瀬流彦゜   作:ガビアル

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七話

 バスは独特の香りが充満していた。

 熟柿の臭い、とも言われるそれ。

 アルコールを摂取した人独特の甘い香りが生徒達を乗せたバス内からぷんぷんと漂う。

 

「何ともこれは……困ったもんですねェ」

 

 それはもう問題だろう。未成年の少女たちが修学旅行中に多数酩酊状態になってしまうなど。引率の教師どころか学校そのものの責任問題となりかねない。

 常の学校であれば、という話だが。

 引率の教師の一人でもある瀬流彦は内ポケットにしまい込んでいる発動体、鷹の羽根のペンに手を当て、口の中で何かを短く唱えた。

 バス内に吹く、小さな風、時に戯れるように吹き溜まり、時にはたゆたう、気紛れな風が段々と空気の中の臭いを消してゆく。

 

「さて、あとは……」

 

 自分の席に置いてあるトランクケースを開け、手の平大の符を取り出す。ありきたりなミネラルウォーターのペットボトルにそれを貼ると、一瞬の発光。符に込められた魔力が消え去り、その効果を発揮した。

 酔い覚ましの符、本来は人体に直接貼り付けることで効力を発揮させるものだったが、間接的な効かせ方を選択する。ペットボトルの蓋を開け、酔い覚ましの薬となっている水を風の精霊に霧状にしてもらい、バス内に充満させた。

 

「やれやれ、備えあればというやつです」

 

 魔法符のセットを買った時についてきた安価な符。瀬流彦もまさか初めて使うのが生徒達になろうとは思いもよらない事だった。

 バスの外では酒を飲まなかった生徒達が集まり、ネギ・スプリングフィールド、皆が言うところの子供先生が点呼を取ると同時に、事情説明をしている声が聞こえる。新田先生や源先生については、サポートに回るつもりなのだろう、口を挟まず見守っているようだ。

 ──前日にはしゃぎすぎて、疲れで寝てしまった。

 普通に無理のある筋書きだが、この3ーAならあまりおかしく感じない、と瀬流彦は少々の呆れを含んだ笑みを浮かべた。

 

   ◇

 

 嵐山にある旅館、季節次第では一面染まった赤い山が一望でき、あるいはもう少し時期が早ければ華やかな桜に彩られる風光明媚な地を見て楽しめるように作られている。

 その一室、修学旅行において割り振られた部屋の一室において、綾瀬夕映はどこかぼうっとした表情のまま、思考を巡らせていた。

 彼女は魔法の事を知っている。

 持ち前の好奇心、そしてちょっとの偶然により、既にそれがある事を知ってしまっている。

 新幹線内で起きた、急に車内に蛙が逃げ出すという珍事、京都に着いてからも続く、まず有り得ないとさえ言える、酒を使っての悪戯めいた騒動。

 通り過ぎている時は気にしないのに、ふと振り返って見てみると気付くような。

 

「……はあ。考えてみても仕方ないですか」

 

 ネギ・スプリングフィールド、神楽坂明日菜、二人には魔法について口外しない事を約束したものの、調べないとまでは言っていない。

 

「知らないものを知らないままにしておくなど、どだい私には無理な話でした」

 

 京都に着き次第目ざとく見つけた八つ橋スーパーリミックス、そんなジュースの刺激的なシナモンの香りに脳天を揺すぶられながら、綾瀬夕映は今後どう動くかを考える。

 

「ただ、目下のところは……」

 

 ちらりと部屋に敷かれた布団で心地良さそうに眠る友人を見、次に時間を確認して、そろそろ起こした方が良いかと思案する。

 

「ゆえー、のどかは起きた? そろそろお風呂入らないとだよ」

 

 言葉と共に同室の早乙女ハルナが襖を開け、入って来た。

 綾瀬夕映はジュースの最後の一口を啜ると、自身でも無意識に首をかしげ、言う。

 

「そうなのですが、これでもかというくらいに気持ちよく寝ているので、中々起こすのも良心の呵責が」

「んー、夕映は甘いねー、本人のためにならないっての、こういう時は容赦なく、呵責なく、慈悲なく! アーハハハ! 徹夜明けテンション漫研ボディープレースッ!」

 

 妙なポーズを決め、とうッという掛け声と共に宙に舞う早乙女ハルナ。

 

「──んゃ! ひにふはにゃへ!」

 

 混乱した猫のような声が上がった。ボディプレスの後、ぎゅうぎゅうと抱きしめられ、寝起きから即座にパニックに陥る友人、宮崎のどかに、夕映は内心で可愛い、などとも思いながら呆れ顔でもって取り繕い、頬杖をついて眺める。

 

「ハ、ハ、ハルナ!? あ、あれ、何で?」

「んーひひひ、眠り姫が余りに可愛いもんだからちょっと悪戯しちゃおうかと」

「ハルナ……手の動きが異様にその……オッサン臭いです」

 

 宮崎のどかの上に跨り、手をわきわきと動かす姿に綾瀬夕映は溜息を混ぜて一言。その下で未だ赤い顔をし、混乱さめやらぬ大人しい友人を落ち着かせるようにゆっくり言った。

 

「のどか、そろそろお風呂に入る時間です。起きられますか?」

「え、あ、あれ? 和室? ゆえ、えっと、何だか私、清水寺に行ったあたりから覚えがないんだけど……」

「それはもう少し頭が回るようになってからにしましょう、入浴時間も限られているのですし」

 

 不思議そうに和室を見回す宮崎のどかを解放した早乙女ハルナも、そうそう、と自分の荷物から着替えを出しながら言う。

 

「うら若い花の乙女がお風呂入らないで修学旅行二日目に突入なんて駄目だからねー」

「ハルナの言う通りです、なぜかお酒の臭いは消えているのですが……」

 

 もしかしたらネギ先生が何かしたのかもしれません、という言葉を綾瀬夕映は飲み込み、頭を一つ振り、自分も支度をしないと、と空になったジュースの缶をテーブルに置いた。

 

   ◇

 

 京都の夜は闇が深い。

 街灯に照らされ、深夜となっても営業する店や夜更かしをする人家から漏れる明かり。現代では、一歩先ですら何があるか判らない原始の夜はどこにも存在しない。

 それでもなおこの古都の夜。京都の夜風はどこか湿りを含んで重く、暗い。

 歴史の中に沈殿した澱みのようなものでも沈んでいるのか、あるいは人ではない魔でも潜んでいるのか。

 瀬流彦は漠とした不安、いわば虫の知らせ、とでも言うべき捉え所のない感覚を感じ、警戒のため、旅館の屋根に立ち、全方位を警戒していた。

 風の精霊にとりわけ親和性の高い瀬流彦は、あたかも己の体の一部を動かすかのように風の精霊を操る事ができる。

 否。操るなどとは生やさしいかもしれない。ただ瀬流彦が居るだけで、精霊が集い、その身の全てを委ねてしまう。魔法使いとしては三流もいい所ながら、この点のみは遙かに突き抜けているものがあった。

 その広大な知覚の中、よぎった姿に瀬流彦は頭を抱えて深い嘆息を夜気の中に吐いた。

 

「お猿……の着ぐるみですか」

『おさるさるー、どったのー?』

 

 風妖精のプーカが若草色のドレス姿でくるくる回る。

 季節柄、どうも脳天気になっている使い魔を半眼で眺めながらお仕事です、と瀬流彦は言い、次いでどこか困ったかのように頬を掻く。

 

「どうもやる気を削がれる見た目ですが……しかし盲点ではありましたね」

 

 旅館内に桜咲刹那が結界を構築したのを瀬流彦もまた確認していた。

 瀬流彦の魔法使いとしての活動範囲は海外か、あるいは魔法世界が中心であり、生家が近いながらも西の呪術関係については疎い。ただ勿論、麻帆良の近衛学園長は元来西が古巣でもあり、現在においても関西呪術協会とは連絡を密にとっている。

 むろん魔法使い側との提携を喜ばない者達についても既に把握しており、その内の主力の術師、中心となっている人物などは真っ先に関西呪術協会の長、学園長にとって婿にもあたる近衛詠春に抑えさせてあった。さらに言えば先だっての麻帆良の大停電時に併せて流布した噂により誘き出し、悶着を起こしそうな血気盛んな術者については捕らえてもいる。

 実質的に活動できるのは見習いなどの限られた人員のみ。桜咲刹那の修めた陰陽道、剣術の補助に過ぎないそれでも十分対処は出来る、と学園長自らが保証したのだ。

 

「上手くいけば、僕に出番なんて無いと思っていたんですが」

 

 楽は出来ないもんです、と一つ息を吐き、古都の夜空を風の精霊に包まれ、文字通りに飛んだ。

 

   ◇

 

 深夜と言うには少々早い時間。人払いの結界により人気の無くなった大通り、逃走ルートとして選んだそこを彼女は走っていた。

 ユーモラスな式神、デザインについては色々言われもするがお気に入りのものだ、その補助を借り、通常では出し得ない身体能力でひた走る。

 腕の中には呪術協会の長、近衛詠春の娘。

 天ヶ崎千草、彼女にとってはお嬢様、と呼ぶべき存在でもあり、旧来の風が残っている陰陽道の術者としては主として立てるべき筋の相手でもある。このように気を失わせ、連れさらうなんて言語道断だ。

 しかし彼女は躊躇わない。

 一応、関西呪術協会に所属してはいる。ただ、魔法使い側との協調の色を強める本家の意向が気に入らず、呪術協会の中でもとりわけ反魔法使いの色の強い派閥に属していたのだ。

 もっとも、彼女自身の事情もあり、その派閥の中でもまた腫れ物扱いではあったのだが。

 

「ふん……皮肉なもんや」

 

 ふと浮かんだ感情のままにそう言い、歪んだ笑みを浮かべる。

 彼女の属していた派閥は今や形を留めていない。情報で先んじられ、動きで先んじられ、あるものは麻帆良に拘束され、あるものは近衛家率いる主流の者らにより押さえられた。

 今や動ける者は天ヶ崎千草率いる、腫れ物扱いされてきた者達程度しかいない。腫れ物扱いだからこそ情報が少なく、見逃されたというものではあろうが。

 

「そやけど、これもまた天佑か」

 

 腕の中の近衛このか、莫大な魔力を持つ長の娘を見てほくそ笑む。

 油断していたのだろう、道中の悪戯めいた児戯、あの程度の悪戯を憂さ晴らしに仕掛ける事しか出来ない、そう思って、油断してくれたのだろう。

 思わぬ獲物を手にし、上機嫌に街路を走る彼女にいつしか併走するように小柄な影が近づいた。

 ちらりと見、馴染みのある帽子を目に留めると、警戒を解く。

 

「千草ねーちゃん、様子見なんて言っといてやる時ゃやるなあ」

「油断してくれはったからなあ、緩みは付けこめる時に付けこむもんや」

「付け込むんはええが、追ってきとるで。西洋魔術師も結構足速いわ、まだ一、二分は余裕があるけどな。それに神鳴流の剣士が一人と……クラスメイトか判らんが女が一人や。相手しとこか?」

「せやな……ちょい待ち。小太郎は女の相手は嫌やろ」

 

 そう言い、彼女は符を一枚宙空に投げると、それは燕と姿を変え、夜空を飛んだ。

 

「これで月詠はんも急行するはずや、神鳴流はちょっと厄介や、同流派同士でやってもらい」

「俺は神鳴流相手でも良かったんやけどなー」

「小太郎、仕事や。徹さんとあかんえ」

「わかっとるわかっとるって、ほな行ってくるな」

 

 軽い調子で地を蹴り、離れて行く少年を見ながら、彼女は大丈夫やろな、とどこか呆れたような溜息を漏らし、再び走りだす。

 その足が一歩を踏み出そうか、という時だった。

 

「なん……や?」

 

 何の前触れもなく、意識は遠のき、力を失った体はひどく呆気なく前のめりに崩れる。

 急速に闇に染まる視界の中、無表情に観察する底冷えのする目を見たような気がし、天ヶ崎千草は頭のどこかでぼんやりと失敗を悟った。

 

『相変わらずよく効くねー』

 

 プーカが小さな指先で眠るように昏倒している天ヶ崎千草の頬をつついた。

 

「気も魔法も熟練すればするほどその感覚に頼りがちですからね。種が割れればまず通じないでしょうが」

 

 瀬流彦は投げ出された形の近衛このかを抱え、何か呪的な措置がされていないかを探りながら言う。

 通じればよしと放った初撃、ある意味小馬鹿にしているとしか思えないその種は、瀬流彦の手の上にある小さな瓶、よく見れば魔法符のような細かい模様の刻まれたそれにあった。

 液体窒素。冷却剤、あるいは舞台のちょっとした演出にも使われるものだ。気化すれば七百倍にも膨張し無味無臭の気体、空気中の大半を占める窒素となる。

 天ヶ崎千草の昏倒の原因は酸素欠乏症のためだった。

 瀬流彦がやった事は極端に窒素含有率が高く、酸素濃度の薄い空気をそのままの形で天ヶ崎千草の口元に運んだという事のみ。もちろん、それはより自然現象に近く、魔力的な察知が困難になるよう、風の精霊に「お願い」して行った事なのだが。

 酸素濃度の薄い空気を呼吸するのと、呼吸を我慢するのとでは全く事情が違う。酸素濃度が極端に低下した空気を吸った場合、吐息より低い酸素濃度により逆に体内の酸素が奪われ、六%まで低下した酸素濃度の空気を吸えば一呼吸ですら人は昏倒し、場合によっては脳に障害が残ってしまう事さえある。

 

『漫画でもそんな技あったよね!』

 

 手を抜き手の形にし、空中でシュシュとシャドウボクシングじみた動きを繰り返すプーカに瀬流彦は苦笑を一つ返す。近衛このかにも付近一帯にも呪的な罠がない事を確認し終えると、倒れ伏す術者、天ヶ崎千草の容態を確かめた。

 

「……この着ぐるみは式神ですか。解き方は今ひとつ判りませんねェ。さて、どーしましょうか」

 

 妙にユーモラスな着ぐるみめいた式神に触れながら数秒考え込むと、ありきたりですが、と頬を掻く。

 追いかけてきたらしい幼い魔法先生と一般人からはちょっと程遠い二人が近づくのも感じ取り、近場のベンチに近衛このかを寝かせると、天ヶ崎千草を抱え上げた。

 

「プーカ、僕はこのまま関西呪術協会の本山にこの術者を届けてきます。あなたは結界で入れないでしょうし、先に旅館に戻ってて下さい」

『ええー、つまらないよ、暇だよ、あたしもいくー』

「……明日、柚子餅を買ってあげます」

『ピコリンあたしほど従順で大人しい妖精はいないから安心して! 留守は任せて! 柚子餅忘れないで!』

 

 るららるらと不思議な鼻歌を歌いながらくるくる踊り出す。

 調子の良いことで、と呟き、瀬流彦は静かに眠る近衛このかを一瞥し、その場を後にした。

 

   ◇

 

 月の朧な光を浴びながら、色の無い、無表情な少年は静かに郊外の広場で待っていた。

 ふと思いついたように、夜道を煌々と照らす自動販売機に近づき、暖かいコーヒーを買う。

 無表情のまま飲み下し、しばし味わった後、一気に飲んで空にする。

 

「……不味い」

 

 やはり顔を歪める事もなくそう呟き、缶を投げると、それは見事な放物線を描いて空き缶入れの穴に入った。

 

「遅いね。切られたかな?」

 

 思いついた事をそのままに言う。

 少年──フェイト・アーウェルンクスの立場から言えば不都合となればいつ切られてもおかしくないのだ。雇い主である関西呪術協会のある一派は本来西洋の魔法使いを嫌っている、麻帆良を相手に、同じ土俵でも張り合えるだけの知識が最初からあったならフェイトが関係を持つことすら難しかっただろう。

 予定を変更しようかとも思考し、規則正しく時を刻む広場の時計を眺めていたその目がふと揺れた。

 近づいて来る影がある。かなりの速さを以てだ。

 どうやらそれは彼にとっても多少の見覚えがある少年のようだった。

 犬上小太郎は荒い息をわずかな時間で整えると、フェイトに向かい吐き捨てるように言う。

 

「失敗や。千草姉ちゃんがやられてもうた。追っ手はすぐかかるやろ、早う逃げた方がええ。そんだけ伝えに来たんや」

 

 律儀にも、すまんな新入り、と言い残し、姿を消す。

 残されたフェイトは変わらぬ表情のまま、静かに目を細めた。

 

「確かに方法は少々ずさんだったけど、千草さんを捕らえる程の能力か、ナギ・スプリングフィールドの血縁とはいえ……いや。あるいは麻帆良の見えざる手かな」

 

 独りごち、懐から符を取り出す。地に水たまりが作られ、次の瞬間には既にその姿はない。

 静まった広場に、やがて玲瓏たる静かな声が響いた。

 

「転移したか」

 

 最初からそこに居たかのように、悠然と。影がいつしか実体となったかのように少女は姿を現した。

 金色の髪が夜の青に濡れる。

 その言葉に応える者の姿もまた、透明だった水に色がつくように隣に浮き出た。

 

「この時点での彼の足跡は多岐に及んでいる、幾つものプランを同時に進めていたのだと思うヨ。ここが失敗したなら次に行くのは当然だろうネ」

 

 フン、と童姿の不死者は鼻を鳴らした。

 

「これで確かに事件は速やかに収束した。修学旅行も最初の日程通り、つつがなく終わるだろうさ」

「ご不満の様子ネ、そんなにスクナを倒す無双の自分が見たかったのカ?」

「たわけ。それよりスクナそのものに興味があるな。あの時はとりあえず倒してしまったが、考えてみれば私より長生きにして現存している者というのも珍しい」

「千年は先輩だものネ。なんなら試しに封印を解いて話してみるカ?」

 

 黒髪の少女はそんな事をさらりと言い、時代にそぐわないスーツについた端末を操作した。

 二人の間に立体映像と思わしきものが浮かび、リョウメンスクナノカミ、飛騨の大鬼神の姿、そしてそれを縛る封印術式とその数値を映し出す。

 

「……ナギの奴もこんなデカ物にこそ登校地獄でもかけてやれば麻帆良が面白い事になっただろうに」

「学園長の寿命がガリガリ削られるヨ」

 

 少女は西洋の人形じみた顔を夜空に向け、月光浴を楽しむかのように目を閉じた。吹き抜ける風に金色の髪を一筋流しながら、静かに口を開く。

 

「後の事を鑑みるに、この修学旅行は重要なターニングポイントだったはずだ。ぼーやは己の力不足を知り、生徒の幾人かは魔法の存在を知った。人形の小僧もまた行方不明だった黄昏の姫御子の事を知る」

「ネギ坊主は仮契約もこの時何人かしちゃってるはずだしネ」

 

 さすがは我がご先祖さま、と剽げるように呟き、黒髪の少女は肩をすくめる。

 それに取り合う素振りもなく、どこか冷たさを胎む声は続いた。

 

「そしてだ、神楽坂明日菜の特異性を知られていないならわざわざ悪魔を送ってくる真似もするまい。ぼーやはぬくぬくと育ったまま、超鈴音の仕掛けた陥穽に落ちる事となる──いや、まて」

 

 何かに気付いたように、閉じていた目を開いた。

 そもそもの前提さえ違うとするなら、その未来軸はどうなっているのか。

 無言の問いを含んだ青い瞳が、黒い瞳を覗き込んだ。

 黒い瞳の少女はにんまりと微笑み、返す。

 

「そうヨ、この時点の分岐が違うとするなら、この世界の超鈴音は私とかけ離れていてもおかしくないネ。果たしてこちらの『私』が私のように強制認識魔法を起動させるつもりかどうか……」

「ク……面白くなってきたじゃないか。枝葉は似通っていても根が違うか。あの生きているがごとき赤い石といい、六百年以上も生きて目新しきものを見る事ができるとはな。で、どうするつもりだ?」

「こちらの私、と接触してみるネ。本来干渉は避けるべきとはいえ、この世界はちょっと気に掛かるヨ。歴史に対しての特異点同士なら歪みも少なくて済む。それに内実がかけ離れてるとはいえきっと私のコト、情報交換は拒まないはずネ」

「……ほう。まあいい、ただ私はしばらく物見遊山に徹するぞ。かつてのあの時は一日程度しか居られなかったし。この時期に京都を歩けるのは何とも気分が良いものだ」

 

 そう言い、現れた時と同じく、闇に溶け込むようにふらりと少女の姿が消える。

 残されたもう一人は苦笑を一つ浮かべ、夜空を見上げた。

 

「こちらでは完全なる世界の計画が出遅れるという事カ、はてさて、更なるファクターがあったとしても……ふむ。ネギ坊主が常に渦中にあるのは違いない、どこの世界でも苦労するものネ」

 

 春の風が木の葉を揺らす。

 その風に解けるように、残った一人の影もまた消えていった。

 

   ◇

 

 修学旅行は日程通りに無事進んだ。

 初日にあった悪戯めいた嫌がらせも、式神を用いた近衛このかの誘拐、鞘当て程度に襲撃を受けた夜以降ぴたりと収まっている。

 翌日には勇気を振り絞った宮崎のどかのネギへの告白、その夜起こった一騒動などもあったのだが、クラス一同は鬼の新田の名を深く心に刻んだ事だったろう。

 三日目の自由行動日、夜半、ネギが密かに親書を関西呪術協会の長に届けた時などは、長の近衛詠春は型通りに親書を受け取った後、改まって頭を下げた。

 

「この度はこちらの者がご迷惑をかけてしまい、申し訳ない。主犯格も反省させましたので、どうかお許し下さいませんか」

 

 ネギもまた、大の大人に頭を下げられると焦りを感じたのか、若干しどろもどろになりながら答える。

 

「あ、あの、はい、こちらも被害はあまり出ていませんし……」

 

 そんなネギを暖かい目で見ていた近衛詠春はふと笑みを浮かべた。若い頃に共に魔法世界を駆けた戦友、彼の父であるナギ・スプリングフィールドを思い出してしまっていたのだ。

 まるで似ていない性格なのに、なぜ連想してしまったのか、というおかしみを少々。

 一つ瞑目し、世代交代か、とどこか心の深い所で納得してしまうものをもまた感じていた。

 近衛詠春は目を開くと、緊張しているらしい少年と、相変わらず畏まっている桜咲刹那を見、安心させるよう柔和な顔を作りながら、このかの事ですが、と切り出す。

 

「あの子には自分で選べるだけの分別がつくまでこちらに関わらせるつもりは無かった……のですが、これも機というものかもしれません。刹那君」

「は……」

「君の方からこのかに伝えてあげてもらえますか。陰陽道を選ぶなら良し、関わるつもりもないならまた良し、と。そして、魔法の道を選ぶなら──」

 

 ネギ君、と呼びかけ、続ける。

 

「君に頼ませて頂けますか。むろん、麻帆良へは修行に来ている事も承知しています。君の負担にならない程度でよいのですが」

「え、ぼ、僕がですか!?」

「ええ、私と君のお父さん、ナギ・スプリングフィールドとは……そうですね、腐れ縁の友人、といった所でしょうか。そんな仲だったのですよ、若い時は共に馬鹿もやりました。そして子達が巡り会うならそれもまた縁だと思うのですよ」

 

 父さんの……と絶句してしまったネギに一つ頷くと、近衛詠春は桜咲刹那に向かって言う。

 

「このかがいずれの道を選ぼうと父さんは応援すると、そう伝えて下さい。それに」

 

 少し迷うように視線を迷わせ、続ける。

 

「それに刹那君、君もまた掟に従う事もありません。彼等には話をつけておきました。君は君で生きやすい場所で生きるのが良いでしょう」

「──そっ、それは長、私のお役目を解かれるという事ですか」

「役目などと……元より私の個人的な頼みです。ですが、引き続きこのかを守ってくれるのならば、この先もよろしく頼みます。刹那君、麻帆良は楽しい場所ですか?」

「……はい!」

「ならばよかった」

 

 目を細め、近衛詠春は頷いた。

 

   ◇

 

 修学旅行四日目、実質的な最終日は天気に恵まれた。

 クラス一のお騒がせ娘である朝倉和美が歩く時間すらもどかしいとばかりに走り回り、あちらこちらで記念写真を撮影している。

 

「おっ、瀬流彦せんせー! こっち向いて」

 

 などと廊下を通りがかった瀬流彦もまた記念の一コマとして写真に撮られた。

 慌ただしく去って行くその姿に、瀬流彦は元気ですねェと小さく苦笑を浮かべる、旅館の玄関を出ると、抜けるような青空が広がっていた。

 野の花々の間を楽しげに舞うモンシロチョウと戯れるようにフラフラ飛んでいるプーカが目ざとく瀬流彦を見つけ、どっか行くのー? と頭の上に着地する。

 使い魔と他愛もないやりとりをしながら、瀬流彦は待ち合わせに指定された甘味処へ入り、目当ての人物を捜した。

 

「や、こっちですこっち」

 

 向こうから気付いたらしく、奥まった座敷の簾を持ち上げ、普段着の近衛詠春が手招きをする。

 瀬流彦が座敷に上がる前に挨拶をすると、苦笑を一つ浮かべて手を軽く振った。

 

「なんの、堅苦しいのはやめにしましょう。本山で十分味わっている身ですから」

 

 瀬流彦を座らせると、店員が運んで来たお茶を静かに飲み、ここのわらび餅は絶品でしてね、と二人分……少し目を細めると、訂正し三人分を注文した。

 店員が去って行くと、近衛詠春は物珍しげなものを見たという顔になり、顎を撫でる。

 

「土着の小妖とも思えませんが、見たままに妖精のたぐいかな?」

「……気付かれましたか。昔拾ったんです、プーカ」

『あいあいー妖精始めまーしーた!』

 

 瀬流彦の頭から飛び、座卓の上でひらりと回り、ポーズを取る。

 言葉に困った様子の近衛詠春を見て瀬流彦は頬を掻く。

 

「……すいません、ちょっとこの時期頭のネジが緩んでいるので」

「ははあ、精霊に近いとも言いますしね、魔法世界ではたまに見かけたものです。勝手に頼んでしまいましたが甘い物は」

『大好き! 大好き! おじさん太っ腹ー、ピコピコも見習うべし!』

「何ですかそのハンマーみたいな呼び名は……」

 

 額に指を当て溜息を吐く瀬流彦を見て近衛詠春は愉快そうにハッハと笑う。

 公の場から離れた事で彼もまた気が緩んでいるようだった。

 やがて運ばれてきたわらび餅、ふるふると震え、重力に抗い形を保つのがやっととでも言いそうな、ぎりぎりの柔らかさのそれを一口頬張り、味わう。

 

「うむ……相変わらず良い仕事をしている」

 

 するりと喉に消えて行く食感に、頷きながら茶を一口。

 わずかに中身の減った茶を置き、懐から符を一枚取り出し、座卓の上に置く。

 軽い人避けと声が漏れないようにする結界符。

 発動した事を確認した後、近衛詠春は瀬流彦に頭を下げた。

 

「感謝します瀬流彦君。事が大きくなる前で良かった」

 

 公の場では頭を下げられない身ですがね、と言い、頬を掻く。

 どこか不思議そうに見る瀬流彦に近衛詠春は溜息を一つ吐き、説明する。

 捕らえた術者、天ヶ崎千草の計画は長である近衛詠春の娘、近衛このかの誘拐そのものにあったのだという。

 イスタンブール魔法協会を通じ、メガロメセンブリアのある議員に引き渡す予定だったそうで、もしそれが実行されていれば、関西呪術協会は魔法使いの側と衝突せざるを得ない。近衛詠春が抑えるにも限界があっただろう。

 

「……もっともある家の長あたりはより直接的にスクナの力を掌握しようなどとも考えていたようなのですが」

「スクナ?」

「ええ、聞いた事がありませんか? 飛騨で暴れた二頭四手の鬼神です。故あって昔ナギ達とこの地に封印したのですよ」

「それはまた……」

 

 何と言えばいいのか、とお茶を一口飲む。

 

「もっとも、そちらは封印を解くにも前もって準備が必要です、今回、割と早い段階で人を押さえていたのでそれは無理と判断したのでしょう」

「それで次の策としてメガロと……」

 

 近衛詠春は渋いような、どこか面映ゆいような複雑な顔になり、わらび餅を一つ口にいれる。

 

「ええ、クルトが最近、政治家として台頭しているようですからね。結びついている麻帆良の足元に火が付けばクルトの力も弱まる。そう考えた者がいたという事かもしれません」

 

 もっとも、と一泊を置いて続ける。

 

「攫われた後、このかの潜在魔力を知ればどう扱われたか……たやすく想像がつきます。親としても今回は礼を言わせてもらいたいのですよ」

「それを言うなら僕は引率の教師として付いていた身ですから、職分を果たしただけです。それに真っ先に動いたのはネギ君でした。それに友達である神楽坂さん、桜咲さんもです。あ、そういえば、この後生徒達も自由行動なのですが……」

 

 近衛詠春は、ええ、と少し嬉しげに頷いた。

 

「ネギ君には、その時間を使わせてもらって、ナギの別荘を案内する約束でしてね。今朝型連絡があったのですが、このかや友達方も一緒に来るそうで」

 

 やっと親らしい事ができます、と不器用なはにかみを浮かべる。

 少々の雑談の後、近衛詠春はふと思い出したかのように視線を漂わせ、そういえば、と切り出した。

 

「君は天ヶ崎君をどうやって拘束したのですか? いえ、秘する技術ならば無理にとは言わないのですが、あまりに彼女が暴れた様子がない、眠りの魔法などではよくある症状ですが、さすがに彼女も素人ではなく、そう容易くかかるとも……」

 

 瀬流彦はしばし考えた後、とりたてて隠す事でもないか、と手品の種を明かす事にした。

 聞き終えた近衛詠春は何とも、と呆れた顔をして言う。

 

「……空気を武器に変えましたか」

「ええ、一リットル千円でした」

 

 何かと言えば液体窒素の値段だ。お手頃な値段のもので倒されてしまった天ヶ崎千草が聞けば、悔しさを通り越して脱力感で立ち直れないかもしれない。

 そうですか、と近衛詠春は口の中で呟く。聞いてみれば瀬流彦の特性あってこその技とも言えるものであり、新技術でも何でもない。術者をあっさり昏倒させるような真似が誰にでも出来るようになったわけではないらしい。呪術協会の長としての安堵の溜息と共に、聞いた話を忘れる事にしたのだった。

 

   ◇

 

 窓に切り取られた風景が瞬く間に流されてゆく。

 京都に行く時とは打ってかわって静かな車内。生徒達ははしゃぎ疲れたようで、新幹線の静かな揺れに誘われ、夢の中に行ってしまっている。

 

「ふふ……ネギ先生もお疲れ様」

 

 そう言い、源しずなはずれ落ちた毛布をかけ直した。

 まるで恋人のように、あるいは姉弟のように、神楽坂明日菜に頭をもたれさせ、子供の先生が眠っている。

 

「いつもこのくらい静かであると楽なんだがなあ」

「ハハ、まったくです。ただ破天荒でなくてはこのクラスじゃない、なんて気もしますね」

 

 そんな教師陣の、生徒達を起こさぬようひそめた声を何となく耳に入れながら、超鈴音は皆に混ざり込むよう、寝た振りなどをしつつ、慌ただしく頭を働かせていた。

 彼女に、もう一人の超鈴音──渡界機なんてものを作り出し、平行世界を行き来する世界軸の違う自分が接触してきたのは三日目の夜、ネギ・スプリングフィールドが旅館を抜け出し、呪術協会へ赴いた時間と重なっていた。

(よもや、そこまでネギ・スプリングフィールドの末路が違うなんてネ)

 そして、と、もう一方の自分から聞いた、平行世界の辿った歴史、その未来を思う。

 超鈴音はかすかに自嘲するような笑みを浮かべた。

 彼女の記憶にある世界とは大違いだ。暖かく、優しく、実りのある未来。

 ただし、そこに行き着くまでの障害は大きく、重い。

 計画の見直しが必用か、と思いながら、ひそやかに訪れた本物の眠気に身を委ねる。

 かつて目に焼き付けた、赤く荒涼とした大地を思い出しながら。


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