「野次馬がすごいですね……」
葬儀協会を介した出動要請を受けたイリア・トラディスが現場に駆けつけたときには、既にあたりは黒山の人だかりとなっていた。荒事や面倒ごとに慣れきって、ちょっとした騒ぎはすでに日常の一部となっている旧市街の住人たちも、さすがに殺人事件ともなると興味を持たずにはいられないらしい。しかも殺されたのが旧市街有数の金持ち、クラムゼ・スタールともなればなおさらなのだろう。
ほんの数年前にこのミスラントの街に現れた彼は、名うての商人であると同時にお世辞にも好ましいとはいえない性格の持ち主だった。わざわざ旧市街の労働者階級が多く住む地区に屋敷を構え、事あるごとに自分がいかに裕福であるかをこれ見よがしに見せつけ、労働者層の多い旧市街の住人達を見下していたのだ。
そんな人間だったから旧市街の人間の間での彼の評判は極めて悪く、現に今も屋敷を囲む野次馬たちの顔に浮かぶのは殺人事件が起きたという驚きや恐怖、そして被害者に対する「ざまあみろ」とでもいうような昏い感情の色だけで故人を悼むようなものは少しもない。
人垣を掻き分けながらそれを感じ、イリアは小さく息を吐いた。
イリアもクラムゼに対していい印象を持ってはいないが、それとこれとは話が別だ。どのような人物であれ死者は死者であり、一定の敬意を払うべきと考えているイリアにしてみれば死んだ人間を嘲笑うようなこの空気は好ましいものではないが、他人が訳知り顔でやめろといってどうなるものでもない。気持ちを切り替え自分の仕事に集中するべきだろう。
なぜなら――
(葬儀師のわたしが呼ばれたということは、つまりはそういう事だもの。しっかりしないと)
葬儀師は普通の葬儀屋とは違う。人の死に合わせて時折発生する、極めて強く歪な負の感情ーー死念と呼ばれるものを浄化するのが主な仕事だ。
だが普通に人が死んだくらいでは死念は発生しない。それが生まれるのは、災害や大事故のような一度に大勢の人が死んだ場合や、病院のように死念のみならず負の感情も溜まりやすい場所、どちらにしても特殊な状況に限られている。一説には死念は、死者の魂が強い負の感情で変質したものとも言われている。
つまり葬儀師が呼ばれるということは、それだけで尋常ではない何事かが起きているということだ。まあ、葬儀屋の人手不足を理由に代役を務めることは有り得るが、その場合は葬儀屋すらいないような小さな集落の巡回などが普通だ。このミスラントのような大きな街でただの殺人現場の処理に駆り出されるなどありえない。
現場を見てみないと詳細は不明だが、何を見ても驚かないよう心構えだけはしておくべきだろう。
そんなことを考えながら、赤い規制線テープが貼られている正門に近づくと、すぐに見張りに立っていた警備官が一人こちらを見とがめて近寄ってきた。
「おい、あんた。ここから先は関係者以外は立ち入り禁止だ。用事があるなら出直せ」
まだ駆け出しなのだろうか。幼さの残る顔は過剰なまでの緊張感に彩られ、イリアに向けられた目には警戒心がありありと浮かんでいる。
今回の依頼は警備局から出たもので、つまり少なくとも、今回の件に関してはイリアは関係者といえるのだが――
(怪しまれてるのかしら。まあ、服装が服装だし怪しまれても仕方ないかな)
時代錯誤甚だしい、おとぎ話の死神がまとっているような黒いローブを見下ろして、イリアは苦笑した。
葬儀師にはこれと言って身分を証明するような服はない。詳しい理由は不明だが、特定の制服が必要なほど数がいないとか、やり方や格好なども含めて独自の様式(スタイル)にこだわる人間の多い葬儀師は制服を嫌っているとか研究者はあれこれ仮説をたてているようだが、少なくともイリアにしてみれば葬儀師の服装といえばこれというこだわりの側面が強い。それこそ初対面の相手に警戒感をむき出しにした対応をとられてもだ。
なんだか嫌な慣れ方をしているな、などと思いつつ、イリアは慣れた手つきでマントの内側の貴重品用ポケットからパスケースを取り出して中の証明証を提示した。
「始めまして。葬儀協会ミスラント市支部所属
イリアの言葉に、男はあっけにとられた様子で目を見開いた。疑わし気な視線がイリアの顔と証明証のあいだを何度も行き来する。
「確かに証明証は本物のようだが……お前、本当に
「葬儀屋ではなく葬儀師
「ふうん?それの何が違うのかよく知らんが……まあ、正規の依頼で来たんだな。それなら話は聞いてる。通っていいぞ」
「全然違います」と反射的に言い返しそうになって、イリアはぐっとその言葉を飲みこむ。
人の死んだ現場に駆けつけ、遺された死念の処理をするのを生業とする者はひとまとめに葬儀屋と呼ぶのが世間では一般的らしいが、葬儀師という仕事に思い入れのあるイリアにはそれはあまり愉快なことではなかった。
確かに人の死に関わる仕事という点では同じだが、遺された人の気持ちに寄り添って葬儀を取り仕切り死者の旅立ちを手伝う葬儀屋と、死者の置土産ともいえる死念やそこから生じる災厄を祓い浄化する葬儀師ではまるで違うではないか。
とはいえここで彼に怒っても意味はない。それより仕事だと自分に言い聞かせて気持ちを切り替える。
もやもやした気持ちを文句の言葉ごと呑み込んで警備官に頭を下げてイリアは屋敷の敷地に足を踏み入れた。手入れの行き届いた庭を横切り入口に立っていた警備官に証明証を見せて用件を告げると、見張りの警備官は無言で一つうなずくとイリアの通行を認めてくれた。
開けっ放しの扉をくぐり屋敷の中に足を踏み入れると、そこは豪奢な玄関ホールだった。本来は一定以上の地位や財産を持つ人物のみを客として出迎えるため金を惜しまず設計されたのであろうそこはしかし、今は大勢の警備官が足早に行きかい、叫び声や怒鳴り声が飛び交っていて、ピリピリとした空気が充満している。
その中心、大声で指示を飛ばしている男にイリアは歩み寄った。やややせぎすだがその体は適度に筋肉がついた引き締まったもので、貧弱な感じはない。少しくたびれたコートの胸には刑事官の肩書もちであることを示す階級章が光っている。
ローダン・ランチェスター刑事官。イリアがこの街で葬儀師として働き始めたころからの顔見知りであり、仕事の関係上顔を合わせることも多い。この街の警備局員の中で一番イリアと近しい人物と言えるだろう。
「おう。来たか、葬儀師。待ってたぜ」
「お久しぶりです、ローダンさん。一月ぶりくらいでしたっけ」
「だいたいそれぐらいだな。――時間が惜しい、案内するからついてきてくれ」
挨拶もそこそこに先に立って歩きだしたローダンの険しい顔つきに、彼の後を追うようにして歩きながら、イリアは自分の嫌な予感が間違いではなかったらしいことを察した。
「一応念の為確認します。わたしが呼ばれたのは葬儀屋の代わりではなく葬儀師が必要な現場だと判断されたから、ということですね?」
「ああ、そうだ」
厳つい外見に違わずというべきか。ぶっきらぼうで事件現場で無駄口をたたくなどあり得ないレベルの堅物であるローダンだが、それでも普段はここまでぴりぴりした空気をまとうことはない。葬儀師のイリアを呼んだことも合わせて考えると、どれほどの惨劇が起きたのか。それを考えるイリアの顔つきも自然と厳しいものになっていく。
(いったいどんな殺され方をしているのやら……。気はしっかり持っておかないといけないわね)
前述した通りただ人が死んだというだけでは死念はできない。つまり、こういう言い方はあれだがよくある殺人事件程度で葬儀師が呼ばれるようなことはなく、逆にいえば葬儀師が呼ばれるということは必然的にそこで起きた事件が尋常のものではないということでもある。
「――ひどい現場だということは予想できますが、具体的にはどんな感じなのか聞いてもいいですか?」
「ああ、現場は二階の書斎なんだが――あれだ、ひどい、としか言いようがないな。口に出して詳しく説明はしたくないし直接見てくれ。見ればわかる。全く、俺も長い間この仕事をしているが、あそこまで胸糞の悪くなる現場はちょっと覚えがない」
厳つい顔をいつも以上に歪めて語るローダンの様子にイリアも渋面の度合いをますます強めた。多くの事件現場に立ち会ってきたベテランの警備官にこんな顔をさせるなんてと、嫌な予感がどんどんと膨らみ、そして確信めいたものに変わっていく。
高級な調度品を手当たり次第に並べただけの絵に書いたような趣味の悪い成金らしい廊下を、行き来する警備官たちに時折鋭い声で指示を飛ばしながら進んでいくローダンについて歩いていると、やがて階段のある大きな吹き抜けにたどり着いた。
ローダンの後を追い階段に足をかけ――漂ってきた異臭にイリアは眉をひそめた。それが気のせいではないのはすぐに分かった。階段の段を上るその度に臭いははっきりと強く、そして濃くなっていく。決して好ましいものではないが嗅ぎ慣れた臭い。濃厚な血の臭いだ。
「……現場はこんなものじゃない。もっとえげつないことになっている。吐くななんて無茶は言わんが、吐くなら廊下の隅で頼むぜ」
仏頂面でそう言いながら、ローダンが入っていったのは二階の廊下の端に位置する部屋だった。入り口に見張りの警備官が立ち、大勢の人が忙しなく出入りしている点から見ても、この部屋が殺人現場なのだろう。こちらを認めて敬礼する警備官に軽く礼を返しながら、イリアもローダンの後に続いて部屋に入り――
「う、わ……」
あげかけた悲鳴を飲み込んだイリアは、口に手を当てたまま室内をゆっくりと見回した。
まず視界に飛び込んできたのは、部屋の中央に横たわるモノ。次に高価そうな書き物机と、揃いで作られたと思しき壁一面に並んだ書棚が目に入る。天井からぶら下がっているのは高価な光の魔刻石を用いた室内灯だし、机の横には最新型の蓄音機まで置いてある。よく分からないが、この分だと壁紙もかなり値の張るものだろう。
ふんだんに金を使った立派な書斎だ。しかし部屋中に飛び散った赤黒い血痕と、部屋中に充満するむせ返るような血の臭い。そしてなにより、部屋の中央に血まみれの男の死体が転がっている現状ではかけられた金の量も職人仕事による内装の数々も全く意味を為さないだろう。
あの世に財貨は持っていけないというある教典の一節を体現するように、ミスラント有数の資産家にして実業家、クラムゼ・スタールは、財の限りを尽くして築き上げた自らの城の真ん中で何も持たぬ物言わぬ屍となっていた。
「見ての通り、被害者はここの主人であるクラムゼ・スタール。犯行の推定時刻は午前8時頃から昼にかけて。仕事の邪魔をするなと閉じこもったまま、昼飯時になっても降りてこない主人をいぶかしく思った使用人が第一発見者だ」
ついでに、部屋の隅に景気よく吐いてくれやがった、といかつい顔を歪ませ、ローダンはぼやくが、人死にに慣れていない一般人がこの部屋の有様ではそれも無理はないだろう。一面の紅と充満する血の臭い。未熟とは言え一端の葬儀師として多くの死の現場を見てきたイリアも、ここまで凄惨なものは初めてだ。これは確かに、葬儀屋ではなく葬儀師(じぶん)が呼ばれるべき案件だ。
そう納得しながら、イリアの脳裏にはもうひとつ別の疑問が浮かんでいた。
確かに噂を聞く限り、この男はお世辞にも善人とは言えない人物だったようだが、だからといって人がこんな死に方を迎えていいものなのか?そして、どういう人間なら、人をこんな風に殺してしまえるのか?
(気になるけど、今考えることではないわね)
それよりまずはするべきことをしないと。頭を振り余計な思考を追い出すとイリアはローダンに声を掛けた。
「……できるだけ早く済ませたほうがいいですよね?」
「すまんな。検死の連中を待たせているからそうしてくれると助かる。だが、急ぎすぎて仕事が雑にならないようにな」
「言われるまでもないです」
――どんなときでも仕事は丁寧に。死者への敬意を忘れるべからず。
イリアに葬儀師として生きる術を教えてくれた人たちが、口をそろえて言っていた言葉だ。幼い頃から聞いてきた彼らの心構えは、今ではイリアの中にしっかり根を張り、彼女自身の仕事に対する心構えとなっている。なんらかの理由で今回のようにやむを得ず儀式を簡略化することはあっても、いい加減におざなりに行うことだけはあり得ない。
(しかし、それにしてもこれは……)
改めて遺体に向き直ったイリアは、ひどいとしかいいようのないその有様に自分の表情がこわばっていくのを感じた。
遺体の両手両足は体から切り離されて、四方の壁にまるで虫をピンで留めるように短剣で縫い付けられ、しかもその手足には一本の指もない。犯人が切り落として、その上で念入りにも踏みにじったのだろう。豪奢な絨毯の上にぽつぽつ散らばる白いものの混じったひき肉の塊はその痕跡だ。
頭と体にも大小無数の切り傷があり、特にその顔には目も耳も鼻もなかった。本来目があるはずの場所にあるのは、眼球をくりぬかれた後のぽっかりと空いた暗い眼窩だけで、耳や鼻のあった場所にも、あるべき器官は見当たらず、うっすらと開いた口の中に見えるのも、舌の残骸らしきものだけだ。
「奴さんの顔の部品を捜しているのなら無駄だぞ。多分あそこだ」
心底うんざりした様子で、ローダンが親指で指し示した先に目線を向けると棚の上に置かれたガラス製の水槽が目に入った。精緻な飾りガラスをふんだんに使った、一目で高価な特注品だと分かる代物だ。その高価な四角い宮殿の中に銀の鱗をひらめかせのんびりと泳ぐ魚たちを見つけると同時に、ローダンがあんな顔をしている理由も理解して、イリアは陰鬱なため息を漏らした。
「……なるほど」
ますます常軌を逸している。仕事柄、無残な遺体を見ることも珍しくはないが、さすがにここまでひどいものは初めてだ。
いったい何者がこのような惨状を作り出したのかはわからない。確かなのは、そいつが極めて残虐であり異常であるということだけだ。ただ殺すだけならともかく、人の体をこうまで念入りに徹底的に傷つけ破壊するなど、とうていまともとは思えない。
ほんの数時間前までこの部屋にいたであろう、そいつの悪意が今も部屋の中に漂っているような気がして、イリアは背筋が冷たくなるような感覚を覚え思わず身を震わせた。
(でも、だからこそ、わたしはやるべきことをやらないと)
こういった現場で葬儀師がやることは二つある。一つは死念の有無やその過多をきちんと調べること。そしてもう一つ。何より大事なのは、この場に遺されたものを然るべき場に送ることだ。
一説によると、死念とは死者が遺していった怨念ではなく、死者の魂そのものが強い負の感情で変質したものとも言う。真偽は定かでないがどちらにしろ死念による被害が広がるほど元になった人間の罪も増えるとされていて、それを防ぐために様々な技術や道具が考案されてきた。
例えば、今イリアが覆いをとり死体の上にかざしたランタンもそうして産まれた物の一つだ。強い人の想いに反応する性質を持つ特別な鉱石で作られたこのランタンは、周囲に死念を感じると自動的に明かりが灯る事でそれを知らせてくれる感知器としての機能がある。
その内部に、弱弱しい光がひとりでに灯り、頼りなげに揺れだすのを確認したイリアは眉をひそめた。
(死念があるのは予想通りだったけど、でもこれは……?)
その性質上、凄惨な殺人現場であるここに死念が遺されているのは予想通り。だが現場の惨状に対して反応が弱い気がするのだ。こんな殺され方をしたのなら、もっと強い死念が遺っていてもおかしくないと思うのだが。
あるいはこちらが考えているより被害者の苦しみが小さかったという可能性はあるが、散々痛めつけられた遺体の状態を見る限り、その可能性はないように思える。
(気にはなるけどまずは葬儀が先ね)
気持ちを切り替えランタンを一旦わきに置くと、イリアは遺体の前にひざまずいた。
状況にそぐわないという点を差し引けば、死念が少ないのに越したことはないが、だから手を抜いていいわけではない。「よし」と小さく気合を入れてイリアはそっと目を閉じた。
「『道の果てまで至りし旅人、汝今こそその歩みを止めよ』」
ゆっくりと、だがはっきりとした口調で祈りの言葉を唱えだす。大陸公用語とは異なる、聞き覚えのない未知の言語で紡がれる祈りの文句に立ち会っている警備官の一部が少しざわつくが、イリアは気にも留めず祈り続ける。ここに残る死者の無念に言い聞かせるように、あるいは死者の魂に語りかけるように、彼女の故郷に古くから伝わる祈りの言葉が朗々と紡がれていく。
「『遥か旅路のここが終焉。時計の針はもはや動かず、貴方は尊き重荷を下ろす。歩き続けたその旅路、積み上げてきたものは偉大なり。なればこそ、わが言葉は鍵となり導となりて、新たな世界の門を開け、死の司、魂の慈母のもとへと貴方を導くだろう』」
気づけば騒いでいた警備官たちも一人残らず口を閉ざしていた。イリアに倣い祈りを捧げる者の姿もちらほら見て取れる。
静まり返った室内に年若い葬儀師の落ち着いた鎮魂の言葉だけが朗々と響いていく。それは遺体の片付けすらまだの殺人現場には不釣り合いなようにも、しっくりと当てはまるようにも感じられる不思議な風景だった。
「『汝に罪あれど罰と償いの果てに許しは与えられたり。そして全てのものに永久の安息と幸福が与えられんことを。』」
現在、大陸で広く信じられているいくつかの宗教では、善人は死後天国に迎えられ、悪人は死後地獄に堕ちて永遠の罰に苦しみ続けると説いている。この世界は不平等で不公平で、だからこそ誰にでも必ず訪れる死後の世界では、生前の行いに合わせた報いが返ってきてしかるべきというのは誰もが思うことだろう。
そういう意味では、どんな悪人でも罪を償い切れたなら等しく死後の安息を受け取れるべきとかの女神の教えでは説いている。イリアが信じる神は少数派だろう死後の世界、魂の楽園の管理人ともいわれる死の女神の慈愛の元では善人も悪人も等しく同じ魂だというのがその理由だ。
「『かの地を治めし偉大なるもの、魂の慈母アメラネよ。この者、クラムゼ・スタールの魂に安らぎと祝福を与え賜らん事を。汝の信徒イリア・トラディスが心より祈り願います』」
だからイリアも生前の行いで死者を区別することはない。どんな悪人であろうとも手を抜いたりせず善人と同じように真摯に敬意をもって送りだす。遺体を前にしてひたすらに願い祈るのはただ一つ。どうか死者の魂が無事に神の御許にたどり着けますように。ただそれだけだ。
「
結びの言葉を紡いでイリアは祈りを終えた。側に置いておいたランタンに目をやると死念に反応して灯る不吉な光もまた掻き消えている。どうやらうまくいったようだ。
それを確認して、ようやくイリアは張りつめていた力を抜き、ふうと小さく息を吐いた。
これで
「終わりました。もう大丈夫ですよ」
振り返りそう告げると、張りつめていた空気がわずかに緩み、儀式を見守っていた警備官たちの顔にも安堵の色が広がった。早速矢継ぎ早に指示を始めたローダンを筆頭に捜査を再開するべく動き出した彼らの邪魔にならないよう、イリアは素早く道具をまとめ部屋の隅に移動する。
「イリア、疲れているところすまないがちょっといいか」
額に滲んだ汗を拭っていると、難しい顔をしたローダンが近づいてきた。理由は予測できたため、イリアはこくりとうなずく。
「いいですよ。念のための確認、ですよね?」
ああ、とローダンはうなずいた。
「現場がこの有様だったからな。お前の腕を信じていないわけじゃないが慎重にいきたい。死念は完全に消えたんだな?」
問いかけてくる彼の顔は依然厳しいままだが状況を考えると仕方ないだろう。発生した死念は時間経過とともに腐り始め瘴気を放つようになり、最後には残滓と呼ばれる怪物を生み出す元となる。その予防のため、死念が発生しうる場所であれば戦場であろうと葬儀師の派遣が義務付けられているのはそのためだ。
だがそこまで警戒しても、残滓の発生を完全に抑えることはなかなかできない。イリアも何度か発生した残滓に対処したことがある。
「俺も二回ほど見ただけだが、
ローダンが忌々しげに語るのも無理はない。
もし残滓が発生した場合、対処ができる葬儀師が現場に駆けつけるまでの間は警備局が相手をすることになるのだが、
死に際した人間の心から生まれた残滓は、超常の力を駆使するうえに物理的な力の効きが悪いという特性がある。それはつまり、葬儀師が駆けつけるまで警備局員は有効的な対抗手段を持たずに人智を超えた怪物と対峙しなければならないということだ。当事者の身からしてみれば愚痴の一つもこぼしたくなるだろう。
「その点に関しては大丈夫です。この場に発生していた死念は儀式によりきちんと浄化しましたから、残滓が生まれる心配はありません」
イリアがはっきりと告げると、厳しかったローダンの顔が明らかに緩んだ。作業の傍ら耳を澄ませていたらしい周囲からも安堵のため息が漏れる。葬儀師ほどではないにしろ、死人の想いから生まれ生者に害をなす残滓というモノの恐ろしさを知る機会も多い警備局の人間としては、やはり気が気ではなかったのだろう。
「……そうか。専門家のお前がそう言うなら安心してもよさそうだな。信じよう」
「はい、信じていただいて結構です。ただ――」
小娘だと軽く扱ったりはしないのはローダンの美徳の一つだろう。もちろんそれは、イリアが葬儀師として勤勉に働いていることを知っているからだろうが、そうと知ってなお歳や性別を理由に軽んじられることがあるイリアにしてみれば、そういうものを気にしない彼の物言いと寄せられる信用は心地良いものだった。
だからこそ言いにくいことも言わなければならない。いたずらに不安をあおるようなことはしたくないし、そもそも自分の思い違いかもしれないが、仕事の上での信用を裏切るようなことをするわけにはいかない。
「ただ――?なんだ。何か気になるものがあるのか?」
「はい」
「刑事官も察しているかもしれませんが」と前置きして、イリアはこの場に抱いた疑問を話し始めた。
「今回は現場の惨状に対して、死念の量が少ないように思うんです。こんな殺され方をしたならもっと死念が多いのが普通なのに」
少ないと断言しなかったのは、同じような現場の状況でその上で何事もなかったという事例が過去に複数あるからだ。人が悲惨な死に方をするほど死念が多く発生するのは確かだが生き死ににまつわる人の感情なんてものが関わる以上、正確な基準なんて有り得ない。死ぬときの心持ちや死に対する受け止め方など一人ずつ違って当たり前なのだから。
だがそれにしても限度というものがあると、未だ惨劇の気配が色濃く残る現場を見回してイリアは眉をひそめた。
「確かにそれは俺も気になってはいた……つまり、あれか。死念が少ないのはたまたま犠牲者がそういう人間だったというのではなく、俺たちが気づいていないなんかしらの原因があるんじゃないかと、お前は思っているわけか?」
「はい。わたしの気のせいかもしれないですけど」
死念が残らないならいいという話ではない。人が死ぬ時負の感情が遺るのは“当たり前”なのだ。
もちろん例外はあるが、それでも今回の現場はおかしい気がすると、イリアはそう感じていた。具体的に何が起きたのかと聞かれれば首をかしげるしかないが、それでもこの現場の死念の状態は自然なものではないと、そんな気がしたのだ。
「なるほど、お前の懸念は分かった。専門外の俺たちにできることはなさそうだが各所への忠告はしておこう。あとは……手すきの奴に資料をあたらせるぐらいか。お前も改めて何かわかったらこちらに教えてくれ」
「はい、分かりました。協会になら何か情報があるかもしれませんし、聞いてみます」
イリアも所属している葬儀協会はいくつもの国をまたいで葬儀師を束ねる巨大な組織だ。葬儀の方法や儀式に使う道具の開発、あるいは死念や残滓の研究など、葬儀師の仕事に関係する様々なものや情報を取り扱ってもいる。あそこなら、何らかの情報を得られる可能性は高いだろう。
(全部私の考えすぎ。それならそれが一番いいのだけど)
そんな願いをそっと頭の中でつぶやきながら、イリアはいまだに血の臭いが色濃く残る部屋を後にした。