モブ崎くんに転生したので、謙虚に生きようと思う   作:惣名阿万

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※時系列の前後により、原作登場人物の思考・価値観に若干の違いがあります。

 
 


第15話

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

『初めまして。リョースケの話していた学生さんですね。このような姿でごめんなさい』

 

 その『声』はどこからともなく聞こえてきた。

 

 目の前の女性が発しているようで、けれど周囲一帯から聞こえてくるようでもある。

 テレパシーに触れる機会があるとすればこんな感じなのかもしれない。

 

『私の名前はレナ・フェール。『FEHR(フェール)』のリーダーです』

 

 自身を指して名乗った女性は小首を傾げる仕草で応答を促した。

 驚愕から復帰した雫が身体ごと彼女に正対し、挨拶を返す。

 

北山雫(シズク・キタヤマ)です。お呼びしたのはこちらですので、お気になさらず」

 

森崎駿(シュン・モリサキ)と申します。彼女のボディガードを務めています」

 

 こちらが自己紹介をする間、レナ・フェールはまっすぐ目を見て聞いていた。

 

 見た目は若い女性。というより同年代の少女といったところ。

 けれど微笑を浮かべたまま頷く姿は外見以上に大人びた雰囲気があった。

 

『ありがとうございます。ミズ・キタヤマ、ミスター・モリサキですね。よろしくお願いします』

 

 敬称とファミリーネームでこちらを呼んだレナ・フェールは折り目正しく一礼し、それから両脇の仲間へ順に視線を配った。

 

『ルイとリョースケも、ご苦労様です』

 

 この時、サブリーダーを名乗ったルイ・ルーが頷きを返しただけだったのに対し、遠上さんは目を丸くして彼女を見上げていた。

 

「驚きました。ミレディ、そのお姿は?」

 

 遠上さんの疑問に、レナ・フェールはちらとこちらを窺ってから答える。

 

『《アストラル・プロジェクション》という魔法です。見せたことはありませんでしたね』

 

 《アストラル・プロジェクション》――つまり《幽体離脱》か?

 

 確かそれはスターズ隊長の一人も使っていた極めて特殊な魔法だ。

 ただ、原作でアレクサンダー・アークトゥルスが使用した《幽体離脱(アストラル・プロジェクション)》は実体のない精神体だけを飛ばす魔法だったはず。あんな風に生身の人間と変わらない像を作ったりはしていなかった。

 

 目の前に浮かぶレナ・フェールが同じ《幽体離脱》を使っているのだとすれば、この魔法には肉眼で見える姿と見えない姿、二通りの姿を作れることになる。

 戦闘ではアレクサンダ―・アークトゥルスのように精神体として、交渉事などではレナ・フェールのように実体を持たせて、状況に応じた使い方ができる魔法なのかもしれない。

 

 遠上さんを納得させたレナ・フェールは「さて」と言って振り返り、右手の指先を頬に当てた。

 

『お二人は『FEHR』についてはご存知ですか?』

 

 ちらっと、雫の目がこちらへ向いた。

 目を閉じて首を振ると、彼女は小さく頷いて顔を上げる。

 

「……いいえ。そういった団体の名前を初めて耳にしました」

 

 雫が否を返すと、レナ・フェールは無理もないとばかりに苦笑いを浮かべた。

 

『最近立ち上げたばかりの団体ですからね』

 

 少女然とした見た目に適う仕草だが、どことなく作り物めいた雰囲気があった。

 見た目は僕らと変わらないティーンエイジャーだが、もしかしたら実際の年齢は違うのかもしれない。組織のリーダーを務めるくらいだ。単なる学生というはずもあるまい。

 

 元の微笑み顔に戻ったレナ・フェールが真面目な口調で続ける。

 

『『FEHR』の意味は『人類の進化を守る為に戦う者たち(Fighters for the Evolution of Human Race)。過激化する人間主義に対抗し、魔法師の権利を守るための互助組織です』

 

 互助組織、ね。

 魔法排斥を訴える連中の中でも先鋭化した集団が人間主義者なわけだが、彼らに対抗するとなれば非暴力を貫くのは難しいだろう。

 『FEHR』がどれほどの規模の組織かはわからないが、遠上さんを始め実戦に堪えるだけの魔法師を何人も抱えているのはおよそ間違いない。

 

「魔法師の人権保護を目的とした団体、という理解で間違いありませんか?」

 

『ええ。概ねその理解で構いません』

 

 リーダーのこの人自身、かなりハイレベルな魔法師だと見受けられる。

 原作に描写のある限り、他に《幽体離脱》を使っていたのはスターズの部隊長に列せられるアレクサンダー・アークトゥルスだけだった。

 彼女がこの姿のまま魔法を使えるのかはわからないが、系統外魔法を事もなげに操っている時点で只者じゃない。

 

『それで、お二人は『屍食鬼(グール)』について情報提供して頂けるとか』

 

 認識の共有を終えたところでレナ・フェールは改めて右手を胸元に添える。

 僕と雫の間を行き来する眼差しは、穏やかでありながらどこか凄味を感じるようだった。

 

 

 

 

 

 

 意気込んでいた通り、雫は率先して『FEHR』へ獲得した情報を話していった。

 熱心に訴える心意気は相手にも届いたようで、三人は真剣な表情で彼女の言葉に耳を傾けていた。

 

 達也たちから聞いた話をすべて語り終えるなり、彼らは一様に納得を顔に浮かべる。

 

『――やはり、『屍食鬼』は死者を操る呪術で生み出されていたのですね』

 

 サンフランシスコで遠上さんが言っていたように、『屍食鬼』が死体を操る術によって動いていることはすでに承知していたらしい。

 亡骸の魔法的痕跡から読み取ったのか、それとも何らかの知覚系魔法の持ち主がいるのか。どちらにせよ単なるサークル活動程度の組織ではないようだ。

 

『術者の詳しい素性はわかりますか?』

 

 じっと考え込んでいたレナ・フェールが手掛かりを求めて問いかける。

 彼らが最も関心を示したのは『大亜連合、もしくは旧大漢出身の古式魔法師が関与している』という部分だった。あるいはそれさえ判れば何かしら対処できる手段を持っているのかもしれない。

 

 ただ、雫はその答えを用意できていなかった。

 

「すみません。そこまでは私も……」

 

 雫はレナ・フェールの要求に応えられず、視線を落として唇を噛んだ。

 

 訊かれることは予想していた。

 答えられないことはわかっていた。

 

 雫の衝動を満たしつつ、けれどこれ以上事件に関わらせない。

 それを達成するのに、僕にはこんな手段しか思いつかなかった。

 

『気にしないでください。あなたのお話はとても貴重な情報でしたから』

 

 レナ・フェールが穏やかな声で宥める。

 実際、有意な情報ではあったのだろう。関心を持ったということは即ち、それが役立つと考えていたはずだ。

 

『お話し頂きありがとうございます。受け取った情報を参考にしつつ、私たちは今後も『屍食鬼』を追っていきます』

 

 何とも言えない雰囲気のまま話し合いは幕引きへ向かう。

 

 この場へ来る前から、遠上さんへの連絡を勧めた時からそれはわかっていた。

 こういう結果になることは予想できていて、敢えて選ばせたのは僕のエゴだ。

 

 このまま彼らと別れ、以後『屍食鬼』との関りを避けるよう立ち回れば危険に遭遇する可能性は極限できるだろう。

 雫の安全を守るためにはきっとこの道が最良だと、身勝手にそう決めつけていた。

 

「あまりお役に立てなくてごめんなさい。応援、していますから」

 

 横目に見た雫は眉を寄せ、口元を強く引き結んでいた。

 口惜しそうに。それ以上に苦しそうに。彼女は肩を震わせていた。

 

 

 

 何度となく抱いた問いが頭に浮かぶ。

 

 果たして、僕は彼女を守れているのだろうか。

 

 

 

 雫の安全を守る。それは護衛としての『森崎駿()』の務めだ。

 潮氏から任されたことも含め彼女の身の安全を確保することは何にも優先される。

 

 ただ、その結果として雫が笑顔を失うのだとすれば――。

 

 『守りたい人たち』のために出来ることをする。

 そう在りたいと願ったのは確かで、けれどそこにはもう一つ願いがあったはずだ。

 

 彼女の道行が幸福であることを願っていた。

 彼女の笑顔(幸せ)を守りたいと、そう想った。

 

 雫の身の安全だけを考えるなら、このまま別れるのが最良だ。

 顧傑はフリズスキャルヴで世界中の情報を収集することができて、自身に捜査の手が伸びたと知れば今以上に『屍食鬼』を暴れさせるだろう。

 万が一情報の出所を掴まれてしまえば『FEHR』に危険が及び、延いては僕と雫に辿り着く可能性だってある。

 

 だというのに――。

 

「待ってください」

 

 気付けば、背を向ける三人を呼び止めていた。

 

 話すべきでないとわかってはいても、衝動が理性を振り切っていた。

 覚悟してはいても、回答を口にする瞬間、喉の奥が詰まったような気がした。

 

「『屍食鬼』を生み出している黒幕の名前は顧傑(グ・ジー)

 ジード・ヘイグの別名を持つ旧大漢の呪術師で、反魔法組織『ブランシュ』や国際犯罪シンジゲート『無頭竜(ノーヘッド・ドラゴン)』を組織した男です」

 

 隣から微かに悲鳴が聞こえた。

 息を止めて続きを呑み込んだ雫が何故とばかりにこちらを見る。

 

 幸い、振り返ったばかりの三人に雫を怪しむ素振りはなかった。

 代わりに彼らの眼差しは程度の差こそあれ、どれも鋭く研ぎ澄まされた。

 

「北山さんが知らないことを、君だけは知っていたんだな」

 

 最初に疑念をぶつけてきたのは遠上さんだった。

 ルイ・ルーは口を閉ざしたまま真意の読めない目をこちらへ向け、唯一笑みの崩れていないレナ・フェールもまた視線だけはじっと射貫いてくる。

 

「情報源についてはお話しできません。根拠を明かすこともできません」

 

 原作知識(カンニング)のことまで明かすつもりはない。

 『屍食鬼』の件を解決する主体はあくまで彼ら『FEHR』とUSNA当局であることが望ましい。

 

「そんな得体の知れない話を信用できると思うか?」

 

「信用に足りないのは理解しています。その上でお話しできないと言っているのです」

 

 遠上さんの顔付きが一層険しくなる。

 貴重な情報を雇い主にすら共有せず一方的に提供したんだ。裏があると疑われて当然。

 加えて根拠も証拠も語れないとなれば遠上さんの態度も頷けるというもの。

 

 ただ、レナ・フェールの様子だけは彼やルイ・ルーと違っていた。

 

『リョースケ、落ち着いてください』

 

 苦笑いで遠上さんを宥めた彼女はこちらを見るなり真剣な表情を浮かべた。

 

『ミスター。仮にその話が真実だとして、あなたは私たちに何を要求するのですか?』

 

 強い意志の宿った眼差しは生身の人間と何も変わらなかった。

 彼女が実体でないということすら全く気にならなかった。

 

「対価を要求するつもりはありません。その代わり、今お話しした内容を私たちのことを明かすことなく、警察や軍を始めとした当局へ報せて頂きたい」

 

 レナ・フェールの目元が微かに動く。

 ほんの僅かに眉を寄せた彼女はやはり見た目通りの少女ではないのか、こちらの要求を正確に読み取った。

 

『つまり、仲介役になれと言っているのですね』

 

「そう取って頂いて構いません」

 

 情報提供者の立場は繊細なものだ。

 提供相手との交渉もそうだが、それで利益を得る者、不利益を被る者の双方から目を付けられる可能性がある。場合によっては情報提供した側が狙われることだってある。

 

 僕は雫の身を守るため、この危うい立場に陥ることを避けたい。

 ただその一方で、『屍食鬼』が野放しにされることも看過できない。

 

 だからこそ、彼女に危険が及ぶ可能性を排除するために『FEHR』を利用すると決めた。

 『屍食鬼』を追っている『FEHR』にとってこの情報が無視できないものだと承知の上で、彼らに情報提供者の立場だけを押し付けようと決めたのだ。

 

 果たして、レナ・フェールは長い思案の末に小さく頷いた。

 

『……わかりました』

 

「ミレディ!」

 

 反対を叫んだのは遠上さんだけだった。

 ルイ・ルーの方は険しい顔つきのまま黙っていて、少なくともリーダーの決定に異を唱えることはなかった。

 

『『屍食鬼』の存在が好ましくないのは事実です。あれは私たち『魔法因子保有者(マジック・オーナー)』の立場を悪くする一方ですから』

 

 期待通り、彼らには『屍食鬼』を野放しにできない理由があった。

 

 魔法師の権利保護が目的なら、『屍食鬼』は何としても排除したい存在だろう。

 事実、魔法排斥運動はUSNA国内で急速に拡大している。留学前は東海岸周辺に留まっていた運動が、今では北米大陸全土へ広がる勢いだ。

 

 『屍食鬼』――魔法を操る怪物の存在が大きな影響を与えているのは間違いない。

 

 『屍食鬼』への敵意はいつ罪のない魔法師に向くかわからない。

 魔法を使えない人々にとっては、魔法師も『魔法を操る怪物』になり得るのだから。

 

 

 

 交渉は狙い通りにまとまった。

 『FEHR』は僕らの素性を秘密としたまま、彼ら自身が情報提供者として顧傑に関する事柄を当局に通達すると約束した。

 

 見返りに僕は顧傑の特徴や人脈、持ち得る呪術の種類など、知っている限りのことをすべて話した。

 彼らが持っていた情報と符合する部分もあったようで、根拠を明かしていないのにレナ・フェールの表情は真剣さを保ったままだった。

 

 

 

『貴重なお話をありがとうございました、ミスター・モリサキ、ミズ・キタヤマ』

 

 最後にもう一度腰を折って、間もなくレナ・フェールの輪郭が崩れ始めた。

 

 煙が風に流されるように、末端からサイオンの粒子となっていく。

 やがてその姿が夜闇に溶けると、ルイ・ルーは言葉なく一礼して自走車へ乗り込んだ。

 

 一方で遠上さんは仲間に続くことなく深い息を吐き、険しい表情をこちらへ向けてくる。

 

「森崎くん。つかぬことを訊くが、君は百家の生まれで間違いないか?」

 

 質問というより確認といった印象の問いだった。

 眼差しは鋭く、けれど内に宿る色はそれまでと少し違っているように見えた。

 

「おっしゃる通り、『森崎』は百家と呼ばれる家系の一つです」

 

 身体ごと正対して頷く。

 遠上さんの眉が動き、眼差しに鋭さが載った。

 

「成果を認められた側。魔法師になるべく生まれ、順当に魔法科高校に入学し、留学生に選ばれるほどの成果を発揮した。なるほど。これ以上ない成功例だ」

 

 声音には明らかに敵意が覗いている。

 意図したものかはともかく、隠したり繕ったりするつもりはないようだ。

 

「お偉い魔法師の君にとって、俺たちは顎で使う駒に過ぎないというのか?」

 

「……そのような意図はありませんが。随分と不穏当な言い様ですね」

 

 いまいち要領を得ない煽り。それでも喧嘩腰なのはハッキリとしている。

 自然と頭の中が研ぎ澄まされていって、意識が仕事用のモードに切り替わった。

 

 こちらの変化を見て取ってか、遠上さんは険しい表情のまま短く息を吐く。

 剥き出しだった敵意が理性の下に収まり、代わりに一層鋭くなった雰囲気で問いかけてきた。

 

「『数字落ち(エクストラ)』という言葉を知っているな?」

 

「ええ。もちろん」

 

「俺も『数字落ち(エクストラ)』の一人だ」

 

 ということは、やはり『(じゅう)』の出身か。

 十文字先輩と同じ第十研がルーツだとすればあの装甲魔法にも納得がいく。

 そしてあれだけの魔法戦闘技能を持つ人がなぜ留学生になったのかも、数字を奪われた家系の出だとすれば理解できた。

 

「ずっと憤りを抱えて生きてきた。表立って迫害を受けることはなくても、俺たち『数字落ち(エクストラ)』は一番得意な魔法を活かすことが許されなかった」

 

 第三次大戦が終結し、魔法技能士開発が安定軌道に乗って以降、『数字落ち(エクストラ)』に対する迫害は禁忌扱い(タブー)とされた。

 生まれ育ちを理由とした差別が禁止され、日常の中からはなくなった一方、彼らが数字を剥奪されるきっかけとなった特異魔法は未だにその使用を禁じられている。

 

 自分が一番得意な魔法を、自分ではどうしようもない理由で禁じられる。

 その絶望は計り知れないだろう。想像することしかできない身であってもそう思う。

 

「勝手な都合で生み出され、勝手な都合で捨てられた。

 感謝も詫びもなく、補填も保証もなく、ただ認めないと突き付けられた」

 

 一高にも『数字落ち(エクストラ)』の出身者が何人かいた。

 七草先輩の下で生徒会役員を務めていた市原先輩もそうだ。コンバット・シューティング部の佐井木先輩も数字を剥奪された家系の出だと聞いたことがある。

 

 同じような憤りを、先輩たちも同様に抱えていたかもしれない。

 

「お偉い百家の一員なんだろう? 黒幕がわかっているなら、自分で解決すればいい。

 成功した側なんだ。俺たちみたいな半端者より、よっぽど上手くやれるんじゃないか?」

 

 遠上さんは挑発とも嘲笑とも取れる言葉で締めくくった。

 

 八つ当たりなのはわかってる。そもそも話の趣旨が違うのだ。

 出来る出来ないではなく、誰がやるかを交渉していたのだから。

 

 ただ、それでも。

 

 この問いに対する回答はきっと、探し続けている答えにも繋がる気がした。

 

 

 

 言いたいだけを言い捨てて、遠上さんはルイ・ルーの乗った自走車へ向かっていった。

 

 ドアが音を立てて閉じられ、車がモーターの駆動音と共に走り去る。

 すっかり静かになった展望台には僕と雫の他に人影もなく、だからこそ彼女の呟きもはっきり聞き取れた。

 

「ごめんなさい」

 

 振り返った先で、雫は泣きそうな顔をしていた。

 涙は流していなくても、顰めた眉は微かに震えていた。

 

「私が甘かった。何かしたいって気持ちばっかりで、どうすれば説得できるか考えが足りてなかった」

 

 自らを抱く手は強く握られていて、泳いだ末に見上げてくる目も滲んで揺れていた。

 

「結局、駿くんに頼ることになっちゃって。それで遠上さんも……。本当にごめんなさい」

 

 こんな顔をさせたかったんじゃない。

 こんなことを言わせたかったんじゃない。

 

 ただ、雫にはできるだけ笑顔でいて欲しかった。

 守ることばかりに気を取られていて、いつの間にか見失っていた。

 

「大丈夫だから。顔を上げてくれ」

 

 俯いてしまった彼女の肩に手を置く。

 冷たくなった上着の上から軽く力を込めると、雫はおずおずと顔を上げた。

 

「雫の気持ちはよくわかる。知っているのに何もできないのがどれだけ苦しいことかもね」

 

 彼女の瞼が少しだけ下がる。

 同意と納得が目の奥に覗き、複雑な色を湛えたそれがまっすぐに見つめてくる。

 

「確かに『FEHR』からの印象は良くないだろうけど、それと遠上さんの怒りはまったく別の話だ。雫が気に病むことじゃない」

 

 目を合わせて言うと、やがて雫は渋々ながら頷いた。

 

「さあ、帰ろう。風邪を引いてしまう」

 

 無理矢理に笑顔を繕って、乗ってきた自走車のドアを開く。

 

 助手席に乗り込む間も、下宿先までの道中も、雫はじっと窓の外の冬空を見つめていた。

 

 

 




 
 
 
 原作をご存知ない方への補足
・遠上遼介は原作の5年後(2100年)以降を描いた続編『メイジアン・カンパニー』に登場した青年で、原作登場時点で『数字落ち』の家系に生まれたことによる劣等感や憤りへ折り合いを付けていました。本作において、彼の登場は原作よりも4年早くなっています。


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