「夏への扉……か」
そんなものがあったら良かった。
読み終えた本を置く。
失意のうちに冷凍催眠させられ、30年後に目覚めた男が真面目に働き、そしてタイムマシンで過去に戻って再起を図る。
良い話、良い終わり方だった。
でも、どんなに面白くても、結局はフィクションでしかない。
むしろ、現実で同じような境遇の私は過去にでも戻らない限り、もう何も変わらないと言われているような気分になってしまった。
そんなものは無い、無いんだ。
夏への扉なんて何処にもない、テントの外は吹雪。外に出る気は起きない。
ヨロイ島で捕まえたメラルバ達がテントの中で歩き回り、ウルガモスが私の後ろから抱きついているから寒くはない。むしろ熱い。
ボールに戻したら戻したで寒くなる、痛し痒しだ。
「……エタナトスの性質に関する考察」
スマートフォンに表示されたホップの論文やレポートにはムゲンダイナのことが詳細に記述されていた。
エタナトスというのは学名らしい。
あの頃の少年が書いたとは思えない堅苦しい文章で、専門用語が多く使われ、数式の記号も意味を調べなければ理解できないような代物だった。
◆◆◆◆◆◆◆◆
『初期に確認されていた際は150種程度だったものが、800を超える種類に増加し、ポケモンのみで生態系を形成するに至った。しかしそのポケモンの種が出現した時期は特定も観測もされておらず、我々の認識上では、いつまにかそこにいたという不可解な現象であるにも関わらず、我々はそれを当然と受け入れ、彼らの出現と入れ替わるように姿を消したある種の動物との謂わば──』
ここじゃない。
『……であるとするならば、この世界に存在する概念がポケモン化することによって概念や存在に成り代わる、或いは消滅してポケモンの形をとり、我々の前に現れるという説の証左である。それに従っているのであれば、エタナトスとは一体何の概念がポケモン化された存在なのであろうか。現在捕獲され名付けられているものの、このポケモンの出現自体は遥か太古に遡り──』
ここでもない。
『……これによって、我々が認識している概念に先んじてポケモン化されうる概念が存在するという、イデア論のような結論が導き出される。つまり、エタナトスは太古の民がある種、神のように信奉していた強大な力であり、未だ我々が解明し、名を与える事のできていない原理概念がポケモン化したものである。エタナトスの性質を分析することによって、宇宙におけるある種の力学的定理が逆説的──』
話が長い……!なんでこうムゲンダイナに与えるとすぐに強くなるアイテムとか書いて無いのさ……!
こう、ムゲンダイナはあるアイテムを持たせて3回回ると進化するぞ、とか。
預けてボックスを切り替える時になんかすると増えるぞ、とか。
なんか特定の技を覚えさせて──
『現在の姿に酷似したベベノムは、アローラ地方で確認された際、竜の波動を習得後、アーゴヨンというどく・ドラゴンタイプのポケモンへ進化したという報告があり──』
ページを捲りまくると、漸くそれらしい情報が出て来る。
「これだ、こういうのだぞ、ホップ」
『残念ながら私の予想した通り、指摘されるような期待は叶わなかった。習得に関わらず、こちらのエタナトスにおいては進化する兆候は見られない、だが私の仮説は証明された』
「おちょくってるのかなぁ!」
『当然の帰結と言えよう、形態が酷似しており、タイプ共に同様とは言え、やはり同じ条件で進化するというのは安直だと言わざるを──』
「安直で悪かったですねぇ……!」
様々な検証が続くけれど、どれも効果が無かったらしい。
『読者や研究者が考えるように容易に進化や強化し得るものではないということだ、それは通常の生物の何ら──』
「ああ、もう、なんなの。というか何でいちいち煽って来るの!?」
『あくまで、検証の上で冷静な視点──』
「何が冷静だぁ!ちゃんと研究しろぉ!」
クドクドと説教臭いページを飛ばし、また別のページを捲る。
『以上から弱体化したエタナトスの能力値は既存のポケモンの数値に近く、それ以上の強化は望めないものと判断する』
………え?
『エタナトスは経験値を得ることが出来ず、通常、ポケモンに効果的な薬物の一切を受け付けない。というのが現状の結論である。既に危険性は取り除かれ──』
愕然とした。知らなければ良かったかも知れない。私が勝手に自分と同じだと考えていたムゲンダイナは正しくその通りだった。
ムゲンダイナはもう……
「嘘……だよね……嘘だ……何か、何かある筈……!」
次々に別のページを表示する、けれど目当ての情報は無い。
「……これだ」
『現状のエタナトスは暴走の危険から願い星の投与を禁止している』
……願い星だ。簡単な話じゃないか、ローズ元委員長みたいに願い星を与えれば良いだけだ、何でそんな簡単な事が──
『事故時点からの形態変化と願い星の摂取量に相関性があるのは間違いが無いが、二度とあのような痛ましい事故を起こさない為、また被害者──』
事故、被害者。その言葉が見えた時に。
「ねぇ、ロトム。20年前のムゲンダイナの事故って……」
《資料の中にあるロト、表示するロト》
「……え」
手から力が抜けて、スマートフォンが落ちる。
《ど、どうし──》
「ああ……ぁぁぁぁぁぁああああ!!」
そこに書いてあった言葉は。
私のお母さんが、来なかった理由は。
『重傷者2名、内1名が──。母親と見られ、チャンピオンユウリは昏睡──』
知らなければ良かった。何も、知らなければ。
二度と目覚めなければ良かった。
こんなことなら、ずっと幸せな夢だけを見て──
◆◆◆◆◆◆◆◆
暫く、私は泣いていた。
ここには母代わりのマリィはいない。
縋りついたウルガモスは訳も分からず慌てていたけれど、そのうち諦めたように私を抱きしめた。
メラルバ達は何を思ったのか泣き出した私の側で寝始めた。
有難いけれど、ちょっと熱かった。
この子達がどれだけ暖かくても、もう、私を抱きしめた暖かさは二度と戻らない。
もうどこにもいない。
今まで、誰もそのことに触れなかったのは、そういうことだったのだと、漸く知った。
もし、願いが叶うのなら、夏への扉が欲しい。
私を、楽しかったあの頃へ返して欲しい。
私は──
凄まじい音と共に、何かが落ちて来た。
「な、なに……」
テントの入り口から覗くと外には赤黒い光を放つ小さな石が一つ。
「願い星は……強い願いの元に……」
外に出る私にメラルバ達がついて来る。
背中にはウルガモスが張り付いたまま、頭の上から不思議そうに石を覗き込む。
「ベベノム……」
繰り出したベベノムは石を見つけると拾い上げて、眺めると、何故か悲しそうな顔をして此方を見た。
「それ、あげる。その願いは……叶わないから」
「──」
ベベノムは無言で頷いて、石を飲み込んだ。
赤黒い光がベベノムの体に宿る──が、その光はすぐに消えてしまった。
「……"容易に進化や強化し得るものではない"か。ちゃんと研究してるじゃん……」
こんな形で正しさを証明しなくたって、いいじゃないか、少しくらいは間違えてくれたって。
……吹雪は止む気配が無かった。