寝坊をして朝ご飯を食べ損なった今朝から、智也は今日がロクなことにならない予感がしていた。
空腹の体に鞭打って、自転車を飛ばして中学校の校門をすり抜け遅刻を免れたまではよかったものの、慌てて家を出てきたせいで、弁当を忘れてしまってきていた。ほら、ロクなことがない。
忘れてきた弁当は夕飯にでも食べるとして、昼は購買でサンドイッチでも見繕おう。そう思い通学用のリュックサックへ手を突っ込むが、ガサゴソと隅まで探ってみても一向に財布に触れる感覚はない。まさか。最悪の事態に思い至り、智也はリュックサックをひっくり返した。教科書、ノート、筆記具、クリアファイル――順に取り出して中身を空にしても、財布はなかったのである。忘れたのだ。原因は明らかに今朝の寝坊。負の連鎖だ。
智也はこの学校で、特別親しいという友人がいない。皆とつかず離れず、可能な限り自分のペースを維持してストレスなく生活できるように適度な距離を保ってきた。普段はそれに不便も寂しさも感じないのだが、こういうイザというときに「昼食代貸してくれない?」と気軽に言えるような友人が居ないのは困った。これで二食抜き、午後の体育の時間には、空腹で胃が痛んだ。
学校が終わったら一刻も早く家に帰って何か食べよう、でないと冗談抜きで行き倒れる。今日はボーダーに行く日だけど、自宅に寄った後に本部へ向かっても何も問題はないだろうから、授業が終わったら全速力で帰宅しよう。そうとも、腹が減っては戦えぬ。そう心に決めて六限目の授業を堪え忍んでいた智也の希望は、あえなく打ち砕かれたのだが。
授業終了五分前にボーダーから支給されているスマートフォンが新規メッセージの通知を出した瞬も見なかったことにして帰りたい、と頭を抱えた。教師の目を盗み、机の中でスマホを弄って確認すれば、メッセージの送信者は二宮匡貴、智也が苦手とするボーダーの先輩で間、智也は何ある。とても優秀な隊員で、妙に智也を気にかけてくれている人だ。気にかけかたが少々問題なのだけれど。智也が二宮と彼の率いる隊に抱いた苦手意識は強まりこそすれ、解消されることはない。
その人から直接の連絡、それが智也にとって喜ばしいものであるはずがない。
繰り返すが、二宮が嫌いなわけではないのだ。射手としてその技術は尊敬しているのだが、馬が合うかは別の話。心の準備をして立ち向かえばどうにか対面できるが、こちらの都合をまるきり無視して唐突かつ強制的に接触されると智也の胃腸がストレスで死ぬ。今日は空腹で余計に虐げられているというのに。
しかしそのメッセージを見なかったことにするという選択肢はなかった。
無視すれば今回は助かるかもしれないが、次に会ったときに二宮の機嫌が最悪のことになって、しごきなのか嫌がらせなのか判別に困るほど模擬戦でぶちのめされるはずである。あの人は智也が少しでもボーダーに対して真摯さを欠いた態度を取れば、途端に形の良い眉を寄せて不機嫌になるのだと、ここ最近でようやく智也は学んでいた。
ゆえに智也が取る行動は一つ。空っぽの胃を精神的過負荷で分泌された胃酸が刺激するのを鈍い痛みで自覚しながら、アプリを起動する。そこには用件のみを記した、彼らしい簡潔な文面があった。
「学校が終わったら急いで本部に来い。犬飼の代わりにおまえを入れて防衛任務に出る」
ただの文字の羅列だというのに、智也に有無を言わせない威圧感。
嫌です。今日は体調が悪いんです。犬飼先輩の代わりなら別の優秀な銃手をピンチヒッターに据えればいいじゃないですか。
そう言えたらどんなにいいか、と乾いた笑いを漏らしつつ、「了解しました」と返信――しようとして、うっかりスタンプを送ってしまった。ご当地ゆるキャラが敬礼のような格好をしているスタンプを、二宮へ。ヒッと息をのみ、口元がヒクつく。メッセージを相手が見たことを示す「既読」のマークがついたが、その後二宮からの反応はなかった。
空腹が極まって注意散漫になってしまっている。ぐるる、と悲壮な音を立てる腹を抱えて、智也は机に突っ伏した。授業終了を告げるチャイムが響く中で吐いたため息に込める思いは一つ。
おなか、すいた。
急用で来られなくなった犬飼の代役として投入された二宮隊との防衛任務は、つつがなく終了した。――結果だけを見るならば。
空腹を堪えて三門市外の学校からボーダー本部に出向けば、待ち受けていた二宮と辻にすぐさま任務へと連行される。促されるままにトリオン体へと換装すれば、生身ではなくなったのに収まらない空腹感に焦った。さすが生身の機能がほぼそのまま再現されているトリオン体、食欲も引き継がれるらしい。オペレーターの氷見に申告すれば腹部がぎゅうぎゅう締まるようなこの感覚をカットしてもらうことは容易だったろう。けれども申し出るタイミングを計っているうちに、現れたトリオン兵の討伐にかかることとなり、結局ひもじさを抱えたまま後方から二宮と辻を支援することとなった。
智也が戦闘に集中できていないことは、二宮にすぐ伝わったらしい。援護用に放った誘導弾(ハウンド)の命中率が普段より僅かに悪いことを目敏く気付いた彼は、咎めるようにじろりとこちらを睨んできた。常ならばその視線だけで慄いて姿勢を正してしまうが、そのとき智也の頭を占めていたのは「ごはんたべたい」という一心。食欲という抗いがたい欲求が満たされていない状態で戦えというのがそもそも無茶だったのだ。
巨大な甲殻類に見えなくもないトリオン兵を、辻が弧月で捌く。敵の動きを射撃で制限しながら、トリオン兵は火を入れたら食べられないものかと、智也は妄想に耽っていた。心ここにあらずの智也に、二宮の唇がどんどんきつく引き結ばれていく。
量産型のおなじみトリオン兵は何の問題もなく破壊できたものの、防衛任務を他の隊と交代するころには、あからさまに苛立っている二宮と、空腹と過緊張でトリップ状態に陥りかけている智也、二人を見比べてさりげなく間を取り持つ辻という近寄りがたい三人組ができあがっていた。
仏頂面でずんずん歩を進める二宮に、ふらふらと足下のおぼつかない智也を半ば引きずる辻が続く。本部に帰還し換装を解いた瞬間に、智也はひどい眩暈と、先程まで以上の空腹感に襲われて、腹を抑えてしゃがみこんでしまったのだ。
「大丈夫、じゃないよね。どうしたの?」
親切にも手を差し伸べる辻に縋りながら、智也は呻いた。
「きのうの夕飯から、もう二十四時間、なにも食べてなくて……」
情けない声を上げた瞬間、二宮がチッと舌打ちをしたのが聞こえた。自己管理がなっていないと思われているのだろう。普段ならば申し訳ない気持ちでいっぱいになって逃げるか土下座するかだが、いまは「何でもいいから早く何か食べたい」と信じてもいない神に祈るばかりだった。結局智也は辻の手を借りて、食堂に連行されている。
そんな、他の隊員が遠巻きにする三人に人をかきわけて駆け寄ってきたのは、智也が強引に呼び出される元凶となった男だった。
犬飼は制服のブレザーのままで、通学用のショルダーバッグを肩に掛けていた。どうやらついさっき本部へ到着したばかりのようである。
「お疲れー」と暢気に笑うチームメイトに、辻がため息まじりに「お疲れさまです」と律儀に挨拶を返した。
「犬飼先輩、急に休まれると困ります」
「ごめんって。受験生はいろいろあるんだよ」
悪びれずにけらけら笑っている彼は、隊長の二宮にも「手間を取らせちゃってすみません」と軽く会釈をした。二宮は「構わん」と一言、特段反応することもない。それを眺めていた智也は、これも犬飼のコミュ力の為せる技かと、食欲が占める思考の片隅で感嘆した。人懐こくにこにこ笑って、周囲の人たちと親しくしていれば、たぶん財布を忘れて昼食が買えないときも誰かにお金を借りられるだろうし、もしかすると奢ってもらえるのかもしれない。
いいなあ、誰かに奢ってもらって、おなかいっぱいごはん食べたいなあ。
もはや思考のすべてが食事に帰結するようになっていた。不躾にも物欲しげに見つめていた智也へ、その視線に気付いた犬飼が歩み寄り、眼前でにっこり笑った。
「きみも、ありがとね。君ならおれの代わりに任務出てくれるだろうって二宮さんに言ったの、おれなんだ。助かったよ」
いつもならば真意の読めない犬飼の笑顔に震えて飛び退っていただろうが、いまの智也はぼんやりとして頭を撫でられるままになっている。辻に小突かれて「あっ、はい」と気の抜けた返事をするのが精一杯。
明らかに様子のおかしい智也に、犬飼が怪訝な顔を見せる。辻や二宮を見やり、「この子どうしたの」と説明を求めた。二宮は能面のごとき無表情のままぷいと顔を背け、辻は僅かに沈黙したのち、「疲れているそうですよ」と投げやりに答えた。
「あぁ、急に頼んじゃったからね。お疲れさま、今度なにかお礼するよ」
「はあ……」
労いの言葉にも、ぼんやりとした生返事しか返すことができない。だめだ、明らかに思考に回すエネルギーが足りていない。普段ならば先輩相手に失礼な物言いをしてしまったと青ざめるところ、いまはそもそも空腹からの貧血気味で顔から血の気が失せている。
犬飼は胡乱げに、智也の前で手をひらひら振った。反応を示さない智也に、いつも軽薄な先輩は、珍しく真剣な顔つきになる。智也の額に犬飼の手のひらが触れた。
「熱はないみたいだけど……体調悪いんじゃない?」
覗き込んでくる瞳には、普段の笑みはなく、本当に心配してくれているようだ。ありがたい、と思うと同時に、こんな親身になれるなら最初から呼びつけないでほしかった。
二宮が「心配いらない」と低く制す。
「そいつは、腹が減っているそうだ」
「おなかが」
繰り返す犬飼に、辻が頷いた。
「はい。なのでひとまず食堂に向かってるんです。ただ、慌ててたくさん食べると胃を痛めるので……」
そのとき、二宮を呼ぶ声が聞こえ、辻が続く言葉を留め、振り返る。通路の向こうからツヤツヤの髪が印象的なオペレーターが「おまたせ」と歩み寄ってきた。右手に売店のビニール袋を携えている。
「ほら、智也くん。チョコレート買ってきたよ」
「手間をかけたな、氷見」
「いえいえ」
どうやら二宮は、作戦室の氷見に買い物を指示していたようだ。辻に導かれ、自動販売機の横の長椅子に腰掛けた智也へ、氷見が赤いミルクチョコレートの箱を見せる。十二粒入ってるやつだ。
両脇を辻と氷見に挟まれ、その様子を二宮と犬飼に見守られる。普段であれば恐縮して頭が真っ白になっていそうなシチュエーションも、いまの智也は空腹に頭を支配されて、反応が麻痺してしまっていた。
「はい、どうぞ」
氷見が手ずから開封してくれたチョコレートを、智也は礼を言うのも忘れて、一粒口に含む。みるみる溶け出す優しい甘さに、ほろ、と口元が緩んだ。
二粒、三粒と食べたところで、大きく息を吐く。
「生き、かえりましたぁ……」
「よかった。これからはあんまり我慢しちゃだめだよ」
ほっとした様子の辻に謝罪をする。任務は無事済んだとはいえ、大変迷惑をかけてしまった。
ほんわか和やかな空気になった後輩たちだが、次第を眺めていた犬飼は首を傾げていた。何か、納得ができていないらしい。
「ねえ、智也くん」
「は、はい」
「なんでそんな調子悪いのに、二宮隊(ウチ)の誘いを断らなかったの? そりゃ急に休んだのはおれだし、君を誘ったら面白いかなって二宮さんに伝えたも俺だけど」
「面白いって言った……」
恨みがましく指摘するが、犬飼には「そこじゃなくて」と軽く流された。
「おれが言いたいのは、そんなに体調が悪かったなら、無理しなくてもよかったんだよってこと」
「そうだよ。いくら犬飼先輩の趣味が悪くても、体調の悪い人をおもちゃにするほど酷じゃないわ」
「ひゃみさん、もうちょっとオブラートに包んで……」
先輩たちはそれぞれ好き勝手に喋りながら、けれども目はこちらに向いて、智也の言葉を待っているのがわかった。体調不良を押して無理をしたことを、親切に注意してくれているのだ。
智也よりずっと強くてすごいチームの人達は、思っていたよりも優しいらしい。格下の後輩相手にも、きちんと注意をしてくれる。――それができるのならそもそもぼくをおもちゃにしないでほしいと、主に犬飼へ思いながら、それはそれ。今はひとまず、先輩たちからの真っ当な注意について考える。
智也は、おずおずと、眼前で腕組みをして立っている長身を見上げた。こちらは座っているので、照明の逆光も含めて、見下ろされる威圧感がハンパない。
なぜ断らなかったのか。そんなこと、明白だ。
「断ったら、殺されると思ったので……」
「誰に」
ちら、と、智也を今日の防衛任務に召集したその人の顔色を伺う。逆光でわからない。なんでもいい、こういうのは勢いだ。
「に、二宮さんに……!」
周囲に、微妙な空気が流れる。智也は大それたことを言ってしまった自分に、いっぱいいっぱいになって俯いた。
先輩たちが一斉に二宮さんを見ている気配がする。呆れたような、同情するような、そんなしょっぱい味のしそうなため息が聞こえた気がした。
「二宮さん」
「……俺はただ、LINEを送っただけだ」
「関係性ってものがあるんですよ」
犬飼先輩がそれを言うかと、思わず内心で突っ込む。
「空腹の智也くんに無理強いして……食堂のごはん奢るだけで足りますかね?」
何か含みのある言い方である。気になって顔を上げれば、にこやかに微笑んだ犬飼が、仏頂面の二宮へ、なにかよからぬにおいのする交渉を持ちかけていた。
にわかに、横二人の先輩の瞳が輝く。「まさか」「もしかして」と言うように、期待のこもった目で二宮を見つめている。状況が分かっていないのは智也だけらしい。
二宮は舌打ちを一つして、一言、短く語った。
「肉、だな」
隊員たちが色めいた。氷見と辻が手を叩き、犬飼も「やったー」と声を上げ、智也の肩を叩いた。
「やったね。今日は二宮さんが焼肉奢ってくれるってさ!」
「……へ?」
「智也くんは少しずつ、ゆっくり食べるんだよ。急に食べるとおなか痛くなるからね」
「……犬飼先輩、もしかしてぼくをダシにしました!?」
なんだか上手いこと利用されたことに気づいて非難するが、犬飼は痛くも痒くもなさそうだ。なんて世渡りの上手い――というか、図々しい人なんだ!
口をあんぐり開けて呆れかえるが、その瞬間に腹が「ぐう」と返事をした。
いいようにねだられた二宮はといえば、いつものように機嫌の悪そうな顔で、正直よくわからない。けれども、嫌と言わないのだから、不快に思っているわけではないのだろうか……?
焼肉屋に連行されながら、智也はしみじみ「コミュニケーションって難しい」と噛みしめていたが、その後食べた肉が美味だったので、深く考えることを放棄した。