COC「心臓がちょっとはやく動くだけ」リプレイ   作:又左衛門

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 智子の背より少し高い所から出てきた人形は、その背面から伸びる管に吊るされるようにうつ伏せになり、管の延伸に従ってゆっくりと地面に降ろされた。智子の足元に横たわる様な格好となる。

 瞼を閉じてなお凛々しい横顔。

 腰から丸いお尻へとなだらかに繋がる美しい曲線。

 稽古の邪魔だと普段はサラシで潰している嫋やかな胸の形。

 腱の存在を強く主張する引き締まった足首。

 そして、その他の全てに見覚えがあった。

 背中の管まわりさえ無ければ、どこからどう見ても、智子の大切なパートナー、夕暮勇その人だ。だからこそ、背面から体内へ挿入される極太の管にグロテスクな違和感を持たざるを得ない。

 智子は勇の形をした人形――付箋のメモによれば夕暮勲から、目を離すことが出来ない。

 突然、人形の瞼がパッチリと開いた。ほんの束の間、智子に横顔を晒し床を見つめる姿勢だったが、やおら上体を起こし、片手を床に突いた横座りのような姿勢で智子の方を向いた。

 智子に反応はない。あまりの出来事に思考が停止していた。

「おはようございます」

 人形が――勲が言った。勇の声で。

 だが抑揚に欠けたその物言い、そして視線の動きはあまりに無機質で、その表情も全く動かない。ガラス玉を眼窩に填めた仮面のよう。

「システム起動。チェック――オールグリーン。ユウグレ・イサミ――当機体の名称と推測、記録完了。起動者の名前をインプットします。回答を要求」

 饒舌にそこまでを一息で喋ったかと思うと、今度はじっと黙って智子を凝視している。

「え、ええと……あたいの名前を言えばいいのか……?」

 回答は無い。

 智子は先ほどとは一転、へどもどしている。動揺から回復しきっていない。

 人形というよりは、まるでロボットのような……というのが率直な印象だった。誰よりも見知った顔と声なのに、喋り方も態度も全く違う。

 異質というよりは、遺失。まるであるべきはずのものをどこかに落としてきてしまったかのような、不自然さと喪失感があった。

「雷電、雷電智子……っていいます」

 自分でもよく分からない理由で恐る恐ると答えを返す。

「ライデン・トモコ――了解しました」

 そして自分の背中を指さしながら、

「接続の解除を要求。物理的な解除が可能です」

 薄く柔らかな脂肪の下、薄っすらと三角筋が浮かび上がる肩とその動きに、智子は我知らず見蕩れてしまった。

「これ……この管か? これって、抜いたらいいのか?」

「解除を要求」

 一見とても抜けそうにはないほどしっかりと嵌まり込んでいるように見える管だったが、試しに掴んで引っ張ってみると、軽い抵抗があった後は音もなくするりと抜けた。

 一番上とその下はイヤホンジャックの親玉のようなシールド線、その下の3本は見たこともない形の継手で、どれも何かの流体が圧送されていると思われた。黒い皮膜で覆われているホースはどれも固く、中に何が流れているかは窺い知れない。

 おっかなびっくり管を抜いた後の穴を覗いてみるものの、白々とした手前側の金属地が見えるだけで、奥の方は影になっていて良く見えなかった。目を凝らして更に奥を覗き込む勇気は、ない。

「起動者に同行する許可を求めます」

「着いてきたいなら別にいいけど……どうぞ?」

 自分でも、少し意外なほど優しい声が出た。ただ、着いてくるのはいいが全裸というのはいただけない。

 しかし、智子自身も薄着で、サマーセーターとジーンズの下は肌着か下着だ。誰かに譲ることのできる余地はない。

「ちょっと待ってな。探してくるから」と彼女――勲に言い残して、智子はもう一度部屋をぐるりと見渡し、何か羽織るものでもないかと辺りを捜索し始めた。勲は言われた通り、横座りの姿勢のまま、目だけで智子を追っている。

 やがて脇に並ぶ機械群の間の、狭い隙間を見つけた。どうやら裏にちょっとした空間があるようだ。隙間の幅は智子の肩幅よりも幾分狭く、肩を差し込んでにじる様に進むしかない。

 なにかあるかな、と不用意に覗いた智子は、即座に自身の軽率な振る舞いを後悔した。

 智子が最初にいた通路状の空間から脇道に入る様な箇所に隠された10畳ほどの空隙、そこには、ざっと10体ほどの白骨死体が折り重なるように倒れていた。

「ひっ」

 慌てて後退る。思わず勲の方を振り返るも、きょとんとした顔でこちらを見返されるだけだった。

 あ、いや何でもない。誰にともなくそう口の中でもごもご言い訳をして、改めて白骨死体に向き直る。

 乏しい知識でそれらをざっと見る限り、何か外的要因で命を落とした様子はなさそうだった。例えるなら骨格標本に古びた服を着せたような、湿り気もツヤもまるでない、ただ人が倒れ朽ちた結果だけをそのまま形に表したような姿。どこにも、その『過程』は残されていない。

 ふと、思い至った。

「なあ、あの倒れてる人の服、貰っちゃいなよ」

「了解しました」

 なぜ。どうして。そういった疑問をひとつも挟むことなく、勲はすたすたと機械裏の空間に入り込み、てきぱきと手際よく白骨死体の一つから服を剥ぎ取った。腱は勿論、骨自体も朽ちて強度を失っていたのか、勲が服ごと持ち上げると乾いた音を立てて細かな破片となりながら地面に落ちて行った。

(おお、やっぱ躊躇いがないな……)

 かつてはもっと軽い色あいだったであろう作業服のあちこちには、肉の腐敗の過程で染みついたのであろう変色の他に、殆ど粉になった小さな骨の破片がこびりついている。

「ちゃんとパタパタしなきゃ駄目だよ」

 やはり『よく分からない』という顔をしながらも、智子のジェスチャーを真似て素直に勲はパタパタと作業着をはたく。

「これでよろしいでしょうか」

 やがて作業着を着終った勲の姿は、お世辞にも見目良いとは言い難かった。

 来歴の想像はつくが決して追求したくはない染みがいくつもついたぶかぶかの作業着は劣化してあちこちが破け、その下から勇の白い皮膚が露出している。サイズは全くあってないし、間違いなくその一枚下は裸なのだ。だが、全裸とでは天と地ほどの差がある。

「……ま、いっか」

 だいぶ良くなったね、と自分自身に言い聞かせるように一人ごちる。

「あ、靴も履いてね」

 素直に頷き、靴もパタパタしてから履く勲。

(可愛いな、おい)

 こうして落ち着いて見ると、死体のすぐそばに一つのアタッシュケースがある事に、遅まきながらようやく気付くことが出来た。

(なんだこれ)

 大きさは家庭用の小振りなプリンターほど。柔らかなジュラルミンの光沢を放つそれは、いままでその存在に気付かなかったのが不思議なほど異質だった。それ自体が不自然なのではない。経時により劣化したオブジェクトとは一線を画す、真新しい材質感が明らかに周囲から浮いている。

 手に取ってみると、どうやら蓋は留め具で固定されているのみで、鍵は掛かっていないようだった。

 カチャリと留め金を外して開けると、中身は女ものの服一式だった。ストレッチ生地のパンツに飾り気のないブラウスにダークカラーのジャケット、スポーツタイプのアンダーウェア、ご丁寧にスニーカーまで入っている。おまけにどれも見たところ勲にぴったり、そしてそれは日々目にする勇の服と同サイズ、同じ嗜好のものだった。

 智子は激しく脱力した。これは言い辛い、言い辛いが……

「ごめんね、気を悪くしないでね……こっちの服の方が似合うと思うし、良いと思うよ……?」

「了解しました」

 何の躊躇いも衒いもなく、勲はその場で再び服を脱ぎ捨てた。智子は思わず視線を逸らすが、勲は構わずぺたぺたと歩み寄り、アタッシュケースの中身を手に取った。ひとつひとつをぱたぱたとはたいては身に着けていく。

「ご、ごめんね」

「何故、謝るのですか?」

「いや、何でもない……」

 首すら傾げず純粋に疑問を口にする勲に対し、智子の発する言葉はとことん歯切れが悪い。というか気まずい。罪悪感すらある。

「ねえねえ、それよりさ、これ、何だか分かる?」

 話を逸らそうとして智子が話題に挙げたのは、先ほどから手に持っていた薄手の冊子である。右手に持ってペラペラと宙をはたくような仕草で振るそれに目を向けた勲は、そっけなく「当機体の製造書です」とだけ答えた。

「(製造書、ってこんなんだっけ?)貴方は、誰かに作られたの?」

 その答えは、是以外に有り得ない。当然、「誰が」「何の為に」という問いも言外に含まれている。しかし、勲がそれを斟酌することはない。

「当機体はこの工場で生産されました」

「……何の為に?」

「回答権限がありません」

 あ、そうくるか、とも思ったがさほど意外な反応という訳でもない。

 話題を変えてみることにした。

「ここから出たいんだけど、その方法は知ってる?」

「現在地に、出口の存在を確認」

「それって、あれのこと?」

 肩越しに、錠前の掛かった扉を指さす。

「肯定します」

「あそこにさ、錠前が掛かってるんだけど、鍵、どこにあるか知ってる?」

「当機体の完成により入手可能と推測」

「『完成』……?」

 勲は答えない。言葉を継ぐことなく、じっと智子を見つめている。

「貴方は、まだ完成していないんだね?」

「肯定します」

 見たところ、どこにも未完成な部分は無さそうではある。少なくとも、見た目の上では。

「どうしたら完成するのかな?」

 勲は答えない。ただ、視線を智子から逸らした。

 つい先ほど自身を排出したケーブルの束、黒々と艶めく厚みのある壁の方に視線を動かす。視線だけではなく、首ごとを巡らせて。

 つられてそちらを見ると、先ほどの蠕動で壁を構成していたケーブル群が大きく動いた結果だろう、密だった繊維が一部で細かくほぐれ、人ひとりなら通れそうな隙間が出来ていた。その向こうには、何がしかの空間が広がっているようだ。

 そして勲に対して抱く違和感のひとつの正体に、智子は遅まきながら気付いた。勲は、目を動かさない。瞬きはすれど、その目元には、何の表情も宿されない。

「えっと、あたいに、着いて来てくれるんだっけ?」

「現在、ライデン・トモコは当機体の所有権を有します。また、当機体は所有者に付き従うよう、思考を構成されています」

 ふむん。智子は頷く。今のところ何も具体的な情報は無いし、この空間に差し迫った危険があるようにも思えないが、何となく一緒に行動する方が良いような気がした。何より、見知らぬ空間に一人でいるのは心細い。

 ケーブルの隙間の向こうは、またこことは違う趣の空間のようだった。隙間から全貌は覗えないが、こちらと比べて随分と壁の色が明るい。

 動くものは、何も無いようだ。

「ま、行ってみるか」

 ケーブルが絡まって出来た壁の厚みは1メートルほど。管の一本一本は若干の遊びを持っており揺すると僅かながら動くのだが、恐ろしく密に絡まっており、人の力で解すことは到底出来そうにない。隙間を抜ける途中でまた何かの拍子に全体が動いてしまえば圧死してもおかしくはない。恐る恐る智子は隙間を潜った。勲は気にする風でもなく、ぴったり後ろに着いてくる。

「いて」

 ワイヤーやらホースやらを手探りで進んでいたのが災いしたのか、素線の切れたワイヤーで右の掌を切ってしまった。深い傷ではないが、薄く裂かれた皮膚から、じわじわ血が滲んでくる。

 通り抜けた先は、ほぼ立方体の部屋だった。先ほどの工場と比べると天井は低い。

 一見して尋常でなく目を惹くのはその白さ、眩いほどのソリッドホワイト。リノリウムに似た不思議な質感の材質が、床を含む部屋の全面を覆っている。天井に光源は見当たらないが、天井一面から光が注いでいるのか、身体の周りにぼんやりと影が出来ている。

 部屋の中にはなにもない。ただ、正面にドアが5つだけ。だがそれが本当にドアなのかどうか智子に自信が無い。ドアノブは見当たらず、人の手形を模したマークがそれぞれの中央にあしらわれている。

「ドア……だよな。向こうに何があるんだろ」無意識に切った掌を舐めながら智子がいう。

「部屋があると推測」

「……だよね」

「開錠しますか?」と事もなげに勲。

「え、できんの?」

 答える代わりに、すっと右の掌をドアに当てる勲。

 単なるマークと見えたそれは、人の手をかたどった凹凸だった。いや、人というよりは、勲の。まるで粘土に掌を押し付けて型をとる過程を逆再生したかのように、しなやかな勲の手は――ああ、それすらも智子のよく知る彼女の一部そのもの――ピタリと窪みに嵌まった。

 果たして、扉は重さを感じさせない動きで音もなく上にスライドした。

 開いた扉を前にして何の意図も感じられない視線をこちらに向ける勲に、従前から感じていた疑問を、ついぶつけてしまった。

「ねえ、貴方」

 まだ勲、と呼び捨てにすることは抵抗があった。

「貴方、気を悪くしないでね……?」

 勲は答えない。透明な視線でただじっと智子を見つめている。

「失敗作って、どういう意味なのかな?」

 それは人に対して投げかけて良い評価ではない。だから口に出すのも憚られたのだが、勲はそれに対してどんな感情も見せず、ただ字義を字義として捉えたような返答だけを返した。

「当機体の一部仕様は製造者の意図に反しています」

「それはどういう意図?」

「当機体に回答権限は与えられていません」

「そっか……」

(今そんなこと気にしても、しょうがないかな)

 考え込んでいる間に、勲は扉の向こうを見るでもなく、勲はさっさと中に入っていってしまっている。

「ちょっとまってまって」慌てて智子は後を追った。

 

 二人が中に入ると、どこかで感知したのか背後で扉が閉まった。

 そこは、先ほどの部屋と同じような部屋だった。ただ、出入り口に扉は無く、部屋の真ん中に安っぽいオフィスインテリアのような立て看板があった。

 看板の内容よりも、智子は今し方閉まった扉の方が気になってしまう。

(もしかして、閉じ込められた?)

 振り返って扉の方に歩を戻す。

「開錠しますか?」

 先ほどと全く同じトーンで勲が聞いてくる。

(って事は、出ることもできるんだ……)

 待てよ、と智子はある事に思い至った。

(この子を連れずに扉を出入りするとヤバいぞ!?)

 さっと緊張が背を走った。意識的に、勲との距離を縮める。並んで、手を繋いで歩けるほど近くに。

「……離れないようにしてね」

「了解しました」

 改めて、看板の文字を読んでみる。そこには簡潔なゴシック体で、

『私はあなたとそれでも一緒にいたい』

 読み終わるや否や、何の前触れもなく部屋の景色がガラリと変わった。

 智子は思わず身構え、辺りを見回す。

 一変した先が見覚えのある空間であることに、違和感しかない。

「あの店じゃん……」思わず口に出した。

 暖色のダウンライトが空間を区切り並ぶロッカーを照らし、淡い影を落とす空間。床には藤むしろ。奥の一面には鏡の張った洗面台。

 月に一度は一家3人で訪れる、近所のスーパー銭湯。智子のお気にいりの店そのものだった。

 良い事があって浮かれている時や悪い事が積み重なった時、あるいは日々の生活に疲れてリフレッシュを求める時、決まって「行こうよ」と智子は二人に声を掛ける。時には、何かを察して二人から誘ってくることもある。

ここに来るときは、絶対に急いではならない。ゆっくりと時間を掛けて身体を洗い、湯船に浸かり、サウナで身体を暖める。出たら、ロビーで待ち合わせ、3人揃って牛乳で乾杯。あとは休憩所の畳で惰眠を貪ったり、ちょっと奮発する時は。食堂でビールをひと瓶開ける。そんな時、勇は一杯だけ相伴に預かり、姫子は必ずコップの泡を舐めたがる。そして親子3人手を繋いで店を出る頃には、胸の中は形のない暖かな何かで満たされている。

 そういう場所だ。

 後ろを振り返るが、先ほどまでの扉はそこにはない。智子のよく知る脱衣所の扉だ。

 試しに把手に手を掛けてみるが、びくともしない。

 2人の他に客はおらず、しかし浴場は入れる状態にあるようだった。

(何だよ、風呂に入ってけってか?)

 ふと、気になったので訊いてみた。

「勲さ、防水機能はあるの?」

 頭に思い描くのは剥き出しになった金属継手だ。勲の背中には、それがずらりと並んでいる。水気に弱くとも不思議ではない。

「はい。10気圧程度までなら問題はありません」

「わお……じゃあさ、お風呂、入る?」

 服に手を掛けるジェスチャーをする智子。勲はそれを見て、

「脱ぐのですか?」

「そう、だね。お風呂に入るからね」不覚にもどきっとしてしまった。

「了解しました」

「あの、お風呂が何かは知ってるの?」

「いいえ。それは何ですか?」

(そこからか……)

「えっとね、洗うんだよ。洗浄ね。心も、身体も」

 何だこの説明。

 説明になっているようないないような言葉を連ねるうちに、真面目に考えるのが馬鹿らしくなってきてしまった。不条理な出来事に理を求めることほど馬鹿らしいことはないのだ。こういう時は流れに身を任せるに限る。

「あーもういいや、お風呂はいろ。脱ご脱ご」

「機体の洗浄、了解」

 智子と勲は、揃って服を脱ぎ始めた。

 

「あれ?」

 智子が頓狂な声を上げた。

 服を脱ぐ前にロッカーの天板に置いた冊子。1枚紙を2つ折りにしただけのものだったはずが、明らかに枚数が増えている。

(さっきはこんなに無かったよな?)

 不思議に思って開いてみると、見覚えのないページと文章が目に留まった。

 

「初心者かんたん! 失敗しない『心』の作り方」

 心はとても大切なもの。ニンゲンは見て聞いて共感して、感情を得る。全てを記録チップに集めれば、これでナカミの出来上がり。

 

「初心者かんたん! 失敗しない『喜』の作り方」

 記録チップを入れた状態で『幸せな時間』を教えてあげよう。これで喜は出来上がり。

 

 よくよくページを繰って見てみると、目次のページにも文言が追加されていた。

 

3P…『心』

4P…『喜』

 

「勲さ、記録チップ? って持ってるの?」

「既に当機体に挿入されています」

「あー、そういうことね……おっけー。ま、そうだよね。お風呂って、幸せな時間だよね」

 何となく分かったような分からなかったような、自分に言い聞かせるように無理やり状況を飲み込もうとしているところで、勲がちらりと横から冊子を覗き込んできた。

「『喜び』。当機体にインプットされていない感情の一つと推定。回答を求めます」

「回答って……一言で説明すんのは難しいな」

 そもそもそれほど語彙が豊かなタイプでもないという自覚もある。

「ここにもさ、まずは体験しようって書いてあるしさ、まずは喜びの一端ってやつを体験しようぜ」

 今度こそお風呂だ、と下着まで全部脱いで引き戸を開ける智子。因みに銭湯に入る時は眼鏡は着けっぱなしのタイプである。

「了解しました」

 勲も、丁寧に服を畳んでロッカーに入れてから後に続く。

 智子は、ふと足を止めて勲の方に向き直った。

「あのさ、もっぺん訊くけど」

「はい」

「防水はいいけど、耐熱って大丈夫? あたいはまずサウナに入るんだけど」

 着いてこれるか? と目顔で問う。

「華氏451度までの耐熱性能あり」

「華氏……ファーレンハイト度、だっけ」

「およそ摂氏233度に相当します」

「おっけ。じゃあまずは身体を洗って、それからサウナに突撃だ!」

 

「ほら、ちゃんとボディソープ泡立てて!」

「了解しました」

 勲は、真面目な顔で頷いている。

 

「サウナの後は水風呂ね。これを繰り返したら幸せ係数ブチ上がりだよ!」

「未知の係数です。インプットしました」

 勲は、真面目な顔で頷いている。

 

「よし、そろそろ普通に湯船に浸かるか」

「了解しました」

 ほえー、と放心の面持ちで適温のお湯に身体を沈めていく。

 勲の表情も、心なしかほぐれている。

「あ、タオルはお湯に漬けちゃ駄目だよ」

「了解しました」

「頭に乗っけよっか」

 ぺちょん、と絞りもせずそのまま頭に乗せる勲。

「ほらほら、ちゃんとあたいの真似しなよ」

「了解しました(ぱたぱた、折り折り)」

「……どう、分かってきた?」

 何を、とは聞かなかった。

「これが、喜びですか?」

 勲が、智子の目を覗き込むようにして訊いてくる。この態度にもようやく少し慣れてきた。

 その問いに少し笑って、しかし臆することなく、智子は肯定した。

「そうだね、あたいはそう」

 これで姫子も居れば言う事はないのだが、今は望むべくもないだろう。

 勲は、突然ざばりと立ち上がった。小さな波が智子の顎のあたりに飛沫を飛ばす。本物の人間さながら薄紅に火照ったその体躯に何か思いを馳せるより先に、変化が起きた。

 勲の身体が、緩やかに明滅を繰り返しながら発光しだした。

「え、ちょっと……」

 思わず、智子も立ち上がる。

 そこで、周りの光景が一変した。あの白い、立て看板だけがその存在を主張する殺風景な空間に。

 いつの間にか二人とも服を着ており、頭の上のタオルも消えている。サウナや入浴で蓄えたはずの熱もどこかへ消えている。まるで、全てが幻覚だったかのように。

 しかし、それは幻覚ではない。

 勲は胸に手を当てて薄っすらと微笑みながら呟く。

「これが、喜び? ……暖かくて、ふわふわ。了解しました。記録します」

「なるほど、一個ずつ集めて行くんだ……ねえ、『喜び』はインプットできた?」

「はい、学習しました」

 微笑みを湛えて勲が答える。今まで棒読みだったその口調にも、確かな抑揚が感じられた。

「おっけ。んじゃ次の部屋かな」

 智子にも段々とコツのようなものが飲み込めてきた。部屋の隅に置いてあった冊子(ページは増えたままだった)を拾い上げ、二人は部屋を後にした。

 

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