COC「心臓がちょっとはやく動くだけ」リプレイ   作:又左衛門

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 酸欠で、頭の中がちかちかする。でも、それでも止まらない。

 いつの間にか、白い部屋まで来ていた。後ろからはまだ足音がする。

 もうすぐ、最初のあの部屋だ。

 恨み言が、また聞こえたような気がする。だが脳がそれを処理してくれない。

 やっとの思いでケーブルのアーチを潜ったところで、背後から何かが潰れるような音が音がした。

 ロボットたちが不用意に触れたのか、はたまた危ういバランスで保たれていた形状が時間経過で崩れたのか、空隙を形作っていたケーブルは重力に従うがまま落ちて出入り口を塞ぎ、元通りの分厚い壁に戻っていた。

 もう、追ってくるものはいない。

 智子はようやく膝を落とし両手を地面に突いて、酸欠に喘いだ。瞳孔は限界まで開き、空えづきが止まらない。心臓が破裂せんばかりに脈打っている。玉のような汗の滴がいくつも顔から滴り落ち、床に染みを作った。

 数分をその姿勢で過ごしたところで、床にだらしなく落とした冊子の表面が変化している事に気付いた。

『初心者かんたん!』と書かれていたあたりがぐちゃぐちゃと書き消され、内容が書き変わっている。

 

 私達はここでひとりぼっち。ずっとずっとひとりぼっち。

 だから、あなたと一緒に生きてみたかった。

 私達は人間が憎くないといえば嘘になる。

 私達は人間が怖くないといえば嘘になる。

 それでも私にとっての幸せは、智子が幸せでいられること!

 失敗作だっていいよ。

 ずっとずっと、智子が大好き。

 

 泣かなかった。ただ、ごめんね、ありがとう、と声にならない声で呟く。

 ようやく息を整え、しかし心拍はまだ収まらぬまま、立ち上がって扉に向かった。

 最初に見た、あの両開きの扉。そして血のように赤いハート形の錠前。

 勲が残した鍵は、彼女が心と呼んだそれはするりと鍵穴に入り、捻ると何の抵抗もなくシャックルが口を開けた。

『私の心だけでも、外に連れてって欲しい』

 分かってるよ。

 鍵は抜いて、そのまま手に握りしめる。

 扉を開けた。

 

 扉の向こうは、何も見えない真っ白な空間だった。

 眩しいというより、本当に何もないのだ。

 聞き覚えのない、金属的な響きの声が聞こえる。

「なるほど」とその声は言った。男とも女ともつかぬ声に、ただ嘲りの色だけが満ちている。

「心を持つとこうなるのか。貴重なデータが取れたな、興味深い」

 どうやら智子に語り掛けている訳ではなく、単なる独り言のようだ。

 だが、続く言葉は明らかに智子に向けたそれだった。

「ああ、その鍵はもういらない、ただのゴミだよ。君が必要だと言うなら拾っていっても構わない」

「……あんた、何なんだよ」

 応える声はない。

 意識が、前触れもなく急速に遠のいていく。

 

「智子、おーい智子」

 聞き覚えのある声で、起こされた。目を開ける。

 勇がベッドサイドに立って、こちらを覗き込んでいる。智子の隣では、とんでもない寝相の姫子が寝息を立てていた。

 焦点の合わない眼で壁かけ時計を見る。8時。

「今日は朝ご飯、私が作ろうか?」

 自宅だった。いつも通りの筈の、一日の始まり。

 だがその当たり前に途轍もない安堵と、同時に言いようのない不安を覚える。

「……夢?」

「まだ寝てるな、この寝ぼすけさんめ」

 腰を手に当てて怒るポーズだけはしながら、勇の声は笑っている。

「トーストでいいか?」

「あ、うん」

 コーヒーも淹れとくぞ、と言い残して勇はリビングに消えた。

 その後ろ姿に、勲が重なった。

 横たわる裸体。扉を開ける姿。豊かになっていく表情。無残な最期。

 余りにも生々しく記憶に残るそれは、本当に夢だったのだろうか?

 勲と繋いだ手の感触を思い出すように、右手に力が籠る。

 手の中に、小さな違和感があった。

 掌に握り込んでいたそれは、小さな鍵だった。

 安っぽく粗末なそれには、勿論見覚えがあった。勲の形見、彼女が自分の心と呼んだ鍵だ。

 あれがただの夢ではなかったと証明する、確かな痕跡。同時にそれは、智子が命惜しさに勲を見捨てた事が事実であると突き付ける物証でもある。

 柔らかな絶望と罪悪感が、智子の胸に澱んだ。

 それでも、少なくとも彼女の最後の願いを聞き届けたのだと、言い訳するように自身に言い聞かせるしかない。

(勲、連れてきたよ……)

 そう言えば、やるべきことが残っていた。

 ベッドを抜け出し、リビングに向かう。勇は、冷蔵庫を開けているところだった。

「ねえ、勇」

「うん?」

 振り向く勇を、正面から智子は抱き締めた。勇の鼓動を、その胸で感じられそうなほど強く。

 おいおい、と勇は慌てる。

「どうしたんだ?」

 勇が狼狽える通り、智子は普段からボディタッチを始めとした分かりやすい愛情表現を頻繁に行うタイプではない。むしろこれは極めて珍しい出来事だった。

 そう言えば、同棲を提案する時もはっきりとは言わなかった気がする。きちんと気持ちを伝えなければ、あの奇妙な夢のように後悔する時が来るかもしれない。

だから、言わなきゃ。

「……愛してる」

 大仰な決意の割に言葉尻の窄まった、なんとも格好の付かない告白だった。決意を、照れがわずかに上回った結果だった。

「……何だって?」

 きょとんとする勇に、「いや何でもない」とも言えずもごもご誤魔化す智子。

「急に何だよ智子。私も愛してるぞ!」

 勇の声は完全に笑っている。勇も普段の愛情表現に乏しい方だが、こういう時に照れてしまう智子とはむしろ正反対だ。

 聞こえてんじゃねえか。なんだよもう。

「ママといさママ、なにしてるのお?」

 あくび混じりで寝室から姫子がやってきた。何恥じる事はない筈なのだが、秘め事が見つかってしまったような感覚に、智子は完全にてんぱってしまった。

 もうやけくそだ。

「姫もこっちおいで!」

「え、なになに」

 言われるまま近づいてきた姫子も、一緒に抱き締める。

「姫もいさママも、愛してるぞ!」

 姫子は何が何やら状況が分からず、それでもきゃっきゃとはしゃいでいる。

「ひめもあいしてるー!」

「私も愛してるぞ、二人とも!」

 わははと笑いながら、勇も同調した。

 こんな日がずっと続けばいいのに。

 そう智子は願わずにはいられない。

 握り込んだ掌の中、小さな鍵は智子の体温にあてられたのか、仄かな暖かさを帯びていた。

 

 

<了>

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