COC「心臓がちょっとはやく動くだけ」リプレイ 作:又左衛門
「次はこの部屋かな」
特に何の根拠ないが、右から2つ目の扉を差す智子。
「はい」
勲は先ほどと同じように凹凸に手を当て、開錠する。
次の部屋も、1番目と同様の白い部屋だった。立て看板が中央に置かれている所まで。
ただ、その内容だけが違った。
『私はあなたを気にかけていたい』
読み終えると、また周囲の光景が一変した。
その場所にも、見覚えはあった。
もう15年近く前の事で、いつもは脳裏に上ることもないその光景だが、目にするとまざまざと思いだす。
あの頃の出来事。自分の気持ち。まるで冬の海が曇天の下波頭を小刻みに砕くように、いつも不穏に揺蕩っていたあの頃。
ここは、幼少期を過ごした智子の家の、玄関口だった。公営団地の3階、西日の容赦なく降り注ぐリビングのことを思い出した。
無言で靴を脱ぎ、廊下を渡ってドアを潜った先は、記憶の通り小ぶりのリビングだった。
部屋の荒れ具合にも覚えがある。ダイニングテーブルの上に並んだ酒缶と、だらしなく洗濯物とゴミの散らばった床上。間違いない。父親が蒸発した直後の、あの頃の我が家だ。
かつては優しく聡明だった母が、この時だけは失意に荒れていた。酒量は目に見えて増え、生活は荒み、ほんのちょっとしたことで娘に辛く当たった。
今になってそれを責めるつもりはない。同情するし、よくここから持ち直したとも思う。ただ、当時の自分はそう思わなかっただけだ。
父親を失い。母親の愛情も失った。そう受け止めてしまった。だから、智子は荒れた。快闊そのものだった少女はこの時期を境に、誰も慰めることの出来ない怒りと苛立ちを絶え間なく噴出させる、手の付けられぬ不良へと坂を転げるように変貌した。
今いるここは、その『境』だ。
「雷電智子?」
後ろから勲が声を掛けてくる。
「ああ、ごめん。ちょっと考え事しててさ」
おどける様に、大げさに肩を竦めた時、気付いた。手に持った冊子がまた、そのページ数を増やしている。勿論、読む。
「初心者かんたん! 失敗しない『怒』の作り方」
記録チップを入れた状態で『いたずら』をして怒らせよう。これで怒は出来上がり。
(『怒』ね、なるほど)
随分効果的だこと、と智子は寧ろ冷めた想いで感心してしまう。雷電智子という個人の怒りという感情の根源として、確かにこれほど相応しい場は無いだろう。
だが、それは昔の話だ。あの日から――少なくとも自分に接触のない父親に対して、怒りはもうない。自分と母親に与えた仕打ちを許す事は決してないが、かといって憎悪を持ち続けるほどの情熱もまた、智子にはなかった。
「怒り……何でしょう? 興味があります。教えてくれますか?」
「怒りねえ……まあ怒ってるってわけじゃないんだけど。嫌な事思い出しちゃったなあ」
はーどっこいしょ、とソファに腰かける。そのソファにも見覚えがある。生地が擦り切れかけていて、所々薄っすらと食べこぼしをふき取った痕がある。そういや小さい頃、よくソファを汚しては母親に怒られてたっけ。
「勲も座りなよ」
ぽんぽん、とソファの隣を叩くと、勲は素直に腰かけた。脚を組むでもなく、几帳面に背筋を伸ばしてお行儀よく座っている所が何とも可笑しい。
「さっきのお風呂、あったでしょ」
背を少し丸めて腿に両肘を載せながら、智子は話し始めた。今まで立ち現れてきた空間が智子の感情や記憶を元にしたものであるという事は察しがついていたし、それについて開示しておくのがフェアなような気がしていた。ただそのフェアさが勲に対してなのかどうなのかは、智子自身にもよく分からない。
「あそこね、あたいの行きつけの銭湯なんだ」
勲は顔だけをこちらに向けて聞いている。
「娘がいてさ、一緒に良く行くんだよ」
「娘、とは何ですか?」
「んっとね、子供のこと。子供は分かる?」
「ヒトの幼少期をそう呼ぶことは認識しています」
「そうだね。あたいの子供」
ふんふん、と勲は頷いている。
「そんでこの場所はさ、あたいの昔の家。父親が急に蒸発――あたいと母親を置いていなくなっちゃってさ、その頃に住んでた」
「いなくなる……それはつまりどういうことですか?」
婉曲表現のまるで通じない勲の明け透けな問いに、智子は苦笑するしかない。
「どういう事なんだろうね。あたいにも分かんないよ」
何で置いて行かれちゃったのかな、と少し遠い目をする。
特に夫婦間が険悪であったという記憶はない。他所に女でも作ったのか、他にやんごとなき事情がなかったとも言い切れないし、母親との間でも未だにそれに関してはタブーのようになっていて、聞くことの出来る雰囲気ではない。智子にとっても、それは本心からどうでもいい事だ。人生の一時期、自分も母親も心に手ひどい傷を負いはしたが、今はこうして生きている。娘もパートナーも得て、人並みの幸せを享受できている。
端から必要ない、いなくて当たり前、そんな人間に対して何がしかの評価を下す価値は、少なくとも智子にとっては欠片もない。
「雷電智子にとって、それは『嬉しい』ものではなかった、ということですか?」
「……そうだね。親に棄てられて、喜ぶ子供なんていないよ」
「なるほど」
「でも怒るってのも、今は別にだしなあ……ま、切り替えてくか」
うん、と背伸びをするように背もたれに凭れかかる。
「勲はさ、何かされて嫌な事ってあるの?」
勲は、少し視線を動かして黙考した。
「先ほど、機体の洗浄を行いました。再び汚すことは『快適』と逆の感情を誘起すると推察します」
「そう、不快を感じた時に辿り着く感情の一つが、怒りだね」
「……もっと、具体的にお願いできますか?」
「うーん、すっと冷える人もいれば、爆発する人もいるからなあ……具体的にかあ」
腕組みをして、今度は智子が考え込む番だ。
「よし、久々に親父に怒ってみるか」
順番が無茶苦茶だが、理解してもらうなら自分がその感情を噴出させている様を外側から見てもらうのが手っ取り早い、と智子は考えた。
こんにゃろう、あたいとお母さんを捨ててどっか行っちまいやがって、あの後あたい達がどんだけ苦労したと思ってやがんだ……
むむむ、と心中で恨みつらみを念じ――それは智子自身意外なほどつらつら出てきた――ピークに達したところでおもむろに立ち上がりざま、尻の下のクッションを掴んだ。
「ばかやろ――――――――――― あっごめん!」
「ばかや」でクッションを振りかぶり、「ろー」で壁に向かって投げ付けようとしたのが、リリースのタイミングを見誤って隣の勲の顔にクリーンヒットしてからの「あっごめん」である。大振りの柔らかいクッションだったが、全力のスイングだった為か「ばふっ」というより「ずばんっ」という感じで勲の顔面にぶち当たった。
「ごめんごめん、大丈夫?」
クッションがずり落ちてきた下から現れたのは、むっとした表情の勲の顔だ。
「……あ、もしかして怒ってる?」と訊くと、勲はきょとんとした顔になった。
「これが、怒り、ですか?」
「んん、それが怒りの種みたいなもんかな。それがもっと大きくなったのが『怒った』って状態だよ」
勲が納得したように頷き、立ち上がった。そして再び全身に光を纏いだす。
また、白い部屋に二人は戻ってきた。
「ようやく戻ってきた……」
智子は、我知らず抱いていた不安の影のようなものが拭われている事に胸を撫で下ろした。正直なところ、あそこはあまり長居したい空間ではない。
勲は自分の胸に手を当てて、むっと頬を膨らませている。
「これが、怒り」
「うん」
「しっかり、記録しました」
初めて抱いた感情を噛み締めているのか、その声は幾分堅い。
「それで、いつやり返せばいいのですか?」
どうやら、『仕返し』という発散方法まで学習したらしい。大した学習能力だと智子は心中舌を巻いた。
「んー、まあ、ここを出てからにしよっか」
「なるほど……」
笑いながら受け流す智子を、勲はじとっと睨んでいる。
「やり返すのはいいけど、一倍返しまでだよ」
「では、ここから出たら、何か柔らかい布製品を智子の顔に投げ付けることにします」
「おっけー」
勲は、不意にはっという顔をした。
「……あの、許可を頂きたい事があるのですが」
改まって何だろう。
「互いの、名前を呼び合う事で、親しく感じられると思うのですが。なので、『智子』と……」
だめ、でしょうか、と気持ち上目遣いで訪ねる勲に不意打ちを食らって、心拍数が跳ねあがった。
「勿論。あたいもさっきからずっと勲って呼んでるしね」
「では……智子」
その口調はどこか甘えるようなそれで、耳から染み入るように智子の心中に達しては甘やかに掻き回した。
少し顔が赤くなってしまったかもしれない。誤魔化す様に、智子は先を促した。
「おっけー。じゃ、次の部屋行こうか」
右から順番に扉を開けたので次は真ん中の扉、と何となく思っていたのだが、勲は扉を前にして躊躇う素振りを見せた。智子を振り返って、
「この扉に対しては、解除権限を一度しか使用できません。許可を求めます」
うん? と智子は頭を捻った。
「じゃあ、他の扉だったら何回でも開けられるの?」
「はい、可能ですよ」
「うーん、取り敢えずここは後回しにしよっか」
じゃあその隣ね、と選んだのは、右から4番目の扉だ。
そこは先の2部屋と同じく真っ白な部屋。中央の看板の文言だけが違う。
智子はこの先の展開が何となく読めてきたような気がした。
『私はあなたのためなら耐えられる』
看板の文字を読んだところで、また辺りの光景が変わった。
目の前に現れたのは、曇天。そしてその下に広がる沼とその周りを囲む湿地だ。雲はどんよりと分厚く立ち込めて、先ほどの快適な室温から一変して肌寒い。膝丈ほどの草の間から見え隠れするぬかるみ、水辺の湿った重い空気に混じる悪臭、その中に微かに感じる甘い匂い。
智子はかつて、その夢を見たことがある。いや、夢であるとは未だに断じることが出来ない。それは夢と現実の狭間のような奇妙な空間で起こった出来事なのだと、今になっても思う。
陰鬱な景色に倍して暗澹とした心持ちになる。それは先ほどの部屋の比ではない。
勲は独り言に応えることなく、ただ智子の手元にちらりと視線をやった。
「ああ、また増えてんのか。まあ、もう想像はつくけどな」
案の定更新されていた手元の冊子を繰る。
「初心者かんたん! 失敗しない『哀』の作り方」
記録チップを入れた状態で『別れ』について語ってあげよう。これで哀は出来上がり。
(ああ、そうだな)智子は一人合点した。
この部屋は、確かに別れと哀惜に相応しい。
まさにこの場所で、智子は娘を、姫子を失った。いくら現実の出来事でないとはいえ、あれを再び体験するのは御免だった。この気持ちを、勲に教えてやれば良いのだろう。
智子は、勲の傍に歩み寄り、手をそっと握った。勲がこれを見て何を思っているのかは知る由もないが、今はその手を、優しく握り返してくれている。
「さっきも言ったけどさ、あたい娘がいてさ」
目を合わせることなく、とつとつと智子は語り出す。
「娘を失う事は、耐えられないって思うな。今、勲の手を握ってるけど、この手を離した時にあたいがふっといなくなっちゃったら、どんな気持ちになるかな?」
意地の悪い問い掛けかもしれない。でも、本当に悲しいというのは、そういうことだと智子は思う。
「きっとさ、心に何か、はっきりした形の穴が開いちゃうと思うんだ。それが別れで、それが悲しいって事かな」
「……智子がいなくなることを想像してみました。怒りとは違う、でもまた別種の嫌な気持ちです」
「うん、そうだね」
鈍い色彩の湿地に、手を繋いで並び立つ二人。地平線までずっと続く膝丈の草木、見渡す限り人工物はおろか人気もまるでない。いま世界には、きっと二人しかいないのだ。
遠くの方で、茶色がかった緑の絨毯に濃色の紋様が走る。風が出てきたようだった。
たなびく紋様は手前へ、手前へ。沼の水面を揺らし、二人の並び立つところまで、あっという間にやってきた。
風が冷たく頬を嬲り、髪を乱す。
飛ばされまいとでもしているのか、勲が、握るその手に少しだけ力を込めた。
智子の視界の端に、ふわりと白い光が舞う。見るまでも無くそれは、勲の身体から発せられている。
また、いつの間にか白い部屋に戻っている。体温を奪う冷たい風も、微かに漂う甘い匂いも綺麗に消えた。
「これが、悲しみ? ……うん、そうか」
また少し、勲の口調が変わった。
胸に手を当てて、その顔は今得た感情を味わうように、心持ち歪んでいる。
「智子は、ここから、帰っちゃうんだな」
そう、唐突に訪ねてきた。
「……そうだよ。帰らなきゃ」
「そっか……」勲は隣で俯く。
そちらを向くことは憚られた。悲嘆にくれる勲の顔なんか、見たくはなかった。
今まで自身の中に存在しなかった悲哀の存在を自覚した時、自分はどう振舞うのだろう。
上手く想像はできなかったが、それはとても辛い事だと、ただそれだけはぼんやりと理解した。
「勲はさ、もしかしてここから出られないの?」
「多分、出られないと思う」
ああ、と智子は溜息をついた。
でも、しょうがないのかな。
「何か、イヤなのが連チャンで来ちゃったけどさ、次は『楽』だぜ!」
行くぞ行くぞ、とわざとらしくおどけて、智子は握ったままの手をぐいと引いた。