ハードモード地球で平成から令和を駆け抜ける   作:ありゃりゃぎ

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 人が不幸になる写真ばかり撮ってきた。

 

 一番最初は、素朴な憧れと正義感。世の中を正し、真実を暴く。そういう幻想を抱いて、ジャーナリストになることを選んだ。カメラにこだわったのは、言葉も添えられていない一枚の写真が、人を揺り動かすことを知っていたから。

 

 新聞社では、入社してすぐに、筋がいいと使ってもらえるようになった。特にネゴロさんには、今思えば随分と目をかけてもらっていたんだろう。

 

 最初は、政治家の汚職。次は有名企業の癒着。その次は、悪徳法人の脱税。あくまでどれも先輩のおこぼれに近いものだったが、それでも俺は入社早々に多くのスクープに関わった。自分の撮った、たった一枚の写真が翌日のニュースを席巻した。

 

 最初は嬉しかったんだと思う。先輩たちには評価され、同僚たちにも嫉妬まじりに賞賛された。自分の技術や努力が評価された気がして、なおさら。でも、その頃から心の端っこでずっと歯車が噛み合わずに軋んでいるような、そんな錯覚を覚えてもいた。

 

 その違和感は、すぐに無視できなくなるくらいに膨らんでいった。

 

 現場に出て取材に出て。それを繰り返していく日々の中。人の数だけ正義があって、人の数だけ主張があるという当たり前のことを俺は知っていっただけのこと。そして、人間の心の内側に広がる暗がりは、安易に覗き込んではいけないのだということを、俺は知っていった。

 

 醜悪な人を見た。残酷な人を観た。愚鈍な人を視た。

 

 だが、そんな人たちにも、正義があり言い分があり、人生があった。フィルター一枚を隔てて覗き込んでいた彼らは、決して物語の中の登場人物ではなく、一人の人間だった。

 

 美麗な人を見た。慈愛ある人を観た。利発な人を視た。

 

 だが、そんな人たちにも、悪意があり言い訳があり、人生があった。 フィルター一枚を隔てて覗き込んでいた彼らは、決して物語の中の登場人物ではなく、一人の人間だった。

 

 人間の一部分を、恣意的に切り取って、自分の見せたいように演出する。その愚行に自覚的になったのは、その仕事を始めてから半年も経ってのことだった。

 

 その頃にはもう、熱意と社会正義に溢れた青年などどこにもいなかった。名声や富にしがみつく、醜悪な老人。かつて己が唾棄したはずの人間に、俺は成り下がっていた。

 

 正しくない。愚かしい行為だと心の中でそう思いながら、それでも俺は現場に出て、シャッターを押し続けた。自分の撮った一枚の写真が世間を動かすという暗い愉悦が、俺を手放さなかった。

 

 俺は、人の暗がりを暴いていった。その度に、人を嫌悪し、己を嫌悪した。

 

 次第に、俺は人を信じられなくなった。何より、自分自身を誇れなくなっていった。

 

 一年が過ぎた頃。俺が憔悴していることに気づいたネゴロさんが、俺に無理やりに休みを取らせた。少し休めと、そう言われたことだけは覚えている。

 

 自分でも、これ以上働き続けることに限界を感じていたことは確かだった。その言葉に甘えて、少し長い休暇をもらうことに決めた。

 

 だが、いざ休みを貰ってみると、俺は写真を撮ること以外には何もないことに気づいてしまった。もはや、働く前には何を楽しみに生きていたのか思い出せなかった。

 

 かといって、また現場に戻るのか。また、人の醜悪を覗き見るのか。

 

 どうしたらいいか、もう俺には分からなかった。そんな時に、俺は東南アジアのある国が内戦状態に突入したというニュースを耳にした。

 

 俺は、何かに吸い寄せられるように、その地に向かった。この閉塞感から抜け出したかったのかもしれない。あるいは、この国の外になら、何かがあるのかもと期待して。

 

 だがそこで俺は足止めを食うことになる。どうにも紛争が激化の一途を辿っており、紛争区域への国外からの取材は極めて危険だとガイドに諭されてしまった。何度か掛け合っても、ガイドの男は首を縦には振らなかった。

 

 結局、紛争地帯からは幾分か離れた山村集落に腰を落ち着けた俺は、取り敢えずそこで写真を撮ることにした。

 

 種をまく農夫。洗濯物を干す老婆。水運びする子供。俺は、そこで人々の生活を写真に収めていった。

 

 決定的な一瞬を捉えた一枚などではなく、ありふれたどこにでもある何枚もの写真。フィルター越しに覗く彼らは、皆生きていることに精一杯で、そして美しく輝いて見えた。

 

 自分でも予想だにしなかった感覚だった。その気持ちをうまく消化しきれないまま、それでも途中からは我を忘れて、俺はシャッターを切り続けた。

 

 それは、先進国に住まう人間の傲慢が見せた錯覚だったのかもしれない。だがそうだったとしても、当時の俺にとっては縋りつきたくなるような蜘蛛の糸だった。俺は腰を据えて、その村の生活を撮ることに決めた。

 

 セラという少女に出会ったのも、この頃だった。

 

 熱帯気候特有の気温に体調を崩した俺を介抱してくれたのが、彼女だった。

 

 セラは、俺の持っていたカメラにとても興味を惹かれたようだった。写真を中心に、俺とセラの会話は弾んで行った。

 

 次の日から、彼女は俺を村のあちこちに連れ回すようになった。彼女からしたら、きっと俺に村を案内していたつもりだったのだろう。断ることもできたが、俺はそうしなかった。彼女のおかげで、よそ者である俺相手に隔意を感じさせていた村の住人たちとも距離が近づいたことは確かだったし、何より彼女は被写体としてよく映えた。

 

 彼女は、どこまでも瑞々しく鮮やかに見えた。薄く微笑めばそれは野に咲く花の蕾ようで、歯を見せて笑えば大輪のひまわりのようだった。彼女は懸命に人生を全うしているように、俺には見えた。彼女の輝かしさが、俺には救いに見えた。

 

 セラに案内されるままに、俺はそこに赴き、そこで写真を撮った。その場で現像できるタイプのもので写真を撮って見せてみると、セラは目を見開いて驚いて笑った。セラだけでなく、近くにいた住人たちも好奇心に負けて写真を観に来るようになった。

 

 三日も経てば、俺の写真は村中で噂になったようだった。俺は、村長に頼まれて村の写真家として活動することになった。セラと共に、俺は村の人たちの写真を撮っていった。

 

 婚約を交わしたという男女。生まれた我が子を胸に抱いた産婦。十人家族の集合写真。そのほかにも多くの写真を、俺は撮った。これまで、俺が撮ってきた写真とは違う写真。思えば、被写体がこちらに笑顔を向けてくれる写真など、日本で撮っていただろうか。

 

『ジュン、すごく楽しそう!!』

 

 傍で、セラがそう言った。

 

『そうか。俺は今、楽しいのか』

 

 なんとなく、これからの自分の生き方が判ってきた気がした。

 

 それからも、俺は写真を撮り続けた。村の風景。住人たちの生活。そして、セラ。穏やかで、満ち足りていた。

 

 その平穏は、しかし迫る軍靴に踏み荒らされることとなった。都市部から離れたこの村にも、遂に戦火が伸びてきたのだ。そしてそれは、全くの不意打ちで訪れた。

 

 ある早朝。雷鳴に似た銃砲が朝焼けに染まる大気を揺らした。軍隊は、もうすぐそこにまでやってきているという。悲鳴じみた叫び声で危機を知らせる村長の息子が、村中を走り回っていた。

 

 俺は、半ば反射的にカメラを手に取っていた。戦場は、まだ撮っていない。そもそもこの国には、それを撮るために来たというのにだ。

 

 職業病。あるいはジャーナリストとしての使命感か。

 

 いずれにせよ、その時の俺に深い考えなどは無かった。覚悟もなく、己の行動が何をもたらすかという思慮もなかった。

 

『ジュン、危ない!!』

 

 背中越しに、切羽詰まった彼女の叫び声を聞いた。

 

『セラ、どうして――』

 

 どうしてここに来たんだ、とはきっと彼女の方が言いたかった言葉だっただろう。カメラを構えたまま、振り向いた先で、俺はセラが戦火に飲み込まれる様を見た。

 

 轟音。空間ごと揺らされたような理不尽な衝撃。それだけは今でも覚えている。

 

『セラ――――』

 

 手は、届かなかった。

 

 そして、すぐ近くに落ちた砲弾の爆風に俺に巻き込まれ、そのまま俺は気を失った。

 

 気づいたときには、すでに戦火は収まっていた。かろうじて助け出された俺は、制止を振り切ってセラの姿を探したが、彼女の姿はどこにも見つからなかった。死体さえ、見つかりはしなかった。

 

『直撃だったんだ。分かる形で、彼女の身体は残ってはいないだろう』

 

 生き残った村人の一人が、消沈する俺の肩を叩いてそう言った。

 

『――せめて、何か。何か残っていませんか。髪留めでもいい。何でもいいんです。せめて、何か形に残るものをセラの家族に』

 

『彼女の家族も、亡くなったよ』

 

 応えを返すこともできなかった。

 

 もう、彼女はいない。謝るべき家族も、もういなかった。俺を裁いてくれる人は、どこにもいなかった。

 

 村人は言った。

 

『思えば君は亡くなったセラの兄に似ていた。彼女が懐いたのも、君にその面影を見たからなのかもしれない』

 

『…………そう、ですか』

 

『もう自分の国に帰りなさい。心までこの国に残す必要はないんだ』

 

 その後のことは、あまり覚えてはいない。俺はその村人に言われたとおりに、帰国の途についていた。未練たらしく、汚れたカメラを手放すことなく。

 

 どこか浮ついた感情のまま、俺は復職することになった。今だけは何も考えずにいたかった。

 

『いやあ、あの写真。良かったよ』

 

 復帰してしばらくして、唐突にそう言われて肩を叩かれた。思い当たる節がなく、問い返せば、こう返ってきた。

 

『あの写真だよ。戦地での。あれ、コンクールに出してた奴』

 

 後で問い詰めたところ、当時の上司が、カメラの記録に残ったままの俺の写真を偶然見つけ『好意で』コンクールに応募したらしかった。

 

 灰になる前の村人たちの生活の写真。燃えた家々の写真。戦火にまみえるその瞬間。彼女の最期。その全てを、彼は提出したらしい。

 

 気づいたときには取り下げる時間もなく、俺の撮った写真は何某かの大きな賞を取ったらしかった。

 

『いやあ、君が休職した時はどうなるかと思ったけど。よかったよ、これでまた上に戻れるぞ』

 

 結果として、俺は辞表を提出した。何もかももうどうでも良かった。ただ疲れてしまった。

 

 その後は、ただ旅をした。どこにもいたくなかった。そして目的なく彷徨ったその先で、俺は『光』に出会ったんだ。

 

「それが俺の罪で、そして罰だと……。そう思ったんだ」

 

 白いワンピースを着た少女を前に、俺はそう懐古した。

 

「死んでもいいと……いや、死にたかったんだろうな、俺は」

 

 安易な自殺など、目の前で死んでいった彼女を思えば、選べはしなかった。でも意味のある死ならば、と。今思えば、この考えも大概安直なんだろうが。

 

「今は、どう思っているの?」

 

 これまで聴き役に徹していた彼女が口を開いた。

 

 今は、どうだろう。

 

 目を閉じて、自分自身に問う。

 

「コモンという男に、出会ったんだ。努力家で、直向きで、今はまだ未熟かもしれない。でも、明日を信じる心を持った男に」

 

「明日を、信じる……」

 

 少女は、その言葉を繰り返した。

 

「うん。いいことだねそれは」

 

 うんうんと彼女は頷いた。

 

「「過去は変えられない。でも、未来なら変えられる」」

 

 俺と彼女の言葉が重なった。顔を見合って、二人して笑った。

 

「もう、答えは出たんだね」

 

「ああ」

 

 彼女は、いつの日にか着てみたいと言っていた、白いワンピースを着ていた。そのスカートを翻して、立ち上がる。

 

「次に会う時は、もっとたくさん写真を撮ってきてね」

 

「……ああ」

 

「そして教えてほしいんだ。あなたがどこでその写真を撮って、何を思ったのか」

 

「……ああ」

 

「だから、すぐに戻ってきちゃあダメだからね?」

 

「……ああ」

 

 彼女はそして背を向けて歩き出した。俺が行く方向とは、逆の方へ。

 

 一度だけ、彼女は振り向いた。

 

「もう、諦めないでね。自分自身のことを」

 

 ああ。ああ。分かってるよ。

 

 ありがとう、セラ。


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