COC「心臓がちょっとはやく動くだけ」リプレイ 作:又左衛門
その性質上、「心臓がちょっとはやく動くだけ」のネタバレを多分に含みますので未プレイの方はご注意ください。
それが夢であったかと問われれば、違うと答えるだろう。
では現実であったかと言われても、是と答える事が出来ない。
だから智子は、雷電智子はその出来事を、誰にも話さない。
口さがない職場の同僚にも、いたずら盛りの一人娘にも。
とりわけ、自身のパートナーである夕暮勇には、決して。
智子の朝は早い。日の出を拝むのは夏至の時期ぐらいのもので、まだ勇と姫子が寝息を立てるベッドをするりと抜け出して、朝食と弁当の用意をする。大したものは入っていない、例によって例の如くのレパートリー。出来上がって一息ついたところでテレビの音量を少し上げ、2人を起こしに行く。
むにゃむにゃ言う姫子を食卓に着かせ、3人揃って「いただきます」。
幼稚園には勇が送ってくれる。智子はそれを見送ってから、ジャケットを羽織って出勤する。
職場はさほど遠くない。電車に乗って一駅、駅から程近い探偵事務所だ。素行調査に書類整理。変わり映えのしない業務を淡々とこなし、上司の物問いげな視線を黙殺して定時退社。
帰り道にはスーパーへ。鵜の目鷹の目で特売品を手中に収め、ホクホク顔で戦利品と共に帰宅。出迎える姫子にただいまのハグを。勇にも、たまに。
夕食にさほど手間は掛けない。メインのおかずと味噌汁を手早く作り、休日に作りだめした常備菜をさっとアレンジする程度。
洗い物を勇にやってもらっている間に、姫子と入浴。絵本を読み聞かせ、テレビをぼんやり見ていれば、もう寝かし付けの時間だ。寝かし付け役は勇と一日ごとに交代する。智子の番の日は、そのまま寝落ちすることも珍しくない。逆に眠れない日は、リビングで缶ビールをひと缶だけ啜る。そんな時は、勇はいつまでも付き合ってくれる。
忙しいといえば忙しいが、もうすっかり慣れっこの日々。紋切型の、いつも通りの日常。
そりゃあ人間、日ごと気分の浮き沈みはあるが、それだって押してなべれば「平常」の一角に過ぎない。家族と共に過ごす、平凡で幸せな日々。
それがずっと続くはず、だった。
ある日の朝。雷電智子が目をさましたそこは、自室ではなかった。
仰向けになった視線の先は寝室の白い天井ではなく、錆色を纏い鉄骨の梁が剥き出しになったトタン屋根。
「んあ」と間抜けな声を出したように思う。口の中の粘つきが、夢にしてはやけにリアリティを帯びている。
身じろぎをすれば、衣服越しに堅い床の存在を感じた。
(あれ、どこだここ……?)
最後の記憶は、昨夜ベッドに入って目を瞑ったあたり。疲れの為か、すぐに意識は柔らかなマットレスに沈んでいった。ただ、意識を手放す前、轟々と燃え盛る炎のような、奇妙な音を耳の奥に認めたような気がする。
当然、その時は寝間着に着替えて、眼鏡も外していた、はずだ。日常のルーティーンに完全に組み込まれたその動作は全くの無意識によるものだが、だからこそ間違いないとも言える。
だというのに、今は眼鏡を掛け、服装も……
と、服を確認しようと身を起こした所で、何かが身体の上からパサリと軽い音を立てて落ちた。何の重量も感じさせず腹部の上に乗せられていたそれは、薄い紙の束だった。
服装は、寝間着ではない。好んで着るサマーセーターに細身のデニムジーンズ、布生地のシンプルなスニーカー。オフの日の「いつも通り」の服装だった。髪型もそうだ。頭の後ろに纏めたシニヨンが、床に挟まれて平たく潰れていた。勿論、寝る前にそんなことはしない。
(夢にしちゃ、えらくはっきりしてんな)
こういうの明晰夢っていうんだったっけ、と上体を起こし、周りを見渡してみる。
辺りをぐるり一見して、智子が受け取った印象は「廃工場」だった。昔悪さをしていた頃、夜中に悪友たちと毎夜のように侵入したむろしていた、あの場所に似ていた。
何か懐かしい事思い出しちゃったな、と智子は頭を掻く。
それは、母親と和解し、更生して娘を産み、育て、勇と出会って今の生活を手に入れる、そのもっとずっと過去にあったはずの、今はもう絶えて思い出すことのない空虚な時代だった。
まるで他人事のように脳裏に上った過去の映像は色褪せ、あっという間に意識の外に消える。
それに引き換え、今この状況の鮮烈さと強烈さたるや。とても夢とは思えないディテールの細やかさでありながら、超現実的としか言いようのない奇妙な光景。
身を起こしてみれば分かる。智子が寝ていたのは、通路状の細長い空間の中ほどだった。
床は汚れと劣化の目立つ重い色のコンクリートかモルタルのような堅くのっぺりした平面で、その両脇に天井近くまでそびえ立つのは、部屋の端まで連なる謎の工場機械だった。
古式ゆかしいパネルやスイッチ、レバーがそこかしこにあるが、どれも材質が朽ちたようになっており、現役の機械というよりは保存状態の悪いアンティークじみて見える。くすんでいるのかあるいは元からそういう色の塗装なのか、それらは細やかな色合いのニュアンスはあれど概ね灰と緑の混ざった様な鈍い色を纏っていた。智子が機械に疎いということもあるのだろうが、それらのそもそもの用途が何なのか、まるで見当が付かない。
そして、一際異彩を放つのは奥の壁だった。壁という表現はある種の象徴的なそれで、通路のどん詰まりにあたるそこが何なのか、智子には一瞬理解が出来なかった。
廃工場の高い天井から、大量の細長い何かが床まで垂れ下がって、一つの壁面を形成していた。壁の厚さはここからでは分からない。構成しているのは工業用のワイヤー、ホース、ケーブルだろうか。鈍い金属色と黒で斑になっているのはそれぞれが奥に入り込んでは手前にのたくり出て、とお互い好き勝手に絡まっているせいで、仮にこれらを解して整頓しようとすれば途轍もない時間が必要になるだろう。掃除魔の智子は勝手にそこまで想像し、すこしうんざりした気持ちになった。
そういえば、今身体の上から落ちた紙束は何だろうか。
取り上げてみると、それは薄色の付いた安っぽいA4サイズの更紙をホチキス綴じしたもの。表紙には横書きのゴシック体で「初心者かんたん! 失敗しない『◯』の作り方」。
(〇って何だ?)
題字の少し下には手書きで、
私達はここでひとりぼっち。ずっとずっとひとりぼっち。
だから、あなたと一緒に生きてみたかった。
私達は人間が憎くないといえば嘘になる。
私達は人間が怖くないといえば嘘になる。
私達の幸せは、あなたをここから決して逃がさないこと。
ずっとずっと守ってあげる。
ずっとずっと一緒にいよう。
(だから何なんだよ……思春期のポエムか?)
しかも、わざわざ一節ごと、時には一文字ごとに字体が変えてある。強いて例えるなら、幾人もの人間が、字体を真似ようともせず代わりばんこに書いた文章のような。智子は、妙な居心地の悪さを覚えた。
表紙には更に、蛍光色の小さい付箋が貼ってある。そこには小さな手書きで「失敗作:夕暮勲」。
(ゆうぐれ……いさみ、でいいのかな?)
パートナーを連想させる名前に接頭して失敗作と書かれているのにはやや気分が害されたが、構わず捲って中を見てみる。
表紙裏にあたるページには同じゴシック体で、
目次
1P…目次
2P…『人』
その隣、すなわち2ページ目にあたる紙面には、
「初心者かんたん! 失敗しない『人』の作り方」
名前はとても大切なもの。あなたの声で名前を呼んで「おはよう」をしてあげて。これでカタチは出来上がり。
それで、冊子は終わりだった。まったく要領の掴めない内容。
(意味が分からん……ってか、これで終わりならホチキスいらないじゃん)
智子は溜息をひとつ、そして何とはなしにそれを捨てる気にはなれず、冊子を手に持ったまま立ち上がり、奥の壁の方に向かっていった。
歩きながら智子の脳裏にあったのは、「これは夢ではないのではないか」というぼんやりとした危惧だ。
夢にしては余りに解像度が高すぎるように感じる。それに経験が無いわけではない。こういった突拍子もない、奇妙で不快感を催す出来事に巻き込まれる事。そして、その後決まって身の危険にさらされる事。
勇と暮らし始める切っ掛けとなったあの事件もそうだ。二人揃って奇妙な夢に閉じ込められることもあった。あるいは娘と三人、観光に訪れた地で奇怪な出来事に遭遇したりもした。
慣れたとは言わない。ただ、経験的に気構えのようなものは出来ている。何が起きても驚かない事、これが現実と地続きの出来事であると認識して、きちんと向き合う事。今回も、無事帰ってこられるとは限らないが……
埃にまみれ古びれた機械を両脇に奥の壁へと近づくにつれ、明らかになってきたことがある。瀑布のごとく壁をなすホースの表面に、肌色の何かが所々露出していた。それはまるで、ゴルゴンの髪にからめとられたかのよう。数は、ざっと見て20は下らない。
それらは、丸裸の人間たちだった。誰もかれもピクリとも動かず、目を閉じ手足を絡めとられるがままになっている。四肢は妙な方向に曲がっていて、生きているのか、呼吸しているのかは分からない。ただ、死体と呼ぶにはどれも肌の血色は良く、腐敗しているような個体も見えない。
(もしかして人間じゃなくて、良くできた人形か何かかな……それにしたって、気持ち悪いな……)
智子は、急に近寄る気が失せてしまった。
一旦ほかのとこ調べるか、と踵を返し後ろを向く。
通路の反対側は、大きな扉が塞いでいた。通路の幅一杯を使った、背の高い金属製の引き戸で、見るからに分厚く重そうだ。覗き窓などは無い。
ここから出られるのかな、と思って近づいてみたが、留め金の部分にやたらと頑丈そうな南京錠が取り付けられ、これを外さない事には出られそうにない。しかし妙なのはこの南京錠で、機能としては正面に鍵穴のあるスタンダードなものだが、外観はそれに全くそぐわない、真っ赤な塗装のされたハート形だった。
カップル向けの観光地でしばしば見られる可愛いらしいデザインではあるがサイズはそれにそぐわず、智子の握りこぶしよりも大きい。表面には荒々しい引っ掻き傷や凹みが無数に付けられ、むしろ妙な生々しさと不気味さが勝っている。
(……ま、いいけど。それより、鍵がいるのか。どっかに都合よく落ちてないかな……)
「鍵、かぎ……」と口に出しながら、今度は両脇の機械群を見て回る事にする。
機能は相変わらず謎のままだが、操作盤の上や、その下に積もったガラクタの山なども丹念に探ってみると、また新たな発見があった。
ガラクタの山を構成する素材、それは恐らく、人形の欠片だ。人間を象った古今東西様々な人形――例えば近代のからくり人形や、未来的なアンドロイドのパーツが、それぞれ何の秩序もなく積まれている。工芸品のような美しさを持つ、ガラスで出来た眼球があった。関節のひとつひとつが精巧に再現された、金属製の手指があった。その他にも、陶器でできた球体関節や、象牙製と思しき脊椎、内部機構のひとつであっただろう歯車……そう意識して見ると、一見そうとは見えない数々の部品も、全て何がしかの人形の一部である事が想像出来た。
(て事は、アレも全部人形なのかな? ……それにしちゃ良く出来すぎてる気がするけど)
機械群やガラクタの山を探すことしばし、鍵を見つけることも出来ず業を煮やした智子は、改めて奥の壁へと向かっていった。アレは人間じゃない、人形だ、と自分に言い聞かせながら。
目の前まで近づいてみても、やはりそれらは裸の人間にしか見えなかった。目尻の小皺、体表の産毛、露出した性器、どれもただの人形というには精巧に過ぎる。乳房など皮膚の薄い箇所の下には毛細血管が蒼く透けてすらいた。ただ、どれも明らかに息はしていない。
それにもうひとつ、これらが人間ではないと裏付ける傍証を見つけた。たまたま見えた、その背中に。
うなじから尾てい骨に掛けて一列に、数本の管が刺さっていた。つまりそれらの手足に絡むケーブルやホースは、全てそれらの体内に接続されている。管が体内に挿入されている箇所の周囲、およそ1センチ幅にわたってそこに皮膚は無く、白銀色の金属が露出していた。
(なんかアレだな……アンビリカルケーブルみたいだな)
試しに身体にちょんちょんと触ってみるが、体温は感じられない。やはり、人間ではないのだ。
「もしもーし……」
恐る恐る声を掛けてみるものの、どれも沈黙を守ったきり何の返答も動作も無い(とはいえ、あったらあったで――例えば全ての人形が一斉に目を見開いて凝視してきたとしたら、きっと腰を抜かしていただろうが)。
(これ、試してみるか)
右手に持つ冊子の存在を、改めて意識する。『名前はとても大切なもの。あなたの声で名前を呼んで「おはよう」をしてあげて。これでカタチは出来上がり』。
「ユウグレイサミさん……おはよう」
変化は、劇的に起った。
蛇が身をよじらせるように、管が動き始めた。1本だけではない。動きの中心にある管は大きく波打ち、そこから遠ざかるに従って動きは穏やかになっていく。シーツの下に隠れて遊ぶ娘の姿と布地の皺を、上から見た時の事を思い出した。
ずるりずるりと絡まっていた無数の管に裂け目が生まれ、そこから押し出されるようにまろび出てきたのは、一体の人形。それは、智子がよく知る人間と同じ顔、同じ見た目をしていた。
「勇……じゃん」