モブ崎くんに転生したので、謙虚に生きようと思う   作:惣名阿万

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 連日投稿2日目です。
 
 


第11話

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

 「任せて」と言った雫は即座に行動を開始し、瞬く間に状況を整えてしまった。

 

 『屍食鬼(グール)』と『パラサイト』についての情報を交換した次の週。

 1月28日の土曜日、彼女の下宿先では北山家主催のホームパーティーが開かれた。

 一週間という短い間に彼女は諸々の準備を整え、数多くの同級生とその家族を招待し、多忙の潮氏すらオンライン参加とはいえ呼び出してみせたのだ。

 

 世界的にも有名なホクザングループの総帥が主催したとあって、パーティーには同級生たちの親兄弟も多数やってきた。

 目当てとしていたケビンの父親の姿もあり、息子の後ろに続く氏を認めた雫は得意げに笑みを浮かべていた。

 

 乾杯の音頭はホログラムで投影された潮氏が務めることとなった。

 遠目からでは実物と判別がつかないほど精巧な立体映像で、先立って挨拶した時も目の前にいるかのように感じられた。ついでに雫への大き過ぎる愛情も直接対面した時と何ら遜色がなかった。

 

 潮氏が借り上げたコンドミニアムには現在パーティー会場となっているホールの他、いくつかのセパレートスペースと庭園が備わっている。

 メインのホールには立食形式のテーブルが並び、庭園を除くスペースとそれらを結ぶ通路には十分な数の座席が用意されていた。

 

 会場の入り口や敷地の周辺には潮氏が手配したボディガードも警備に当たり、不埒者の侵入には万全の備えが為されている。

 そのお陰と言うべきか、今夜に限っては僕も雫の護衛役から外れることとなった。

 

 表向きは同じ学生という立場のため。

 実際は今夜の目的を果たすのに、一時的とはいえ雫の傍を離れる必要があったからだ。

 

 

 

 パーティーが始まっておよそ1時間。

 来場者への挨拶回りが終わったところで雫と顔を見合わせ、予定通り彼女の傍を離れる。

 

 向かった先はホールの端。

 ほんの少し前まで他の参加者と話していた壮齢の男性に声を掛ける。

 

「失礼、ミスター・ブラウン。私はシュン・モリサキといいます。お会いできて光栄です」

 

 男性はこちらを認めると薄っすら目を細め、笑みを湛えて右手を伸ばしてきた。

 

「初めまして、シュン。こちらこそ、噂の留学生と話す機会を得て嬉しいよ」

 

 差し出された手を握り、もう一度感謝を口にする。

 日本からの留学生だということは知られているらしい。もしかしたらケビンが何か伝えていたのかもしれない。

 

「ドクターの研究されている分野に興味がありまして。お話を聞く時間を頂けますか?」

 

「もちろん。構わないとも」

 

 幸い、懸念は杞憂に終わった。

 少なくとも表面上は歓迎してくれたブラウン氏の隣に立ち、タイミングよく飲み物を運んでくれた黒沢さんからグラスを受け取ると、貴重な講義を拝聴する学徒の心持ちでブラウン氏との談議に臨んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ● ● ●

 

 

 

 駿がブラウン博士を連れ出すと、残された雫は数多くの男女に囲まれた。

 

 そもそもが滅多にない留学生だ。しかも優秀で容姿も整っているとあり、普段から人が集まる傾向にはあった。

 学校では駿が目を光らせていることもあって負担に感じるほどではなかったものの、今この場にナイト役の駿はいない。ガードの緩んだ雫のもとにはひっきりなしに同級生たちが訪れていた。

 

 華やかな装いも理由の一つだろう。時間を掛けて見繕ったドレスは想い人から好評を引き出すと同時に、他のクラスメイトからも絶賛される仕上がりになっている。

 

 モーションを掛けていた男子であれば尚更、反応は大きなものだった。

 

「ティア」

 

 同じクラスの女生徒3人に囲まれていた雫は聞き覚えのある声に振り向いた。

 そうして振り返ってすぐ、胸に小さな針の刺さったような痛みが走った。

 

「ケビン。こんばんは。今日は来てくれてありがとう」

 

「こちらこそ。お招きありがとう」

 

 グレーのダブルスーツを纏った青年は装いに合った優雅な一礼で応じる。

 背が高く体格も良いケビンの所作は驚くほど堂に入っていて、学校では見られない気品のある一面は周りの同級生の心を大いにくすぐった。

 

 好意的な声が漏れ聞こえる中、けれどケビンの目は雫を捉えて離れなかった。

 

「ステキなドレスだ。最初に見た時は思わず見惚れてしまったよ」

 

「ありがとう。ケビンも似合ってるよ」

 

 嬉しさよりも戸惑いを感じながら雫は率直な感想を返す。

 以前からの知り合いだったわけでもないケビンがなぜ、こうまで好意を示してくれるのか。

 

「二人きりで話したいんだけど、少しだけ時間を貰ってもいいかい?」

 

 露骨な言い回しに雫から笑みが消える。

 すると表情の変化で自身のミスを悟ったのか、ケビンは慌てて釈明を捲し立てた。

 

「学校で聞いて回ってただろう? ほら、なんとかってデーモンの話。あれのことで一つ噂が流れてたのを思い出したんだ」

 

 どうやら警戒したようなことではないらしい。

 どころか雫や駿にとって有益な情報を得られる機会のようだ。

 

「ケビン、場所を変えよう」

 

 少なくとも同級生に聞かせる話ではない。

 そう考えて、雫は自らケビンを人気のない庭園へ誘う。

 

 直前までアプローチを受けていた相手だというのは、すっかり頭からなくなっていた。

 

 

 

 

 

 

 世界的にも名の知られた『北方潮(北山潮)』の主催とあって、今夜のパーティーには急ながら大勢の人間が訪れていた。

 経済界を始め政界や学界、魔法師の界隈からも人が集まり、メインの会場であるホールはもちろん周囲の部屋や通路にも人の姿があった。

 

 それでも真冬の屋外ともなれば人影はまばらで、庭園に面したテラスは盗み聞きを心配する必要もないほど静かだった。

 

「さすがに冷えるな。ティア、寒くないか?」

 

 外へ出てくるにあたり、雫は使用人から受け取っている。

 一方のケビンは防寒着の類を持っていなかったようで、雫を案じる彼の方が寒さを嫌っているようだ。

 

「大丈夫。こうすれば」

 

 淡々と応じた雫がハンドバックの中でCADを操作する。

 

 読み出したのは自身の周囲に遮音効果をもたらす領域魔法。

 さらに領域の外から内へ熱エネルギーを取り込む魔法を併用し領域内の温度を高める。

 

「……驚いた。これ、魔法だよな?」

 

 寒さが遠ざかるなり、ケビンは驚きを表情に示した。

 暖房の効いた室内と同程度になったところで暖気の取り込みを止め、CADから手を放した雫が小さく首を捻る。

 

「これくらい、珍しくないと思うけど」

 

「いやいや。ジャパンがどうかはわからないが、ステイツじゃ珍しい、凄いことだよ」

 

 称賛と憧れと、僅かな嫉妬が覗いた眼差し。

 強引で軟派だと思っていた男子の心根を垣間見て、雫は改めて日本との差を感じた。

 

「それでティアが言ってたデーモンについてだけど」

 

 憂いはすぐに消え、気を取り直したケビンが本題を口にする

 

「秋学期の初めにちょっとした噂が流れたことがあったんだ。『吸血鬼(ヴァンパイア)』が出たってね」

 

「『吸血鬼』?」

 

 

 

 ケビンの語った内容は、『パラサイト』の存在を知らなければ単なる怪談話にしか聞こえないものだった。

 

 曰く、8月下旬のある日、サンフランシスコの郊外で変死体が見つかった。

 

 遺体には外傷がなく、検死の結果、死因は衰弱死と診断された。

 毒物や薬物は検出されず、大きな疾病歴もなく、衰弱に至った理由は判明しなかった。

 唯一特異な点としては、遺体に残留していた血液が体形から想定される量より一割ほど失われていたこと。

 

 こうした不可解な状態の変死体が計4件。

 地元のニュースでのみ報じられ、短い間だけ噂になったのだという。

 

 

 

「じゃあ、『吸血鬼』の噂はすぐになくなったんだ」

 

 ケビンの話が終わると、雫は確認の意味を込めて訊ねる。

 9月初めに囁かれた噂が広まることなく鎮まったというのはすでに聞いたことだった。

 

「ああ。一カ月もしないうちに聞かなくなったよ。ロサンゼルス(LA)にいる友達なんて聞いたこともないってさ」

 

 バークレーからロサンゼルスまではおよそ600km。

 距離だけを見れば離れているように感じるが、同じカリフォニア州であり空路の発展した北米大陸では気軽に足を延ばせる範囲だ。

 

「じゃあ今度は俺のお喋りに付き合ってもらおうかな。飲み物を貰ってくるから少し待っててくれ」

 

 語り終えて満足したのか、ケビンはお遣いを果たした少年のような笑顔でホールへ向かって走りだす。

 有益な情報を受け取った手前呼び止めることもできず、雫は苦しいような申し訳ないような心持ちで待っていることしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 数分もしない内にケビンは戻ってきた。

 両手にドリンクの注がれたグラスを持ち、白い息を吐きながら小走りで雫の張った温かな領域へ駆け込んでくる。

 

「ふー、寒かった。さあ、こっちはティアの分だ」

 

 そう言って、ケビンは手にしていたグラスの一方を雫へ差し出した。

 

 グラスを受け取った雫はそこに注がれたドリンクを見て一瞬だけ固まる。

 薄く黄金色の掛かったスパークリング飲料。ノンアルコールのシャンパンだとは思うが、大人向けに提供されている本物のシャンパンと見分けはつかなかった。

 

 日本において法令的に飲酒が許容される年齢は前世紀から変わっていない。

 USNAもまた前身のUSA時代と変わらず21歳を迎えなくては飲酒が許可されない。

 常識的に考えれば、同い年の高校生である彼がアルコールを勧めてくるはずがない。

 

 それでも雫は念のため、中身を確認しようと口を開きかけた。

 しかし一瞬早く相手からグラスを突き出され、問いかけは発する前に止まってしまった。

 

「乾杯しよう。ほら」

 

 これが学校内でのことであれば頷かなかっただろう。

 たとえ街中のレストランで同じことをされたとしても確認だけはしたに違いない。

 

 けれど、この時の雫は様々な理由からケビンの希望を無下にすることができなかった。

 

 一つはこのパーティーのホストであること。

 主催者は父だが、長女であり実際に参加している唯一の親族として、参加者へ出来る限りの配慮をしなければならない。

 

 貴重な証言への感謝もある。

 彼のもたらした『吸血鬼』の噂は、『パラサイト』の由来を解き明かすのに役立つ可能性がある。思いがけず得た情報ではあったが、感謝の気持ちを抱いているのは確かだ。

 

 そして何より雫の良心を締め付けるのは、父親を呼び出すダシにしてしまったことだ。

 研究者の父親と話す機会を作るために好意を利用したと、そう言われても否定できない心境が今の雫にはあった。

 

「……うん。乾杯」

 

 結果、雫は迷いを残したままグラスを相手のものへ触れ合わせた。

 

 グラスが打ち合わされ、耳触りの良い高音が鳴る。

 相手が笑顔でグラスを呷る手前、飲んだふりで誤魔化すことはできなかった。

 

 細やかな炭酸の刺激と仄かな苦味が舌の上を抜ける。

 ほんの一口だけとはいえ、通り過ぎた後には熱くなるような感覚が喉に残った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

 予習の甲斐もあってか、ブラウン氏の語り口は徐々に饒舌になっていった。

 

「私が元居た学校でも魔法を用いた核融合炉の実現について研究している先輩がいましたが、エネルギー開発分野に魔法を活用しようと研究される方は多いのでしょうか」

 

「ああ、日本の高校生が発表した重力制御式熱核融合炉の論文だろう。私も読ませてもらったが、革新的でありながら堅実なアプローチで素晴らしいと感じたよ」

 

 昨年の秋、大亜連合の侵攻で中止となった論文コンペティションに提出された論文はいずれも日本の学会を通して世界に公開され、市原先輩が中心となって手掛けられた実験は大きな反響を呼んだ。

 

 件の論文はブラウン氏も読んでいたようで、嫌味のない称賛を口にした彼は手に持ったグラスを一度傾けた。

 

「君の言う通り、工学的に魔法を利用しようとする研究においてエネルギー開発はポピュラーな分野の一つだ。人類が更なる発展を遂げるためには、よりたくさんのエネルギーが必要不可欠だからね」

 

「ドクターの専門も、エネルギー関連の分野なのでしたよね?」

 

 ブラウン氏が上機嫌に頷く。

 

「私が研究しているのは放出系魔法を利用した反物質の生成だよ。反物質のことは知っているかい?」

 

「はい。一般的な教養の範囲ですが」

 

「素晴らしい。では対消滅についても理解しているかね?」

 

 付け焼刃の成果に『彼』の知識も重ね、出来る限りの回答を捻り出す。

 

「物質と反物質が接触した際に起きる反応で、膨大なエネルギーが発生するということは」

 

「その通り。接触した物質と反物質のどちらもが消滅する代わりに、質量がそのままエネルギーに変換される。これが物質と反物質の対消滅の基本だ」

 

 どうやら及第点を貰える程度の答えではあったらしい。

 一度ワインで舌を湿らせて、ブラウン氏は自身の仕事について語り始める。

 

 曰く、現代の技術では反物質の生成に要するコストが対消滅によって得られるエネルギーを上回ってしまうため、これをエネルギー資源とするのは現実的ではない。

 だが反物質を生成する過程に魔法を利用することができれば、安定的かつ少ないコストで同じ結果を生み出すことができるかもしれない。

 さらには粒子を加速させる魔法式の記述をより緻密に設計することで、通常なら低確率で生じる高エネルギー粒子衝突の確率を高めることも可能となるだろう。

 

 それまでよりも早口でかつ専門的な用語も飛び交う弁論は聞き取るだけでも一苦労で、どうにか理解できたのはその程度だった。

 

「最終的には現在のような加速器を用いた工程すら必要としなくなるだろう。あれもまた人類の英知の結晶ではあるが、あくまで実験装置だからね」

 

「加速器を用いた実験は頻繁に行われているのですか?」

 

 「もちろんだとも」と、ブラウン教授が髭を撫でる。

 

「実は半年ほど前にもメンローパークで加速器を利用した実験が行われてね。残念ながら有意なデータは観測されなかったそうだが、この結果もまた進歩への大事な要素だ」

 

 求めていた情報が出てきた瞬間、思わず息を呑んでしまいそうになった。

 

 メンローパークはサンフランシスコ南東の都市。ここバークレーからでも車で1時間程度の場所だ。直線距離はおよそ50~60km。本来実験が行われるはずだったテキサス州ダラスと比べれば目と鼻の先と言ってもいいだろう。

 

「どのような実験だったのかお聞きしても?」

 

「ふむ。あまり大きな声では言えないのだがね」

 

 すっかり出来上がった氏は躊躇いを覗かせながらも口を閉ざすことはなかった。

 

「極めて小さなブラックホールを生み出し、これが消滅するまでの間に生じる現象を観測する実験だ。対消滅反応とは別の理由で、質量がエネルギーへ変換される可能性があると見られているのだよ」

 

 咄嗟に舌を噛み、上ずりそうになる声を意図的に抑えて応じる。

 

「お話を伺っているだけでも好奇心の湧いてくる実験ですね。上手くいかなかったのがとても残念です」

 

「仕方ないさ。100%上手くいく研究などない。寧ろ失敗からこそ学び取れるものがあると言えるだろう」

 

「賛成です。『失敗は成功の教師だ(Failure teaches success)』と、トーマス・アルバ・エジソンが語ったことですね」

 

「その通り。我々は多くの挑戦を重ね、その末に現在の高度な文明を築いた。人類が獲得した能力である限り、魔法もまた同じことだよ」

 

 幸い、氏がこちらの動揺に気付いた素振りはなかった。

 上機嫌なまま頷き、アルコールの匂いが混ざった息を吐く。

 

 嫌というほどでもない。恵さんも嗜む程度とはいえ酒を飲むことはあるし、ボディガードという仕事柄、酒とタバコの匂いには慣れている。

 

 なにしろ今夜は学生だけじゃなく大人も来ることを前提としたパーティーだ。ドリンクの選択肢にビールやシャンパンなどの酒類があることも理解できる。なんならブラウン氏にワインが渡るよう仕向けたのはこちらの方だった。

 

 未成年の手に渡ってしまう可能性もあるが、その点は自由の国アメリカのこと。

 厳格な法律がある一方、ちゃんと守るかどうかは自己責任なんだとか。

 

 

 

 ――不意に、一つの予感が浮かんだ。

 

 

 

 『彼』の記憶から得た原作の知識。

 その中で、留学中の雫に関して描かれた一場面。

 

 北山家主催のホームパーティーの会場で、彼女はレイモンド・クラークから『パラサイト』発生の原因を聞いた。

 原作のレイモンドは留学中の雫へアプローチを掛けていて、だから彼女の要望に応えたのだろう。後の展開を考えれば、それが達也に伝わると予想していた可能性もある。

 

 気に掛かるのはその後だ。

 レイモンドから情報を得た雫はパーティーの後で達也にそれを報せようとするのだが、日付も変わった深夜に連絡した時の彼女は酩酊状態な上に素肌が透けて見えるほどの薄着だった。

 

 何があってそんな状況になったのか。原作では一切語られていない。

 ましてや現状、原作と状況も前提も大きく異なっている。

 

 取り越し苦労であればそれで構わない。

 雫は芯の強い女性だ。たとえ酒に酔っていたとしても易々と流される性質ではない。

 

 わかっていて。理解していて。

 それでも尚、嫌な予感は拭えなかった。

 鳩尾の奥に燻る不快感を晴らすことはできなかった。

 

 

 

「貴重なお話をありがとうございました」

 

 努めて表情を繕い、ブラウン氏へ感謝を述べる。

 腰を折って謝辞を示す間も頭には不安があって、礼を尽くすべき相手にそれができない自分がまた嫌になった。

 

「こちらこそ。君のような前途ある少年と話が出来て楽しかったよ」

 

 握手を交わして話が終わる。

 連れ立ってパーティー会場のホールへ戻る間、早くなりそうな足取りを抑えるのに随分と苦労を感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ● ● ●

 

 

 

 ケビンとの他愛ないお喋りはそれほど長くは続かなかった。

 庭園へ出て15分ほどが経つと同級生が様子を見に出てきて、雫とケビンは彼らに呼ばれるままホールへ戻った。

 待ち構えていたクラスメイトたちは二人を矢継ぎ早に囃し立て、そのまま始まったグループトークは和やかな声と笑いに包まれていた。

 

 雫がシャンパンを口にしたのは最初の一杯だけ。実際にそれがアルコール入りだったのか確認はしていない。

 同級生と合流してからはノンアルコールしか手に取っておらず、雫自身も一杯くらいなら大丈夫だろうと気を緩めてしまった。

 

 それが災いした。

 

「ティア、大丈夫?」

 

 傍目に見れば当然に、雫からすれば唐突に、クラスメイトの一人が彼女の肩に触れた。

 

「えっ、なに?」

 

 肩に触れられて。振り返ろうとして。

 その瞬間、雫はヒールの先を取られてしまった。

 

 酩酊感に自力で気付ける者は多くない。

 ましてや初めての飲酒ともなれば尚更。

 自覚のない内に酔いが回った雫は普段ならするはずのないミスをして、普段なら立て直せるはずのバランスを崩してしまった。

 

 視界が横倒しになった瞬間、雫はようやく自らの状態を悟った。

 スローモーションに感じる中で心臓の音だけが耳奥に響く。

 

 予想したはずの衝撃は訪れなかった。

 覚悟したはずの痛みは生じなかった。

 

 あったのはただ背中に添えられた温かな感触だけ。

 

「っと。大丈夫か?」

 

 倒れかけた雫を支えたのは駿だった。

 覗き込むような姿勢を見る限り、背中を支えているのは彼の右腕だろう。

 左手はグラスを持つ雫の手ごと掴まえていて、お陰でグラスも中身も無事だった。

 

「あっ……。ありがとう」

 

 照明が逆光になって表情はほとんどわからない。

 それでも声音は穏やかだったから、駿の表情を確かめようとしなかった。

 

「どういたしまして」

 

 表情がわからないから、駿がどんな感情を浮かべているかわからなかった。

 声が聞こえているから、いつもの穏やかな彼だと先入観を抱いてしまった。

 

「珍しいな。雫が転びそうになるなんて――ん?」

 

 何かに気付いたのか、駿の顔が間近に寄ってくる。

 

「アルコールを飲んだのか?」

 

 額が触れそうなほどの近さまで顔を寄せられて、雫は返答も身動きも取れなくなった。

 心臓が早鐘を打ち、耳奥に血の巡る音が響く。

 

 幸か不幸か、その時間は長くは続かなかった。

 

「すまない、シュン。俺が誘ったんだ」

 

 慌てた声が聞こえるなり、駿が身体を起こす。

 首だけをそちらへ向けた彼は相手を見るなり心底から呆れを漏らした。

 

「ケビン。君も未成年だろう」

 

 雫を引き起こしながら嘆息する駿に、ケビンはばつが悪い顔で謝罪を繰り返す。

 

「悪かったって。大人っぽく乾杯したかったんだ」

 

 嘘を吐いている様子はない。

 知らなかったと誤魔化すでもなく、出来心を正直に明かす姿勢に邪念は感じられなかった。

 

「怒らないであげて。確認しなかったのは私も悪いし、飲んだのも一杯だけだから」

 

「一杯でこうなら尚のこと心配なんだが……」

 

 流石に気の毒になって雫が庇うと、振り返った駿は苦々しくそう呟く。

 顔色を看ているのだろう。細かく動いていた瞳が止まるなり、駿はもう一度ため息を吐いた。

 

「どうあれ、一度休ませた方がいいか」

 

 直後、駿は予想だにしない行動を取る。

 

「ひゃっ!?」

 

 雫が悲鳴を上げるのと同時に女性陣が黄色い歓声を漏らした。

 背中と膝の二カ所で支える横抱き。フィクションでは頻繁に、しかし現実では結婚式くらいでしか目にする機会のない抱え方だ。

 

 軽々と抱えられた雫は驚きと恥ずかしさに身体を強張らせ、見上げた先の眼差しに息が詰まる。

 

「じっとしててくれ。いくら軽いといっても暴れられたら簡単じゃない」

 

 少しだけ眉が寄った、凄味のある目付き。

 声音は雫を案じていながら、目の奥には怒りや不快感のような色が覗いていた。

 

 それはこれまで向けられたことのない感情だった。

 

 厚意や心配、感謝や忠告など、駿から受け取った感情(もの)は数あれど、一方的な怒りや不満をぶつけられたことは一度としてない。

 激情を露わにする場面へ遭遇したことはあっても、それが自分に対して向けられたことは一度もなかった。

 

 初めて怒りを向けられた。

 初めて不満を向けられた。

 

 自制心の強い駿が見せた粗野な姿は胸を締め付け、逸らした目が手元へ落ちる。

 空いた両手は置きどころに迷った末、胸の前で握り込むことしかできなかった。

 

 耳まで熱いのはアルコールの所為だろうか。

 頭の中がドクドクと脈打つのは酔っているからだろうか。

 自分の呼吸がうるさく感じて、意識するほど酷くなるのはどうしてだろうか。

 

 衝撃が雫から言葉を奪い、他に歩き出した駿を止める者はいない。

 寝室へ運ばれる間、雫は駿の腕の中でじっと固まっていることしかできなかった。

 

 

 




 
 
 
 
 
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