モブ崎くんに転生したので、謙虚に生きようと思う 作:惣名阿万
お待たせしました。
◇ ◇ ◇
目が覚めると、懐かしい天井を見上げていた。
かつて目にしていたのと同じ白いタイル張りの天井。材質やデザインなど細かい違いはあるにしろ、病室というのはどこも似たような設計をしているらしい。
最初に考えたのはここへ運ばれた経緯だ。力及ばず敗れた決勝の後、二高の彼と握手をしてからの記憶が曖昧で、気付けば
現状が示す通り、敗因は
保有サイオン量の不足については『術式解体』を使うと決めたときから継続的に鍛えてはきたものの、その増加量は亀の歩みのように遅い。或いはもっと早くから鍛え始めていれば結果も違っていたのかもしれない。
――やはり、足りないな。
才能も、努力も、考えも、あらゆるものが足りていない。格上と相対する度にそう思う。
だからといって諦めるわけではないが、追い縋るために何が必要なのか考える時間は長くなる一方だ。それ自体が苦しいわけではなく、途方に暮れることしかできないのが只々悔しかった。
幸いというべきか、空調が効いた室内は涼やかで、ぐずぐずと煮える感情を冷ましてくれていた。
胸元までシーツが掛かっているものの、こちらも暑く感じるほどではない。ただ、右手だけは他と違う温かさを伝えてきていた。
何気なくそちらへ目を向けて、思わず固まる。
「おはよう」
目が合った雫はフッと笑みを浮かべた。
同時に右手が軽く握られ、初めて彼女の両手に包まれていることがわかる。ベッドの外へ伸びた手を膝の上に乗せ、まるで大事なものを扱うかのように柔く握られていた。
「顔色、戻ってよかった。さっきまで真っ白だったから」
小さく息を吐く雫の目元は薄赤く染まっていた。表情や口調、右手に残る熱からも、長いことそこにいたのだろうと判る。また随分と心配を掛けてしまったようだ。
「ずっと付いていてくれたのか?」
気恥ずかしさを堪えて訊ねると、雫は頷き、さわさわと握った手を撫でた。
「うん。七草先輩にお願いして、8時までは居ていいって言ってもらった」
お願いというのは、恐らく面会時間の延長を指しているのだろう。ちらと時計を見れば19時を回ったところで、本来の上限である18時は既に超過している。普通はこの時点で追い出されるところだが、七草会長、というか十師族の権威を借りることで無理矢理引き延ばした、と。
また強引な手をとも思うが、そこまで気に掛けられて嬉しく思わないはずがない。
とはいえ、喜ぶばかりという訳にもいかなかった。
未だ力の入らない身体を左手で支えて起こし、目線を合わせる。
「心配してくれてありがとう。だが、いいのか? 北山さんは明日、アイス・ピラーズ・ブレイクの試合があるだろ?」
明日は新人戦二日目。クラウド・ボールの予選から決勝までと、アイス・ピラーズ・ブレイクの予選トーナメントが実施される予定だ。雫はピラーズ・ブレイクの代表選手でもあり、スピード・シューティングに出場した今日はゆっくりと休んでおくべきはず。
すると雫は「しょうがないな」とでも言うように呆れた笑みを浮かべた。静かにため息を吐き、一緒に肩を上下させ、少しだけ首を傾けて答えを口にする。
「だから、8時まで。その後はちゃんと戻って休むから」
「……そういうことなら、わかった」
ちょっと余計な気を回し過ぎたか。
考えてみれば、会長が許可を出した時点で突っ込みどころは潰されていたはずだ。翌日の試合に響くほどのことを許すはずもなし。なんなら会長よりも前に止めそうな人物だっている。雫の担当スタッフは誰あろう達也なのだから。
ふと、そこまで考えたところで思い出した。
「そういえば、まだちゃんと言ってなかったな。
優勝おめでとう。決勝戦、見事だった」
称賛と、憧憬と、身勝手な感謝を込めて。
伝えたい想いを伝えてはいけない理由で圧し隠し、賛辞を贈った。
一瞬呆気にとられた雫は、ふわりとはにかんで応える。
「ありがとう。森崎くんも、準優勝おめでとう」
「ありがとう。……本当は僕も優勝できればよかったんだが。詰めが甘かったな」
思わず漏れ出た自嘲に、雫は小さくかぶりを振った。
「そんなことない。準決勝も決勝も、君は最後まで諦めなかった。辛くてもじっと耐えて、前を見続ける後ろ姿が、すごく格好良かった」
穏やかなのに芯の通った声で、雫はそう言った。
口元には柔らかな笑みを湛え、眼差しは驚くほどに温かい。右手から伝わる熱にも彼女の想いが載っているかのようだった。
決勝の直後から、目が覚めた瞬間から燻っていた無念が解きほぐされていく気がした。
届かなかった歯痒さと至らない自分への無力感が滲んで染み入り、残ったのは静かな悔しさと納得、湧き出るような歓喜だった。
「ありがとう。そう言ってもらえるのは、とても嬉しい」
噛みしめて、呑み込んで、素直な言葉を返す。
雫は満足げに頷いて、束の間穏やかな静寂に包まれた。
にぎにぎと手を揉む彼女は柔らかい笑みを浮かべていて、見ていると鳩尾の奥が温かくなる。無下にするのも忍びなく、されるがままに受け入れる。
ひとしきり弄った後、満足したらしい雫は手を止め、短く深呼吸をして口を開いた。
「じゃあ、あとは――」
呟いて、顔を上げた雫はすでに笑顔ではなくなっていた。
「どうしてあんな無茶をしたのか、教えて」
不意に手をギュッと握られた。痛む程ではないが、振り解くことは許さないとでも言いたげな強さだった。
思わず息を呑む。背筋に緊張が走り、身体を支える左手にも力が入った。
無理矢理振り解くことはできただろう。だが体調は万全には程遠く、何より彼女の目を見ればとてもじゃないができなかった。
それぐらい雫の眼差しは真剣で、押し殺した表情をしていたから。
「何か理由があったんでしょ。どうしても優勝したいと思う理由が。違う?」
「それは――」
内情をピタリと言い当てられて、咄嗟に出掛かった言葉を呑み込んだ。
どうして、とは思わない。雫には昨日の醜態を見られているし、その後の言い訳にも納得してはいなかった。予選の前には迂闊なことも言ってしまっている。疑問を持たれるのは当然だろう。
けれど、じゃあ全てを正直に話せるかといえば、それは否だ。おいそれと信じられる類の話ではないし、何より彼女を危険に巻き込むわけにはいかない。
どう答えるべきか悩んで、言い淀んでいる間に雫はスッと目を細めて続ける。
「教えて。君は、
思わずハッとした。
まるで確信を持っているかのように言った雫へ恐る恐る訊き返す。
「……どうして、そう思うんだ?」
「君が無茶をするのは、きっと誰かの為。春に私たちが襲われたときも、学校がテロリストに狙われたときも、バスが事故に巻き込まれそうになったときも。いつも君は誰かの為に無茶をしてた。だから今回もそうなんじゃないかって」
間断なく返ってきた答えに、危うく叫びそうになった。
驚き以上に、まるで美談のように語られるのが受け入れられなかった。
破裂しそうな感情を抑えつける。腸が捻れるような情動と噴き上がる衝動に蓋をして、引き攣る頬を無理矢理伸ばして表情を作った。
どうにか繕ったそれを苦笑いの形に変えて答える。
「誰かの為だなんて、そんな高尚なことは考えてない。全部、自分の為だ」
事実、そんなきれいな目的なんかじゃないのだ。僕のやっていることはただのエゴでしかなく、求める結果もただの自己満足に過ぎない。
本当に『誰かの為』を考えるなら、渡辺先輩の事故を見過ごすはずがない。モノリスで仲間を危険に晒す真似はしないし、何なら無頭竜の暗躍そのものを防ぐ手を考えるだろう。知っていて何もしない僕が『誰かの為』などと、口が裂けても言えない。
だというのに――。
「じゃあ、どうしてそんなに苦しそうにしてるの?
苦しんで傷付いて、それでも頑張ってるのは、どうして?」
雫は震えた声でそう言って、一層目を細くした。
ともすれば泣き出しそうな表情に自ずと息が詰まる。縋るように握られた手からは温もりと一緒に緊張も伝わってきて、無関係だからと一方的に振り払うことはできなかった。
心配を掛けている自覚はある。好意と厚意のどちらに由来するのかはともかく、歩み寄ろうとしてくれるのは素直に嬉しい。冷静で思慮深く、信用も信頼も置ける親しい相手なのは疑いようもない。
おいそれと打ち明けられることじゃない。先々のことを考えれば、全てを語ることは到底できない。
一方で、報いたい想いも確かにあるのだ。『彼女になら、或いは』と頭を過ることもあった。
揺れる瞳に見つめられて、尚もぐずぐずと迷った末に――。
変わらずひたむきな眼差しに絆されて、静かな病室へ掠れた声を絞り出した。
「…………
一度唾を飲み、舌を湿らせて続ける。
「絶対に守りたい、幸せになって欲しい人たちがいる。そのためならいくらだって努力するし、どんな無茶も通してみせる。今日の試合は、その一環だった」
吐き出してみれば、それだけのこと。
傷付いて欲しくない人たちがいて、勝手な思惑を叶えるために動いてきた。『原作』と同じ大団円を迎えることが目的で、そのために必要なことをすると決めた。
けれどそれらを叶えるには、僕の才能はあまりに乏しかった。
どれだけ努力しても足りなくて。どれだけ考えても届かなくて。実現するには何もかもが足りなかった。焦りと不安はいつも傍らにいて、追い立てられるように鍛錬を続けた。
足りないと知って。届かないと気付いて。
それでも守りたかったから。もう失いたくなかったから。
『
じっと耳を傾けていた雫が二度、三度と瞬きをした。
泣きそうな顔のまま、僅かに首を傾げて呟く。
「守りたい人、たち……? 一人じゃないの?」
予想とは微妙に異なる反応に呆気に取られ、何故か笑いが零れ出た。
「実は、そうなんだ。これでけっこう欲張りでね。一人二人じゃないんだよ」
そう言って肩を竦めて見せると、雫もようやく表情を綻ばせた。目の端を光らせ、小さく笑みを浮かべる。その笑顔がとても綺麗で、一度だけ大きく心臓が跳ねた。
片手で目元を拭った雫は深呼吸と一緒に諸々を呑み込んで。
やがて顔を上げた彼女は晴れやかに微笑んで口を開く。
「じゃあ、私も協力する」
「……え?」
思わぬ返答に間の抜けた声が漏れた。
追及や愚痴、非難ならまだわかるが、まさか協力を申し出られるとは思ってもみなかった。
二の句が継げぬうちに、雫は一人納得したように頷く。
「詳しいことはわからないし、訊かない。だから、いつでも頼って欲しい」
どういうことだ。事情は訊かないのに助力はするなんて、都合が良すぎる。
「どうして、そこまで……」
反射的に問いかけると、雫はきょとんと小首を傾げた。
「君の力になりたいから。それじゃダメ?」
当たり前のようにそう言われ、開いた口が塞がらない。
思わず「ダメじゃないけど」と答えてしまえば、雫は満足そうに笑みを浮かべた。
「今までは貰ってばかりだったから。これからは私も力になる。その代わり――」
そう言って彼女は手元に視線を落とし、握った手をさわさわと動かした。甲のあたりを撫でられ、目線がそちらへ釣られた拍子に、雫の表情がムッとしたものへ変わる。
「また無茶したら、その時はお願いを聞いてもらう」
彼女の怒った顔を面と向かって見たのは初めてで、だからだろうか、恐れ入るよりも新しい一面を目にした新鮮さが勝っていた。
「ちなみに、そのお願いっていうのは?」
「秘密」
直後に見せた悪戯っぽい表情も新鮮で、自然と口角が上がった。
「……わかった。なるべく無茶はしない」
軽く息を吐き、上目遣いに見てくる彼女へ頷いて応える。
「頼ってはくれないんだ」
「そんなことはない。というか、北山さんにはもう何度も助けられてるよ」
残念そうにため息を吐いた雫へ本音を告げる。実際、彼女の存在に助けられたのは一度や二度じゃないのだ。感謝を口にするのに躊躇うことなどない。
目を見張って固まった雫は、やがて綻ぶような笑みを浮かべた。
柔らかくて暖かい、陽だまりのような笑顔だった。
◇ ◇ ◇
そうして雫との話がひと段落したところで、不意に病室の扉がノックされた。一度そちらへ目線を運んだ雫が名残惜しそうに手を放す。
微妙に長い間の後で扉が開かれ、同時に豪放な声が室内へと掛けられた。
「そろそろ入っても構わねぇか?」
「お、お邪魔します……」
続けて窺うように小さな女性の声が聞こえて、入ってきた二人へ目を向ける。
「光井さん。それに佐井木先輩も。――なるほど、先輩は付き添いですか」
見たことのない組み合わせに首を捻りかけたものの、理由はすぐに察しが付いた。
時刻は既に19時を回っている。いかに国防軍の施設内とはいえ、女の子だけで出歩くには不用心な時間だ。二人とも一年生ということもあってお目付け役兼護衛を務めていたのだろう。
佐井木先輩はニッと笑みを浮かべると、わざとらしくおざなりに手を振ってみせた。
「まあな。他にも何人か名乗り出ちゃいたが、明日に試合を控えたやつばかりだったからな」
「アハハ……。よかった。もう大丈夫そうだね」
何かしら思い出して苦笑いを浮かべたほのかは、表情を改めると手にしたバスケットを差し出した。
「雫、ハイこれ。サンドイッチもらってきたよ」
「ありがとう、ほのか。佐井木先輩も、付き添って頂いてありがとうございます」
どうやら夕食を持ってきてくれたらしい。立ち上がった雫がバスケットを受け取り、両手に抱えて佐井木先輩へ腰を折る。
「気にするこたぁねぇ。お陰でこっちも甘いモン見られたしな」
佐井木先輩が意味深な笑みを浮かべると、雫の頬が俄かに赤く染まった。ニコニコと笑うほのかの表情も併せて、何を見たのかなんとなく想像がついた。
雫はそのままこちらへ振り返り、サイドテーブルにバスケットを置きながら訊ねてくる。
「お腹空いてるでしょ? 一緒に食べよう」
「ありがたい。さっきから腹の虫を抑えるのが大変で。光井さん、ありがとう」
「どういたしまして」
未だ赤いままなのは見て見ぬふりをして、差し出されたサンドイッチを受け取る。
お礼を口にしながらほのかと顔を見合わせると、お互い堪えきれずに笑みが零れた。
気付いた雫の顔が更に赤くなったのは、言うまでもない。
用意されたサンドイッチを食べ終えた後で、試合後の経緯を訊ねてみた。
案の定、僕は決勝を終えて二高の選手と握手をした後で意識を失い、会場の外に着けた車両へ担架で運ばれたらしい。
気になったのはその後、車両に乗せられる直前のことだ。
「――九島閣下が?」
思わぬ名前が飛び出して、オウム返しのように声が漏れた。
九島老師の名前を持ち出した雫が頷いて、詳細を口にしていく。
「うん。君が救急車に乗せられる時に会って、伝えておいて欲しいって頼まれた。『見事な試合だった。次も期待させてもらう』って」
「そうか。閣下がそんなことを……」
九島老師といえば、現代魔法師界における重鎮で、その礎を築いた傑物だ。『トリックスター』の異名を取り、世界最巧の魔法師として知られていた人物でもある。
毎年この九校戦にだけは必ず顔を出していて、次世代を担う魔法師を見定めていた老師は、案の定この時点で達也を見出していた。
十師族の長のような立場の老師にかかれば、一般には出回っていないような情報を収集することも難しいことではない。
実際、周到に隠されていた達也の素性すらも言い当ててみせた程で、万が一老師の注意を引くようなことになれば僕の過去もあっという間に知られることだろう。知られたからどうなるということもないだろうが、目立たずにいるに越したことはない。
だからこそ見定めポイントである懇親会では目立たぬよう振る舞っていたのだが、いつの間にか目を付けられてしまったらしい。
「どうかしたの?」
ふと、そんなふうに考え込んでいたところへ雫の声が挟まれた。すっかりいつも通りのポーカーフェイスに戻った彼女へ、大したことじゃないと首を振って答える。
「あの九島老師に注目されていると思うと、何だか不思議でね」
「すごく名誉なことなんだよね?」
「名誉という程かはわからないけど、身が引き締まる想いではあるかな」
ほのかの問いへ当たり障りのない答えを返す。実際、注目されたからといって何か行動を変えるわけでもないわけだし。
と、そこでタイミングよく佐井木先輩が歩み寄ってきた。
「さて、そろそろ帰るぞ。あんまり遅くなると、俺が七草にどやされる」
佐井木先輩に言われて、二人が銘々に立ち上がる。
「そうですね。じゃあ、雫」
「……うん。それじゃあね」
「何から何まで、助かった。ありがとう」
ほのかと、ほのかに手を引かれる雫を見送る。
二人が病室を出て扉が閉まったところで、佐井木先輩がぽつりと呟いた。
「あーあー、胃もたれしそうだなこりゃ。なあ、森崎」
「僕に振られても困ります。というか、先輩だってお相手ならいるでしょうに」
「アイツはああいう判りやすい反応はしないんだよ」
揶揄いには軽口で返してから、改めて一人残った先輩へ腰を折る。
「先輩も、ありがとうございました」
「何事もなければ明日には退院できるらしいからな。大人しく休んどけよ」
「はい」
ぶっきらぼうな心遣いにもう一度礼を言って、背を向けた先輩を見送る。
「じゃあな。――いい試合だったぜ」
去り際、肩越しにちらりと視線をくれながらそう言って、佐井木先輩は出ていった。
一転して静かになった病室で横になる。
何気なく触れた鳩尾は、心なし温かく感じた。
転勤とそれに伴う引っ越しのゴタゴタに追われたのに加え、思っていた以上に難産な回でした。
転勤直後ということで今後また更新ペースが遅くなる可能性があります。
どうぞ気長にお待ち頂ければ幸いです。