日本のごく一般的な学生が、学校という場で円滑な社会生活を送るためには常にコミュニケーション能力が求められている、と現役中学生の智也は考察していた。コミュニケーション能力という言葉をひどく狭義に理解すれば、学生内での暗黙のルールに従う協調性だったり、目立ちすぎず孤立しすぎない適度な自己主張だったり、学校内での立場を理解した振る舞いを心がけることだったり。それは客観的な合理性などない、年長者が年少者を、ヒエラルキー上層が下層を支配するためのシステムから排除及び敵視されない為に必須のスキルだった。
そして、智也はその能力を欠いていることを自覚している。もともとマイペースで、自分の領域が他人に干渉されることが耐えられないタイプだ。常に「空気を読んで周りに合わせる」ことを要求される中学校生活は、彼にとって非常にストレスであり、特に上級生が下級生を威圧し、同学年でもカースト上位の者たちが力を持つ部活動には、一年耐えるのが精一杯だ。そんな智也が居場所を求めたのが、隣の三門市にあるボーダーという組織だった。
ボーダーについて情報収集するうちに、その組織への憧れはどんどん高まっていく。ニュースに取り上げられたり広報サイトで扱われるボーダー隊員は、年齢のわりに随分大人っぽく見えた。彼らはきっと、幼稚なルールに縛られることもなく、自分の力を発揮しているのだろうと、一方的に憧れた。あそこにいけば、この息苦しい学校生活から解放されるかもしれない。一度抱いた希望を払いのけるのは難しく。ボーダーで前線に出て戦うスタッフ――防衛隊員というそれは、年齢の若い者を優先して募集しており、当時中学二年生だった智也にとっては願ってもない条件だった。ボーダーに入隊するという理由ならば、退部について追及されることもないだろうし、あわよくば授業だって公に休めるかもしれない。元々学校の成績は上位にあったから、両親だって文句は言わないだろう。
そうして入隊したボーダーは、智也の想像を遥かに越えて肌に合った。まず、知り合いがいないので誰に気を遣う必要もない。C級隊員としての訓練も個人単位なので、自分のペースで技術を磨くことができる。なにより、智也にはトリガーを使う才能(トリオン能力というそうだ)があったらしく、同期入隊者との個人ランク戦で勝ち星を重ねることができた。あまりに楽しい日々に、ここが自分の求めていた場所だったのかと感激したほどだ。無理に誰かと関わる必要もない、特別親しい友人がいなくても異端視されない。ボーダーは智也にとって理想郷のごとき場所だった。まったりと、けれども着実に、一度も点を減らすことなく、智也は入隊から半年過ぎにB級へと昇格した。の、だが訓練生であるC級と正隊員であるB級以上は根本的に違うのだという事実が、浮かれた智也を打ちのめすのだった。
放課後を迎えた学生たちがいっきに出勤し、本部のラウンジは隊員たちで賑わっていた。ざわざわと騒がしいその空間の隅で、智也はテーブルの上にタブレット端末とノートを広げ、ボールペンを握ったままに硬直していた。訓練生の白い隊服から一新されたネイビーのジャージを纏った少年は、白いままの紙面を凝視している。傍目には不審なその姿は、智也が考え事をするときの常で、その頭の中はさきほど耳にした話を反芻し、絶望の悲鳴を上げていた。
「B級で上に行くには師匠を持つのが普通なんて聞いてない!」
心の底からの叫びは、彼の脳内でのみ響き、発声されることはなかった。意味もなくノート上にぐるぐると黒い線を引きながら、智也は顔見知りの同期とのやりとりを思い返す。「友人ではない知り合い」程度に親しい彼は未だC級だが、智也の昇格を喜んでくれたようだ。そして彼は当然のごとく「師匠は探してるのか」と訊ねた。
――智也は同期生と私的な交流をほとんど持っていない。所謂「ぼっち」である。そのことについて負い目や劣等感はないが、コミュニティ内のならわしや暗黙の了解などについての情報についてはどうしても疎くなってしまう。そのせいで知るのが遅れた重大な事実。ボーダーでは技術を持った隊員が他の隊員を弟子として自らの技術を教えることが習慣化しているということ。
うわあああ、と叫びだしたい気持ちをぶつけられたノートは、強烈な筆圧で引かれた線が集合して洞穴のような黒い丸を作り出していた。通りがかった者がぎょっとするのも気づかずに、立ちはだかった大きな問題に智也は頭を抱えた。師匠って、師匠ってどういうことだ。智也など足下にも及ばない実力者に指導してもらうというだけでも申し訳なさすぎてとてつもなくハードルが高いのに、「ぼくの師匠になってください!」と見ず知らずの人間に頼みにいくというのは智也にとって断崖絶壁から飛び降りるに等しい芸当だ。ここでも結局コミュ力が必要とされるなんて。というか他の人たちはどうしてそんなことを普通にできるのだろう。人間としてのそもそもの作りが違うとしか思えない。師弟システムについて教えてくれた知人には適当にはぐらかしたが、智也が師匠を探すことに積極的になることはないだろう。
試しに射手(シューター)の強者を挙げてみる。二宮、出水、加古、那須――浮かんできたそうそうたる面々に、智也は結論を導き出した。無理だ、と。師匠がどうとかでなく、根本的に自分のような根暗コミュ障が話しかけていい相手ではない。智也は師匠を持つことをすっぱり諦めた。そもそも誰かと競って強くなることに興味はない。智也は自分のペースで技術を磨いて、自分なりに満足できれば十分なのであった。
懸案を思考の外に追いやり、智也はノートのまっさらなページを開いて、いつものようにランク戦の映像記録を分析する作業を開始した。実践での射手の動きを見てノートを書き貯め、訓練で実践してみるというやり方が、智也には一番性にあっているのだ。ストレスに胃と頭を痛めてまで誰かに師事し、誰かと競って強くなる必要は、智也には全くないのである。
――それが、どうして、こうなった。
個人ランク戦ブースに備えられたマットレスへ十回目の緊急脱出を果たした智也は、呆然と天井を眺めていた。
B級昇格を果たして半年、結局智也は師匠も持たず、どこのチームにも所属していなかった。師匠はともかく、チームについては、幾度か誘いをを受けたことがある。半年の間に個人ランクもそれなりに上がってきたので、戦力強化やメンバー補充のためにフリーの自分が誘われるのは何一つおかしくないのだが、智也は一度として誘いを承諾したことはない。智也には「上を目指す気がない」のだから、強くなるためのチームに自分のような者が居てはいけないだろうといつも断るのだ。それに、知らないひとたちと集団でいるなんて考えただけで気が重いし。だから智也はチームに所属しない。「個人ランク戦で負けたらチームに入れ」と食い下がる人は、仕方ないので全て負かしてきた。そして「ぼくなんかよりチームにふさわしい人がいますよゴメンナサイ!」と言って逃げてきた。敵を作るような言動をしてきたことは智也も自覚しているが、空気を読んで嘘をついたり、やりたくもないことをやるよりは、ずっとマシだと思っていた。智也を良く思っていない人は少なくないだろう。しかし、けれども、だとしても、ナンバーワン射手の恨みを買った覚えはない――!
背中を湿らす冷や汗を感じながら、智也はつい十五分ほど前の出来事を回想する。いつものようにラウンジで一人、ランク戦の記録映像(出水と米屋の個人ランク戦のものだった)を眺めて戦い方の研究をしていると、テーブルに向かう智也の上にぬっと影が落ち、訝って顔を上げたところ――思い出すのも恐ろしいのだが――あの特徴的な隊服を纏った二宮匡貴が無表情で見下ろしていたのだ。黒スーツという威圧感バリバリの服装に加えて、研ぎ澄まされた刃物のように怜悧な美形に睥睨されて、智也は考えるより先に額がテーブルを打つほどに頭を下げた。
「ぼくが何かしでかしてしまっていたならすみません許さなくていいので殺さないでください!」
一世一代の謝罪を、二宮は全く無視した。眉一つ動かさないで、イケメンに相応しい美声で簡潔に語ったのだ。
「俺とランク戦をしろ。十本だ」
拒絶する、逃亡するという選択肢は残されていなかった。断ったらその瞬間にアステロイドで蜂の巣にされそうな迫力だったのだ。智也は裏返った声で返事をして、個人戦ブースに入り、二宮にボコボコにされた。そりゃもう、手加減など微塵もなく、徹底的に、完膚なきまでに。智也は抵抗も反撃も許されず、ハウンドに射抜かれ、メテオラに木端微塵にされた。二宮はスーツのポケットから手を出すこともせず、十回きっちり智也を瞬殺した。
そういえば降り注ぐ弾丸の合間に、二宮が何事か言っていた。微かに聞こえていたはずなのに、どうしても内容が思い出せない。頼んだらなんと言っていたのか教えてくれるだろうか――マットレスの上でしばらく放心状態にあった智也は、ようやくハッと気が付いて慌ててブースから飛び出した。試合は終わったのだから、モタモタしていては二宮が立ち去ってしまうかもしれない。
ロビーに出ると、今の試合を見ていたらしい隊員たちが智也の姿にざわめいた。格上も格上の相手に叩きのめされた智也を見る目は、好奇が半分、同情が半分といったところか。しかしそれよりも今は二宮だ。智也はすぐそばにいた隊員を捕まえて「二宮さんは」と問うた。
「二宮さんなら、とっくに出ていって、どこか行っちゃったけど……」
「ですよね……」
智也は脱力して、へらりと笑った。訳が分からなさすぎて、笑うしかない。雲の上にいるような人が、どうして智也に目を留めて、結果のわかりきっているようなランク戦を要求してきたのか。そりゃあ防衛任務のときに、混成チームで偶然一緒になったことくらいは何度かあるけれど、まともに会話したこともないのに、何故。
気遣わしげな周囲の視線がわずらわしく、その日智也はそそくさと早めの帰路についた。自転車を漕いで隣町の自宅まで戻り、普段のように夕食を摂り、宿題を片付け、風呂に入り、十時には布団に潜り込んだ。部屋の電気を消すと、頭の中は今日の出来事を思い返し、整理する作業に入る。
今日は何と言っても、二宮との試合が強烈だった。結局どうしてあれほど上位の人に絡まれたのかはわからなかったが、細かい理屈を忘れるほどに彼の技術は神懸かっていた。手も足も出ないというのは、きっとああいうことを言うのだろう。目を閉じれば、目蓋の裏に試合の記憶が再生される。智也の百手も先を読むような戦い方。射手としての弾丸の扱いも智也では遠く及ばないほどに二宮は洗練されていた。あれが一位の戦い方。上を目指す気がない自分が、そんな人にこてんぱんにされたところで、感嘆こそもれても、悔しさはない――。
そのとき、智也はちくりと胸が痛んだような気がした。心の奥底のほうに、棘が刺さったような違和感。その痛みが、試合後からずっと気にかかっていた一言を、脳裏に呼び起こした。
才能を持ちながら活かそうとしないのは、怠慢だ――。
そうだ、二宮は確かにそう言っていた。それを思い出した途端に、棘がもたらす痛みは強くなり、ずきんずきんと存在を主張し始めた。怠慢ってなんだ。どんな気持ちでボーダーをやってようが、ぼくの自由じゃないか。今日初めて喋った二宮にとやかく言われる筋合いはないだろうに。
そう自分に言い聞かせながらも、胸は無視できないほどに痛んでいた。この痛みはきっと、悔しさ。師匠を持たず、技術を向上させる最大限の努力をしていなかった自分がどんなに弱いかを、思い知らされた。鼻の奥がツンと痛み、目頭が熱くなる。
「え……ど、どして、涙なんか……」
智也は〝上位と渡り合う努力〟なんて一度もしていなかったのだから、二宮に惨敗するのは当然で、それを悔しがる資格などないはずだ。それを理解しているのに、次から次へと溢れてくる涙の粒は止まる様子がなく、何度もパジャマの袖で拭う。暗い寝室で鼻を啜りながら、智也は明日から自分が為すべきことを考える。自分は、強くなりたいのか? そう問われれば、「わからない」が正直な答えだった。けれども二宮について、このまま忘れて良いとも思えなかった。このまま泣いていては、きっと二宮は智也を軽蔑するだろう。……いや、彼は智也をボコボコにしたことさえ忘れるかもしれない。それでは駄目だと、智也はぎゅっと拳を握った。身の程知らずと笑われたとしても、なんとかして彼に一矢報いたいと、痛む胸が主張していた。
「……で、勢いでここまで来ちゃったわけだけど」
一週間後、二宮隊作戦室の前まで赴いた智也は、すっかり正気に戻った頭で無機質な扉を見つめていた。これから自分がしようとすることはあまりに大それて、失礼なことなんじゃないかと思考回路の冷静な部分が叫ぶ。それをきょう本部に出勤してからわずか数十分の間でどんどん隅に追いやられていく〝決意〟が「ここまできてなにを怖気づいているんだ」と叱咤していた。背中は冷や汗でびっしょり、指先が緊張で冷たくなってきている。ここでU ターンしてしまえば、何事もなく済ませられる。
「入んないの?」
「ひゃっ!?」
背後からかけられた声に、智也は無様な悲鳴を上げた。正面に集中しすぎて疎かになっていた後ろには、二宮隊の犬飼がにやにや笑って立っていた。制服姿ということは、学校を終えて来たところなのだろうか。
「二宮さんに用でしょ? たぶん中いるよ」
「あっ、えっ、あの、」
しどろもどろになっている智也を慮ることなく、犬飼は作戦室の扉を開け、「二宮さん、お客さんですよー」と入室ついでに呼びかけてしまった。逃げること叶わなくなった智也は仕方なく、できるだけ縮こまって二宮の冷たい視線だとか隊服の黒スーツだとか美男美女の隊員だとか諸々の要素からの攻撃力に膝が屈しないようふんばり、部屋に一歩踏み入った。犬飼の言うとおり在室していた二宮は、いつものスリーピーススーツ姿で椅子に腰掛けており、智也の姿にじろりと目を向けた。それだけで走って逃げてしまいたくなるほどの威圧感だ。
二宮を前にすると、自然と背筋が伸びてしまう。智也は腹をくくり、あの日のベッドの中で立てた誓いを、腹から声帯に乗せて叫ぶ。
「ぼくともう一度だけ戦ってくだしゃい!」
――噛んだ。九十度に腰を折ったまま、智也は羞恥で顔から火が出る思いだった。すぐそこで、犬飼が笑いを噛み殺しているのが雰囲気で察せられる。もうやだ、いますぐ緊急脱出してしまいたい。ギロチンにかけられる死刑囚のごとき気持ちで頭を下げていると、キャスター付きの椅子が床を擦る音が聞こえた。
「個人戦をするんだろう。もたもたするな」
恐る恐る顔を上げれば、長身の二宮が感情の読みにくい端正な顔で見下ろしていた。彼はそのまますたすた作戦室を出ていく。個人ランク戦のブースだ。二宮は智也ごときの再戦の申し込みを受けてくれるのだ。その瞬間、恐怖よりも喜びが勝って、智也は余計な葛藤をさっぱり忘れて二宮の後を追った。
射手同士の個人ランク戦、一本限りのその勝負で智也はあえなく二宮に敗戦した。
智也が張ったシールドは二宮のメテオラの前には紙も同然で、抵抗虚しく上半身が吹っ飛んだ。試合を観戦していた者には、粋がった中学生が上位に無謀な挑戦を仕掛けて自滅したようにしか見えないだろう展開である。けれども、ブースのマットレスに転送された智也は、胸を満たす確かな満足感に深く息を吐いた。
一週間前は最長でも十秒もたずにやられたが、今回は三十秒もった。これだけでも大きな成長だろう。一週間かけて二宮の戦闘記録を漁り、分析し、考えた戦術は、通用したとは言い難いが、戦術も何も考える間もなく瞬殺された前回よりはだいぶマシになったはずだ。なにより智也は、自分に課した〝二宮に一撃を与える〟という目標を達成できた。
対戦するからには勝つつもりで放ったアステロイドは、あえなく躱され――しかし、二宮のジャケットに穴をあけることはできた。試合自体にはなんの影響も与えない一撃だ。それでも、智也の弾が一瞬でも二宮に迫ったという事実が、智也には嬉しかった。
急いでブースを出れば、ちょうど二宮と鉢合わせる。トリガーを解除して私服になった彼は少しだけ雰囲気が和らいだような気がするが、図々しくも正面に駆け寄ってしまったところで、浮かれていた智也は我に返った。個人総合二位の人になんて失礼なお願いをしてしまったんだ、と。
智也はみるみる顔を蒼褪めさせた。
「無理なお願いに付き合ってくれてありがとうごじゃいました!」
――また噛んだ! 絶望的な気持ちになりながら、智也はまた直角に腰を折って精一杯の謝意を表した。周囲の注目を集めているのがわかる。本当は今すぐこの場から消え去りたい。それでも、智也を少しだけボーダーに積極的にしてくれたこの人に、感謝を伝えなければならなかった。反応を窺っておずおずと顔を上げると、目が合ったところで二宮が舌打ちをした。
「甘いな。これで俺が褒めると思ったのか」
「いえそんな滅相もございません!」
やはり、付け焼刃の技術で二宮に評価されるなど無理なことだ。始めからわかっていたはずなのに、淡々と言葉にされると、耳に痛い。胸も痛い。そして二宮が怖い。
「……次はもっとマシな戦いをしてみせろ」
その言葉に、智也はぽかんと口を開けた。間抜け面の智也をそのままに、二宮は立ち去った。居合わせた多くの隊員が彼に道を譲る図は、海を割るモーセを彷彿とする。二宮の背中を見送りながら、智也は今しがた耳にしたことを反芻していた。
次。確かに彼は「次」と言った。つまりそれは、智也に成長の可能性を見出してくれたということなのではないか。
理解したとたんに緊張が解け、どっと疲れが押し寄せた。倒れこむようにロビーの長椅子に座り、安堵の声をあげる。大げさでなく、本当に生き延びたという心地だった。
智也はあまり順位に興味がなく、トリガーで戦う技術を自分なりに高められればそれでいいと思っていた。けれども二宮を相手にして、智也の技術がどれだけ井の中の蛙であったか思い知らされた。これからはもう少し本気でボーダーと向き合って、人と関わるのが苦手だなんて言い訳をしていないで、頑張ってみるのもいいだろう。