モブ崎くんに転生したので、謙虚に生きようと思う 作:惣名阿万
規定時間の経過を知らせるブザーの音を合図にサイオンの流れを止める。
魔法式が霧散して消え、効力の残滓だけが残った。数日前までは制御が効かず苦労したこれにもだいぶ慣れてきたようだ。
「うんうん。初めの頃と比べて随分余裕が出てきたね」
博士の言葉に頷いて応え、溜まった息を大きく吐き出す。
荒れた呼吸を整えている間、博士はじっとこちらの挙動を観察していた。
「体調はどうだい? 意識に異常はないかな? なにせこの術式は恐らく世界で初めての試みだ」
いつになく上機嫌に見えるのは長年の研究が実を結んだからか。大型の端末や計器の前で忙しなく動き回る部下たちをよそに、タブレット端末を持って傍へと歩いてくる。
「バイタルはモニターしているからまだいいとして、君自身にしかわからない弊害が生じる可能性もある。重ねて言うけれど、何か少しでも違和感があれば遠慮なく言って欲しい」
言われるまま身体の各部へ注意を向ける。
手足は疲れによって重くなっているものの痛みはなく、噴き出す熱と汗に関しても想定の範囲内だ。肺と心臓の圧迫感も激しく動いた後と考えれば異常なほどではない。
「いえ、疲労感と体温の上昇以外に問題はありません」
そう言うと、博士はスッと目を細めた。
鋭い眼差しがまっすぐに向けられ、少しの間が空いた後で元の笑みに戻る。
「――では、当初の予定通りこれで観察期間を終わりにしよう。今後は週に一度検査を受けてもらうだけで構わない。契約した通り、術式の使い方については君に一任するよ」
「ありがとうございます」
一週間分の感謝を口にして深く腰を折る。博士の意図はわからないままだが、それとこれとは話が別だ。お陰で足りない力を補う手段が得られたのだから。
「そうそう。最後に一つだけいいかな」
部屋を出ようとしたところで、ふと呼び止められる。
振り返った先で、博士はいつもの笑みをどこかへと収めていた。
「使い方は任せると言ったけど、一応警告を。その術式を使うときはなるべく短い時間に収めた方がいい。連続使用も厳禁だ。頼り過ぎてもしも限界を超えてしまえば――」
段々と重さを帯びる声が一度途切れ、彼は口の端だけに笑みを浮かべて言った。
「最悪の場合、
見抜かれていたことに驚きを感じながら、再度の一礼で応えて部屋を後にした。
実験用の小ホールを出て被験者用の個室へ。全身に滴る汗を流して私服に着替え、手荷物を纏めて部屋を出る。
研究室では引き続き解析作業が続いていて、忙しなく動き回る研究チームのメンバーに一声だけを掛けて出口へ向かった。
出入り口へ繋がる無機質な廊下を歩いていると、徐々に五感が戻ってくるのがわかった。
輪郭のぼやけていた視界に奥行きが生まれ、スピーカーから出力されていたような音が直接鼓膜へと届く。
足裏が床を踏みしめる感触も、鼻腔を通る消毒液の匂いも、遠く隔絶されていた感覚が実感として蘇ってきた。
研究所の敷地を出たところで大きく息を吸って吐く。
暗く厚い雲が空の大部分を占める中、それでも
◇ ◇ ◇
休学明けの一日はクラスメイトからの歓迎で始まった。先に教室へ来ていた少数に始まり、登校してきたメンバーから続々と声を掛けられる。
休学の理由やどこに行っていたのかなど、答えられない問いは躱しつつ応対していると、何人かの口から生徒会長選挙の話題が出てきた。立候補したのは原作通り中条先輩だけで、月末の生徒総会で演説と信任投票が行われるそうだ。
予期せぬ競合候補が出なかったことはひとまず安心だ。横浜での騒動を思えば、中条先輩が生徒会長の立場にいないのは致命的な要素になりかねない。
それにしても、まさか僕自身が競合候補になりかけるとは思わなかった。噂が独り歩きしていたことに加え、何やら推薦まで出されていたらしい。
期待されること自体は嬉しく思うが、応えられるだけの器量があるとは思えない。ましてやいつまで役に立てるかもわからないのだ。分不相応な願いが何処に行きつくのか予想できない以上、他人を巻き込む立場に立つべきじゃない。
頭の片隅でそんなことを考えながら談笑していると、新たに一組が教室へ入ってきた。
途端、話していた内の一人が妙に生温かな笑みを浮かべる。わかりやすい表情の相手に促されるまま振り向くと、予想した通りの人物がそこにいた。
「おはよう、駿くん。一週間ぶり」
自分の席へ寄ることもなく、まっすぐに歩いてきた彼女に苦笑いが浮かびかける。
「雫、光井さんも。おはよう。二人とも変わりなさそうで何よりだ」
「森崎くんも元気そうでよかった。忙しいのかもって雫が言ってたから」
雫の横に並んだほのかは呆れを隠す気もないようだった。
堪えきれずに口角が上がり、見られる前に表情を繕う。
目を閉じて顎を引き、ざわつく胸中を抑えつけて腰を折った。
「心配を掛けたようですまない。連絡だけでも取っておけばよかったな」
事実、先週半ばまでは余裕がなかった。刻んだ刻印術式の制御に手一杯で、三日間はベッドから起き上がることすらできなかった。雫からの連絡があのタイミングでなかったら、電話に出ることはなかっただろう。
とはいえ、メッセージの一つくらい送る体力は残っていたはずだ。心配を掛けると予想出来ていたなら尚更、その程度の配慮をして然るべきだった。
そう思い至らなかった。考えないようにしていたのは、身勝手な想いが原因だ。
「この分はいずれ埋め合わせをさせてもらうよ」
「いずれ」が訪れない可能性すら知りながら、しゃあしゃあと言ってのける自分に吐き気を覚える。鳩尾を焼くような熱が喉までせり上がって、危うく呻きを漏らすところだった。
それでも表情だけはどうにか繕って、追及に備えるべく顔を上げる。
そうして初めて、雫がより近くから覗き込むように見上げてきていることに気付いた。
ハタと目が合い、互いに瞬きを一つした後で彼女は小さく首を傾げた。
「もしかして、背伸びた?」
思いもよらぬ一言に言葉が詰まる。
予想していなかった反応と問いに思考が固まって、用意していた言い訳は宙に浮いたまま、間の抜けた答えだけが口を衝いて出た。
「……実感はないが、そう見えるか?」
「うん。少し目線が高くなった気がする」
「確かに、言われてみればそんな気も……。雫、よく気付いたね」
即答した雫に続いてほのかにまでそう言われてしまっては呑み込むほかなかった。
気付かれないよう静かに息を吐いて、自然と浮かんだ苦笑のまま二人へ応じる。
「入学前に身長は止まったかと思っていたんだが、そうだとしたら嬉しいな」
どうやら取り越し苦労だったらしい。
知らず内に張っていた肩を撫で下ろす。
考えてみれば、少し警戒し過ぎていたのかもしれない。
休学していた本当の理由を語れないからといって何が問題になるわけでもないのだ。一から十まで知らせる必要はなく、それで弊害が生じることもない。
「やっぱり背が高い方が嬉しいの?」
「そりゃあね。あまり高すぎると不便かもしれないが、せめてあと5センチは欲しかったかな」
密かに張っていた緊張の糸が緩み、素直な感想が漏れ出る。
原作の『
「十文字会頭や沢木先輩、同学年でいえば司波や西城なんかも上背があるだろう? 体格のある方が仕事でも箔が付くし、護衛対象を守る時にも色々と便利なんだ」
「確かに、大きな人は安心感があるかも」
ほのかの感想に「そうだろう」と頷いて、手元へ目を落とす。
装う必要のなくなった今、言葉として出るのは本心からのもの。嘘も虚飾もない本音を口にしていると、渦巻いていた嘔吐感が少しだけ引いていく気がした。
「僕にとって、十文字会頭は理想の体現だ。体格だけじゃなく、魔法師としてもね」
そしてそれは達也もまた同じ。
二人のような大器になれたらと、どんなに願ったことか。
「あんな風になれればと考えたこともあったからな。少しでも近づけたのならやっぱり嬉しいよ」
止まったはずの成長が形として現れたのは、心からの喜びだった。
◇ ◇ ◇
5限目の座学を終えた後、僕は風紀委員本部へと向かった。
休学明けの今日は巡回に当たっているわけではないものの、一週間も当番から外れたからには挨拶の一つくらいしておかなくては申し訳が立たない。
ましてや風紀委員は現在、渡辺先輩から千代田先輩へ委員長職を引き継いでいる最中だ。忙しい中で人手が減れば、それだけ一人当たりの負担も大きくなるのは当然のこと。
扉を開いた先には渡辺委員長だけがいて、デスクで書類と格闘していた委員長はこれ幸いにと顔を上げた。
後回しにする口実を与えてしまったことに軽い罪悪感を抱きつつ、デスクの前に立って腰を折る。
「先週は私事にも関わらずご配慮を頂き、ありがとうございました」
「正式な休学申請に基づくことだ。何事もなく復帰したのならそれで構わんよ」
取り敢えず穏便な回答が返ってきたことにもう一度礼を口にして、持参した差し入れをデスクへと置いた。
一瞬面食らったように固まった委員長は、短く息を吐いてから呆れ笑いを浮かべる。
「律儀なやつめ。――ほお、これはもしかして」
早速とばかりに差し入れを袋から取り出した委員長は、外装に印字された店名を見て歓声を漏らした。寿恵さんのお気に入りの一つだけあって好評を得られたらしい。
渡辺委員長への挨拶は終わり、他のメンバーは誰もいない。
差し入れの菓子も近日中に全員の手へ渡るはずだ。人数分以上の物を用意したので、まさか受け取れない人など出るまい。
これで用件は終わり。となれば早々に退室すべきだろう。
長居して書類仕事が進まなければ労役を負うのは達也か僕のどちらかだ。
言葉は出さずに一礼し、静かに振り返る。
委員長が差し入れに集中している間に立ち去ろうと一歩を踏み出した直後、逃がさないとばかりに制止が飛んできた。
「少し待て。もうすぐ達也くんが来るはずだ。揃ったらまとめて連絡事項を伝える」
内心でため息を吐き、再度振り返る。
しかし続く言葉はなく、首を捻ってみても委員長は黙ったまま、差し入れた焼き菓子の箱を開けて一つを取り出す。
手にした一つと残りを視線だけで見比べ、結局最初に選んだスフレをそのまま手元へ置いた委員長の顔には、普段の凛とした雰囲気とは異なるあどけなさが滲んでいた。
思わず笑みが浮かびかけ、視線が合った瞬間、咄嗟に目を逸らす。
視界の隅から飛んでくる射貫くような眼差しに気付かぬふりをしていると、やがて靴音と共に委員会本部の扉が開かれた。
「おはようございます、委員長」
慣例の挨拶を口にした達也は、正面の委員長を見て僅かに目を細める。
対する渡辺委員長は即座に表情を改め、何事もなかったかのように頷いた。
「ご苦労。ちょうど君が来るのを待っていたところだ」
「……そうでしたか。お待たせしてしまってすみません」
どうやら触れないでおくことにしたらしい。
謝罪のポーズで流した達也はその後、ちらりとこちらへ顔を向けてくる。
「一週間ぶりだな。今日は当番に当たっていなかったと思うが、挨拶に来たのか?」
「急な申し出だったからな。司波も、巡回を代わってもらって助かった。心付けを用意したから、よければ受け取ってくれ」
言うと、達也の目が委員長のデスクへと伸びた。
差し入れの菓子箱を目にした達也は一瞬だけ眉を顰め、しかしすぐに表情を改める。
「そういうことなら、ありがたく頂こう」
達也が頷くと、それを待っていたかのように委員長が「さて」と切り出した。
「では、連絡事項を伝える」
本題へ入るのに際して姿勢を正す。と、隣の達也もほぼ同時に同じ行動を取った。
意図せず揃った動きをした僕たちを何とも言えない目で見ながら、結局何もツッコみを入れることなく委員長が続きを口にする。
「知っての通り、来週末には生徒総会と立会演説、並びに中条の信任投票が行われる予定だ。これに際し、風紀委員は会場内外の警備を担当することになっている」
「春の討論会と同じ役割だと考えてよろしいですか?」
「その認識で構わない。不穏分子が紛れているという点でも状況は似通っているからな」
相槌代わりの質問に頷いて応えた委員長は、それから口元を隠すように手を組んだ。
僕らの他に誰もいない本部で、それでも尚声を潜めて指示を下す。
「生徒総会では真由美から規則の改訂案が出される予定だが、反対派による妨害が起きる可能性がある。討論で済んでいる間は進行役が諫めるだろうが、もしも何らかの脅迫や暴力行為が実行された場合は即座に取り押さえろ」
口調通りの人目を憚る指令に短い沈黙が降りる。
予想していた僕は吟味する体で黙ったまま、達也が口を開くのを待った。
「会長が討論で押されるとも思えませんし、実力行使をしては心証が悪くなるだけです。現場で風紀委員が動くような状況は考えづらいのでは?」
達也の疑問は渡辺委員長にとっても想定内だったようだ。
小さく頷き、組んでいた手を解いて一方を開いてみせる。
「達也くんの言う通り、その場で我々が動くことにはならないだろう。故に警戒すべきは当日ではなく、そこに至るまでの期間だ」
「会長の改定案を潰すため、反対派が根回しを行うとお考えなのですね」
「あまり強硬な手段を取るとは思えんが、万が一ということもある。今日から2週間、巡回に当たる際は注意して臨んでくれ」
反対派の活動に対する警戒。それが今回の指令の主眼ということだろう。
並んで首肯した僕たちに、委員長は「頼んだぞ」と念押しをして立ち上がった。
「他の役員にはこちらで話しておく。あまり他の生徒の耳に入れたくない話題だからな。わかっていると思うが、無闇に広めてくれるなよ」
デスクを立った委員長は不敵に笑い、一転さっぱりとした口調で話を締める。
「話は以上だ。あたしはしばらく
「了解しました」
答えた達也に左手を挙げて応じ、委員長は生徒会室へ繋がる部屋へと足を向けた。
扉が閉じ、階段を上る足音が遠くに聞こえたところで達也がこちらへ振り返る。
「じゃあ俺は巡回に行ってくる。森崎は部活か?」
「ああ。部長に挨拶をしてから、軽く汗を流していくつもりだ」
答えると、達也は顎先に手を触れて何かを思案し始めた。
「そういうことなら、下校のタイミングは同じになりそうだな。お前さえよければ、また寄り道に付き合わないか」
思ってもみなかった誘いに浮き立ちそうになったものの、呑み込んで苦笑いを作った。
「すまないが、今日は外せない予定があってね。また別の機会に誘ってくれるか」
少しだけ高い位置にある達也が納得顔で頷き、口の端を僅かに持ち上げる。
「なら懲りずにまた誘わせてもらおう」
複数の感情で震える指先を握り込んで隠し、浅く腰を折ることで応えた。
「ありがとう。それじゃあな」
「ああ。また」
それきり巡回の準備を始めた達也に背を向けて本部を後にする。
本棟の廊下を歩く間、うなじの辺りを撫でるようなむず痒さがなくなることはなかった。