お待たせしました。
本編77話です。
よろしくお願いします。
───俺が部室を出てから、どれくらい走っただろう。
みんなの前から逃げて、どれくらい経ったのだろう。
悪い記憶を消し去ろうと走る勢いは自然と強まるが、部室で告げられた言葉だけはどうしても振り払うことはできなかった。
『慎のすけなんかがスクールアイドルに向いてるわけないじゃん!!!!』
「……んなこと……俺が一番分かってんだよ」
今にも雨が降りそうな灰色の空の中で俺は走りながら、呼吸を乱しながらそう呟いた。
あいつの言ってることは正しい。俺は自分の力で考えようとせず相棒へ任せっきりにしていた。あいつならばこの状況をどうにかしてくれるんじゃないか、そんな期待を押し付けていた。
いや、端から任せようとしていたわけではない。待ちに待った俺の番だったのだ。むしろ自分のやりたいことをたくさん提案したかった。せつ菜さんや愛さん、璃奈のライブを見て、自分の時にはどんなパフォーマンスをやりたいか、ある程度のイメージはできていたのだ。
だが、そんな中で俺の頭にはとある人物が思い返された。思い返されたと言ってもその人物のことを一度たりとも忘れたことがない。否、忘れるはずがない。
俺がこの世界に入ったきっかけと言っても過言ではない先導者と呼ぶべき人物。この世界で生きる歓びを教えてくれた人物。そして、その世界に入ることすら許されなかった人物。
「……うわぁ!!」
既にこの世にいない人物の事を考えていたら何もない所で躓いてしまった。あまりにも唐突な出来事に反応できず、無情にコンクリートへ身体を打ち付けてしまう。走っていた勢いもあり膝小僧を擦りむいた感覚がある。今にでも立ち上がってあいつの所まで向かいたかったが、すぐに起き上がることができなかった。
「…………
今できた傷の痛みが疼くのと同時に己の無力さを痛感してしまった。スクールアイドルとしての役割を満足に全うできず、ただ周囲の人間を振り回しただけの俺が、スクールアイドルという夢を夢のままで終わらせざるを得なかった妹にどうやって顔向けすればいいのかわからなくなったからだ。
だが、妹は優しい女の子だ。こうして皆の前から逃げた臆病者の俺でもあいつは何も言わずにそばで寄り添ってくれるだろう。今の俺にはあいつのそばしか拠り所がないのだ。
「……っ」
そう考えた時、俺はもう少しだけ頑張ろうと思えた。ただただ弱い兄だけれども、荒んだ心の癒しを求めるように俺は再度走り出した。
妹の形見が地面の上を転がっていることに気付かずに。───
「…………」
しずくさん達に見送られて、虹ヶ咲学園を出発した俺は電車に乗り込んだ。先に学園を抜けた慎がどこにいるのか、その候補を洗い出すのはそう難いことではなかった。
しかし、確実にその場所にいるかと言われたら確証を持つことができないため俺は電車内の座席に腰を掛けながら密かに神頼みをしていた。
あの時、かすみに強引に連れて行かされたお陰で慎がどこにいるのかの候補に迷うことがなくなったため、いずれ彼女には何か差し入れでも入れておかないといけない。
そして、それと同時に慎に対してなんと言葉を掛けようかも考えていた。しずくさんからは慎がスクールアイドルに向いている旨を俺の想いのままにぶつければいいと言っていたが、俺は上手く気持ちを伝えることが得意ではない。それに加えて慎と真面目な話をするのはこれが初めてだ。慎自身が複雑な家族事情を抱えているのでそういったプライベートの話題について触れようと思わなかったのだ。
いつもは飄々としている慎も中身はとても繊細だ。かすみから受けた言葉も慎にとっては大きいものできっと楔として彼の心に刺さっているのだろう。その傷口を広げないように発言には注意しなければいけない。
『──次は、お台場海浜公園前。お台場海浜公園前です──』
「あっ、もうそこまで来てたのか」
考え事をしていたら電車のアナウンスが俺の降りる駅名を案内していた。ここを乗り過ごすわけにはいかないので席を立って電車を降りた。
改札を抜けて目的の場所へ向かおうと歩き始めた時、スマホが通知を知らせるバイブレーションを鳴らしていた。
「……あっ、しずくさん……」
そこにはしずくさんからのメッセージが書いてあった。
『輝弥くん、一緒についていけなくてごめんね? 私たちが付いていくのは慎くんにとって圧力を掛けるように見える恐れがあったから、今は輝弥くんだけが頼りです。こっちはかすみさんと話をして、かすみさんも自分の発言には反省しているから、こっちは心配しないでね。慎くんを連れ戻せるのは輝弥くんしかいないです。私には輝弥くんにこういった応援を送ることしか出来ないけど無事に成功することを祈ってます。慎くんのこと、よろしくね?』
「……ありがとう、しずくさん」
しずくさんからの激励のメッセージを見て、嬉しくなり口元が緩む。応援を送ることしかできないと彼女は言っているが、それが非常に助かるのだ。こうして彼女らの想いも受け取ることで、一人で慎と向き合っているのではないと分かり、力をもらえるのだ。
「しずくさんやみんなの気持ち、確かに受け取ったよ。慎は必ず連れて帰る。絶対に失敗なんてしない」
しずくさんのメッセージでより一層気持ちが引き締まった俺はスマホをポケットにしまい、目的地へと歩き始める。
その時、足元に見覚えのあるものを見つけた。
「……んっ? これは……」
それは慎が肌身離さずに持っていたペンダントだった。よく見るとペンダントの紐がすり切れており、そのままでは機能せず紐を結ばないと使用できない状態となっていた。
「慎がこれを捨てるなんて事は……いや、絶対にない」
ペンダントの先端に組み込まれているサファイアを見つめながら、これが落ちていた憶測を立てるが不測の事態だったと推測する。
慎はこのペンダントを誕生日プレゼントで恐らく妹から貰っている。ずっと妹のことを大切にしている慎のことだ、気分が落ち込んでしまった腹いせでこのペンダントに当たるとは思えない。
「……天気も悪くなってきたし急がないと……」
いつの間にか限りなく灰色が広がっていた空を見て、悠長にもしていられないと俺は拾ったペンダントを握りしめながら走り出した。
幸い海浜公園から目的の場所まで距離は遠くない。ものの5分ほどそれなりのペースで走っていればすぐに到着する。そう考えると慎たちと一緒に練習へ参加した結果がここで報われ、走りながら妙な安心感を抱いた。
目的地に到着するまでにそう時間を要すことはなかった。俺が来た場所はかすみたちと一緒に慎を追跡した最終地点である慎の妹、鈴川真結ちゃんの眠っているお墓だった。
しかし、到着したもののお墓の正面に慎の姿はなかった。
「……俺の読み違いか……?」
今までの彼ならば、ここで妹にその日にあった出来事を話していることだろう。しかし、目の前にその姿は見えないということは既に帰路についてしまったのだろうか。
慎の姿が見えないこともあり、俺も踵を返し別の場所を探そうと思ったが、せっかく妹さんの墓前に来たこともあり祈りだけは捧げておこうとお墓が立っている先の階段を登り始める。
「…………だっ…………」
「ん? この声……」
階段を登り始めた矢先に突如聞こえた男性の声。その声には聞き覚えしかなかった。
「慎がいるのか?」
声の出所を探ろうと俺は歩みを止め耳を澄ませる。墓石の方から声や吐息が聴こえるので其方へ探索してみるとお墓の後ろで墓石に背中を預けるように座り込んでいた。腕で顔を隠しており眠っているように見えた。
「よかった……ここにいたんだ」
他に慎の行く宛が思い浮かばず途方に暮れるかもと思った矢先に見つかったためひとまず安心した。しかし、それと同時にひとつの疑問が浮かんだ。
(……そういえば、さっき呟いてた言葉はなんだったんだろう)
先ほど階段を登っている時に何かを呟いているのは聞こえた。しかし、実はただの寝言であり言葉という言葉を発していなかっただけかもしれない。
そう思った瞬間、慎の手先が突然震え始めた。
「……真結……弱い兄ちゃんで……ごめんよ……」
唐突に慎は真結ちゃんへの謝罪を述べた。腕で彼の表情は見えないが眠りながらも彼女に見放されている夢でも見ているのだろうか。
「俺……輝弥があそこまで頑張ってくれてたのに……俺は何もせずにのうのうと練習してあいつに難しいことを押し付けてた……。こんなんじゃ……かすみが怒るのも当然だよな……。お前が見れなかった景色を見せようと頑張ってたと思ったのに、こんな体たらくじゃ絶対に叶うわけないよな……」
「…………」
慎の自虐に俺は何も言葉を発さずに見守る。ここまではっきりと言葉を紡ぐということは彼は寝ているわけではなく腕で目元を隠しながら項垂れているだけだった。妹の陰に隠れながら己の非力を憐んでいた。
「俺がやろうとしたのはこんなのじゃねえ……。見てくれてるみんなを最高の笑顔にすることだ……。それがお前の見たかった景色でもあるんだよな……」
応援してくれるみんなが笑顔になること。それを妹の願いと語る慎。否応なしに夢を諦めざるを得なかった真結ちゃんの為に慎は自分が代わりにスクールアイドルになることを決意していたようだった。
「でも……俺のことを支えてくれる相棒を……友達を笑顔に出来ないなら……俺はスクールアイドルには向いてないんだろうな……」
慎の言葉は段々と声色が暗くなり、声量も小さくなっていた。かすみの言葉が彼にとってそれほどに大きいものだったようだ。
「……輝弥のこと……親友なんて呼べねえよな……」
「そんなことない」
「……えっ?」
何もかもを悲観的に捉えてしまう慎に対して、ついに我慢ができずに声を掛ける。突然、ここにはいないと思っていた人物の声が聞こえ慎は耳を疑うようにこちらへ顔を向けた。その顔は涙のせいで目元が赤く腫れており、折角の端正な顔が台無しになっていた。
「か、輝弥……!? ど、どうしてここに……?」
「以前に慎の姿をここで見たことがあったからもしかしてここにいるんじゃないかなって思って」
まだ状況に追いついていない慎は立ち上がることができず、座り込んだままだった。そんな状態でもお構いなしに先ほどの慎の発言に対して待ったを掛ける。
「それよりも慎、俺のことを親友なんて呼べないって言ったよね」
「そ、それは……」
俺の問いに慎は口をもごつかせる。本来ならば絶対に聞かれないと思っていた発言。それを他人に、ましてや親友と豪語する人物に聞かれていたのだ。気が動転しない人間がいるはずがない。
「……そんなの、こっちのセリフだよ」
「えっ?」
俺の言葉に慎は困惑し疑問を浮かべる。そして、数刻の沈黙の内にポツポツと雨が降り始め、二人の身体を濡らし始める。
「俺は……慎が安心して練習できるようにやれることは一人で全部こなそうとしてた。慎だってこのライブに気合いが入ってるだろうに、その気持ちをも無碍にして俺は一人で曲を作ろうとしてた。慎の想いも理解しようとせずに独りで闇雲に取り組もうとしてた。慎と向き合っていなかったのは……俺の方だよ……」
俺は慎がどうしてスクールアイドルになろうと思ったのか、どうして今回の曲を明るい曲調の元気を与える曲にしたいと言ったのか、これまで一切聞こうとしなかった。彼の心に土足で入るような感覚を覚えてしまい、いつか話してくれると信じて何も言わなかった。それは二人の関係性の変化を恐れ、現状の距離感を保とうとしていた俺の保守的な考えが裏目に出たが故であり、それは今回の問題にも少なからず影響を与えていた。
そう考えると、次第に己の無力さを痛感し目に涙が溜まり始めた。
「俺だって……慎のことをよく知ろうとしなかった……。慎が何を考えているのか理解しようとしないで中途半端な立ち位置で慎と対話してた。そんなので親友なんて呼べるわけないよ……」
震える声と一緒に目から涙が流れる。すると一度流れ出した涙は留まることをしらずに顔を伝いながら地面へ雨と一緒に流れ落ちていく。そして、同じように涙を浮かべている慎の前に座り込み、俺はそっと正面から彼を抱きしめる。
「……今まで……独りにして…………ごめんね……慎……」
鼻を啜りながら涙声で彼に釈明すると慎は首を横に振りながら俺を抱き返す。
「……なんで……なんでお前が謝るんだよ……! 俺だって……俺だって独りで抱えちまってたんだ……! それでお前に気を使わせたくなかったのにそれがここまで余計な気苦労を負わせちまってたんだ……。こっちこそ……ごめんよ……輝弥……!」
そう言って、慎は子供のように泣きじゃくり始める。俺も声を上げずとも静かに泣いており、彼の泣き声を聞きながら自然と腕の力が強くなっていた。
降りしきる雨の中、親友になれなかった惨めな二人の姿が周囲には虚しく映っていた。
いつだって俺は、お前のことを親友と呼びたい。