モブ崎くんに転生したので、謙虚に生きようと思う   作:惣名阿万

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 大変お待たせいたしました。
 
 
 


第10話

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

 通話を終えスクリーンが暗転すると、意識はカリフォルニアの夜に引き戻された。

 明るさに慣れた目には室内がいつも以上に暗く映り、自ずと思考が内側へ向く。

 

 モニター越しに達也たちと繰り広げた会話を咀嚼する。

 

 『パラサイト』のこと。『屍食鬼(グール)』のこと。

 そして、それらの影で暗躍する連中のこと。

 

 話していないことはたくさんある。『パラサイト』の正体や出所はもちろん、日本へ入っているスターズの遣り口なんかも僕は知識として知っている。

 レオが襲われることも事前に予想できていて、けれど身勝手な理由で警告一つしなかった。彼の頑丈さを信頼したと言えば聞こえはいいが、事実はとんだ薄情者だ。

 

 『屍食鬼』についても、あるいは達也たちに協力を仰ぐ必要はなかったかもしれない。

 連中を生み出し裏で操っている黒幕の見当はすでに付いているのだから。

 

 顧傑(グ・ジー)。またの名をジード・ヘイグ。

 日本で暗躍する周公瑾の主人にして、ブランシュや無頭竜といった組織を作った男。

 かつて東アジアに存在した大漢の魔法研究機関『崑崙方院』の術士で、達也の生家である四葉家に一方的な怨恨を抱いている老人だ。

 

 『屍食鬼』と呼ばれる連中は十中八九、顧傑によって操られた故人だろう。

 殺した相手のプシオンを捕捉して身体に縛り付け、生前以上の魔法力を引き出して操り人形とする呪術。僵尸術(きょうしじゅつ)と説明されたこの呪術こそ恐らく『屍食鬼』の真相だ。

 

 論じるまでもない蛮行。許せないと心の底から思う。

 尊厳を踏みにじる行為には憤りが湧くし、出来ることならこんな凶行やめさせたい。

 

 だが、事はそう簡単じゃない。

 

 顧傑は厄介だ。本人の戦闘能力は一線級に及ばないものの、殺めた相手を死兵として操る僵尸術(きょうしじゅつ)然り、奇々怪々な古式魔法や老獪な立ち回りは一筋縄ではいかない。

 原作ではあの四葉の追撃からも逃れて見せたほどだ。長く潜伏してきたこのUSNAで捕まえるのは至難の業と言っていいだろう。

 

 とても僕一人の手に負える相手じゃない。

 正面切っての戦闘ならともかく、見つけることがまず不可能に近い。

 仮に見つけられたとしても奴が同じ土俵に上がってくるかは別の話だ。

 

 解決策はない。巻き込まれないよう立ち回ることしかできない。

 顧傑の名前を出せば済む話でもない。根拠の明かせない情報を語るのはリスクが大きすぎる。

 

 何よりも、今の僕は——。

 

「どうしたの?」

 

 考えに没頭していた所為か、思考に釣られて目がそちらへと向いてしまった。

 視線に気付いた雫がココアのカップを手に首を傾げる。無邪気な仕草にため込んでいた息が漏れ、咄嗟に口元を引き締めた。

 

「『パラサイト』や『屍食鬼』の情報を集める方法について考えていたんだ」

 

 部屋の暗さに目が慣れてきたのか、段々と表情が見えるようになってきた。

 

 半年と少しの間に見慣れた、穏やかで泰然とした横顔。

 カップを置いた雫はそのまま指先を頬に当て、少し間を置いてからこちらを向く。

 

「とりあえず、クラスのみんなに訊いてみる?」

 

「そうだな。まずは身近なところから聞き込みをしてみよう。できれば専門家にも話を聞いてみたいところだが」

 

 当たり障りのない回答で応じながら自分のカップへ手を伸ばす。

 底に残ったコーヒーを口に含み、胸に閊えた澱を苦味と一緒に吞み込んだ、ちょうどその時――。

 

「本当はもう答えを知ってるんじゃない?」

 

 柔らかな声が隣から聞こえてきた。

 問いかけの形を取りながら、雫の表情はまるで確信しているようだった。

 

「君が知ってる未来の話の中に、同じこともあったんじゃないかな」

 

 もう一度。より具体的に言い当てられて、黙っていることを諦める。

 

「見抜かれてしまったか」

 

「なんとなくね」

 

 呟いた雫は再度カップを手に取り、中へ視線を落として続けた。

 

「西城くんが入院したって聞いた時の君、渡辺先輩の事故の後と同じ目をしてたから」

 

 確かに、あの時と状況は似ているかもしれない。

 取り乱した姿を見られていたし、原作や『僕』のことを明かした雫なら当時と今の関連性に気付いても不思議じゃない。

 

「雫の言う通りだ。西城が襲われることも、『パラサイト』が現れることも知っていた」

 

 頷いて、肯定を返して。

 言葉にしたことで尚更、自分のしたことに虫唾が走った。

 困らせるだけとわかっているから、口を衝いて出そうな自嘲はどうにか呑み込んだ。

 

「後悔してる?」

 

 けれど表情までは繕いきれなかったらしい。

 心配そうに覗きこむ雫へ、できる限りの笑みを作って返す。

 

「後悔だらけさ。自分に力があればっていつも思うよ」

 

 僕にできることはそう多くない。

 手の届く限りが精一杯で、誰も彼も納得させられる根拠はなくて。

 道理も運命も変えられるだけの力がないから、傷付く人を何度も見殺しにしてきた。

 

「ねえ、やっぱり私にも――」

 

 その先に続く言葉は知っている。

 過去を告白した日以来、何度となく求められている提案だ。

 

「ありがとう、雫。だけどやっぱり未来のことは教えられない。知っていること自体が大きな危険になるんだ。狙われる要因は極力排除すべきだろう」

 

 断固として首を振ると、雫は眉を寄せたまま口を引き結んだ。

 

 納得はしていないのだろう。だがこの件に関して譲るつもりはない。

 僕自身、国外勢力に目を付けられているくらいだ。たとえ断片的な情報であっても未来について知っている可能性があると見做されれば、今度は雫がターゲットにされてしまいかねない。

 

 それだけはどうあっても避けなくちゃならない。

 国家を相手に彼女を守れるほどの力は『森崎駿()』にはない。

 『主人公(達也)』のように、何があろうと『守りたい人(深雪)』を守れるだけの力はない。

 

「雫の言う通り、『パラサイト』が現れた原因は知っている。ただそれがいつ、どうやって広がったかは僕の持っている知識と違う可能性がある」

 

 逸れてしまった話を元の流れに引き戻す。

 強引なのは承知の上。さっきの話を続けても堂々巡りになるだけだ。

 

「調べるべきは加速器を用いた実験があったかどうか。あったとしたらそれはいつ、どこで行われたのかだ」

 

「……加速器って、スイスとかにあるやつだよね?」

 

 じっと待っていると、雫は渋々とばかりにそう言った。

 口元はムッと尖らせたまま。仕草と目線で先を促してくる。

 

「ああ。いくつか種類があって、USNAにも各地に研究所が置かれている」

 

 原作で実験が行われたのはテキサス州ダラスの研究所のもの。

 ここカリフォルニア州にも加速器を備えた研究施設が置かれている。

 

「せめてエネルギー省にコネのある人と話ができればいいんだが……」

 

 北アメリカ合衆国エネルギー省は連邦政府直轄の行政機関で、原子力を含むエネルギー関連を始め、核兵器の製造及び管理についても国防総省やUSNA軍と共同で関与している組織だ。

 加速器を備えた研究施設は総じて国立の機関のため、そこで行われる実験は必ずエネルギー省の認可と監督を受けている。『パラサイト』が来訪するきっかけとなった実験も同省なら把握しているはずなのだが。

 

「そういえば」

 

 ふと、雫が思い出したように呟く。

 

「ケビンのお父さんが大学の構内の研究所に勤めてるって聞いたような」

 

 大学とはカリフォルニア大学、研究所とは構内にあるローレンス・バークレー国立研究所のことだろう。僕らの通っているバークレー校もカリフォルニア大学の系列校で、同じ敷地内に建てられている。

 

 ローレンス・バークレー国立研究所もまたエネルギー省が管轄する研究施設の一つ。

 そこに勤めている人であれば目当ての実験が行われたか知っているかもしれない。

 

 ただ、問題があるとすれば――。

 

「ケビンというと、前に雫へデートを申し込みに来た?」

 

「うん。そのケビン」

 

 雫にアプローチを掛けていた男子は何人かいるが、中でもケビンは積極的な印象だった。

 先日の一件で横槍を入れてしまったこともあって、あまり良い顔をされないだろう。

 

「少々気まずくはあるが仕方ない。なんとかお父君に会えないか訊いてみよう」

 

「そのことなんだけど――」

 

 駄目で元々くらいのつもりで言ってみれば、雫は寧ろ前向きだった。

 得意げに口元へ笑みを浮かべ、テーブルから通信端末を取り上げる。

 

「良い考えがあるよ」

 

 それだけを言い放って、雫はこちらの答えを待つことなく動き始めた。

 何処かへメッセージでも送っているのか。ペンタブを握った彼女の手はタブレットの上を素早く行き来する。

 

「任せて。こういうことならきっと役に立てるから」

 

 衝き動かされたような横顔はいつになく活き活きとしていて、彼女の手が止まるまでじっと見ていることしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ● ● ●

 

 

 

 アメリカにいる友人と連絡を取った翌日の早朝。

 朝稽古のために訪れた九重寺の縁側で達也は師へ先日の連絡で得た疑問を投げかけた。

 

「いいよ。話してあげよう」

 

 直前までの激しい打ち合いもなんのその。汗一つ浮かべず深雪と談笑していた八雲は振り返るなり、望み薄だろうと考えていた達也の予想を裏切るようにあっさりと頷いた。

 

 どうやって譲歩を引き出すか考えていた達也は肩透かしを食らった心地になりながら、聞けるのならばと大人しく目礼を返す。

 そんな内心すらも見通しているのか、八雲は微笑ましいとばかりに目を細めた。

 

「本当なら明かすべきじゃないんだけど、半端な知識で痛い目に遭うのは気の毒だからね」

 

 肩を竦めた八雲を見て、達也はようやく師の掌の上だったことに気付いた。

「なるほど」と納得を口にしつつ、細やかな反攻を視線に乗せる。

 

「聞き耳を立てていたのは師匠だったのですね」

 

 道理で正体が掴めなかったはずだ。

 達也だけが視線を察知できたのも相手が八雲だったと考えれば納得がいく。

 

「どういうことでしょう?」

 

 一人だけ疑問符を浮かべる深雪へ、達也と八雲は揃って穏やかに応じた。

 

「昨日レオの病室で聞いた話。あれを師匠も聞いていたということだよ」

 

「聞き耳とはちょっと違うけれどね。どうやってかは教えられないよ」

 

 悪戯っぽく人差し指を立てる八雲。

 だが表情の割に目は笑っておらず、そうでなくとも不用意に踏み込む二人ではない。

 

「友人を助けていただき、ありがとうございました」

 

「礼には及ばないよ。巻き込んでしまったようなものだからね」

 

 兄妹が座ったまま腰を折るなり八雲は苦笑いで禿頭を撫でた。

 目にも直前までの鋭さはなく、どうやらレオが襲われたのは八雲にとっても不本意なことだったらしい。

 

(だからこその監視ということか。道理で追手が掛からないわけだ)

 

 『パラサイト』と交戦したレオが八雲の弟子に救われ、八雲自身は今回の件を「巻き込んでしまった」と表現した以上、『パラサイト』を追い立てていたのは八雲たち九重寺の忍びたちということだ。

 後始末のためにレオが狙われる可能性があったが、八雲が目を光らせているとなれば安全と考えていいだろう。

 

 敢えて知らせるような真似をしたのは恐らく、監視の目に気付かせるためだろうか。

 それもカメラや盗聴器のような機械的な代物ではなく、達也の『精霊の眼(エレメンタル・サイト)』ですら捉えるのが難しい方法だ。『忍術』の一つだと予想はできても、正式な弟子でない達也には正体の見当がつかなかった。

 

 世捨て人を自認する八雲が動くような事態だ。単なる小競り合いだとはとても思えず、友人が巻き込まれた今、日常の蔭で何が起きているのか把握する必要がある。

 

「師匠のお勤めについてお聞きすることはできますか?」

 

 敷居を跨ぐ行為だとわかっていながら、達也は敢えてそれを訊ねた。

 

「残念だけど、それはできない」

 

 八雲は表情を変えることなく首を振る。

 懸念に反して詮索を咎める色はなく、どころか申し訳なさを抱いている節さえあった。

 

「その代わり君たちの疑問にはちゃんと答えるよ」

 

 背後関係を明かせない八雲はそう言って、兄妹の質問へ答えることを対価とした。

 達也も深雪もこれに頷き、二人が納得したのを見て八雲は本題へ話を進める。

 

「まずは『パラサイト』について。この呼び名はイギリス風の表現だね」

 

 言いながら、八雲は右手を顎先に当てる仕草をする。

 フィクションの探偵を真似ているのか。意外と様になって見えるのが寧ろモチベーションを削ぐ要因となっているように達也は感じた。

 

「彼らが何に由来する情報生命体なのか、残念ながら僕も知らない。人の精神に干渉するのだから、精神現象に由来するものだとは思うけどもね」

 

「精神に由来する情報生命体ですか……」

 

 そうだとすれば、精神現象の源である人間に惹かれるのは自然なことかもしれない。

 八雲の所感を聞いた達也は何とはなくそんなことを感じた。

 

「精霊とは、違うのですよね?」

 

 一方、深雪はいまいちピンと来ていないのか、まだ理解の及ぶものと比べて捉えようとしているようだった。

 可憐な少女のいじらしい姿を前に、八雲は作り物とは思えない笑みを浮かべる。

 

「そうだねぇ。スピリチュアル・ビーイング(Spiritual Being)と呼ばれる精霊は自然現象から発生した独立情報体だ、と現代魔法では言われている。そういう意味じゃあ精霊も自然現象という情報を宿した生命体だ、と表現することはできるんじゃないかな」

 

「生きている、ということでしょうか?」

 

「さあ。でも、精霊に意思がないなんて誰が確認したんだい?」

 

「誰も確認していませんね。その逆のことを言っている人間に心当たりはありますが」

 

 飄々とした態度で妹を翻弄する師へ、達也が呆れまじりの声を挟む。

 八雲の目が達也へと移り、彼は悪びれた様子もなく持論の結びを口にした。

 

「かつてこの国に存在したとされる人型の妖魔や動物型の妖怪も、情報生命体である妖霊がこの世の生物を変質させたモノじゃないかと僕は考えている。

 人の幽体に寄生して変質させるという『パラサイト』もまた、こうした『この世のものならざるモノ』の一つなんじゃないかな」

 

 古式魔法の大家。当代随一の忍術使い。

 その筋で名高い称号を持つ八雲の見識に、達也と深雪の二人は素直に感心を抱く。

 

 或いはそれを気恥ずかしく思ったのか。

 合図の代わりに一つ指を立てて注意を引いた八雲は、端的な語り口で次の話題に移った。

 

「それで、もう一つの動く死人、『屍食鬼(グール)』についてだけど」

 

 雲を掴むような話だったそれまでと打って変わり、あっさりとした口調で続ける。

 

「こっちは大陸由来の道術に近しいものがあるね。僕が知っているものだと、自らが殺めた仏を一時的に使役するという術がある。古今東西、死者を辱める術法は禁術扱いになるのが常だけど、なぜか失われることがないのもまた人の世の常だ」

 

 心当たりがあるのだろう。

 具体例を挙げて語る八雲はすっかりいつもの調子に戻っていた。

 スラスラと続く与太話を聞き流して、達也は言説の初めに出てきた単語を捉える。

 

「大陸由来……。つまりは大亜連合の?」

 

「或いはかつての大漢の亡霊か、だね」

 

 ニヤリと笑みを浮かべた八雲の目が妖しく輝く。

 妖魔や妖怪の話を聞いた所為もあってか、よほど人ならざるモノの如き雰囲気だったと、寺を辞した兄妹は苦笑いを交わすこととなった。

 

 

 

 

 

 

 ● ● ●

 

 

 

 

 

 

 同時刻。横浜中華街の一角、その地下室にて。

 自らがオーナーを務める店内の自分しか入ることのできない部屋で、周公瑾は玉座を模した椅子へ跪いていた。

 

 座しているのは華美な衣装を纏わされた亡骸。

 ソーサリー・ブースターへ加工された脳と大型の機械を一体化させた、傍受不可能な遠隔通信用の呪法具だ。

 

大師(マスター)

 

 死体人形へ向けて、周は頭を垂れたまま呼び掛ける。

 眼球のない虚ろな窪みに火が灯り、赤く揺らめくそれが伏したままの周を捉えた。

 

『公瑾、首尾はどうだ』

 

 地の底から響くような、おどろおどろしい声。

 音を発しているのは機械的なスピーカーではなく、呪術によって操作された死人の声帯そのもの。文字通りの死者の声は何度となく耳にした周であっても生理的嫌悪を抱かずにいられない。

 

「アメリカから呼び寄せた者たちは残念ながらこの国の術士に動きを阻まれています」

 

『魔物どもを蔓延らせる策は失敗か』

 

 声の質はともかく、語り口や内容は現代的で淀みがない。

 呪術を介して話している相手も()()()人間だと自らに言い聞かせながら、周は亡骸で作られた人形へ恭しく一礼した。

 

大師(マスター)ヘイグ」

 

 呪法具に映像を届ける機能はないが雰囲気は伝わるのだろう。

 それが証拠に、赤い灯の向こうから滲む気配にも関心を示したような色があった。

 

「術士たちの動きは妖魔(デーモン)をこの地域へ抑え込むだけに留まっております。偶発的な被害の発生を未然に防ぐ意図はないかと」

 

 周のもたらした報せは主をそれなりに満足させたようだ。

 相槌の声が漏れ聞こえた後に事務的な問いが続く。

 

『報道された被害の件数はどれ程だ』

 

「映像媒体で4件。文字媒体では更に3件が報じられております」

 

『報道機関への工作を強化しろ。票を気にする政治家が動かずにいられなくなるように」

 

「仰せのままに」

 

 周が深々と頭を下げたその先で、しかし人形は「もう一つ」と続きを発した。

 

『折を見て、私は香港へ渡る』

 

「……大師(マスター)自ら動かれるおつもりで?」

 

 強固なポーカーフェイスが揺らぎ、周の目に驚愕の色が浮かぶ。

 主人が隠遁先を移るのは十数年ぶりのことで、更に行き先が香港とくれば動揺を抑えることはできなかった。

 

『読み甲斐のある()()を見つけてな。中身に興味がある』

 

 言葉通りの書物などでは当然ない。

 わざわざ香港へ――無頭竜の首領である孫公明のもとへ赴くとなれば、それは貴重な情報を持つ人間がいるからに他ならない。

 ソーサリー・ブースターを生み出す術を以て大脳に蓄積された情報を正確に読み取り、特定の刺激を与えて望んだ機能を付加する技術は師であるヘイグよりも公明の方が勝っていることを周はよく知っていた。

 

 危険を冒してでも自ら行動し、わざわざ香港まで運ぼうと主が考えるほどの人物。

 主の潜伏場所近辺で思い当たる()()は一人しかいなかった。

 

(『未来視』の彼ですか……)

 

 八王子特殊鑑別所で相対した少年の顔が脳裏に浮かぶ。

 協力者からもたらされた、未来を予見する少年の存在。眉唾と思いながら調べさせた結果、情報を裏付けるような事象がいくつも起きたことで確信に至った。以来、協力者の要望に沿う形で懐柔する準備を進めていた。

 

「時期に関しては追って遣いをやる。お前は引き続き魔物どもの手綱を取れ」

 

「畏まりました、大師(マスター)

 

 内心をおくびにも出さず、周は再び恭しく頭を垂れる。

 頭上の人形から満足げな気配が漏れ出でて、間もなく赤い眼光が消えた。

 

 たっぷり5秒ほど待ってから周が顔を上げる。

 亡骸の瞼が閉じていることを確認し、その上で玉座に背を向けないよう後ろ歩きで部屋を出た周は閉じた扉で自身と人形とが隔てられた瞬間、細く長い息を吐いた。

 

(師のこととはいえ、『未来視』が大漢の怨霊の手に渡ってしまうのは惜しいですね)

 

 心の中で呟いた主に対する侮蔑の独白は、彼の妖艶な笑顔に染み一つ落とさなかった。

 

 

 

 

 




 
 
 
 
 
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