デスクにこれでもかというほど山積みにされた書類達。こいつらと親の仇を目の前にしたかのような形相で格闘し、ついに全部をさばき切った日の夕方。
僕は連日の仕事から解放され、糸が切れたように脱力してぎゅーっと目をつぶった。その瞬間、疲労感と達成感がじんわりと襲ってくる。多分、仕事のやりがいってのはこういう感覚のことを言うんだろうなーとかぼんやりと考えていた時だった。
急に何かに覆われたように視界が黒くなり、何も見えなくなった。
「うふふ、だーれだ?」
後ろから目元を押さえられ、右耳から脳にかけて甘く痺れるような声が響いた。その優しい声は疲労ですっからかんになっていた脳にまるで麻薬のような心地よさをもたらした。麻薬吸ったことないけど。
「んー、誰だろう。文香? それとも加蓮かな?」
「…………プロデューサーさん?」
少しからかってみたがお気に召さなかったようだ。一瞬、背中にドライアイスを押し付けられたかのような冷ややかなオーラを感じた。
「う、うそうそ! この心地よくひんやりしていて、それでいて包容力のある手! そして聞いてるだけで脱力してしまうような安心感を与えてくれるその声! まさしく僕の担当アイドルの佐久間まゆさんじゃありませんか!」
「うふ、正解です。まゆですよぉ♡」
命の危険を察知し即座に訂正すると、今度は聞くもの全てを安心させるかのような優しい声が返ってきた。
声色からご機嫌が治ったことを確認し、椅子を反転させて彼女と向かい合う。
まず目に入るのは赤の色彩。服や頭のリボン、左手首のリボンの色は僕の好みに合わせてくれているらしい。彼女の特徴的なたれ目と微笑みはいつも僕に安心感を与えてくれる。
佐久間まゆ。僕が担当するアイドルの一人だ。元々ロリータ系雑誌の読者モデルだったのだが、今は引く手数多の人気アイドルになっている。他のアイドルには見られないゆるふわな雰囲気と、まるで自分が堕ちてしまうかのような魅力が特徴的だ。彼女との出会いは少し特殊だったため最初はアイドルという仕事に対して消極的だったが、今ではやりがいを感じてくれていて346プロ全体で見ても有数の人気を誇るアイドルである。
そんなアイドルとして非の打ち所がない彼女だが唯一欠点……というか少し問題点がある。
「プロデューサーさん、お仕事お疲れ様です♪」
「ありがとう。まゆこそお疲れ様。今日は撮影だったよね」
「はい。いつも通りプロデューサーさんのことを想っていたら、最高の笑顔だって褒められちゃいました♪」
「あ、あはは。それは嬉しいなぁ」
そう。自分で言うのは恥ずかしいのだが実は彼女、どうやらアイドルの身でありながらプロデューサーである僕のことが好き、なのである。
嬉しいことなのだが、プロデューサーとしては少し複雑な気持ちだ。だってファンのための写真集に写ってるアイドルの笑顔が、全部プロデューサーに向けての笑顔なのだから。
コンビニとかで売ってる雑誌に載っている人気アイドルの笑顔を見て世の男性たちは元気を貰うわけだ。だが、そのアイドルがもし特定の誰かのことしか考えてなかったらどうだろう。仮に僕がプロデューサーじゃなく、一人のファンだとしてその事実を知ったらこの世の全てに絶望するだろう。僕がしているのはそれを黙認するようなことなのだ。心が痛む。
実は346プロでは恋愛は認められている。その経験がアイドルとして大きく成長させる要因になると判断されているのだ。その姿勢は、交際を認められたカップルに対しては事務所自らマスコミから守るという徹底ぶりである。
しかしいくら恋愛に対して寛大な346プロといえど、アイドルとプロデューサーの恋愛は認めていない。考えてみれば当たり前だ。それが原因でお互い仕事が疎かになる可能性が高いからだ。あくまでアイドル第一で考える事務所であるからの処置と言えるだろう。これらの理由があるため『今はまだ』まゆの気持ちに応えることは出来ない。
しかし、自分で言うのもなんだけど、まゆが一番輝いているのは僕のことを想ってくれている時なのだ。やめろと言える筈もない。ファンの人たちにも一番輝いているまゆを見て欲しいし、まゆ自身もそれを望んでいるだろう。
それでも恥ずかしいものは恥ずかしいのだが。
「んー? 少し失礼しますね」
なんて考えていると、まゆは急に顔を近づけてきた。普段感じることのない至近距離に動揺してしまう。
「じーー……」
じっと僕の顔を見つめてくる。彼女の吐息が頬に当たり、あと少しでキスしてしまうような近い距離にドキドキしてしまう。
「ど、どうしたの? 僕の顔に何かついてるかな?」
「プロデューサーさん、かなりお疲れですよね。目の下に隈が出来ちゃってます……」
まゆは心配そうに僕を見ている。たしかに、ここ数日仕事詰めでろくに寝ていない。アイドル達に心配かけないようにメイクしていたのだが、やはりまゆには気付かれてしまったようだ。
僕は心配するまゆを安心させるように微笑みかけた。
「そうだねぇ。たしかに最近は前より仕事が増えて忙しくなってきたかもしれない。でもそれってアイドルのみんなが頑張ってくれてるってことだよね。頑張っているアイドルを全力で支援する、それがプロデューサーとしての役割だと思うんだ。だからこの程度は全く問題じゃない。むしろ誇らしいくらいだよ」
まぁ適度な休養も大事だけどね、と付け足す。
最近急に仕事の量が増えた。といのも、僕が担当するアイドル達が同時期に人気が出たからだ。
つまり、ここが正念場。頑張り屋で、誰より輝いている彼女たちだ。ここさえ乗り切ればきっとトップアイドルになれるだろう。だからこそ、ここで妥協するわけにはいかない。
「プロデューサーさん……」
そんな意思が伝わったんだろうか。まゆは頬に手を当ててうっとりとした表情で僕を見つめてくる。
「でもやっぱり働き過ぎはお体に良くないですよ。プロデューサーさんが倒れてしまったら私たちも心配でお仕事に集中出来なくなってしまいます」
「うっ、それはそうだなぁ……。じゃあ今日はちょっとだけ休憩することにするよ」
「うふふ、そうして下さい。さぁ、プロデューサーさん、どうぞこちらへ」
そう言ってまゆはソファに座り、膝をぽんぽんと叩く。あれは膝枕をしてくれる、ということだろうか。
「さぁ、遠慮なさらず」
……まゆの笑みが深くなった。心なしか目のハイライトも薄れてきているような気がする。一体彼女は僕をどうする気だろう。
いや、考えすぎか。献身的な彼女のことだ。僕が疲れていることを心配して、単純に癒してくれるだけだろう。そうだと信じたい。
僕はまゆに言われるがままソファに向かい、彼女の膝の上に頭を置き寝転がった。
その瞬間、ガシっと頭を掴まれまるで万力のような力で固定された!!
「ちょっ、まゆ!?」
「うふ、うふふふ、うふふふふふ!!! 捕まえましたよぉ、プロデューサーさん。もう逃しません♡」
(ちくしょう! 結局こうなるのか!)
そんな僕の心の叫びなんて知ったことかという風に僕の顔をペタペタ触ってくる。
まゆが顔を近づける。さっきよりさらに近く。鼻と鼻がぶつかり、僕の視界は彼女の瞳の色で染まる。その瞳の瞳孔は開ききり、まるで自分が見えるものこそが世界の全てで、同時に相手の世界すら自分の存在だけで拘束するような気迫を感じる。
この状態になったまゆは誰だろうと止められない。
「はぁ、はぁ……! プロデューサーさんがこんな近くに。今、まゆがプロデューサーさんの自由を奪い、拘束しちゃってます♡ あぁ、だめです。プロデューサーさんは今とってもお疲れなんですから、まゆが癒してあげないとですね。うふふふふふ♡」
と言いつつも全く離れようとしないまゆ。少し、いや、かなり恐怖を感じた。
頭をホールドしていた手は優しく撫でるように変わり、甘えたくなる衝動に駆られる。
日本には『バブみ』という言葉がある。
世話焼きだったり、包容力があったり、年下でありながら母性を見出せる相手に対して抱く感情のことだ。これを求めるほとんどの男性は基本的に漫画やアニメなど創作物のキャラから摂取しているだろう。実際僕も前まではそうだった。
しかし今目の前で膝枕をし、優しく寝かしつけるように頭を撫でているまゆは現実。そう、僕は今リアルJK(十六歳)に対して本気で母性を感じているのだ! なんならおしゃぶりを咥えて本気で幼児退行したいとまで思っているほどであるッ!!
実際、眼前五センチくらいで瞬き一つもせず、穴が開くんじゃないかと思うくらい見つめてくるハイライトの消えた瞳が無ければそうしていたことだろう。奇しくもこの瞳孔の開き切った恐怖の瞳のおかげで僕は社会的な死を回避出来たというわけだ。感謝。
そうして僕はまゆに身を委ねて好きなだけなでなでされた。
十分ほど経っただろうか。ひとしきり僕の頭を撫で終えたまゆは徐々に落ち着きを取り戻し、僕もバブみ耐性がついてきた。今は急に襲ってきた眠気との戦いに勤しんでいる所だ。
気を抜けば閉じてしまいそうになるまぶたを押し上げようとするも、子供を寝かしつけるような慈愛のこもった手で撫でられてしまったら敗北するしかない。ま、まけちゃう〜〜。
まだ家に帰っていないのにここで寝てしまったら本気で起きられなくなる。せめてまゆが帰るまでは耐えなければ……。
「くす。うつらうつらしているプロデューサーさんもとっても可愛くて素敵ですけど、今はゆっくり休んで下さいね。いっぱいまゆに甘えていいですからね」
眠気に追い討ちをかけるかのように優しい言葉がかけられる。
あぁ、駄目だこれは。もしまゆに寝かしつけられて眠くならないような奴がいればそれはもう悟りを開いた仏くらいだろう。
M◯nsterとかz◯neを何杯飲んでもこの圧倒的なバブみの前では無力に等しい。
二十六歳プロデューサー、十六歳JKの圧倒的バブみに敗北しました! 脳内で敗北宣言をし、僕は意識を手放した。
翌日、あのまま事務所で眠りこけていた僕と、膝の上に僕を乗せたまま寝落ちしてしまったまゆがちひろさんに叱られてしまったのはご愛嬌である。
◆◇◆
すやすやと太ももの上で最愛の人が寝息を立てている。その無防備であどけない寝顔を見ていると、胸の奥からとめどない愛情が沸いてくるのを実感します。
「プロデューサーさんに会えて本当に良かった……」
まゆは昔からずっと夢を見ていました。いつか運命の人が現れて、まゆを幸せにしてくれるのだと。実際、プロデューサーさんと出会ったときに運命を感じましたし、今もその気持ちは変わりません。ただ、昔と変わったのは運命は絶対という考え方です。
プロデューサーさんが運命の人というのは間違いないけど、昔夢見ていた『まゆだけ』の王子様ではありませんでした。プロデューサーさんは素敵な人で、だからこそ彼に好意を抱く女性も多い。
まゆの運命の人だから。
それだけの理由で全てが上手くいくほど現実は甘くはなかったのです。
だからこそ、今この手で彼に触れられるこの日常は。まゆの太ももの上で気持ちよさそうに寝ているプロデューサーさんのお顔を眺められる日常は、きっと奇跡にも等しくてかけがえのない素敵なものなのです。
プロデューサーさんの寝顔を見る。まゆたちのために毎日頑張ってくれて、笑顔を向けてくれて、いつだって真剣にまゆのことを見てくれるその顔が愛しくて愛しくて愛しくて愛しくて愛しくて愛しくて愛しくて愛しくて愛しくて愛しくて……。
「プロデューサーさん、だーーーーい好きですよ♡」
ちゅっと、その額にキスをした。
唇を離してから、自分でも驚くような大胆なことを自然にしてしまったことに気付く。自分がしたことを自覚した途端にそれまで以上に鼓動が早くなり、顔が赤くなったのを感じます。は、恥ずかしい……。
んぅ、と声を出して寝返る姿も愛おしい。
さすがにまゆも勝手に唇を奪うようなことはしたくありません。それに口の方は出来れば起きてるときに、彼の方から求められたいし……。
そんなことを考えていると、プロデューサーさんが寝返りをうっていました。もしかしたら起こしてしまったのかも。
でも、そんな心配は次の瞬間に消え去りました。
「んんぅ、僕も……好きだよ、まゆ……むにゃむにゃ……」
代わりにまゆに大きな動揺を残して。
◇◆◇
後に事務室に入ってきた千川ちひろはこう語る。
「いやぁ、あれはびっくりしましたよ。だってまゆさん、私が入ってきたことにも気づかずにずっとプロデューサーさんの頭を抱きしめながら『大好き大好き大好き』って繰り返してましたから。そのままだと風邪引くからちゃんとお布団被って寝るように言ったんですけどやっぱり聞こえてませんでしたね」
あはは、と笑うちひろさんだが目が笑ってない。どうやらこの事務所には怖い女しか居ないようである。
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