Fate/Grand Order -East in the lost order- 作:浜田猫@執筆中
プロローグ
そこは、列車の中だった。
彼女が憶えているものとは違うが、向き合った長椅子と外観を望む大窓は見紛うものでもない。雰囲気は古めかしく、線路を走る音もまた騒がしさがあるものの、そこは大して気にかけるべき点ではない。
少女には、自分がその列車に乗った記憶がなかった。どこへ向かうのかも定かではなく、また何を目的にして移動しているのかも、彼女にはわからない。いつから乗っているのかも、自分の意思で乗ったのかすらはっきりしない。
いやそれ以前に、彼女は何も憶えていなかった。どんな生活をしていたのか、どんな人々が周りにいたのか、自分がどんな人間だったのか。
ただ、名前だけを憶えている。
それだけしか、少女には残されていなかった。
「いいえ、いいえ。わたくしは称えましょう、勇敢な人の子よ。よくぞ失わず、ここまで辿り着いてくれましたね」
声が、聞いたことがあるような優しい声が、列車の中に反響した。
「博麗大結界を潜る際に記憶を剥がされたのです。抗おうにも今のわたくしでは力及ばず、無理やりにでもあなたをこちらへ通すことしか叶いませんでした」
「誰、ですか?」
「……嗚呼、申し訳ありません」
短い沈黙の後に聞こえたのは、心から悔いている人が発する悲しい声だった。
「まったく正当なその質問に、もはや答えることは適いません。ですのでその代わり、信用に足る人物からの文を預かっています。あなたの席にあるはずですので、どうかそれをお読みください」
言われてみれば、太ももの下に紙が一枚挟まっている。取り上げて開いてみると、中には確かに、誰かの文字が書かれていた。
「これは……?」
「わたくしはその文の内容を知りません。ですがそれは、いまのあなたでも唯一信じる事ができる人物からの伝言です。つまりは、記憶を失う前のあなたからの文」
記憶を失う前の、自分からの手紙。
確かにこの状況では、信じられるのは自分だけ。その考えは間違いではない。しかしこの手紙自体、自分が書いたものだという自覚がなければその効力はない。
少女はそのとき、ひどく冷静にものを考えている自分に気がついた。驚くほど冷淡に、理性的に事態を把握しようとしている。
眠っていた回路を回すように。
冷え切った指先に血を巡らせるように。
記憶の果てに霞む自分自身を手探るように。
何もかも忘れてしまったが、不自然なくらい明瞭に、自分の名前だけは憶えている。
「――わたしは、藤丸立香」
意識の内側へ語りかける。
応える声はどこにもない。それは同時に、拒絶もないということ。
わたしは、藤丸立香。
海の水面を揺蕩うような、朧気な人型。
最初から選択肢なんて、あってないようなものだ。
「わたしは今まで何をしていたの?」
「戦っていました。あなた自信の大切なものを守る為に」
「わたしは勝ったの?」
「あなたの戦での負けとは即ち死でした。失ったものも多くありましたが、明日を繋ぐことが勝利であるのならば、あなたは勝ち続けていました」
「明日を、繋ぐこと……」
異邦じみたその言葉は、何故だか染み渡るように心を浸した。癒やすように暖かく、称えるように朗らかに、朝日の如く少女を包み込む。
「わたしはどうしてここにいるの?」
「あるものを救うと、わたくしに言ってくださったからです」
「あるものって?」
「あなたが救い続けてきたもの、世界の裏側に位置する異郷。わたくしたちのような、存在を許されぬ者たちの世界」
「大きな話だ、とても。どうしてわたしだったの?」
「あなたは救い続けてきました。それはつまり、見知らぬ誰かを信じ続けてきたということ。あなたならば、我々の存在を信じてくれると思ったからです」
「じゃああなたを信じなきゃ、助けられないってこと?」
「我らを形作るものは想念、人々の想いと夢。この世でもっとも儚い現象です。人間がこの世から姿を消せば、想いを繋ぐ者たちがいなくなれば、わたくしたちは滅びるしかない。
魔術王の人理焼却、それによる滅びであれば受け入れましょう。ですが今ある脅威はそれではない。何故なら人理焼却の魔の手は、あなたによって払われたのだから」
言葉に熱が入る。
魔術王の人理焼却、その言葉には言い表しようのない寒気を感じる。あってはならないものなのだと、理解せずとも強く思える。
記憶では憶えていないのだから、それは心に、この藤丸立花という名前に深く刻み込まれた意志なのだろう。
「我々の住まう異界の地、幻想郷。今、その世界が滅びようとしています。本来誰かも干渉されず、特別な手段をもってしても、敷かれた結界を越えることはない。ですが、我々は確かに存在しているのです。
その曖昧な境界を信じてくれる方を探していました。あなたしかいないのです、藤丸立香。あなたしか信じてくれなかったのです、藤丸立香。勇気ある人、世界最後のマスター。何度でもお願い致します、何度でも頭を垂れ、地に額を擦りつけ、叶うならばこの命擲つことも厭いません。ですのでどうか、どうか幻想郷を――」
正直なところ、話の内容は半分も理解できない。信じたといっても実感はない。世界最後のマスターというのにも心当たりがない。だから当然、希われる筋合いもない。
だが、その想いは伝わった。
何をするべきかではなく、何がしたいのかが定まった。
手紙にあったその一文。
――信じたいと思ったものを信じる、わたしはそうして生きてきた。
それが、藤丸立香の生き方ならば。
その名前しか憶えていない少女は、これからもそう生きるより他にない。
そも、簡単な話だった。
記憶はなく、指針もない。何をすべきかも定まらない。迫られるのはただの二択。すなわち信じるか、拒絶するか。
もっと書くべき事があったろうに、それでもこれだけしか書かなかったのは何か理由があるのか。冷静に思考を巡らせてみたが、やはり答えはひとつしかでない。
これだけで、藤丸立香には十分だったのだ。
二択の答えが、ここに書かれているのだから。
「わたしはどうすればいい?」
「わたくしの夢を、救ってくださいませ」
「わかった。必ず救うよ」
自分の口から出てきた言葉が、自分という存在にとても馴染んでいるように思える。何度も何度も、繰り返し言い続けてきたのかもしれない。
無責任なことを口にする傲慢さよりも、今目の前の人が喜んでくれることが嬉しかった。この言葉だけは、何があっても嘘にしてはいけないのだと強く誓う。救うと言ったからには、救わなければいけない。
藤丸立香は、きっとそうして生きてきたのだ。