めでたく二宮に一勝し、アステロイドでマスタークラスに達し、新しいトリガーも勉強し始め、前途洋々、これからの静かで平穏なボーダー本部生活を期待していた佐藤智也は――
「トリオン供給機関破損、緊急脱出」
――個人総合二位のアステロイドを胸に受け、本日5回目、今週に入ってから28回目の緊急脱出をしたところだった。
ブース内のマットレスに呆然と倒れ、もはや見慣れた天井に叫ぶ。
「――いや、おかしいでしょ!?」
その悲鳴は、誰に届くこともなく。一人、理解の範囲を越えた現状に混乱するばかりだった。
智也が二宮に一世一代の覚悟で挑んだ勝負、それに勝利を収めたのが先週のことである。それから今日でちょうど七日になるが、その間30本もの勝負を、二宮と重ねてきた。
二宮始め物好きな先輩たちに鍛えられ、以前と比べれば、他人と戦って研鑽するランク戦の意義を理解してきたのは確か。個人戦で弾丸トリガーや弧月のポイントを少しずつ上げていければ、とも思っていた。でもそれは、「これからは練習に個人ランク戦も取り入れていこうかな」くらいの気持ちであり、時々荒船や二宮などから試合に誘われたときには疎まずにチャレンジしてみよう程度のつもりだったのである。
結局、人は簡単には変わらないのだ。智也は相変わらずマイペースで、人見知りで、一人の時間が好きだった。これからは、前より少しだけ、他人の中での自分を意識してみようかなと思うようにはなったけれど。それはボーダーという組織の中での自分の評価を、自己訓練内容の参考にしてみようという意味であったのだ。
だからこんな、ほとんど毎日のように二宮にぶちのめされるのは、全然、思っていたのと違う……!
二宮相手に白星を挙げた先日の試合、その翌日から、二宮は智也を個人戦に誘った。誘ったと言っても、廊下で智也の行く手を阻み、「いくぞ」の一言を発するのみだけど。悲しいかな、智也は既に、短すぎる言葉の示すところを理解できるようになってしまっている。その日は「昨日の今日で!」と少々驚いた程度で、でもちょっと嬉しい気持ちもありながら個人ランク戦に付き合ったのだが。それからほぼ毎日のペースで二宮から個人ランク戦に引っ張られているとあれば、智也だって辟易するというものだ。
できることなら、二宮へ抗議をしたり誘いを断ったりしたいものだが。基本的に揉め事は避けたいタチだし、やっぱり二宮は怖いので、結局先達からの強引な誘いに「はひ……」なんて情けない声をあげてついて行くしかできないのであった。
近頃では、なんだかフロアで観戦している人たちにも「今日も派手に負けてるなぁ」みたいな空気が流れているような気がする。嫌だ、日々の日課みたいな、「やってて普通」みたいな扱いをされるのだけは絶対に嫌だ。
だけど、この気持ちを二宮にぶつける隙が見あたらなくって、結局ブースの中、緊急脱出用マットレスの上で、悶々とするしかないのである。
「そりゃ、智也くんさ、君のせいだと思うよ」
ラウンジにて、智也を気にかけてくれる三人の先輩へ近頃の悩みを吐露したら、犬飼が笑いをかみ殺しながらそんなことを言う。くっくっと笑い声を漏らして、完全に面白がっている風である。
真剣に悩みを相談した智也は、隣に座る犬飼へ、むっとして唇を尖らせた。
「何が面白いんですか」
「悪い、佐藤。犬飼はずっとおまえにこの話がしたくて仕方がなかったようでだな」
蔵内が呆れた様子で言い、視線で犬飼を咎める。さすが生徒会長と言うべき、きちんと正すべきところは正し秩序を守ってくれる。
「くらうちせんぱいだいすき……」
「残念、犬飼はフられたようだぜ」
犬飼の正面に座った荒船が、けらけらと茶化す。それらを肩を竦めて受け流した犬飼は、けろりとして「だって智也くんが鈍感すぎて面白いんだもん」と言い放った。
周りにどう言われようと自分の調子を崩さずいられるのは、ある意味でぼくと似ているのかも。智也がそんなことをちらりと考えたのは一瞬、すぐに「でも方向性が全然違うな」と思考を振り払った。ぼくは人が困ってるのを面白がるほど趣味悪くないし。
「で、どうしてぼくのせいになるんですか?」
「お。本題に戻る?」
「茶化さないで」
「はいはい」
智也くんもだんだん口うるさくなってきたなあ、だとか呟きながら、言葉よりも態度は嬉しそうに見える。
相変わらず何を考えているのかわからない先輩は、頬杖をつき、顔を傾けてこちらに薄く笑んだ。怖いくらい顔が良すぎて、少しだけ腰を引き犬飼から距離を取った。智也が女性であれば、うっかり惚れてしまっていたかもしれない。
「君さ、この前二宮さんに、『これからも個人戦してください』って言ってたよね」
「はあ……確かに言いましたけど……」
だがそれは、「弟子でない」宣言はするけど今までのように時々個人戦に誘ってくださいね、の意味で言ったのだ。普通に考えて、二宮が智也のことを弟子だと思っていた(らしい)ときよりも頻繁に個人ランク戦に引っ張り出されるなんて、想像しないだろう。
智也の想定では、今までと同じか少ないくらい、週に一度か二度くらいの頻度での誘いを受けるつもりだったのだ。だって、明確に弟子ではなくなったのに、弟子だと思われていたときよりも頻繁に構われるようになるとは、誰だって考えるまい。
「まさか……」
智也の感覚では想定しきれなかったこと。それにようやく思い至り、怖々と犬飼に目を向ける。二宮隊の一員で、二宮匡貴という人の考え方を日々観察しているその人は、犬なのに猫のような目を、にま、と細めた。
怖い。この顔から発せられる言葉が、智也にとっていいものであるはずがない。
「そのまさか。智也くんから『個人戦してください』って言われたから、二宮さんはそれに応えてくれてるんだよ。わざわざ時間を見つけて、ほぼ毎日」
やっぱり! 驚愕のあまりまともに声が出ず、喉がグゥと鳴って息をのむ。白くぼやける頭のはしっこで、日本語って難しいなあという現実逃避気味の感想が、浮かんで消えた。
蔵内が心配そうな顔をして、荒船が「なんか飲み物買ってくる」と席を立った。良識ある先輩たちは智也を慮ってくれるが、意地悪な犬飼先輩にはそんな気遣いはないようだ。
「智也くん、ずっと個人戦やるの嫌がってたじゃん?」
「いまでもそこまでめちゃくちゃ好きなわけじゃないんですけど!」
「まあまあ。そんな君が二宮さんとに試合に積極的になったものだから、二宮さん大喜びしちゃったみたいでさ」
――大喜び!? 智也はここ一週間の二宮の表情を思い返す。冷たく冴え冴えとした印象を抱かせる美形は、腰の位置が高すぎる長身で智也を見下ろし、半強制的に個人戦ブースへと連行していったが、そのどこにも大喜びを感じる要素はなかったはずだ。いや、にこにこ笑顔で優しく喜色満面な二宮も、それはそれで恐ろしいものがあるが。
いやいや、きっと犬飼の誇張だろう。この人は物事を少しオーバーに話すきらいがあるから。
「えっ、それじゃあ、もしかして二宮さんは、既にぼくの同意を得たと思って、ここのところ毎日試合に誘ってくるんですか……? 嫌がらせとか、なにか怒ってるとかじゃなくて……?」
「まあ、そうだろうね~。二宮さん、不機嫌なときと上機嫌なとき、めっちゃくちゃわかりやすいから」
「ま、まじで……」
くらくらと、目眩を覚える。ソファに背中を預けて、余計にややこしくなったかもしれない事態に、気が遠くなった。
「ほら、ココア買ってきた。これでも飲んで落ち着けよ」
優しい優しい荒船先輩が、智也の前に温かいココアを置いて、席に戻る。ついでに自分と他の二人に買ってきたコーヒーを渡して、熱そうなそれに口をつけた。
智也もありがたく温かくて甘いそれを頂戴する。事態は収まらないものの、とりあえず気持ちのほうは多少平静を取り戻した。
ココアを飲みながら大きなため息をつくと、正面の蔵内が、同情半分、感心半分といった様子で苦笑した。その長身が、何かを見つけて目を瞬かせたのを、ココアの小豆色へ目を落としていた智也は気づかなかった。
「まあ、なんだ。佐藤は二宮さんに随分と買われているんだな」
「ありがたいけど不本意です……」
ぐぬ……と唇を噛んで目をぎゅっと瞑る。自分の平穏のために向き合わなければいけないものが、また現れてしまった。その現実を噛みしめていたせいで、荒船が蔵内を小突き「おい」と言ったのにも気づけなかった。
隣で犬飼がごそごそと動いた気配がした。にわかにざわつき出した周囲の気配をようやく察知した智也が、ゆっくりと目を開くと、眼前には苦笑する蔵内と、愉快そうな荒船。隣には腰を浮かせて、席と席の仕切となる観葉植物の合間から、遠くの何かを見ている犬飼が。
嫌な予感がする。それを肌で感じたときには既に遅く、腰を下ろした犬飼は、愉悦そのもの、といった満面の笑みを浮かべていた。手にしていたスマートフォンを、智也に見えるように振る姿は、どこか、見覚えがある。
「智也くん、そろそろお呼びだよ」
近づく硬質な靴音に、反射的に背筋が伸びる。もしや犬飼先輩、また二宮さんに――!
他の先輩方に視線で助けを求めても、無情かな、優しい先輩方二人ともに首を振られた。無理だ、頑張れと。
遁走する間もなく、足音は智也の傍らで止まった。現実を見たくなくて自分の膝に落とした視線には、磨かれた黒い革靴とかっこよすぎる黒スーツが入り込む。
後頭部に刺さる威圧感――いや、犬飼先輩の言うとおりなら威圧するつもりはないのかもしれないけれど、それでもぼくにとっては緊張を覚える圧力でしかないのだ!
周りで、先輩たちが挨拶をしているのが聞こえる。智也じゃなくて蔵内先輩か荒船先輩か犬飼先輩かに用があるとか、そういう可能性は残っていないのだろうか。いないんだろうな。先輩たちと言葉を交わしたあとも、立ち去る気配がない。
逃れようのないことならば、早々に終わらせてしまったほうが気が楽だ。この人からの試合の誘いは、怖いし困るし苦手だし逃げたいときも多いけれど――決して、死ぬほど嫌だとか、嫌悪しているとか、そんなことはないのである。
智也は覚悟を決め、顔を上げた。戦うとなれば、手を抜かず、いつでも本気、どんな格上でも倒す気持ちで。
深呼吸を一つして、首根っこを掴まれる前に、智也は自分から立ち上がって、ランキング一位の射手を毅然と見据えたのだった。