでも遠かった。
「彼女」と言葉を交わす時の彼は、あまりにも遠いどこかを見通していたかのようだった。
そこには誰も辿り着けないんじゃないか、そう錯覚すらした。
怪物と化した時でも、その目はあった。
そしてそれは…記憶の無い今でも変わらない。
いや、それどころか常に〝あの目〟をしている。
誰も彼も置いていきそうな、遠い目を。
「───ッ…」
思い出して、吐き気が昇る。
必死に喉元を抑え、吐き気を殺す。
〝彼を怪物にしないでくれ〟
その言葉が私の頭の中で繰り返される。
…無知は罪だと言ったのは、誰だったか。
「…お前は…、……お前が」
崩れた塔、執行された斬首、流れた時間。
生まれたのは確かな断崖だった。
橋を渡すには、遅過ぎた。
だから、私と彼はこれしかない。
埋められない、深い溝しかない。
〝あの彼〟はもういない。
それでも、依然として此処に〝彼〟は居る。
分岐点があるというのなら、きっと今。
それでも、私達はこれで良い。
「…そう、これで良いんだ…」
〝同じ高さに並びながら、
見据えた先はあまりにも違い過ぎた〟
それが〝私達〟の総評に妥当なのかは分からない。
結局、もう元には戻らないのだから。
時計の針は、完全に止まった。
耳と目を塞ぐように、寝台へ倒れ込む。
アイマスクの代わりに、自分の腕を使う。
…表情を隠すにはおあつらえ向けだ。
…そうまでして、去来するのは…今になってから振り返る、どうにもならない過去ばかりだった。
その全てが良い訳でもない。
ただ、あの時こうしていたらと、そう考えてしまう。
「彼女」に支える者では無く、医者として、救える何かがあったのではないのかと。
もう遅いというのに。
今更都合がいいことに。
どうして、今になってなんだ。
彼は前しか見なかった。
違う、私達が前しか見させなかった。
そして彼は進み続けた。
全ての心を振り払いながら。
一人で歩き続けていた。
何も、誰も信じられなかったのに。
それだけが、克明になり続ける。
…本当に、胸が苦しい。
目を塞ぎたいと思った。
耳を塞ぎたいとも思った。
それでこの胸元の息苦しさが終わるわけもないのに。
いっそこの心が憎しみだけで成り立てば良かったのに。
そうなってはくれなかった。
「───〝君〟を嫌えたら、
忘れられたら、本当に楽だった」
もしも、何方かが歩み寄れていれば。
そんな事をずっと考えさせられる。
過ぎ去った後から気付くことばかりだ。
信頼しないし、されなかったのに。
今になって後悔ばかりが来る。
もう、それしか残っていないのに。
だから私は、君のことが〝 〟なんだ。
番外編
-
全てが終わった後のドクターの日記
-
全てが終わった後のケルシーの日記
-
全てが終わった後のアーミヤの日記