モブ崎くんに転生したので、謙虚に生きようと思う   作:惣名阿万

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第6話

 

 

 

 ◆ ◆ ◆

 

 

 

 こちらをまっすぐに見据える瞳が緋色に揺れる。

 精神の内側を見通すという『眼』は今も『あいつ』を捉えているのだろうか。

 

「《魂結び》……。精神を切って繋ぐ、系統外魔法」

 

 加茂川に沿って続く遊歩道の一角。人通りもまばらな道に置かれたベンチの脇で、二つ年上の少女が口にした言葉を反芻する。

 

 燐が口にしたその魔法は、無数に存在する魔法の中でも極めて特殊なものだ。

 

 系統外魔法の中でも特に適性者が少ない精神干渉系魔法。

 とりわけ人間の精神を認識し外から手を加えるその魔法は、『魔法科高校の劣等生(この世界)』の主人公、司波達也の実母が有していた魔法によく似ている。

 

 《精神構造干渉》。

 司波(しば)深夜(みや)――旧姓、四葉(よつば)深夜(みや)が操ったその魔法は、世界で唯一彼女にだけ揮える才能だと語られていた。

 

 もしも彼女の特異魔法が司波深夜の《精神構造干渉》と同種のものだとすれば、彼女の言う通り『あいつ』を呼び起こすことができるかもしれない。

 

「その魔法を使えば、『あいつ』にこの身体を返せるのか?」

 

 俄かに湧き上がる期待をどうにか抑えて、実現の可能性と方法を問いかける。

 

「無意識領域に漂うもう一つの心を束ねて切り取って、意識領域に繋ぐことはうちの魔法で確かにできる。けど完全に身体を明け渡そう思たら、それだけじゃあかんと思う」

 

 しかし、燐は首を左右へ振った。

 願いを叶える方法があると、一度はそう言ったにもかかわらずだ。

 

 燐が緋色の瞳をこちらの胸元へ向ける。

 遠くを見る時のように目を凝らし、『森崎駿()』の精神を注視して続きを口にした。

 

「今のままやとシュンとの結びつきが強過ぎて、もう一つの心は精神から弾き出されてまうやろね」

 

「しかし、この身体と精神は本来『あいつ』のものだ。だったら当然『あいつ』の方が結びつきも強いはずだろう?」

 

 思わず表情が歪むのを自覚する。

 眉間に力が入って、気付いた時には一歩詰め寄ってしまっていた。

 

「シュンの知っとる別の世界ではそうやろね。けど、今この瞬間はそうやない」

 

 対する燐は動じた様子もなく、ゆっくりと瞬きをして目を合わせてくる。

 

「生まれてからずっと、表に出とったんはシュンの方なんやろ。そやさかい『森崎駿()』の精神はシュンの方に根付いとるんよ」

 

 反射的に違うと言いかけて、言葉が出ないまま喉の奥から全身に震えが広がった。

 

 ずっと探し続けていた『あいつ』の存在を知って、当たり前のように『あいつ』がこの身体と精神の所有者だと思っていた。

 『俺』がこうしていられるのはあくまでも『あいつ』が眠っているからで、目覚めさせることができれば自然とあるべき形に戻ると信じて疑わなかった。

 

 だがここはすでに『魔法科高校の劣等生(原作)』の世界ではない。

 原作を基にした、けれど原作とは違う世界であり――現実だ。

 

 あるべき形などない。本来の姿など関係ない。

 あるのはどちらがより長く深く『森崎駿』の肉体と精神に馴染んでいるか。

 

 だからこそ6歳で自我を取り戻した『俺』が先に主導権を握った結果、『森崎駿』の肉体と精神は『あいつ』ではなく『俺』に根付いてしまったのだと。

 

 彼女に言われて初めて、その可能性に思い至った。

 

「もう一つの心が無意識領域にあるんもそれが理由やろな。感情と意思を司る領域にシュンがおるから、行き場を失くした心は無意識の中に溶け込んどった」

 

 『俺』という存在が『あいつ』の目覚めを邪魔している。

 なるほど。言われてみれば納得だ。一人の人間に二つの人格は共存できないのだから。

 

 この状態を解消する手段はいくつかあるが、一つはパラサイトのように『俺』と『あいつ』が混ざり合うことだろう。

 ただパラサイトの例もそうだったように、『俺』が『あいつ』を呑み込んでしまう可能性があるという理由で、一つに混ざり合うというのは危険だ。

 人格の統合などという真似ができるのかどうかは置いておくとして、曲りなりにも7年を積み重ねた『俺』と眠っていた『あいつ』ではどちらに優位性があるかなど明らか。俺は『あいつ』に人生を返したいだけで、『あいつ』に成り代わりたいわけじゃない。

 

「何か方法はないのか?」

 

 おおよそ答えに予想を付けつつ訊ねる。

 燐は眉を寄せて視線を落とし、躊躇いがちに口を開いた。

 

「シュンが同じとこにおる限り、シュンに主導権があるんは変わらん。方法があるとすればシュンの心を眠らせるか、それか……」

 

「『俺』を消滅させるか、だな」

 

 明言を躊躇った燐の後を継ぐ。

 後のことを考えればこれが最も確実な手だ。

 

 『あいつ』を起こす代わりに『俺』が眠りにつく。確かにその方法もありだろう。

 だがそれだと万が一『俺』が目覚めてしまった時に、また『あいつ』を追いやってしまうかもしれない。一人分の場所に二人は居られないのだ。万が一の可能性はなるべく摘んでおくべきだろう。

 

 そして精神を切断することのできる燐ならば、きっと――。

 

「…………」

 

 眉間に皺を寄せたまま燐は何かを堪えるように口を引き結ぶ。

 本当に、この三日間で彼女はすっかり表情が豊かになった。

 呑み込んだ想いもなんとなく解る気がして、自然と口元が緩んでしまう。

 

「仮に身体と精神を『あいつ』に返すことができたとして、『あいつ』の意識はどんな状態になるんだ? 何も知らない、生まれたばかりの子どもになるのか?」

 

 せめて気を紛らせられるようにそう訊いてみる。

 実際、俺自身も気になっていることではあった。首尾よく『あいつ』に譲ることが出来たとして、当の本人がまっさらな状態では困ってしまうのだから。

 

 幸い、その想像は杞憂だったらしい。

 

「無意識いうても同じ精神の内やから、なんにもわからん()()()にはならんと思う」

 

 顔を上げた燐は僅かに表情を緩めて首を振り、目を閉じて細く長い息を吐いた。

 額には汗が滲んでいて、顔色にも疲労が浮かんでいる。精神を視通す『眼』とはそれだけ負担の大きなものなのだろう。

 

「つまり、記憶は残るということだな?」

 

 深呼吸が終わるのを待って問いかける。

 再び瞼を開けたとき、彼女の瞳は元の黒色に戻っていた。

 

「……記憶しか残らんのよ」

 

 開いたばかりの目を伏せて、燐はほんの小さく呟いた。

 消え入るような声には寂しさが覗いていて、内に抱えた本音を窺い知ることができた。

 

「それだけわかれば十分だ」

 

 鳩尾に熱が広がる。こんな『俺』でも惜しんでくれる人がいるのだと思うと、生き残ったのも無駄ではなかったとつい感じてしまった。

 

 後悔は変わらず、罪悪感も消えない。

 やり直しが出来るのなら、俺はきっと生まれたばかりの『森崎駿』から『俺』を締め出すだろう。

 それだけで『あいつ』も『桧垣ジョセフ』も本来の人生を全うできたはずだから。

 

 けれど、もしも――。

 

 もしも、心を閉ざしていた燐が『俺』との出会いをきっかけに変われたのだとしたら。

 生きていてもしょうがないと諦めていた彼女が、少しでも前を向く理由になれたのだとしたら。

 『俺』がいたことで一人でも笑顔になれる人が増えたなら、『俺』が生き残ったことにも少しは意味があったのだと、そう思える気がした。

 

 だから、『俺』にもう悔いはない。

 『あいつ』に『森崎駿(この人生)』を返せるのなら、思い残すことは一つもない。

 

「その魔法、ぜひやって欲しい」

 

 余計な感情(モノ)は残さなくていい。

 罪悪感も願いも、この想いすら残す必要はない。

 記憶さえ残っていれば、『あいつ』はきっと問題なく生きていける。

 

「ほんまにええの? 最悪、シュンの意識はのうなってまうんよ?」

 

 迷うことなく頷く。

 

「一度終わったはずの命だ。貰った人生を返せるなら、この機会を逃す手はない」

 

「――わかった。そういうことなら、うちはシュンの願いを尊重する」

 

 こちらの反応をどう解釈したのかはわからないが、彼女はそう言って頷いてくれた。

 黒く澄んだ瞳には何かを決意したような色が宿っていて、そんな彼女が差し出す手を握るのに迷いも躊躇いもあるはずがなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ● ● ●

 

 

 

 【西暦2093年8月8日深夜 京都市下京区】

 

 故郷の街を巡る時間は瞬きの間に過ぎていった。

 

 道行く人の波も。活気に満ちた通りも。様々な趣を持つ景色も。

 目に映るすべてが新鮮で楽しく、日を追うごとに関心は高まっていった。

 知識として把握していた名所も実際に見て回ると感慨は一入で、隣にシュンがいることであらゆる時間で幸福を感じていた。

 

 宿泊先へ戻ってからも話題が尽きることはなく、日付が変わる手前まで談笑は続いた。

 ようやく年少の少年を解放した後、燐は暗い部屋で自らの胸の内を(ただ)す。

 

 シュンの願いを叶えるために、特別な魔法を使うと決めた。

 14年の歳月で根付いた精神をシュンから切り離し、無意識領域に漂うもう一つの心へ繋いで意識領域に固定する。

 

 人らしい感情を取り戻した今、それは燐にとって最優先事項だ。

 同時に憧れだった人の世界を見せてくれたシュンへの恩返しでもある。

 たとえシュンが自らの消滅を望んだとて、それが彼の願いであれば躊躇いはない。

 

 結果、自身の命を削ることになろうとも。

 

 この魔法に副作用があることを伝えてはいない。

 すべてが上手く運んだとしても伝えるつもりはない。

 本来なら『禁術』に当たる魔法だと、それすらもシュンには明かしていない。

 

 《魂結び》が禁術である所以。それはこの魔法が命を削って揮われる奇跡だから。

 

 この禁術で人の精神に触れる時、術者は自らの生命力――『幽体』を構成するプシオンを消費する。

 サイオンではなくプシオンを用いるが故に、燐は自身にプールされたプシオン、即ち幽体を消耗していくことになるのだ。

 

 幽体は人間の肉体と精神を繋ぐ回廊であり、人間の活動に必要な生命力そのもの。

 生命力の損耗は著しい衰弱をもたらし、回復不能な域に達すればいずれ死に至る。

 サイオンの消耗であれば疲労に繋がりこそすれ命に影響を及ぼすことは滅多にないが、生命力の消耗は直接命にかかわる大事だ。

 

 事実《魂結び》の才能が判明した際、過度な使用は命に関わると分析された。

 たとえ生き残れたとしても使用するごとに生命力を消耗し、やがては力そのものを失うだろうと。

 

 このことをシュンが知れば、燐を案じて使うことを躊躇うに違いない。

 シュンの願いを叶えるに当たって、それは障害にしかなり得ない。

 

 『炯眼』で内側を視通すたび、その想いは強くなっていった。

 

 

 

 少年(シュン)の心に視えたもの。

 

 強い苦痛、激しい後悔、深い絶望、消えることのない罪悪感。

 

 より良い世界になることを願った結果、取り返しのつかない過ちを犯した。

 度重なる拷問で心と身体を痛めつけられ、自らの為に恩人を死なせてしまった。

 

 自死を望むほどの後悔と絶望に苛まれ、けれど罪悪感がそれを許さなかった。

 居場所を奪った自分が、身勝手に終わらせることなどできなかった。

 

 

 

 死ぬために日々を過ごしていた燐にとって、少年の存在は暗闇に揺れる灯りだった。

 

 決して眩いものではない。今にも消えそうな、儚く小さな灯り。

 

 抱いた夢を無残に引き裂かれ。大切なものすら自らの失敗で喪って。

 罪悪感と後悔、深い絶望に押し潰されながら、それでも誰かの為に戦い続けていた。

 

 己の運命と罪に向き合い続けるその精神に、つい情を抱いてしまった。

 固く閉ざしていた心が開いたのは、そんな憐れみに似た憧れが理由だ。

 死に向かうだけの運命と向き合い、自分に出来ることを探すために。

 

 だからこそ、自分の力がシュンの願いの役に立つと知って奮い立ったのだ。

 

 ずっと発揮できずにいた力も今なら扱える確信がある。

 何故かと問われれば判然とはしないものの、心を閉ざしていた時には掴めずにいた感覚が今の燐にははっきりと捉えられていた。

 

 懸念があるとすれば、この魔法が使えることを知られてはならないということ。

 特に祖父を始めとした一族の人間に知られれば最後、燐は二度と人としての生活を送ることはできなくなるだろう。

 

 《魂結び》とは精神を断ち、繋ぐ術法だ。

 

 精神とはプシオン情報体であり、そこには幽体や妖魔も含まれる。

 精神を断つ魔法を操ることは即ち、妖魔を断ち切る力を得たと同義。

 

 現代魔法学において系統外魔法に分類されるこの力は、彼女の一族が数百年に亘り待ち望んでいたものだった。

 

 

 

 

 

 

 一族の悲願。それは斬れぬもののない刃――『神剣』を鍛えること。

 

 現世(うつしよ)に在る物質はもちろん、目に見えない遍くをも断つ力。

 人の操る術法も、幽世(かくりよ)揺蕩(たゆた)う妖魔も、自然の具現たる神霊すらも斬り伏せる刀。

 

 総てを断ち斬る(つるぎ)

 

 それこそが『神剣』であり、一族が1000年もの間追い続けてきた刀匠の極致である。

 国の主導する魔法技能開発に加わったのも、この頂きへ至るための一環に過ぎない。

 

 求めたのはとある古式の流派だけが伝えていた、術そのものを触媒に焼き付ける技法。

 これに目を付けた二代前の当主が国の魔法技能開発に参加し、天狗術のノウハウを明かす対価としてこの技法を会得した。

 

 人間の持つ固有魔法を焼き付け、特殊な性能を有する『玉鋼』を精製する手段を得た彼らは、この時点で悲願達成に王手を掛けることとなった。

 その過程で幾度か家名を変える必要に迫られたものの、元より姓に拘りのない彼らにとって数字の有り無しなど些事に過ぎなかった。

 

 『九佐薙(くさなぎ)』にしろ『久沙凪』にしろ、思い入れのあるものではない。

 一族の目的はあくまでも『神剣』に相当する刃を打つことであり、それが神話に由来する『草薙剣』である必要はない。

 ただ『神剣』の鍛造において『クサナギ』という響きに所縁があったというだけ。なんとなれば『アマノ』でも『フツ』でも構わなかった。

 

 長い研鑽の末に術を斬る技は完成した。

 力を『鋼』に込め、刃を生み出す技術も会得した。

 あとは『鋼』の素材たりえる術の持ち主が現れるのを待つだけ。

 

 そうして初代から数えること、およそ1000年。

 長きに亘って待ち望んできた存在(素材)がついに誕生した。

 

 術理の全てを修めた最高傑作たる()と、求めた力を身に宿す最良素材たる()

 

 兄妹の才能と成長は、必ずや一族の悲願を成就させるだろう。

 

 何度となく繰り返されてきた文句は、今や警告となって燐の脳裏に響いていた。

 

 

 

 

 

 

 夜陰に浮かぶ街明かりを見下ろして、燐は眉を顰める。

 もしも燐が《魂結び》を扱えると知れば、祖父はすぐにでも自分を連れ戻そうとするだろう。捕らわれれば最後、二度と屋敷からは出られまい。

 

 『鋼』に成る準備が整ったとなれば、きっと兄も呼び戻される。

 燐の意思など関係なく、すぐにでも儀式が行われるに違いない。

 

 闇に浮かぶのは『鋼』に成った自分と、それを振るう兄の姿。

 人を斬り、魔を斬り、神をも斬る究極の刃は、使い手共々語り草となるだろう。

 

 そんな兄の姿を想像した燐は直後、ハッと目を見開いた。

 ガラスに映った自分の目を見据え、その奥に浮かんだ想像へ思わず身を震わせる。

 

 晴れて悲願を果たした後、祖父や親族、そして兄はどこへ向かうのだろうか。

 

 一族の悲願とは『神剣』に相当する刃を鍛えることだ。

 刀工として並ぶもののない業物を打つという願い、それだけなら問題はない。

 

 だが、そこに使い手の存在が加われば話は別だ。

 ()という一族でも最高峰の剣士がそのような神器を持てば、及ぼす影響は計り知れない。

 

 並の刀を持ってでさえ一線級の戦闘魔法師に相当するのだ。

 天狗術に由来する魔法とそれを活かす剣術の才。双方を兼ね備えた剣士がこの上『神剣』など手にしようものなら、広く脅威と見做されかねない。

 

 兄本人の気質であれば外聞はともかく実害はない。

 いかに神器を手にしたとて変わりはしないだろう。

 

 問題はそんな兄や自分の心を縛る(すべ)があること。

 そして、その術法は久沙凪家現当主の祖父が最も得意とする分野だということだ。

 

 

 

 幼少時と同じように感情が表へ出るようになって、取り戻したものがもう一つある。

 

 かつて兄に連れられて行った一夜限りの外出の思い出。

 屋敷の中だけで世界が完結していた燐が初めて見た花園の記憶。

 

 祖父と親族の目を盗んで抜け出した夜のことを、燐ははっきりと思い出した。

 

 月の綺麗な夜だった。

 屋敷の庭しか外を知らない燐にとって、あの日の月は何より美しかった。

 

 竹藪を潜り、木々の間を抜け、行く手に町明かりが見下ろせる場所へ辿り着いた。

 

 眼下に広がる光の世界は燐の心を高らかに鳴らした。

 あの光の一つ一つに人の営みがあると思うと、どうしようもなく胸が温かくなった。

 足下には色とりどりの花が咲き乱れていて、月明りに浮かぶ朱の花弁は兄妹を歓迎するかの如く揺れていた。

 

 生まれて初めて目にした花園。

 生まれて初めて目にした人界。

 

 そのどちらもが燐にとっては美しく映り、幼心へ鮮やかに刻まれた。

 

 あの場所へ行きたいと兄の手を取り、やれやれと苦笑を浮かべた煉が一歩を踏み出す。

 

 直後、二人の身体は金縛りにあったように動かなくなった。

 何が起きたのかわからず動揺するばかりの燐に対し、煉は驚愕と怒りを眼の奥に湛えていた。

 

 間もなく振り返ることもできない二人の頭へ祖父が手を置き、付き従う親族の手によって屋敷へと連れ戻された。

 無断で燐を連れ出した兄は厳しい折檻を受け、一方の燐は何の咎めも受けることなく元の部屋へと戻された。

 どれだけ止めるよう懇願しても耳を傾ける者はおらず、兄の悲鳴を聞きながら摘み取った花を握り締めることしかできなかった。

 

 長い夜が明ける間に、燐は自分たちの人生が縛られているのだと悟った。

 

 生まれた直後から掛け続けられた、強く心を縛る術。

 祖父の講じた策は運命から逃れる自由を奪い、一族への奉仕を強制するもの。

 咎めを受けなかったのも、燐が『人』ではなく『物』として扱われているから。

 

 代々続く悲願の成就を確実なものとするため。

 元より『人』としての生など許されていなかったのだと、このとき初めて実感したのだ。

 

 絶望する燐に兄は心を閉ざすよう命じ、祖父の術とは別の暗示を掛けた。

 

 術を自在に操れるようになった時、燐の魂は『鋼』へと込められる。

 魂に触れる術を操るには確固たる己を築く必要があり、心の成長は不可欠。

 だから心を閉ざし、術の完成を遅らせるようにするのだと。

 

 いつか力を付け、祖父の支配を脱した兄によって解放される日まで。

 箱庭から出て自由になるために、決して心を育んではいけないと。

 

 かくして燐は心を閉ざし、煉は祖父の術を破るための修行を始めた。

 月日が経過し、14歳になった燐は兄から家を出ると告げられた。魔法大学への進学を理由に山を離れ、祖父の影響の及ばない場所で研鑽を積むのだと。

 

 それから更に2年が経ち、燐は魔法力を養うため第二高校へ入学した。

 

 上京した兄からの便りは未だなく、燐は兄の言い付け通り心を閉ざし続けた。

 多くの学生が彼女の心を開こうと苦心し、しかしそのすべてが徒労に終わった。

 遊びはなく、驕りもなく、淡々と学業と職務へ勤しむ彼女はいつしか『人形』と揶揄されるようになったのだ。

 

 

 

 祖父の術がどのようなものかはわからない。

 ただ心を縛る力があるのは判っていて、兄も同じ術を受けていた。

 

 気掛かりなのは何故、祖父は兄の心まで縛ったのかということだ。

 

 『神剣』のためと言うのであれば燐だけでよかったはずだ。

 刃を打つのに兄は必要なく、担い手にするだけであれば心を縛る理由もない。

 

 何か野心を秘めているのではないか。

 『神剣』を打った後、兄を使って成し遂げたい何かがあるのではないか。

 

 『神剣』を携えた()を利用してまで成し遂げたい野望。

 

 平穏無事で済むはずがない。

 ともすれば災いとすらなり得るだろう。

 

 やはり《魂結び》に関しては祖父や親族に知られるわけにはいかない。

 シュンの願いを叶えた後は、居所を知られないようどこか遠くに潜むことにしよう。

 

 

 

 ――そう、心に決めた瞬間だった。

 

 

 

 不意に、眠気が襲いかかった。

 

 咄嗟にテーブルへ手を突いたものの身体を支えるには至らず。

 床へ倒れこんだ燐の意識は抵抗の暇もないまま暗闇へと落ちていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◆ ◆ ◆

 

 

 

 【西暦2093年8月9日 京都市下京区】

 

 燐のボディガードとなってから四日目の朝を迎えた。

 

 これまで同様、早朝に起き出した俺は軽いトレーニングの後で汗を流し、身なりを整えてから燐の部屋を訪ねる。

 時間はまだ7時を回ったばかりだが、昨日までと同じならすでに起きているはずだ。

 

 扉の前の呼び鈴を鳴らし、彼女が出てくるのを待つ。

 

 ところがどれだけ待っても扉が開くことはなく、物音一つすら聞こえてこなかった。

 

 

 

 まさか、と思った。

 

 

 

 一瞬の内に血の気が引いて、全身が粟立つような感覚を抱きながらフロントへ駆け降りる。

 フロントで合鍵の借用を願いでると、応対する従業員は口元に笑みを張り付けたまま首を振った。

 

「そちらのお部屋のお客様でしたら、昨晩遅くにチェックアウトなさいましたが」

 

 瞬間、世界から色が消え、音すらも遥か彼方へ遠ざかっていった。

 

 

 

 

 




 
 
 
 
 
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