モブ崎くんに転生したので、謙虚に生きようと思う   作:惣名阿万

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第5話

 

 

 

 ● ● ●

 

 

 

 九校戦は8月1日から12日までの日程で開催される。このうち実際に競技が行われるのは3日からで、1日には開催前の懇親会が開かれる予定だ。

 3日に行われる開会式が表向きなセレモニーだとすれば、1日に開かれる懇親会は関係者だけのプレ開会式と言えるだろう。各界の重鎮が若き才能へエールを送り、選手たちはお互いに挨拶という名の探り合いを繰り広げるのが毎年の光景だった。

 

 会場は国防軍が管理する富士演習場。各校の代表メンバーやサポートスタッフは軍が運営する高級官僚や外国軍人等が利用するためのホテルに部屋を貸し与えられ、大会期間中はホテル設備に加え周辺の練習場等も利用することができる。

 

 北海道にある第八高校や熊本の第九高校を初め遠方に位置する学校は1日を待たず、事前に会場へ前乗りするのが定番となっている。より移動に時間の掛かるこれらの学校には、開会までの期間、練習場が優先的に割り当てられるためだ。

 一方、西東京の一高や静岡の四高といった比較的近郊の学校は懇親会の開かれる1日に現地入りするのが通例。大型バスをチャーターしての移動時間は精々が2時間程度で、事前に会場の下見をすることもできないため早めに向かう理由がないのだ。

 

 また、懇親会の翌日は丸一日が自由時間とされている。

 これは出場選手がコンディションを整えられるようにするための配慮で、希望すれば練習場を利用することはできるものの、調整以上のトレーニングに打ち込む者はほとんどいない。

 大半がこの日を休息日に充て束の間の観光気分でリフレッシュするか、本番へ向けて集中力を高めるために費やすのがお決まりの流れだった。

 

 こうした経緯もあり、今年の一高選手団も懇親会当日の出発となった。

 

 この日の集合時間は朝8時。場所は第一高校の駐車場。

 全員が揃ったところでチャーターした大型バスと、CADの調整等に用いられる作業車両4台に分乗し、富士へ向かう予定だった。

 

 しかし、実際にバスが出発したのは遅れに遅れての午前10時前。

 家の都合で遅くなると連絡を入れた真由美を待っていたというのが、出発が遅くなった理由だ。

 

 真由美は十師族の中でも特に有力な『七草家』の直系。第3子とはいえ、当主の用件を放り出すわけにもいかず、真由美自身は先に行って欲しいと鈴音へ伝えた。鈴音はこれを克人と摩利へ相談し、三人の間では真由美の願い通り先に出発しようと決まった。

 

 しかし、折悪しく話を拾い聞いてしまった二年生の男子が否やを唱え、それに多くの生徒が賛成したことで車内の雰囲気は真由美を待つ方向に傾いてしまった。

 こうなると、克人や鈴音には強行しての出発という手段を選ぶことができなかった。九校戦での優勝という大きな目標に向かって一致団結を促すためには、ここで士気の低下を招くべきではないと考えたのだ。

 

 結果、不満げな摩利を抑える形で待機が決定されたのである。

 摩利も始めこそ面倒だと言わんばかりにため息を吐いていたが、真由美へ事情を伝えようとする鈴音に「焦らせる必要はないぞ」と念押しする辺り憂慮していたのは確かなのだろう。仕方なしに隣の花音と話しだした彼女に、鈴音はそのクールな相貌を僅かに綻ばせていた。

 

 その後、予定よりも二時間近く遅れて到着した真由美を乗せ、一行を乗せたバスはようやく走りだしたのである。

 

 

 

 

 

 

 富士へと向かう車内は、和気藹々とした雰囲気に満ちていた。二時間近い遅れに神経を尖らせることもなく、また間近に迫った九校戦本番を前に話題に事欠くこともない。

 早くも闘争心を滲ませる男子のみならず、女子の方もそれは同じだった。

 

「深雪、お茶でもどう?」

「ありがとう、ほのか。じゃあ頂こうかしら」

 

 深雪は穏やか且つ温かな口調で応えた。

 見ているだけで癒される幸せそうな笑み。少なくともほのかの目にはそう見えた。

 

「深雪ってば、さっきのがよっぽど嬉しかったのね。――はい、どうぞ」

「ありがとう。ふふ、実はそうなの」

 

 互いに柔らかな笑みでやり取りする深雪とほのか。

 通路を挟んで座る雫は、そんな二人の様子に胸を暖かくした。

 

 今でこそ和やかな雰囲気の二人だが、出発前はどうなることかと心配していたのだ。

 

 

 

 真由美を待つ間、バスの車内は概ね平穏な空気が保たれていたが、深雪とほのかだけは時間が経つごとに表情を暗くしていた。

 

 二人が気にしていたのは当然、達也のことだ。

 バスへ乗車する人数の確認という仕事を与えられていた達也が、真夏の炎天下に立ち尽くしていることを気に病んでいたのである。

 

 九校戦の会場へ向かうまでの間、競技を控えた選手に負担を掛けないようにという配慮の下、人数確認やバスへの誘導などの雑事は裏方のスタッフが担うことになっていた。

 作戦スタッフと技術スタッフは計12名おり、仕事は分担制で内容に違いはあるものの、全員が何かしらの仕事を請け負っていた。

 

 とはいえ、そうした雑多な仕事の中には面倒なものも含まれる。

 出発日当日の朝、誰よりも早くこの場へ来て人員のチェックを行うという仕事は、誰も進んでやりたいと思う類の仕事ではなかった。

 そんな中、スタッフに一人だけ一年生がいるとなればお鉢が回ってくるのも仕方のないことだろう。名指しで投げられるようなことは当然なかったが、そこは寧ろ達也の方が空気を読んで名乗り出たのだった。

 

 真夏の炎天下、日差しを遮るもののない場所で人を待つのは楽ではない。ましてやいつ到着するかわからない者まで待つとなれば、達也を慕う深雪とほのかが彼を気に掛けるのも当然というべきだろう。

 バスの中で待てばいいのではと雫は思ったが、深雪曰く、達也は変なところで律儀なせいか、要らぬやっかみを買わない為にも大人しくバスの外で待つことを選んだようだった。

 

 達也は自分から進んで(半ば諦めの境地で)買って出た仕事をしているのだ。少なくとも体裁上はそういうことになっており、だからこそ一年生のそれも二科生である達也が左程風当たりも強くなく過ごせている。

 そこに深雪やほのかが口を挟むことなど出来るはずもなく、だからといって彼の苦労を忘れて楽しむこともできず、結果二人は気を揉んでいるのだった。

 

 どうしたものかと雫は考え、けれど有効な解決策は思いつけずにいた。

 深雪とほのかへは折を見て声を掛けてはいるものの、二人の心情を晴らすような都合の良い言葉は出てこなかった。

 

 後ろから男子の声が聞こえてきたのは、そんなときのことだった。

 

「森崎、どこ行くんだ?」

 

 名前に釣られて振り返ると、駿が後部座席の方から通路を前へと向かっていた。

 立ち止まり、困ったような苦笑いを浮かべて駿は振り返る。

 

「ちょっと手洗いに行ってくるだけだ」

「あ、じゃあ俺も行くよ」

 

 我が意を得たとばかりに五十嵐鷹輔が立ち上がる。続いて同じモノリスメンバーの香田も立ち上がり、駿は呆れたように小さく息を吐いた。

 三人は最前列付近にいた鈴音へ断りを入れ、駿たちはそのままバスを降りていった。

 

 雫の目が窓越しに彼の背中を追いかける。

 三人の後ろ姿はカフェテリア方面へ遠ざかり、やがて見えなくなった。

 何とはなしに視線を置き続けると、彼らは5分程で再び姿を見せた。

 

 カフェテリアの陰から出てきた三人は手に何かを持っていた。姿が大きくなるにつれ、手にしたモノの正体が判ってくる。

 校内各所の自動販売機で売られているボトル飲料だ。各々で違う飲料を鷹輔と香田は一つずつ、駿は左右両方の手に持っていた。

 

 この時点で、雫は駿の思惑を悟った。

 思わず口元に笑みが浮かび、温もりが胸に広がる。鳩尾がキュッと締め付けられ、それが妙に心地良く感じられた。

 

 バスの前まで戻ってきた駿は両手に持ったボトルの一方を差し出した。相手の姿はバスの陰に隠れて見えないが、扉の前には元より一人しかいない。後ろの二人は何とも言えない表情だったが、駿のやることならばと呑み込んでいるようだ。

 

 飲み物を渡した駿は自身の持つボトルを開いて一口飲むと、鷹輔と香田を交えて四人で雑談に興じ始めた。困ったような顔で応じる達也の姿が目に浮かぶようだった。

 

 この光景をずっと見ていたい。唐突に湧きだした欲求に、雫は内心で首を振る。

 そっと立ち上がり、通路を挟んで座るほのかの肩を軽く叩いた。顔を上げたほのかは雫と目が合うと、きょとんとした顔で首を捻る。

 

「どうしたの。何かいいことでもあった?」

 

 感情が表に出にくい親友が滅多にない穏やかな笑みを浮かべているのだ。何事かと問うのは自然なことだった。

 

 ほのかの問いかけに、雫は仕草で応えた。小さく手招きをして、自分の座っていた側の窓を指差す。

 疑問符を浮かべたまま立ち上がったほのかに場所を譲り、ほのかの向こうの深雪にも声を掛けた。

 

「深雪も見てみるといいよ」

「あら、何かしら」

 

 深雪の声はそれまでと打って変わって弾んでいた。

 駿が外へ出たことに加え、雫の表情や行動から、兄が束の間の話し相手を得ていることを察したのだ。誘われるまま、深雪も立ち上がって反対側の窓へと身を寄せる。

 

 そっと窺うように窓の外を覗いた二人の表情はすぐに綻んだ。

 

「達也さん、なんだか楽しそう」

「ええ。そうね」

 

 安堵したように笑う深雪とほのか。そんな二人を見て、雫はグッと手を握る。

 すっかり機嫌を直して窓の外を窺う二人。元々窓側に座っていた女子は既に避難を完了させており、深雪の座っていた席で息を吐く彼女へ雫はそっと謝意を口にした。

 

 

 

 そんな一幕があり、車内の安寧は保たれたのである。

 

 ほのかが無邪気に笑えるのも、深雪が穏やかでいられるのも、一人で仕事に向き合う達也を気遣った駿の心意気に依るもの。

 それも雫のような女子生徒ではなく、男子である駿が行ったからこそ要らぬやっかみを受けずに済んだのだ。

 

 尊敬に値する人物だと、雫は改めて思った。

 頼りがいがある人物といえば他に達也の顔も浮かぶが、達也の場合は誰かの助けを必要とする姿が想像できず、また深雪という誰よりも優秀な人物が何を置いても彼を支えるだろう。

 

 等身大で親しみやすく、頼りがいがあり、それでいてどこか目が離せない。

 森崎駿という人物は、雫の出会ってきた人々の中で初めての存在だった。

 

 雫はほのかへ目を向ける。

 

 達也を慕い、憧れを抱くほのかの想いを、これまでの雫は応援することしかできていなかった。

 言葉の意味、感情のあらましとしては知っていても、実感を持って理解できていたわけではなかった。

 アドバイスはできても、共感することはできなかった。

 

 けれど、今ならほのかの抱く想いを理解できるかもしれない。

 まだ淡い温もりに過ぎないこの感情に、いつか確信を持つことができるかもしれない。

 

 「せめて移動中くらいは休んでもらいたかった」と些細な愚痴(・・・・・)を漏らす深雪と、その横でクスクス笑うほのかを見て、雫は予感めいたものを感じていた。

 

 

 

 

 

 

 バスは順調に走り、間もなく神奈川と静岡の県境に差し掛かろうとしている。

 束の間のバス旅も終盤を迎え、どこか弛緩した空気が車内を包んでいた。

 

 ほのかから顔を戻して、雫は座席へ深く座り直した。

 そのときのことだった。

 

「危ない!」

 

 つんざくような悲鳴が聞こえ、全員が対向車線側の窓を見た。

 

 事故が起きたのだとすぐにわかった。対向車線を走っていた自走車が車線を仕切るガード壁に衝突し、激しくスピンし始めていた。

 車両は二度、三度と回転しながら反対側の壁に衝突して跳ね返り、あろうことか中央のガード壁を跳び越えてきた。

 車はそのまま対向車線――一高のバスが走る車線に落ち、猛烈な勢いで滑ってくる。

 

 事故車が目の前に落ちてきた時点で急ブレーキが掛かる。摩擦音を立てながら、車体を僅かに横滑りさせたところでバスが停車した。後続の作業車両も玉突きを起こすことなく停車している。

 一方、正面から滑走してくる車両は止まる気配がない。車体は既に炎上し、巨大な火の玉となって真っ直ぐに突っ込んでくる。

 

 雫は一瞬身体を強張らせた後、急いで立ち上がり、CADを嵌めた腕を突き出した。

 

 今ならまだ間に合う。

 彼女の得意とする振動魔法では車両ごと破壊してしまうので、運転手の安否を思えば使えない(炎上している時点で生存は絶望的だった)が、衝突を防ぐだけなら移動魔法で事足りる。

 自走車の質量と速度を考えれば相当な事象干渉力が必要となるだろうが、これまでの経験上自分の干渉力なら対応できると判断した。

 

 CADにサイオンを注入し、突っ込んでくる車両の座標を見極めながら、起動式を読み込むためにCADを操作しようとして――。

 

 その瞬間、視界を遮るように手が伸ばされた。

 反射的に邪魔をした人物へ鋭い目を向ける。

 

 視線の先にいたのは駿だった。真剣な顔で車を睨み、横目に見て雫の眼差しを受け止めると小さく首を振る。

 意味がわからず、手を下ろさせようと掴んだところで、別の声がバスの車内に響いた。

 

「吹っ飛べ!」

「このっ」

「止まれぇ!」

「っ……」

 

 いくつもの声と共に放たれた魔法式が無秩序に自走車を包み、それぞれ異なる事象改変を施そうとして相克を起こしていた。

 

 複数の魔法式が一つの対象に別々の効果を及ぼそうと投射された場合、それぞれの魔法式が相克を起こし、どの魔法も効果を発揮することができない。

 今回であれば、向かってくる車は破壊されず、減速もせず、火が消えることもない。このまま衝突すれば大きな被害を受けることとなるだろう。

 

 事態の深刻さに気付いた摩利が悲鳴に似た声で呼びかける。

 

「十文字!」

「っ……。サイオンの嵐が酷過ぎる。消火までは無理だ」

 

 重ね掛けされた魔法式はキャスト・ジャミングに似た状況を生み、これを押し退けて魔法の効果を及ぼすにはそれだけ圧倒的な魔法力が必要となる。

 普段であれば防御も消火も造作なくこなせる克人を以てしても、今の状況では両方を為し得るのは難しい。それほどまでに魔法の相克は厄介なものだ。

 

 魔法の相克は、魔法を使う者にとって最も注意しなければならないことの一つ。故に、魔法を学ぶ魔法科高校の生徒にとっては常識的な知識とも言える。

 だがこの土壇場でそれを正確に認識し、自省することができるほど高校生の精神は成熟していない。個々に対処する技能を持っている分、尚更のことだった。

 

 雫は駿に止められ、出遅れたことで初めてそれに気付いた。

 もし魔法を使っていたら、あの無秩序な状態を悪化させるだけだったと。

 

「ごめん、なさい……」

 

 雫は冷静さを失っていたことを自覚し、掴んでいた手を放した。

 漏れ出た声には謝罪の響きが色濃く表れており、けれど駿は気にしていないとばかりに雫の頭へ左手を置いた。

 

 駿は左手を離すと、CADを取り出して構え、大きく声を張り上げた。

 

「魔法式は僕がどうにかします! 誰か消火の準備を!」

 

 ハッとしたように車内が我に返る。

 やるべきことの手本を示されれば、経験豊富な者から冷静な対応を取り戻した。

 

「私が火を」

「頼む」

 

 深雪が消火を買って出ると、克人は頷き障壁魔法の準備に取り掛かった。

 未だに激しく荒れ狂うサイオンの嵐の中、深雪と克人はそれぞれの魔法を編み上げる。

 

 二人がそれぞれに魔法式を組み立てる横で、駿がCADの引き金を引いた。

 瞬時に圧縮されたサイオンの塊が迫りくる車両を飲み込み、掛けられていた魔法式がまとめて消し飛んだ。

 

「何だ、今のは……」

 

 摩利が呆然と呟いた。鈴音と真由美も驚愕し、克人ですら目を見開いている。

 

 唯一冷静さを失わなかったのは深雪だけだった。待っていたとばかりに魔法を発動し、車両周辺の温度を一定以下に下げることで火を鎮火させる。

 火が消える頃には克人も切り替えており、強力な対物障壁で車両を押し留めることに成功。一行の誰にも何にも被害を出すことなく、事故は収束するに至った。

 

 怪我人は居らず、バスにも被害はない。

 魔法の相克という最悪の事態に対し、最良に近い対処だった。

 

 車内の至る所で安堵の息が漏れる。雫も同様に短く息を吐いた。

 

 だがそれも一瞬のことだった。それどころではない衝撃が続いた。

 不意に駿の身体がふらりと揺れ、糸の切れた人形のように崩れ落ちたのだ。

 

「森崎くん!」

 

 咄嗟に支えようとして、叶わず一緒に膝をついた。

 

 横倒しになる駿をバスの床にゆっくりと寝かせる。

 どうやら気を失っているようで、名前を呼んでも反応は返ってこない。力の抜けた駿の顔は青褪めていて、それは春に雫たちを暴漢から庇ったときの症状と酷似していた。

 

 

 

 誰かの為に無茶をする――。

 

 痛々しいまでに尊い気質の駿を、雫はただ案じることしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

 

 目が覚めると、目の前に雫の顔があった。

 泣きそうな顔で、けれど心底安心したように微笑んでいた。目の端に涙が滲み、ツーッと頬を伝っていく。

 

「よかった。ちゃんと起きてくれて」

 

 呟かれた言葉を呑み込んで、記憶の糸を辿っていく。

 

 九校戦の会場へ向かうバスに乗っていて、原作通りに事故車が突っ込んできたのは覚えている。

 近くにいた雫が魔法を使おうとしていたので身振りで制して、僕自身は『術式解体』で相克を起こした魔法式を吹き飛ばしたのだったか。

 

 あそこで『術式解体』を使わないという選択肢はなかった。

 深雪は僕があの魔法を使えることを知っているし、どうにかする手段があるのに手をこまねいているのは僕の性格上ありえない。

 

 何もしなくても達也がどうにかするのは知っていたが、達也に『術式解体』の手札があることはこの時点では誰も知らないのだ。

 他に手がないと客観的に考えられる場合、僕は躊躇うことなく『術式解体』を撃つだろう。

 

 そうして『術式解体』を撃った後、意識が遠くなっていったんだったか。

 魔法式一つを吹き飛ばすだけなら意識を保てるが、十個以上の魔法式を吹き飛ばすとなると手加減はできなかった。

 

 段々と意識がはっきりしてくる。記憶が鮮明になり、自分は気絶していたのだと理解することもできた。ちょっと気合を入れて『術式解体』を撃つとこれだから困る。

 

 などと内心で自嘲していて、ハタと気付く。

 床に寝ているわけではないので、恐らくここはバスの最後列だろう。細かな振動が続いているあたり、まだホテルへ到着したわけではないようだ。

 

 にもかかわらず後頭部に伝わる柔らかな感触と、目の前には雫の微笑みがあった。

 こうなれば考えるまでもなくわかる。僕は雫に膝枕をされているのだ。

 

「世話を掛けたみたいだな。すぐに退くから……」

 

 言って身体を起こそうとすると、雫に額を抑えられた。

 普段なら無理矢理にでも起きられるのだが、如何せん調子が完全に戻ったわけではなく、簡単に引き戻されてしまう。

 

「大丈夫。無理したんだから、このまま休んでて」

 

 眉を寄せ、有無を言わさぬ眼差しの雫に額を抑え込まれる。

 抵抗しようかと迷うも本調子でないのは確か。後が怖いのは間違いないが、それは既に手遅れでもあるわけで。

 

「――じゃあ、お言葉に甘えさせてもらうよ」

「うん。寝ててもいいから」

 

 雫は優しい声音でそう呟くと、頭をそっと撫でてきた。

 まるで子どもをあやすような仕草に恥ずかしさが込み上げるものの、満足げな彼女の顔を目にして何も言えなくなる。

 

 仕方がないので目を閉じる。雫の手は一定のリズムで髪を梳き続けた。

 それは記憶にない感触で、しかし不思議と嫌ではなく、胸の奥がそっと落ち着くような心地がした。

 

 突き刺すような視線が多方面から射抜いてくる中、ホテルへ着くまで僕はそうして過ごすのだった。

 

 

 


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