光陰矢の如しとはよく言ったもので、月日は矢のような速度で瞬く間に流れてゆく。大人になればなるほどこの流れは勢いを増し、矢どころではなく銃弾の如き速さに達するらしい。
早くも月が変わって五月。空はどんよりと曇っていて今にも雨が降り出しそうだった。五月雨という言葉が浮かんだが、あれは陰暦の五月に降る雨、つまり梅雨のことを意味しており今降り出しそうな雨を表現するのに適していない。
そんな空模様と同じように、1年Dクラスの教室内はどんよりとした空気が漂っていた。
それもそのはず、Dクラスの生徒は毎月1日に支給されるはずのポイントが全く振り込まれていなかったのだ。次は何を買おうかと楽しみにしていた生徒たちは戸惑いを隠せないでいる。
始業チャイムが鳴ると、ポスターの筒を持った茶柱先生が教室へとやって来た。その顔はいつもより数段険しい。
「席に着け。朝のホームルームを始める」
「せんせー、ポイントが振り込まれてないんスけど。毎月1日に振り込まれるんじゃなかったんですか」
クラスの意見を代表するように山内が質問を投げかけた。
お前に代表されると何かムカつくな。
「いや、今月分は既に振り込まれている。このクラスだけ忘れられたなどという可能性もない」
学校側で手違いが生じた可能性を考えている者もいたが、それも否定された。
「でも実際、振り込まれてないし」
「……本当に愚かだな、お前たちは」
納得のいっていない生徒たちに対し、茶柱先生は厳しく言い放った。怒気のこもった声音とは裏腹に、表情には微かに笑みを浮かべておりその感情は読み取ることができない。
異様な雰囲気に圧されて生徒たちが押し黙るなか、先生は言葉を続ける。
「遅刻欠席合わせて98回。授業中の私語や携帯を触った回数391回。ひと月で随分やらかしたものだ」
ヤバすぎワロタ。学級崩壊寸前と言っても過言ではない。俺が教師なら拗ねて職員室に帰ってるレベル。
「この学校では、クラスの評価がポイントに反映される。その結果、お前たちは振り込まれるはずだった10万ポイント全てを吐き出した。それだけのことだ」
……笑ってる場合じゃなかった。得られるポイントは個人の評価ではなくあくまでクラス全体の評価らしい。いくら自分が真面目に過ごしていようと、誰かが評価を下げれば巻き添えを食い得られるポイントが減ってしまう。
「なんだよそれ……。聞いてねえって……」
「ただの高校生に過ぎないお前たちが、何の制約もなく毎月10万も使わせてもらえると本気で思っていたのか? 有り得ないだろ、常識で考えて。なぜ、疑問を疑問のまま放置しておく?」
至る所にある監視カメラ、全く咎めない教師たち、無料で提供される食材や学食。いきなり10万円を渡されたことだけではなく、不可解な点はいくつもあった。それを見過ごして散財し、あまつさえ授業態度を改めなかったのだから完全なる自己責任だ。
といっても真面目に授業を受けていた者にはなんの非もなく、ただただ可哀想である。特に俺とか俺とか俺とか。せんせー、連帯責任なんて悪しき風習は現代社会にそぐわないっすよー。
まあ、節約していたおかげでポイントには余裕はあるんだが。専業主夫目指しといてよかった……。
「では、せめてポイント増減の詳細を教えてください……。今後の参考にしますので」
そう発言したのはクラスのリーダー的存在である平田。クラスのため、この最悪の状況を打破すべく立ち上がった。
「それはできない相談だな。人事考課、つまり詳細な査定の内容はこの学校の決まりで教えられないことになっている。しかし、そうだな……。あまりに悲惨な状況だ、一ついいことを教えてやろう。仮に今月マイナスを0に抑えたとしても、ポイントは減らないが増えることもない。裏を返せば、どれだけ遅刻や欠席をしても関係ない話、ということだ」
「っ……」
平田の顔がより一層暗くなる。今の説明では遅刻や私語を改めようという意識が削がれ、士気を高めることも難しくなる。
「さて、そろそろ本題に入ろう」
茶柱先生は手にしていた筒から厚手の紙を取り出し、黒板に張り付けた。そこには1学年クラスポイント一覧と書かれており、Aクラスが940、Bクラスが650、Cクラスが490、そしてDクラスが0と並んでいた。
「これは、現在各クラスが保有するクラスポイントだ。1ポイントごとにクラスの生徒全員に100プライベートポイントが支給される」
クラスポイントとプライベートポイントの2種類があるのか。それにしてもAからDまで奇麗な右肩下がりにポイントが並んでるな。
「何故……ここまでクラスのポイントに差があるのですか」
平田も各クラスのポイントに対して同じ印象を抱いたようだ。
「この学校では、優秀な生徒たちの順にクラス分けされるようになっている。つまり、Dクラスであるお前たちは最悪の不良品ということだ。実に不良品らしい結果だな」
なるほど、進学校らしく成績に応じてクラスが分けられたのか。試験は結構良い点取れたと思ったんだがな。やはり、この目のせいで面接での印象が悪かったのだろうか。もはや呪われた装備である。
「あの、ポイントが増える機会はあるんですか?」
今度は櫛田が恐る恐る質問を投げかける。
「あるぞ。直近で言えば次の中間テスト、成績次第では最大100のクラスポイントが加算される。結果としてDクラスがCクラス以上のポイントを得れば、お前たちはCに昇格、CクラスはDに降格する」
一番近いCクラスでさえ約500ポイントの差があるのに、得られる最大ポイントはたったの100ポイント。当然、ほかのクラスも同条件でポイントを獲得すると考えると、追いつき追い越すのはかなり難しそうだ。
「だが、これが前回の小テストの結果だ。中学で一体何を勉強してきたんだ? お前らは」
茶柱先生はそう言って小テストの結果が記載された紙を黒板に貼りだした。殆どの生徒が60点前後しか取れておらず、須藤に至っては14点というぶっちぎりの最低点を叩き出していた。
いや、マジでどうやってこの学校受かったの? もしかして“やった”? 裏口という名の裏技使っちゃった?
逆に、高得点を取っていたのはメガネ男子の幸村、高円寺、堀北、平田といった面々で、その次に80点の俺が並んでいる。俺が上位に食い込めるほどテストが簡単かつクラスの平均水準が低いということだ。
「良かったな、これが本番だったら7人は入学早々退学になっていたところだ」
「た、退学? どういうことですか?」
「なんだ、説明してなかったか? この学校では中間テスト、期末テストで1教科でも赤点を取ったら退学になることが決まっている。今回のテストで言えば、32点未満の生徒が対象になる」
「は、はあああああああ!?」
……マジ?
さすがにそれはもっと前に説明すべきだろ……退学なんてことになったらせっかく送り出してくれた小町や平塚先生に顔向けできねーよ。
いや、待て。退学というワードが衝撃的過ぎて聞き流すとこだったが、赤点が32点って何でそんなに中途半端なんだ? 普通40点未満とかじゃないのか? それに今回のテストで言えば、ってことは毎回赤点の基準が変わるのか?
教室がざわつく中、俺は黒板に貼りだされたテスト結果を改めて見直す。ざっと眺めるとクラスの平均点は60点ほど。携帯の電卓機能で正確に求めると、その数値は64.4点だった。
……なるほど、おそらく赤点の基準はクラスの平均点÷2未満で、小数点以下は切り捨てか四捨五入のどちらか。学年全体の平均点を基準にしている可能性も考えたが、Cクラス以上はもっと高い点数を取っているはずなのでそれはないだろう。
「それからもう一つ。この学校は高い進学率、就職率を誇っているが、それは優秀な生徒に限っての話だ。つまり、この学校に将来の夢を叶えて貰いたければ、Aクラスに上がるしか方法はない」
「聞いてないですよそんな話! 滅茶苦茶だ!」
おいおい今度は虚偽誇大広告かよ。政府主導だからって何でもありだなこの学校は。幸村が怒るのも無理はない。
「みっともないねぇ。男が慌てふためく姿ほど惨めなモノは無い」
そんな幸村を見て、高円寺はこれ見よがしにため息を漏らした。
「……Dクラスだったことに不服はないのかよ。高円寺」
「不服? 学校側は私のポテンシャルを計れなかっただけのこと。勝手にD判定を下そうとも、私にとっては何の意味もなさないと言うことだよ」
さすがは高円寺。自尊心の高さでこいつに敵う奴はいない。実際、今回の小テストの結果や水泳の授業を見るに高円寺のポテンシャルは学力、身体能力共に高く、おそらく学年でトップを争うほどだ。ただ、その長所で補っても足りないほど性格に難があるが。
「それに私は高円寺コンツェルンの跡を継ぐことが決まっているのでね。DでもAでも些細なことなのだよ」
どうやら高円寺コンツェルンは世襲制らしく、就職の心配はないようだ。……高円寺の下で働くとか絶対嫌だな。ストレスで胃が蜂の巣みたいになりそうだ。どうでもいいけど美味しいよね、ハチノス。
高円寺の規格外な考えに理解が及ばなかったのか、幸村は反撃の言葉を失い、腰を下ろすしかなかった。
「浮かれていた気分は払拭されたようだな。中間テストまでは後3週間、まぁじっくりと熟考し、退学を回避してくれ。お前らが赤点を取らずに乗り切れる方法はあると確信している。出来ることなら、実力者に相応しい振る舞いをもって挑んでくれ」
……『赤点を取らずに乗り切れる方法はあると確信してる』? また含みのある言い方だな。赤点を回避する方法なんて勉強する以外にないんじゃないか? 小テストの結果を見るにそれも厳しそうだし、確信してるなんて言えないはずだが。
茶柱先生はそんな意味深な言葉を残し、教室から去っていった。
Sシステムの真実を理解させられた生徒たちは意気消沈し、特に退学の危機に瀕している赤点組はがっくりとうな垂れている。
どうやら俺はとんでもない学校に来てしまったようだ。
***
5月に入って1週間が経過した。4月とは打って変わって私語をする生徒は居なくなり、誰もが授業を真剣に聞いている。……ただし、須藤を除く。
これ以上マイナス査定を受けないため、そしてこれからポイントを増やしていくため、平田が率先して協力を呼び掛けていたが須藤には響かなかったようだ。今日も今日とて堂々と居眠りしている。禁止されてる中で貪る惰眠はさぞ気持ちいいだろうな。
この1週間、俺は帰ってからも勉強しつつ、赤点を取らずに乗り切れる方法について思案していた。Aクラスのみが受けられる恩恵にはさほど興味ないが、退学だけは何としても避けたいからだ。
そうしてなんとか2つほど考えを絞り出すことには成功したが、どちらも問題点だらけの愚策としか言いようがないものだった。実際にはそんな方法など存在せず、茶柱先生の意味ありげな発言もただの気まぐれだったのかもしれない。
「いてっ」
「聞いているのかしら、比企谷くん」
授業が終わって昼休み、突然堀北に肩を殴られた。
何? いきなり肩パンしてくるとかお前陽キャか? ウェ──イwwヒキタニくん何読んでんのーwwとか言い出すんじゃないだろうな? 嫌な思い出が蘇ってくるから止めてほしいんだが?
「あなたと綾小路くん、お昼一緒に食べないか誘っているのだけれど」
堀北が飯の誘い? どう考えても怪しすぎる。そもそも話しかけてくること自体滅多にないのに。
「堀北からの誘いなんて珍しいな。なんだか怖いぞ」
綾小路も何かを感じ取ったのか警戒している。
「別に怖くないわよ。なんなら好きなもの奢ってあげるわ」
余計に怪しい、というか確実に罠だ。破壊輪とか激流葬みたいなトラップカードをセットしたに違いない。
「やっぱ怖いな。何か裏があるんじゃないだろうな?」
「人の好意を素直に受け取れなくなったら人間お終いよ?」
「まあ、そりゃそうだけど……」
綾小路は意志が弱いのか懐柔されそうになっている。ここは綾小路を生贄にして逃げさせてもらおう。
「生憎俺は養われる気はあるが、施しを受ける気はないんで遠慮させてもらう。それにもう昼飯はコンビニで買ってきてるからな」
「養われるつもりがある時点で男としてどうなのかしら……」
……それってえ!! 男性蔑視ですよねえええ!?
あんまり下手なこと言うとマスキュリスト八幡が黙っちゃいないぞ。
「まあ、いいわ。その気味の悪い人は放っておいて行きましょう、綾小路くん」
気味の悪い人(俺)の相手をするのが面倒になったのか、堀北は綾小路を連れてさっさと食堂に向かっていった。本当に一言多いわねあの子は。どんな教育を受けてきたのかしら。
……まあ助かったからいいか。
綾小路という尊い犠牲を出しながらもなんとか窮地を脱した俺は、いつものように屋上で穏やかな昼時間を過ごすのだった。
その後、教室に戻って目に入った綾小路の顔が絶望の色に染まっていたのは言うまでもない。
放課後、俺はこれまでの茶柱先生の意味深な発言がどうしても気に掛かり、その真意を確かめるべく職員室に向かった。
「失礼しまーす」
一応小声で挨拶を入れてからそっと扉を開けた。中に入るとコーヒーの匂いで充満した職員室独特の香りが鼻腔を刺激する。昔はこの匂いが好きではなかったが、中学時代、平塚先生に呼び出されまくったおかげですっかり何とも思わなくなってしまった。慣れって怖いね。
懐かしさに浸りつつ職員室内を見回すと、何人かの教師が机の前で仕事をしており、その中に目的の人物である茶柱先生の姿を発見した。
「茶柱先生」
「ん? 比企谷か。わざわざ職員室まで来てどうした?」
「先生にちょっとお願いがありまして」
“お願い”という言い方を怪訝に思ったのか茶柱先生は眉間に少し皴を寄せたが、ちょっと待ってろと言い、処理していた書類を一旦片付けると俺に向き直った。
「で、そのお願いというのはなんだ?」
俺はポケットから学生証を取り出しつつ、思いついた愚策のうちの一つを単刀直入にぶつけた。
「中間テストの答案用紙、売ってくれませんか」
「…………」
茶柱先生は目を丸くして数瞬硬直した後、高らかに笑い出した。
「ははははは! 突然何を言い出すかと思えばテストの答案用紙を売ってくれ? 面白いことを言うな、お前は」
「だって先生入学式の日に言ってたじゃないですか。この学校の中でポイントで買えないものはないって。テストの答案用紙だってこの学校の中の物ですよ」
自分でもわかっている。これは相手の言葉尻を捕らえただけの屁理屈に過ぎないと。普通の学校であれば、答案用紙の売買など全国ニュースになるレベルの大問題だ。
「なるほどなるほど。確かに、考え方によってはそう捉えることもできる。そして、愉快なことを言うお前に応えてやりたい気持ちもある」
しかし、この学校は普通とはかけ離れていた。
「そうだな……今回のテストなら、特別に1教科200万プライベートポイントで売ってやってもいい」
「…………」
今度は俺が目を丸くする番だった。先生の真意を探るためのジャブのつもりだったんだが、まさか本当に売ってくれるとは。
それにしても1教科200万プライベートポイントか……。一人では到底賄えるような数字ではない。
「酷いですよ先生、そんなにポイント持ってるわけないじゃないですか」
「だろうな。だが、そう易々と売れるようなものでもない」
「……手持ちがないんで今回は諦めますけど、200万ポイントで売ってくれるっていうのは本当なんですよね?」
「ああ、本当だ。どうせ払えないだろうと吹っ掛けている訳ではない」
「……わかりました。答えてくれてありがとうございます」
答案用紙を手に入れることは出来そうにないが、代わりに有益な情報を得ることが出来た。そんな先生に感謝感激雨霰。
「なに、気にするな。それにしても綾小路以外にもお前みたいな面白い奴がうちのクラスにいたとはな」
「綾小路……ですか? 確かに変わった奴ですけど」
そういえば1週間前のあの日、先生に呼び出されてたが何かあったのだろうか。
「変わった奴どころではないさ。あいつは入試の5教科、それから今回の小テストすべて50点だった。それも正解率3%の問題を完璧に答えながらな」
つまり、綾小路は高難度の問題を解く能力がありながら意図的に点数を抑えていたらしい。それもぴったり50点に。なんだよそれ、プラマイゼロにしちゃう宮永さん家の咲さんかよ。勉強って楽しいよね! とか言いながら人の心折ってそう。
「それが本当なら何でそんなことしたんですかね」
「さあな。本人に聞いても偶然だと言い張るだけだったさ。まあ変人同士仲良くしてやってくれ」
可愛い教え子に向かって変人呼ばわりは酷くない? 愛情がないよ愛情が。教師がそんなんだから俺たち生徒は非行に走ったりぼっちになったりするんだよ。綾小路の点数調整も非行の一種なんじゃないか。
「はあ。綾小路がそんなことしたのも教師が原因かもしれないですね」
「は? どういう意味だ?」
「いえ、何でもないです。改めて今日はありがとうございました」
用件も済んだし長居は無用。余計なことを言ってしまった俺は失礼しました、と軽く頭を下げてから逃げるように職員室から退散した。
帰り道、俺は今日得られた情報を頭の中で整理していた。
まず、プライベートポイントで答案用紙を購入できるということ。これは極めて重要な情報だ。そんなものまで購入できるのだから、ポイントで入手可能な対象は多岐にわたると考えられ、同時にプライベートポイントの価値が非常に高いことが窺える。
しかも、俺と茶柱先生の会話が聞こえる範囲に数人の教師がいたが、誰もが真剣な表情で耳を傾けていた。仮に、答案用紙の売買が認められていなければ誰かが止めていただろうし、冗談だと捉えていたならば笑わずにはいられなかったはずだ。
次に、答案用紙の価格が1教科200万プライベートポイントということ。これはどう考えても安すぎる。1クラス40人全員で出し合えば、1人当たりたった5万プライベートポイントで1教科満点を取れることになる。今月ほぼ満額のポイントを得たAクラスであれば、2、3教科分の答案用紙を購入できてしまう。Aクラスの学力なら普通に勉強しても高得点を取れるだろうから必要ないかもしれないが、この異常な安さには何か理由があるはずだ。
最後に綾小路についてだが、はっきり言ってよくわからん。なぜ50点を狙って取ったのか聞きたくもあるが適当にはぐらかされるだけだろうし、本当に偶然だった可能性もなくはない。今のところは、恐ろしく頭がいい奴かもしれないとだけ覚えておくことにする。
以上が今日の収穫だ。なかなかの豊作ではないだろうか。
俺は今日の成果に満足しつつ、上機嫌で寮へと帰るのだった。
言い忘れてましたが、答案用紙を購入できるという原作にない設定を盛り込みました。