モブ崎くんに転生したので、謙虚に生きようと思う   作:惣名阿万

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 大変お待たせいたしました。
 
 
 
 
 


第30話

 

 

 

 ● ● ●

 

 

 

 達也と将輝による砲撃戦から始まった新人戦モノリス・コード決勝は、最後の瞬間に至るまで観客を大いに惹き付けた。

 

 二度の煙幕に紛れた前進。駿と真紅郎の激突。仲間の失点をカバーした将輝の一撃。

 生じた隙を突いて達也と幹比古は距離を詰め、再度立ち上がった駿の鮮やかな陽動で一気に肉薄、最大の壁である将輝を打ち倒してみせた。

 

 個々の献身や技量もさることながら、見事な連携で絶対的な実力を誇る将輝を打倒する光景は、スタンドにいる観客の胸を打った。続く窮地を救い、試合の勝敗を決定付けた幹比古の貢献も大きい。

 

 そうして三高チーム最後の一人が倒れた直後、会場は静寂に包まれる。

 

 誰もが目にした光景に息を呑み、言葉を失っていた。

 やがて理解が追いついた者の口から俄かに囁きが漏れだす。

 

「――勝った?」

「勝った……勝ちました!」

 

 囁きはざわめきに、ざわめきは歓声へと変わった。

 

 初めに呟いたエリカへ応えるように、ほのかが歓喜の声と共に立ち上がった。

 英美が続き、和実とスバルが続き、残る女子メンバーや男子メンバーも続くと、一高の応援席にいた人間のほとんどが立ち上がる。

 

 そこからは堰を切ったように歓声が上がった。

 一般の応援席はもちろん、三高側の応援席からも拍手が送られた。中には悔しげに顔を覆う者もいたものの、多くは納得した面持ちで手を叩いていた。

 

 歓喜と歓声に包まれたスタンド。

 しかしそれはすぐにどよめきへ変わり、やがて波が引くように小さくなっていった。

 

 彼らの目は一人の少女へ向いていた。

 一高側応援席の最前列。手すりの前に立ち、両手で口元を抑えた深雪に観客の注目が集まる。瞳を涙で滲ませ、言葉もなく肩を震わせた深雪はじっと眼下を見つめていた。

 

 彼女の視線の先には、ゆっくりと歩いてくる達也の姿があった。

 流石に疲労と負傷の影響は隠し切れず、それでもしっかりとした足取りで仲間と歩調を合わせ歩いてくる。深雪の眼差しに手を挙げて応える達也はまさしく深雪にとっての英雄だった。

 

 周囲の眼差しを惹き付けながら、それらを一切気に掛けることもなく。

 九校戦の歴史に残る名勝負の果てに凱旋する兄を、深雪は一心に迎える。

 

 まるで物語の一節のような光景に、周囲からは自ずと拍手の音が広がった。

 拍手は次第に万雷となり、両校のチームの健闘と栄誉を称える声は会場全体を包んでいった。

 

 

 

 

 

 

 一高チームの三人は、ともすれば三高側以上に満身創痍だった。

 達也は将輝を攻めた際の魔法で右耳の鼓膜が破れ、駿は左肩の脱臼と右足の怪我の悪化により一人で歩くことも難しい有様。唯一怪我のない幹比古も度重なる攻防と砂煙で泥と擦り傷に塗れ、4試合を戦った疲労も蓄積している。

 今も駿は幹比古に肩を借りてようやく歩けているくらいで、達也も傍目にはともかく平衡感覚を半ば失っている。普段よりも歩みが遅いのは、駿と幹比古に合わせているからというだけではない。

 

 それでも三人は自分たちの足で、帰りを待つ者の下へと向かっていた。

 

 道中、意識のはっきりしてきた駿へ、達也が茶化すように口を開く。

 

「それにしても、また随分と無茶をしたな。雫が黙っていないんじゃないか?」

「覚悟の上さ。心配を掛けるような戦い方しかできない僕の責任だからな。というか、そちらだって似たようなものだろう?」

 

 苦笑いを浮かべながらも言い返した駿に、達也は肩を竦める動作で応じて見せた。

 

 緊張の抜けた、どこか吹っ切れたような口調。

 幹比古は駿の声音が穏やかになっているのを感じつつ、気になっていたことを訊ねた。

 

「無茶と言えば、あの状況からよく起き上がってこられたね。一条選手の攻撃は直撃していたように見えたけど」

 

 幹比古の問いかけに駿は「ああ」と呟いて目線だけを向ける。

 

「お察しの通り、避けられるタイミングじゃなかった。だからせめて戦闘不能にならないよう、吹き飛ばされる方向に身体を流してダメージを減らそうとしたんだ。あまり上手くはいかなかったがな」

 

 面目ないとばかりにため息を吐く駿に呆れを漏らす。いい加減、駿の高校生離れした技量や胆力には驚きも湧かなくなってきたと、幹比古は自覚していた。

 

「大人しく受けていれば失神するだけで済んだだろうに。怪我を負ってでも立ち上がることを選ぶとはね」

「この試合だけは、負けるわけにはいかなかったからな」

 

 同じく呆れたようにため息を吐いた達也へ目を向けて、駿がさらりと言ってのけた。

 脱落させられた五十嵐と香田については達也も少しは知っていて、だからこそ駿が抱えていただろう想いは察せられる。やれやれと息を吐いて、けれどそれ以上追及することはせず、達也は足を止めて顔を上げた。

 

「ともあれ、優勝は優勝だ。お前たちも少しは歓声に応えたらどうだ?」

「そうだね。特に君は無事だとアピールしておかないと、医務室まで乗り込んできちゃうかもしれない」

 

 二人に促され、揶揄われながら、駿が顔を上げる。

 視線が客席を巡り、並んだ顔触れに口元を綻ばせていった。

 

 やがて駿の目がスタンドの一角、最前列の席で手を叩く一人に留まる。

 静かに涙を流す深雪の後ろで。同じように瞳を滲ませながら、それでも微笑み手を叩く雫の姿に、駿はどこか納得したような笑みを浮かべて目礼を返した。

 

 

 

 

 

 

 鳴り響く拍手の中心に立つ深雪の傍らで、雫は静かに胸を撫で下ろす。

 締め付けるような苦しさは肩を借りて歩く姿を見て溶け、握った手の下、胸には温かな熱と鬱々とした想いが燻っていた。

 

 怪我をしていたはずの駿が駆け出した時、客席は驚きと興奮に包まれた。

 自己加速術式を利用したフェイントで真紅郎を打倒した時も、将輝の攻撃を受けて尚立ち上がった時も、不撓不屈を体現した姿に誰もが驚き、興奮と共に歓声を上げていた。

 

 彼らの反応が間違っているとは思わない。

 逆境に立ち向かう姿に憧憬を抱くのは自然で、本人の意志を差し置いてまで止めようとするのは寧ろ蔑ろにしているのと変わらない。

 

 何より駿本人が決めたことだ。

 交わした約束は身勝手なもので、守れない理由があるのも知っていた。

 雫自身、納得したからこそ怪我を押して全力を出そうとする駿を止めなかったのだ。

 

 理屈の上では理解している。けれど、それでも――。

 

(誰かの為だからって、君が傷付くのは嫌だよ)

 

 零れ落ちた想いは胸中に広がり、先程までとは異なる苦しさが込み上げる。両手をより強く握り、震えだしそうになるのを堪えた。

 

 駿が無茶をして傷付く度に気持ちは強くなった。

 想いを寄せれば寄せる程に駿の美徳とされる在り方は像を変え、傍目には献身に映る行動も雫にとっては胸の痛む光景となっていた。決定的だったのは往路のバスでの一幕で、以来雫は駿から目を離せずにいる。

 

 やめて欲しいと、その一言が言えればどれだけよかったか。

 駿の願いを想えばこそ、雫には駿を止めることができなかった。

 

 数日前、搬送先の病院で駿が語っていた言葉を思い返す。

 

『絶対に守りたい、幸せになって欲しい人たちがいる。そのためならいくらだって努力するし、どんな無茶も通してみせる』

 

 雫が抱いた想いは駿の願いと相反するものだ。

 自分よりも『誰か』の幸せを願い守ろうとする駿に対して、雫はそんな『誰か』よりも駿の安寧をこそ願ってしまっている。

 

 口にしたところで明確に拒絶されることはないだろう。

 だがきっと受け容れられはせず、胸の内を明かしてはくれなくなるかもしれない。

 そうなれば最後、駿との関わり合いは今よりずっと寒々しいものとなるに違いない。

 

 雫にとって今やそれは耐え難いことに感じられた。

 半年前には知り合ってすらいなかった相手だというのに、駿の存在は雫の中でそれほどまでに大きくなっていた。

 

 闇雲に制止しても叶わない。

 駿が抱える事情を知らなければ言葉を届けることすらできない。

 

 だからこそ、雫はその理由を知りたいと思った。

 

 まるで何かに追い立てられているような、鬼気迫る闘志の根底には何があるのか。

 煩わしく思われたくなくて、「詳しくは訊かない」と都合よく振る舞ってさえおきながら、知りたいと思う気持ちはどんどん強くなっていた。

 

(――決めた。『お願い』はこれにしよう)

 

 覚悟を決めて、小さく頷く。

 

 ほのかに促されるままに立ち上がり、視線を眼下へ落した。

 丁度その時、三人の足がスタンドの前で止まり、俄かに拍手の音が大きくなった。感極まった者たちが徐々に立ち上がり、スタンディングオベーションの波が会場を包んでいく。

 

 臆する心を押し殺して握っていた手を開き、周囲と同じように拍手を送る。

 和やかに言葉を交わす三人へ手を叩きながら、雫はじっと想い人を見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

 決勝戦の後、担架と車両で医務室へ運ばれた僕は、担当医から叱責を受けた。左肩は脱臼したまま走ったことで炎症が起きていて、右足も骨にこそ異常はなかったものの元の打撲が悪化して二日間の運動禁止が言い渡された。

 幸い魔法による治療のお陰ですぐに歩けるようにはなった。日常生活を送る分にはほとんど影響はなく、追加の治療も必要ないらしい。

 

 医務室を出ると、時刻は17時を回ったところだった。

 時間があれば裾野基地の病院へ行こうと思っていたのだが、今から向かったのでは面会時間に間に合わない。見舞いに行くのは明日にすべきだろう。

 

 一応、七草会長を頼れば無理にでも時間を伸ばしてもらえる可能性はある。僕が運び込まれたときのように20時まで延ばしてもらえれば面会自体はできるかもしれない。

 だが五十嵐と香田の二人は大怪我をした後なのだ。手術と痛みで体力が落ちているところに押し掛けるのは控えるべきだろう。たとえ彼ら自身は迎えてくれるとしても、負担を掛けるような真似はしたくない。

 

 二人に助けられ、レオに代わって試合に出続けた。

 これが今後、どういった影響を及ぼすかはわからない。

 

 達也の活躍を実現することはできた。寧ろ達也の活躍がなければ優勝など到底できなかっただろう。幹比古も腕を揮っていたし、これで目的の一部は達成できたと考えられる。

 

 一方でレオの頑強さと高い格闘センスを知らしめる機会を奪ってしまったのも事実。刀剣状の武装デバイスを使う機会もなくなったため、エリカがレオに剣術を指南するという流れも失われた可能性がある。

 これでレオがエリカの手解きを受けられなくなれば、それだけ秋の一件での戦力が減ることになる。数多くの戦いが描かれた原作の中でも特に大規模な戦闘だ。どうにか立て直しを図る必要があるだろう。

 

 考えるべきことは他にもある。

 一色愛梨たち三人への注意はもちろん、無頭竜の妨害の変化も見過ごせない。僕自身への工作はともかく、二日目の襲撃がなかったことや組み合わせの操作など、原作以上に慎重な立ち回りをしているようなのは気になるところだ。

 

 本来なら明日の夜、連中は達也の報復によって壊滅する。一高の優勝を阻もうとミラージ・バットへ工作を仕掛けた結果、達也の唯一にして最大の逆鱗に触れるのだ。

 達也の襲撃と尋問により、無頭竜は工作を仕掛けた当事者だけでなく裏にいる組織のトップまでもが一掃され、組織の在り方自体が大きく変革されることになる。

 

 この変革は、後のストーリーに大きな影響を及ぼした。

 新しい指導者が日本に対する敵対行為を取らないよう求めたのだ。

 

 結果《無頭竜》は日本への干渉を止め、後に黒幕の一人を追い詰める鍵となる。

 男が後ろ盾にしていたのがこの組織で、現指導者と男は兄弟分の間柄にあった。魔法師の権威失墜を目論む男はこれを機に《無頭竜》とのコネクションを失い、日本における工作拠点がなくなったことで影響力を衰えさせることになった。

 

 日本国内における《無頭竜》の影響力を取り除き、件の男の手足となる勢力を失わせる。そのために無頭竜の現指導者である孫公明は是が非でも摘発されなくてはならない。

 達也が連中の拠点を襲撃して情報を引き出すのは、この点においても重要な意味を成すことになる。

 

 差し当たっては明日、ミラージ・バットの試合で深雪のCADに細工が施されるかどうかが重要だ。深雪が狙われることで達也が一時的に全力を発揮でき、これが連中の拠点を強襲する引き金となる。

 

 原作で本人が言っていたように、達也が深雪の身に付ける物に細工をされて気付かないとは思えない。仮に見逃したとしても、それとなく気付くように誘導することは可能だ。

 

 問題は細工がされなかった場合にある。深雪への工作が一切なく、達也が報復に動かないというのが考え得る最悪のシナリオだろう。

 独立魔装大隊が動いているので何かしらの行動はあると思うが、まったく同じ成果が挙げられるかはわからない。連中を取り逃がすことなく、また情報も引き出さなければならないのだ。

 

 加えて、考えるべきことがもう一つ。

 深雪ともう一人、ミラージ・バットでターゲットにされる人がいるのだ。原作のように魔法力を失うような事態になることは何としても避けたい。九校戦が始まるまでにできる限りの手は打ったが、果たしてちゃんと機能するだろうか。

 

 

 

 あれこれ考えを巡らせている間に、気付けばエントランスまで戻ってきていた。食事が始まるまではまだ少し時間があるし、一度部屋へ戻って考えをまとめるべきだろうか。

 

 そうしてエレベーターホールへ足を向けると、手前のソファースペースにいた人物と目が合った。

 こちらが気付くのを待って立ち上がった彼女は、いつも通り感情の読めない表情で歩いてくる。

 

「こんばんは、森崎くん」

 

 目前で止まり、雫はじっと見上げてきた。

 気のせいか、エレベーターホールへの通路を遮るように立っているようにも思えた。

 

「こんばんは、北山さん。すまない、待たせてしまったか」

「勝手に待っていただけだから。気にしないで」

 

 言ってからチラッと雫の視線が右足に落ちる。

 

「怪我の具合はどう? 歩いても平気なの?」

「大丈夫だ。医者からも走ったりしない限りは普通に生活していいと言われた」

 

 正直に答えると、雫は安心したように一度頷き、「じゃあ」と半歩距離を詰めてきた。

 

「少し付き合って欲しい。いい?」

「ああ。もちろん」

 

 断るつもりは当然ない。

 雫に連れられるまま、ホテルのエントランスから外へと出た。

 

 

 

 

 

 

 夏の日は長く、空は橙色に染まりながらも未だ明るかった。

 怪我を気遣ってくれているのだろう。普段よりもゆっくりと歩く雫に付いてホテルの庭園を歩く。生け垣に囲われ色とりどりの花が両脇を彩る道は、景色の割にほとんど貸し切りの状態だった。

 

 ホテルを出て5分程歩いた辺りで、隣に並んだ雫がゆっくりと切り出す。

 

「改めて、優勝おめでとう。ハラハラしたけど、とても感動した」

「こちらこそ、君に送り出してもらったお陰で最後まで走ることができた。改めてお礼を言わせて欲しい」

 

 頷いて返すと、雫は苦笑いを浮かべて目を細めた。

 

「本当は止めたかったんだよ。約束、してたのに」

 

 そう言う彼女の目元はほんの僅かに震えていた。

 やはり相応に心配を掛けていたらしい。決勝の前には黙って送り出してくれたが、それはこちらの事情を汲んでくれたからだったのだ。

 

「すまない。どうしても負けられない理由があったんだ」

「うん。それは、わかってる」

 

 絞り出すようにそう言って、雫は前へ向き直る。

 

 そこからしばらくは、お互い無言で歩き続けた。レンガ敷きの歩道をゆっくりと歩き、やがて「この辺でいいかな」と呟いた雫は庭園に面したベンチへ腰掛けた。

 促されるままに隣へ座って、彼女が話し始めるまで庭園の木々を見つめる。

 

 やがて口を開いた雫は、前置きもなく本題を切り出した。

 

「『お願い』、聞いてもらうって言ったよね」

 

 こちらへ目を向けることはなく、まっすぐに前を向いたまま彼女はそう言った。

 ちらと雫の横顔を覗いて、一言頷いてから答える。

 

「約束していたからな。できる限りのことはするよ」

 

 彼女の言う『お願い』が何なのか。

 正直なところ、これだろうなという予感はあった。

 

 これまで散々世話を掛けておきながら、けれど彼女の抱く疑問に答えてはいなかった。

 縋り、頼って、弱音を吐いて。それなのに肝心なことはほとんど話していないのだ。

 物分かりよく、いっそ都合よく呑み込んでくれていた雫だが、いい加減我慢ならなくなったのだろう。

 

「君のことが知りたい」

 

 だから彼女がそう口にしたとき、耐えられずに息が漏れた。

 希望に添えないことを申し訳なく思いながら、一方で惜しくも感じていた。

 

「どんなものが好きで、どんなものが苦手なのかとか。部活や風紀委員の話も、お仕事の話も聞きたい。少しずつでもいいから君のことを知って、そして――」

 

 こうまで寄り添おうとしてくれる彼女に報いたい気持ちは確かにある。好意がないかと問われれば「ある」と答えるだろう。

 

 それでも、こればかりは応えることができないのだ。

 『彼』と『彼の記憶』に基づく事柄は、もう誰にも知られるべきじゃない。

 何よりも、全てを話して見損なわれたくないと自己保身の覗くのが嫌だった。

 

「いつか、君が守りたいって言っていた人たちのことも知りたい」

 

 滔々とそこまでを言い切って、雫はそっと振り向いた。

 澄んだグレーの瞳に見据えられ、自ずと息が詰まる。

 

「……それが『お願い』なのか?」

 

 どうにか絞り出した声に、けれど返ってきた反応は予想外なものだった。

 

「ううん。違う。知りたいのは確かだけど、それは今じゃなくていい。だから、『お願い』は別のこと」

 

 思わず、呆気にとられる。

 

 さらりと言い放った雫は、それからクスクスと笑いを零した。

 まるで悪戯を成功させた子どものような、無邪気で憎めない笑みだった。

 

 ひとしきり笑った後、雫の目が改めて僕を捉えた。

 口を開いたところで詰まり、小さく深呼吸をして、か細く震える声を漏らす。

 

 

 

「名前で、呼んで欲しい」

 

 

 

 彼女の頬は、傾く日も相まって赤く染まっていた。

 

「ほのかがしているように。達也さんがしているように。『さん』付けもいらない。名前だけで呼んで欲しい」

 

 心なしか早口にそう言って、じっと上目遣いに見つめてくる。

 思いもよらない要求に言葉を失い、数秒掛かってやっと我に返る。

 

「それは……」

「できないとは言わせないよ。お願い、聞いてもらう約束だから。そうでしょ――駿くん(・・・)

 

 言い訳を探す傍から詰め寄られ、口を挟む間もなく名前を呼ばれた。

 

 間近に迫った雫には言い知れぬ迫力があって、けれどその肩は小さく震えていて。

 

 気丈に振る舞う雫がどれだけの勇気を奮っているのか、ようやく理解した。

 

「――わかったよ、()。君の願う通りにしよう」

 

 応えて、そっと彼女の頭に手を添える。

 元より赤い雫の顔が尚朱に染まり、それでも彼女の勢いは止まらない。

 

「ありがとう。それで、実はさっきお父さんが……っ!」

 

 瞬間、人が倒れる音が聞こえた。

 雫の声が詰まり、バッとそちらへ目を向ける。

 

 真夏の日暮れ時にもかかわらず、まるで凍り付いたかのような緊迫した雰囲気。

 振り向いた先を見て固まる雫に半ば以上予想を立てながら、そっと振り返る。

 

「あ、はは……バレちゃったわね」

 

 苦笑いを浮かべたエリカがそこにいた。レンガの道に両手を着き、その背中には頬を染めたほのかが張り付いていた。

 二人の向こうにはため息を吐くレオ、幹比古、美月の三人。最後に彼らの後ろから兄妹が進み出て、兄の方が何食わぬ顔で口を開いた。

 

「こちらへ歩いて行くのが見えてな。邪魔をするつもりはなかったんだが、結果的にそうなってしまった。すまない」

 

 それが止めとなった。

 

 オーバーヒートを起こした雫が俯き頭を抱え、声もなく悶え始める。そんな彼女にほのかが抱き着き、深雪とエリカ、美月が囲んで宥めていった。

 立ち上がって場所を譲り、こちらはこちらでもの言いたげなレオと幹比古を無視して、唯一的確な答えをくれそうな達也へ訊ねる。

 

「いつから聞いていたんだ?」

「名前で呼んで欲しいと雫が迫っていたあたりからだ。位置的に雫からなら見えていたと思ったんだが、案外緊張して目に入っていなかったのかもしれないな。いや、目に入らなかったのは別の理由があったからか?」

「さあ、どうだろうな。そちらこそ、千葉さん一人ならテンプレートなドジなぞ踏むまいに、光井さんのそれに巻き込まれたのであればこうなったのも納得だ」

 

 わかりやすく揶揄われたので、こちらも「ちゃんと手綱は握っておいてくれ」と意趣返しをしておく。どうやら真意も伝わったようで、互いに苦笑いを浮かべて息を吐いた。

 

 せっかくだ。明日の試合に向けて、激励でも送っておこう。それでプレッシャーに感じるような相手でもあるまい。

 

「明日のミラージ・バットで優勝すれば一高の総合優勝が決まる。君たち兄妹の活躍で、委員長の無念を晴らしてやってくれよ」

「ああ。ベストを尽くそう」

 

 いっそ清々しいほどの即答に、やはり敵わないなと思った。

 

 

 

 

 

 

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