突然だが、みなさんはASMRというものをご存知だろうか。
なんだったか、正式名称は忘れてしまったけど長ーい英語を略してASMR。直訳すると自立感覚絶頂反応、だったかな。某有名動画サイトで調べたら耳元で囁いたり耳かきをしてくれたりする動画が出てくるはずだ。
まぁ長々と説明するのもアレなので、イヤホンやヘッドホンをつけて聞くと脳がゾワゾワしたりして心地よく、非常に中毒性が高いということを分かってもらえたら良い。
さて、なんで急にこんな話をしだしたのかと言うと、マリアナ海溝より深ーい理由があるのだが、まぁ今の僕の状況を見て頂けたら分かるだろう。
「どうですか? プロデューサーさん、お耳の奥気持ちいいですか?」
耳かき棒で耳の奥らへんの壁をカリカリしながらまゆは問うた。
そう、ご覧の通り僕は再びまゆの太ももの上で寝っ転がり、好き放題耳を弄られているからである。
「うん、確かに気持ちいいんだけどさ、今一応勤務時間なんだよね。出来れば後にして頂けると「ふぅぅーーーー♪」んひゃあ!?」
そろそろ退いてもらおうとしたのだが、耳に息を吹きかけられた途端手足が痺れ思わず背中が反り返り、そして全身から力が抜けた。あまりの心地よさに脳が痙攣したような錯覚に陥る。
え、待ってこれヤバすぎ。人体って耳に息吹きかけられただけで無力化されるものだったの!?
「うふふ、そんな可愛らしい反応しながら言っても説得力ありませんよ? それにさっきのこと、まゆはまだ許していませんからね?」
なんか薄い本で見たことあるようなことを言ったと思ったら急に雰囲気が百八十度変化した。
さっきまでふわふわと雲の上にいるような感覚だったのに、今の一瞬で突然急降下し南極の極寒の地に叩き落とされたような感じだ。
そう、実は今(まゆからすると)許されざる行為をした贖罪の時間でもあるのだ。何をしたのかと言うと、それは一時間ほど前に遡る必要がある……。
◇◆◇
「よし、これでだいたい終わったかな」
山のようにあった書類が大方片付いたのを誇らしげに眺める。ここ数日、雪崩のような怒涛のお仕事ラッシュであった。
プロデューサーという仕事はマジで信じられないほど忙しい。特に346プロは大手なだけあってスタッフとアイドルの人数はとても多いのだが、代わりに精鋭の人材しか入社できないためプロデューサーの人数がとても少ない。
僕は運良く入社できたけど、今のプロデューサーは基本的にアイドル部門が設立される前からいた346のベテラン社員や外部からの引き抜きが大半である。こういう事情があって346のプロデューサーは仕事を離れることがほとんど無いほど忙しい。休日と呼べるものは年に数日程度で、担当アイドルが遠くにロケする時に付き添いで行くバカンスが貴重なリフレッシュである。
まぁ僕含めプロデューサーは全員仕事大好き人間かつ重度のアイドルファンであるため仕事が多い時の方がむしろいきいきしている節まであるのだが。
つまり、今僕が何を言いたいのかというと……
「いやーうちの子達案件持ってきすぎでしょ! どんだけ人気あるんだ! もー天才! 可愛い! アイドルの鑑! 仕事最高!!! 生きるって最高!!!!!!」
目の下に隈をつけたまま満面の笑みでくるくる回る男が一人。目に見えて疲弊してるのが分かるのに全身からイキイキとした活力を放出しているその姿は側から見たらシュール極まりないだろう。もし僕がそんな不審者見かけたら速攻で110番に連絡するだろう。まぁ僕のことなんだけど。
さて、ひとしきり回って満足した変態野郎がおもむろに取り出したるは普通より少し大きめのヘッドホン。
そしてそれを流れるようにパソコンに繋げ耳に当て、とある動画サイトでお気に入りチャンネルからライブの配信を再生した。
『みなさんこんばんはー。今日は来てくれてありがとう。お仕事やお勉強で疲れたみんなの癒しになれれば嬉しいな♪』
開いた瞬間音声が入り、耳元で囁かれているかのような感覚に陥る。
「あ゛あ゛あ゛あ゛!!! 疲れた脳にASMRは最高だなぁ!!」
そう、僕はここ数日ASMR動画を視聴することが趣味なのだ。
仕事柄ほっっっとんど休みがないの普通だから、どうしても疲れが溜まる。もちろん、それを苦に思ったことなんてないし、むしろ誇りに思っているまである。僕の仕事が多いということはアイドル達が頑張っている証拠だからね。
とはいえ疲れるもんは疲れる。これまた仕事柄、毎日可愛い女の子達と話すわけだから目の保養については困ったことはないのだが、精神的・身体的にはもはや疲れているのがデフォルトみたいになってしまってる状態だ。
そんな時に出会ったのがASMRだ。
最初は軽い気持ちだった。最近バーチャルアイドルなんてものが流行っているらしく、何か活かせることはないかと某動画サイトで色々検索していた時……。
(疲れた脳を甘く癒すよ♡ バーチャルアイドルひよりの快眠ASMR……?)
ゲーム実況や雑談に混じっていたそれは僕の目にかなり異色に映った。サムネも他とは雰囲気がまるで異なり、ふわふわした色に、優しげで包容力の感じる顔だったりと需要が他の動画と明らかに違ったのだ。
今思えば母性というかバブみというか、その子の雰囲気がまゆに少し似ていたから興味を持ったのかもしれない。
まぁ兎にも角にも、それが原因で開いてしまったわけである。新たな世界の扉を。
もうそこからは流れるように沼にハマった。ASMRを聞くたびに今みたいに弛緩しきったゆるんだ顔になり、とてもアイドル達には見せられないような顔になっているはずだ。
アイドルといえば、僕がASMRを聞いてるということがまゆにバレたらそれはもう悲惨なことになることが予想される。ヤンデレ気質である彼女にバレて五体満足で生還できる気がしない。
まぁでもバレるとしたら寝落ちした時くらいだろう。逆にいえば、寝落ちさえしなければバレることもないはずだ。そして僕は精神力に自信がある。ここから導き出される結論は一つ。
それは僕の精神力をもってすれば寝落ちなんかするはずなく、ましてやまゆにバレるなんてことは天と地がひっくり返ってもあり得ないということだ。勝ったな、ガハハ!!
「ねぇ、プロデューサーさん? これってなんですか?」
はい、寝落ちしました。更に一番バレてはいけないお方にバレました。お手本のようなフラグ回収、俺じゃなきゃ見逃しちゃうね。
完全にハイライトのお亡くなりになられた目で問い詰めるまゆ。一方僕はというと全身から冷や汗をダラダラ流しながら絶賛土下座中である。
「謝る必要なんて無いですよ、プロデューサーさん。まゆは、ただこれは何ですかって聞いているだけなんですから」
これ、というのは勿論パソコンの画面に映るバーチャルアイドルひよりちゃんとASMR動画のことだ。
どうやらまゆは僕が寝ている間に部屋に入ってきて、僕のヘッドホンでこの動画を見ていたらしい。寝ていたからどんな内容かは分からないけど、ここまで怒っているってことはかなりヤバいことを言っていたのかもしれない。『好き』とか言ってたら地雷でしかないだろう。
「プロデューサーはそんなにこの子に『愛してる』って言われたいんですか? まゆじゃダメなんですか? まゆなら、プロデューサーさんが望むならいつでも耳かきしますよ? なんでまゆを選んでくれなかったんですか? ねぇ、どうしてですか?」
そう言って無表情&無機質な声&無ハイライトの瞳で詰め寄ってくるまゆ。率直に言って怖すぎる。今この瞬間、これまで二十六年生きてきた中で最も恐怖を感じているかもしれない。正直ちびりそうである。
な、なんとかしないと。いくらヤンデレのまゆとは言えASMRが僕にとってどれだけ大事か伝えれば納得してくれるはずだ!
「待ってくれまゆ! これはASMRと言って疲れた脳を癒してくれる、僕にとって大切なものなんだ!」
「大切なもの……? まゆじゃその代わりは出来ないんですか? まゆがその『えーえすえむあーる』してプロデューサーさんを癒すことは出来ないんですか?」
「え、いや出来ないってことは無いこともないけど……」
「じゃあ今後はまゆがプロデューサーさんのために『えーえすえむあーる』の動画作るのでそれで癒されてください! ……他の子の聞いちゃ嫌ですよ?」
流れるような速さで約束を取り付けられた。もちろん肝が冷えるような脅し文句付き。
しかしまゆがASMRをしてくれるのなら、疲労に関する問題は完全に解決したと言って良いだろう。なんせ癒しの最新技術であるASMRとバブみの化身であるまゆのコラボレーションなわけだから。少なくとも僕はいくら疲れてもそれだけで完全に復活できる自信がある。
世間体とか僕のプライドを無視すればメリットしかない話だ。
「それではプロデューサーさん、こちらへどうぞ♡」
ソファに座り、太ももの辺りをぽんぽんと叩くまゆ。
あれれ? なんかデジャヴが……。
「今は時間がありますから初回限定で直接『えーえすえむあーる』させて下さい♪ でもプロデューサーさんが望むなら初回以外でも喜んでしますけど。なんなら、それ以上のことも……」
何やら可愛らしすぎることを言って僕の心臓を破裂させに来ているようだが、既にまゆの可愛さによって穴だらけになったマイソウルには致命傷にはならない。瀕死ではあるが。
と、このような経緯があり冒頭の状況に至るわけだ。
◇◆◇
「はーむっ♪」
「あばばばばばばばばばばば」
「ふふっ、プロデューサーさん可愛い♡ はむはむはむ」
「アッ(昇天)」
この子耳弄るの上手すぎない? ASMR一筋数十年の歴戦の猛者を彷彿させるプロの舌使いだ。
彼女の柔らかい唇が当たるたび体からごっそりと疲労がなくなっていくのを実感する。ついでに僕の理性もごっそり削られていく。
「あの、まゆサン。そろそろやめて頂かないと色々限界なんですけど」
「やです」
「ア、ハイ」
はは、取りつく島すらありませんでした。
しかしこの状況はまずい。今はプロデューサーとしての意地でなんとか耐えているが、いつ理性が崩壊するか分からない。もし僕がプロデューサーじゃなかったからとっくに理性なんて壊れて野獣のように襲っていたことだろう。
……出来ればしたくなかったが、ここは心を鬼にしてガツンと言わなければいけないようだな……!
「コラまゆ! いい加減にっ!?」
「あっ……」
心を鬼にしてまゆを睨みつけたのだが、寝返りを打ったあとにその近すぎる距離に気付いた。
目の前ではまゆが、驚いたように目を見開いている。少し開いている口が愛らしい。
鼻に吐息がかかる。まゆの甘い匂いが鼻腔をくすぐった。そして、それは僕の理性の限界を訪れさせるには十分だった。
まゆの目をまっすぐ見つめ、顎の下に手を添えた。
「ふ、ふぇっ!?」
「まゆ……いいよな?」
「ぷぷぷぷぷぷろでゅーさーさん!? そんな、まゆ達にはまだはや、いえ早くはないと言いますかむしろとっても嬉しいんですけど、あの、その、えぇっと……」
目をぐるぐると回して混乱するまゆ。そんな様子も可愛らしい。
「僕をここまでさせたのはまゆなんだよ? 今更謝ったって許さないから」
「あわ、あわわわわ」
「ほら、まゆ。目を閉じて」
「は、はいぃ……」
ぎゅっと目をつぶって瑞々しい唇が突き出される。その可愛らしい姿に頬を緩ませ、ゆっくり顔を近づけーーー
ピンッ
「あうっ!」
まゆのおでこにデコピンした。
なにが起こったか分からず頭に疑問符を大量に浮かべているまゆの様子に思わず吹き出しそうになる。
「ダメだよまゆ、そんなに大人をからかっちゃ。まゆは可愛いんだからちゃんと自覚しないといつか後悔するよ?」
「すみません……。でもまゆ、プロデューサーさん以外には絶対しませんよ?」
「いや僕相手でもダメだからね!? いつか取り返しのつかない事になるかもしれないんだから!」
「ふふっ、プロデューサーさんはいつか『取り返しのつかない事』してくれるんですかぁ?」
「しないって!!」
くすくすと目を細めて笑うまゆ。プロデューサーとしての矜恃を守る戦いは険しい道になりそうだ。
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