噂話を好む人は多い。教室でも、ファーストフード店でも、ボーダーでも、気づけばひそひそ、ぺらぺら、きゃあきゃあ。人の中で生きているだけで、毎日なにがしかの噂とすれ違うものだ。
智也は他人の噂話に興味がない。同級生の誰々が先輩の何々と付き合いだしたとか、どこそこの某は札付きのワルだとか、そもそも話題になる人のこともよく知らないのに、真偽も不明な情報で盛り上がれる感覚が分からないのだ。噂話が好きな人をどうとは思わないけれど、ただ自分の興味からは外れており、隣でそういう話が始まれば気配を消して退席するのが常だった。
これまでそうしてきて、特段の問題はなかった。知るべき情報であれば、伝聞に頼らずとも、いつか正式に知ることができるものだから。些細なことでどきどきしたり胃を痛めてしまったりしがちな智也にとっては、不確かな聞きかじりに惑わされるより、よっぽど健全だろう。
ゆえに、いままで話したこともないC級隊員から訊ねられた内容は、智也にとって寝耳に水だった。
「佐藤って、二宮隊に入るんだろ?」
「…………は?」
いつものように、一人、ラウンジにてランク戦の記録映像から戦い方の考察を行っていたときのことだ。今日は蔵内から王子隊の試合の映像や作戦の解説まで貰い、うきうきしながら取り組み始めたというのに。
遠巻きにこそこそこちらを見ている人たちがいるなあとは気付いていたけれど、そのなかの一人がおもむろに近寄ってきたと思ったら、なんだか衝撃の内容を告げられた。疑問系ではあるものの、なんだかこう、決定事項の確認というか、こちらに否定を許さないような妙な圧力があって。智也は思わず、ちょっと腰を引く。
というか、いまこの人は何をおっしゃったのか。なんだか、天地がひっくり返ってもありえないようなことを聞いた気がするのだが。
ゆっくりと三回瞬きをして、聞いた言葉を反芻して、智也は眉を寄せる。
「……ちょっと、意味がわからないのですが」
相手に失礼のないように敬語を崩さず、気が咎めていることが伝わるように首を竦めて、律儀に聞き返した。本部内で見かけたことはあるようなないような初対面も同然の隊員は、智也のその態度があまり気にくわなかったらしい。明らかにむっとして、「だーかーら」と続けた。
「おまえ、二宮隊に入るんだろ。二宮さんに気に入られてるもんな」
「気に入られているところから訂正したいんですけどひとまず置いておいて、どうして二宮さんに気に入られていることが隊に入ることに繋がるんです……?」
疑問をそのまま口にしているだけなのに、智也に詰め寄る隊員はみるみる苛立ちを募らせていく。その後ろで遠巻きにこちらを見ている人たちも、ひそひそ何かを囁いているようだ。だが、不本意にも注目の的となっている智也自身には、まったく話の流れが見えないのである。
そもそも、智也が二宮に気に入られているからあの人の隊に入るのだという話の、発想からして理解に苦しむ。帰り道で猫と出会ったから明日は雨ですと言うくらい脈絡がないではないか。
察しの悪い智也に、目の前の隊員がぼそりと「何でこんな奴が」と呟いた。聞こえてしまったそれには、非難の色が滲んでいたが、そもそもなぜこんなに注目を浴びているのかわからないので、相手の感情に沿うことはできない。
「白々しいな。二宮さんに取り入って、隊に入ろうとしてるんだろ。なんてったって、元A級の、B級一位部隊だ」
「あの、ぼくはそんなつもりはなくて……」
自分はあなたの神経を逆撫でしたいわけじゃないと弁明しかけるが、それよりも、相手がフッと笑いを漏らすのが先だった。笑ってはいるけど、あまり楽しそうではない。嘲笑、だろうか。心当たりがなさすぎて、笑われていることへの羞恥や恐怖も忘れてしまっていた。
「おまえなんか、どうせ『鳩原先輩の代わり』なんだ。あんまり思い上がるんじゃない」
彼はそう言い捨てる。それが智也を傷つける言葉だろうと自覚してなお、選んだ言葉だったのだろう。加害の意志を真っ向からぶつけられてなお、智也の胸に浮かんだのは、恐れや怒りよりも、ひたすらなる申し訳なさだった。
理由は単純である。憤る相手と、辺りで成り行きを見守っている人達を見渡したのち、眉を下げて問いかける。
「すみません、『鳩原先輩』ってどなたですか……?」
言った途端、周囲は鳩が豆鉄砲を食ったような顔になる。たちまち場の空気が白けるのを感じながら、智也は内心で、他人に興味がなさすぎる自分のたちを謝っていた。
騒動から数日、智也はタイミングを伺っていた。二宮へ直接訊ねるのは度胸がいるし、犬飼一人に訊くのは信用ならない。
そう思っていたところに、ちょうど辻から「一緒にテスト勉強をしないか」との誘いがあった。智也の中学校は前後期制なので、高校生たちとテスト期間のタイミングが被るのだ。優秀な辻や氷見に勉強を見てもらえるというのは、とても魅力的で、智也は二つ返事で了承した。
そして集まった二宮隊作戦室で、智也は犬飼、辻、氷見たちとテーブルを囲んでいる。二宮もいるものだと思っていたのだが、見回しても姿は見えない。
「二宮さんなら月例の隊長ミーティングだよ」
「ああ……お忙しいんですね」
確かに防衛任務にランク戦に隊長業務に日々の大学生活となれば、忙しいのは当然だ。その多忙の中、わざわざ智也との個人戦に時間を割く彼の考えが、いまだによく分からないのだが。
二宮は不在だが、ここ数日気になっていたことを訊ねるに、いまは良いタイミングだと思えた。答えを知っていそうな人は複数人、しかも外部の目がない場所だ。先輩たちが教科書やノート、参考書や電子辞書を広げて、さあ、というところで、「あの」と声を上げる。
発言を求めて挙げた手に、三人の注目が集まった。智也は姿勢を正し、ゆっくりと話を切り出した。
「あの、『鳩原さん』ってどなたなのでしょうか」
名前を出したとき、一瞬妙な感覚を覚える。先輩たちが目配せをしたように見えたのは、きっと気のせいだろう。智也の鼻をつんと掠めた違和感は、瞬きの後には霧散してしまっていた。
智也の隣に座る辻が、教科書を繰りながら「ウチの隊の狙撃手だった人だよ」と簡素に答える。目的のページで本のノドをぎゅっと押さえ、閉じないように癖を付ける辻の手は、そのままシャーペンを握った。
辻の正面にいる氷見が、英語の長文問題と電子辞書を見比べながら、流れるように言葉を継いだ。
「凄腕だったのよ。狙撃の技術なら誰にも引けを取らなかったわ」
親しみのある声音だ。隊を抜けたといっても、不仲というわけではないらしい。
「ま、いろいろあって、結局ボーダー抜けちゃったんだけどね」
数学の問題集へ智也にはわからない計算をすらすらと書き込んでいく犬飼が、正面に座るこちらへは目もやらず、軽い調子で締めくくった。
「なるほど……」
呟いて、智也は聞いた内容を整理する。「鳩原さん」なる人は、二宮隊に所属していた狙撃手で、高い技術を持つ。しかしいまはボーダーを辞めてしまっている。そして、C級隊員から聞いたところによると、二宮は――
聞くだけ聞いて一人考えごとを始めた智也に、辻が「大丈夫?」と呼びかける。横から伸ばした手を目の前でひらひら振られて、ようやく智也は、自分が思案に没入しかけていたことに気づく。
「す、すみません」
「別にいいけど。突然鳩原先輩の話するとか、何かあった?」
「あ~……」
C級隊員から聞いた話をするべきか、逡巡する。智也からそんな話をすれば、まるで二宮隊に入りたいように取られてしまうかもしれない。
けれど鳩原の話を出してしまった手前、引っ込みはつかなかった。
「あのぅ……ぼくって、『鳩原さん』の代わりなのでしょうか……?」
おずおずと問いかければ、先輩たちは、三人ともが勉強の手を止め、智也を見据えた。整った顔の男女からいっぺんに注目され、顔に熱が集まる。急に、自分がとても大それたことを言ってしまったように思えてきた。
赤面しているだろうことが余計に恥ずかしくなって、俯き気味に先輩たちの様子を伺う。不快にさせてしまったかと心配で、鼓動が速まる。
犬飼がにこりと笑う。明らかに作られたそれに、智也は椅子に浅く座り直し、いつでも逃げ出せる体勢をとった。怖すぎる。
「あの噂の話かな。君が鳩原ちゃんの代わりに、ウチに入るってやつ」
「ご存知だったんですね……」
「まあね。周りに興味がなさすぎる君よりは、耳が早いつもりだよ」
シャーペンを器用にくるくる回す犬飼の声音は、どこか非難めいて聞こえた。智也は小さくなって、「すみません」と言うしかできない。
「責めてない責めてない」
けらけら笑う犬飼に、辻と氷見がうんうん頷いた。彼なりのジョークだったらしい。それならそうともっとわかりやすくやってほしいものである。
それにしても、智也が二宮隊に入る説は、思っていた以上に流布しているようだ。自分には全くそんなつもりはないのだが、万が一、二宮隊――というか二宮――にそういう考えがあるとも否定しきれない。智也が知らなかっただけで。
体力を削られた智也の頭を、辻がよしよしと撫でる。撫でながら、静かに「智也くんはどう思うの」と訊かれた。
「どう、とは」
「二宮さんが君を鳩原先輩の代わりにしようと思って育ててると、そう思う?」
「そ、そんなこと――!」
反射的に「そんなことはありえない」と答えかけ、慌てて言葉を飲み込む。いま言おうとしたのは、智也の自己評価からの考えでしかない。自分はそんなすごい人と並べられるような者ではない、と。
たとえ自分自身が、己は二宮隊に加入するなんて選択はあり得ないと思っていても、凄腕の狙撃手の代わりなんて務まるわけがないと思っていても、それはあくまで智也の考え。いまこの場で求められているのは、二宮の考えを想像しての答えである。
二宮はどう考えるだろうか。ここ数ヶ月で突然に接触が身近になってしまった、才能も実力も抜きんでたあの人は。多くを語らず、少し強引で、でもきっとぼくを目にかけてくれている人。自分とはまったく違うタイプである二宮の思考について、想像力を働かせる。
「ぼくが思う二宮さんは……いなくなったチームメイトを別の誰かで代用するようなことは、しないと、思うんですけど……」
訥々と、慎重に言葉を選んで語り出す。一語一語を舌先で確かめながら発音する智也を、急かす者はいなかった。先輩たちは三人とも、智也の言葉を待ってくれている。
「二宮さんて、才能を重要視されているでしょう」
「そうね」
「評価基準として重きを置くからこそ、あの人は、才能というものに敬意を払っていると思うんです。二宮さんは……ぼくに才能を見いだしてくれていて――未だに信じられませんけど――持ち得た才に相応しい振る舞いをしろと、叱ってくれたくらいですから……」
初めて二宮と個人戦をしたときを思い返す。あのときは、本当に殺されるんじゃないかと、歯の根が震えたものだ。
「だからぼくは……ぼくが思う二宮さんは……鳩原さんの才能を、簡単に代替するようなことは……しないんじゃないかと……」
締めくくるタイミングを探って反応を伺うも、先輩たちはこちらに目を向けたまま沈黙している。氷見は瞠目し、犬飼は頬杖をつくのをやめ、辻は目を細めて智也の頭をまた撫で回した。その様子に、図々しくも喋りすぎてしまったかと、声は尻すぼみしていく。
作戦室に落ちた静寂は三秒、智也は耐えられずに「すみません……」と謝罪した。冷や汗をかく智也に、犬飼が愉快そうに笑った。
「どうして謝るの?」
「だって……知ったような口を……」
おずおずと返しても、目の前の先輩はにやにや笑むばかりだ。――責められているわけではないのだろうか? 氷見に目で助けを求めると、ただ頷かれる。
ばくばく跳ねていた心臓が、徐々に落ち着きを取り戻す。ひとまず地雷を踏み抜くとか傷口に塩を擦り込むとか、そういうとんでもない失敗はやらかしていないようだ。
智也がほっと胸を撫で下ろしていると、隣の辻が感心したというように、ほうとため息をついた。
「君は本当によく見ているんだな」
「そう、ですかね……?」
褒められても、あまりピンとこず、首を捻ってしまった。周囲の人の様子を観察し、相手の求めるところを想像し先回りするのは、コミュ障を自覚する自分が人の集団の中で生活していく上で自然と身についたものである。周りに迷惑をかけないように、自分が面倒を被らないように。
首を傾げて腑に落ちていない智也に、犬飼が笑い声を上げた。
「智也くんってさ、結構図太い性格してるよね!」
「ひっ、否定はしませんけど、その言い方はひどいと思います!」
「まあまあ。で、最初の話に戻るけどさ」
はっと、本題を思い出す。慌てて姿勢を正し、この場で一番年長の先輩の言葉に耳を傾ける。
「結局、二宮さんがどう考えてるかなんて、あの人しかわからないよね!」
「……は?」
イケメンがにこやかに何かを言っていた。言葉の意味がわからなかったせいで極度に処理速度の低下した智也の頭は、ぽかんと口を開いた間抜け顔で、犬飼を見つめるしかできなかった。
そんなやりとりに、氷見が「先輩、言葉が少なすぎます」と冷静につっこんだ。犬飼は白々しく謝りながら、「つまりね」と続ける。
「智也くんは、智也くんの思う二宮さんを信じていればいいんじゃないかな」
「はあ……わかるような、わからないような……」
「ま、人の噂も七十五日! テキトーに流しとけば、みんなすぐ忘れちゃうよ!」
犬飼はそこでパンと手を打ち、この話はこれで終わりだと宣言した。テストまでの限られた日数、忙しいボーダー隊員にとっては、僅かな時間も無駄にはできない。
智也としてはどうにも消化不良で、仕方なく数学の問題に向き合っても、集中できずにいた。
先輩たちの言うには、智也は今のまま、何もせずにいればいいということなのだろう。二宮隊加入の噂も、鳩原のことも、気にせずに過ごせばいい。安堵すると同時に、拭えぬ違和感も残っていた。
けれど、何だかよくわからないなりに先輩たちから褒められたようなので。ひとまず今はこれでいいのだろうと、自分を納得させた。
後日、個人戦の後に二宮がハーゲンダッツを奢ってくれた。二宮隊の人達から、何を聞いたのだろう――