孤児院の部屋には耳障りな泣き声が響いていた。
「…泣くなら最初からするなよ」
泣いている年上の子供の背に、一人座る。
他の子供は怯えて部屋の隅で泣く。
調子に乗って喧嘩を売るから買っただけだった。
歳が上でも動きを見て予想すれば、倒すのはそれほど難しくはない。
「……ビート君、またですか?降りなさい」
「うるさい」
職員の手を僕は払い除けた。
すぐに平手が振り下ろされた。
その後の小言は耳に入らなかった。
船の帆と渦巻く水の街……とは名ばかりでホテル業とスタジアムで栄える鉱山王のお膝下。
物心ついた頃にはそこの孤児院にいた。
微かに覚えているのは、碌でもない酒浸りの父親と、僕を置いて何処かへ消えた売女の母親。
二人のおかげで、"立派な"孤児院が僕の家だった。
父親は僕に何一つとして与えず、親権すらあっさり放棄して僕を見捨てたが、微かな記憶の中でも唯一、人生について明確なものを示した。
"弱ければ殴られる"
実にシンプルだった。
強さ、それが僕にとっての全てだと、言葉ではなく拳で教えたのだ。
退屈な日々の楽しみ、それは喧嘩に勝つこと、それか夜のスタジアムへ忍びこみ、暗闇から各地のトレーナーの試合を、一人で観戦すること。
眩しいライトに照らされる彼らを見て、いつかトレーナーにみたいに、強くなりたいと願った。
「またお前か!出て行け!」
そんな夢を見ては、しょっちゅう警備に追い回されていた。
喧嘩と同じだった、よく見て、手を避けて、予想すれば逃げられる。
いつもと同じようにスタジアムから脱出した時、それは目の前に現れた。
「──!!」
重々しい鳴き声。
行く手を阻んだのは大きな象のポケモン。
それも他所の地方の。
見た目通りに鈍重な動きで僕を捕まえようとするその長い鼻を、フェイントを入れ、躱して逃げる。
なんてことないと、そう思ったのに。
「ほう?これはなかなか」
通り抜けたはずが、スーツ姿の男に捕まっていた。
「君、トレーナーになる気はありませんか?」
突然、名刺を渡してきた。
それがローズ委員長との出会いだった。
◆◆◆◆◆◆◆◆
男は僕に、金の腕時計とミブリムを与えた。
見上げるだけ、いつも橋の向こうに消えていくだけだった船に乗り、僕は渦巻く水の中から抜けだした。
辿り着いたのは、あの街と似ているようで違うガラル地方。
委員長のおかげで僕は初めて自分の部屋を手に入れ、トレーナースクールにまで通えるようになった。
今まで僕を一人にしか、しなかった"強さ"は、初めて僕の生活をいい方向に変えた。
最優秀生徒はローズ委員長の推薦状を貰える、この地方のジムチャレンジに参加できるという。
それは、まさに僕の願いそのもの。
スクールでも僕は負けず、ポケモンバトルにのめり込んだ。
勉強も、バトルも僕にとっては難しいものではなく、何もかもが順調。
おかげで、僕は願い星を与えられ、そして推薦状を得た。
右腕には彼との繋がりである金の腕時計が変わらず光っていた。
ガラルへ渡航して以降、一度も会うことはなかったが、認められたのには間違いなかった。
後はチャレンジを勝ち抜き、チャンピオンになればいい。
彼の秘書から、僕だけに特別な使命も与えられた。
誰よりも強く、強くあれば。
強くさえあれば、奪われずに済む、言いたいことが言える、やりたいことができる、追い出されることもなく、閉じ込められることもない、一人にならずに済む。
弱ければ、何も得られない。
だから、気に食わなかった。
弱いクセに誰もが期待し、何もかも持っているような奴が。
僕になかったものを、当たり前のように持っているエリートが気に食わなかった。
そいつはどんな努力をしても絶対に覆せないものを持っていた。
チャンピオンとの血縁、家族というもの。
あの無敗の彼が、今まで書かなかった推薦状を持っていた。
委員長の推薦よりも、もっと希少な存在。
それらは、僕には覆しようのない優位性。
しかも、チャンピオンの推薦状を持つ者はもう一人いた。
鉱山で勝負を仕掛けたその少女は、何処かで見たような目をしていた。
何か理由が明確なわけでもなく、誘われてやっているような、そんなぼやけたような顔をしていた。
他のトレーナーのような、必死さがまるでなかった。
だから、トレーナーと同じように、願い星を奪い、チャンピオンの推薦が間違いだと証明しようとした。
「願い星を持つトレーナーは、僕が痛めつけるからね!」
「……なんで?」
キョトンとした顔で聞いてくる。
「僕は願い星を集めて──」
「わかった。私の願い星は──絶対に渡さないから」
相手の目の色が変わった。
そこからは何が起きているのか、何も理解できなかった。
全ての手が読まれていた。
あっという間に手持ちが倒された。
なす術も何もなかった。
「……驚いた、少しはやるようですね」
ポケモン達のせいにしないように、自分に言い聞かせるのが精々だった。
僕は、負けてしまった。
委員長からの推薦は、誰よりも認められている証明ではなくなった。
まぐれだと思っていた。
ジムチャレンジの試合にも負けなかった、他のトレーナーにも。だから、そうとしか思えなかった。
二つ目のジムがあるバウタウンに到着した時、委員長が来ていることを知った。
僕は確かめたかった、選ばれた人間なんだと、それだけの価値がある、強い存在なのだと。
僕を推薦してくれた彼なら、それを肯定してくれるはずだと思って、走った。
「えーっと、君は確か……」
期待は裏切られた。
「ビートです」
彼は、僕のことを覚えてすらいなかった。
「そう、ビート君だ!昔ポケモンをあげた時からすると、随分と立派になりましたね。ジムチャレンジに勝ち残るのは君か……チャンピオンが推薦したトレーナーだろうね」
見ているのは、あのトレーナー。
ユウリだった。
彼は誰にでもリーグカードを渡すように、僕へ与えただけに過ぎなかった。
海の匂いは、あの街と同じだった。
渦巻く水の中から、僕は一歩も出ていなかった。
ミブリムは僕が孤独だから、金の時計は貧民だから与えられたに過ぎなかったのだろう。
弱い奴を叩きのめしても、無意味だった。
ナックルシティで会ったときも、委員長は聞き流すような反応しかしなかった。
ユウリには全く敵わなかった。
戦いを挑んでも、あっさりといなされて負ける。初めて感じる屈辱だった。
僕に残された特別なものは、使命だけ。
それを果たせなければ、ただの無力な子供でしかない。
だから、何としてでも願い星を集める必要があった。
でも、それすら失敗に終わった。
"今からでも願い星を集め、委員長に気に入られたい"
あれは、自分自身の願いを口にしていただけだった。
「君のような選手は、ジムチャレンジに相応しくない!」
委員長の言葉で、僕のジムチャレンジは終わった。
また、僕は見捨てられた。
ユウリに負けなければ、こんなことにはならなかった。
◆◆◆◆◆◆◆◆
ダイマックスバンドも、集めた願い星も剥奪され、チャレンジャーでもなくなった。
それでも、諦めきれなかった。
全く僕のことを見ていないと分かっても、僕はまだ、委員長を尊敬していた。
「もう一度、ジムチャレンジできるように頼みますから!」
ユウリに、僕を何度も打ち負かした相手にそう、宣言したとき。
"それ"がやってきた。
「そうでなければ人間の幅は出てこないよ!よし!ジムミッションだよ!」
突然、バァさんが目の前に迫ってきた。
ホラー映画のワンシーンに見えた。
「ピンク!」
「ピンク!!」
「ピンク!!!」
「おめでとう!」
ジムリーダーのポプラさんだった。
「いきなり、何を、なさるんです?」
「見捨てられて、困ってるんだろ」
彼女は、僕の状況を知っているようだった。
「私についてきな、なんとかしてやらんこともないよ、勿論、あんたの頑張り次第だけどね」
試すような物言いに、僕は乗った。
その日から、真の意味で僕の戦いが始まった。
何もかも初めてだった。彼女は、あらゆる規範を僕に見せた。
朝起きて、彼女と自分の食事を作ることから始まり、生活の規律を叩き込まれた。
「……不味い。オムレツぐらい作れるようになりな」
初日から呆れられた。
僕の作った得体の知れないモノを口にした彼女は、すぐに席を立ってどこかへ行った。
こんなことで敗北感を味わうとは思わなかった。
料理なんてしたことなかった。ボロボロのオムレツの皮が包んでいたのは具材ではなく、無力な僕だった。
出来損ないの卵料理は、誰にも認められない僕そのものに見えた。
「ほら、こういうのをオムレツって言うのさ」
座ったまま、呆然としていた僕の前に、チーズの溶けた美味しそうなオムレツが現れた。
すごく美味しかった。
誰かの作った料理をこんなに美味しく思うなんて、初めてだった。
「泣くほど美味かったかい?私も随分と料理が上手くなったものだね」
彼女が座長を務める劇団の練習に参加させられ、姿勢から指先の動き一つに至るまで指導された。
「違う、そうじゃない、頭のてっぺんから、足の先までピンクを意識しな、あんたは物事を雑に扱い過ぎる」
演技指導はあらゆる面に及んだ。
所作だけでなく、心の持ち用すら。
「私達はいつでも、人生の舞台に立っている。胸を張りな、視線を意識して。自分をどう見せるか、常に考え、表現する。私達は役者で、ピンクなのさ」
そう言って手本を見せるその動きは、とても老人とは思えなかった。
何故か、とても若々しく、美しく輝いているように思えた。
それに倣った僕は、おかげで無意識に役者のような動きをするようになってしまった。
慣れないフェアリータイプのポケモンの勉強や、世話、そして課題をこなし、トレーニングに明け暮れた。
「能力の操作はそう難しいことじゃない。フェアリータイプを、ピンクを心から理解すれば、自由自在になる」
クイズの馬鹿げた問答は、相手の本質を見るためのテクニックだった。
能力の操作とドーピングの違いは正直よく分からなかったが、相手を見る観察眼は鍛えられた。
「あんたは自分を強く思うために、相手を下げたがる。でも、相手を見下していては、本質は見えない。それじゃあ、ピンクじゃない」
これまで強さ、弱さでしか判断していなかった僕に足りない目線だった。
食事を共にし、誰かからものを教わり、仕事をする。
何もかもが初めてだった、変な話だ、生まれて初めて、生きた心地がしていたなんて。
ある日、鏡を見た時。自分の顔がまるで違って見えた。
それが何だかおかしくなって、思わず笑ってしまった。
その時、やっと気がついた。
いつか、ユウリの目を見た時に、見覚えがあったのは、昔の自分と同じ目をしていたからだった。
彼女は、多分、孤独なのだ。
なおさら、負けるわけにはいかなくなった。
昔の自分に勝ち、自分の価値を認めさせるためには、ユウリに勝たないとならない。
バトルで勝つだけじゃなく、心でも。
──このアラベスクジムで教えを受けた者として。
そう心に誓った時、願い星は落ちてきた。
与えられたものでも、奪い取ったものでもない、僕自身の願い星が。
「どうやら、合格らしいね。これなら、明日のファイナルトーナメントには間に合うだろう」
「明日!?ジムを巡る時間なんて──」
「そんなの、あんたに関係あるのかい?あんたはもう、ジムチャレンジャーじゃない。アラベスクジムのジムリーダーだろう?」
彼女はそう言って微笑み、自分のポケモンの入ったボールを差し出した。
「──っ」
僕は言葉が出なかった。
受け取ったボールと、願い星がなによりも輝いて見えた。
そして翌日。
「待ちなよ!」
満員のスタジアムに僕は乱入した。
何もかもがめちゃくちゃだ、そんなのは分かりきってる。ジムリーダーだって、正式に認められたわけじゃない。
「選手生命をかけて、勝負をさせてください!負けたらトレーナー引退です!」
ユウリは、変わらずあの日と同じ目をしていた、むしろ悪化したような顔だった。
「……何しに来たの」
「言わないわけには……動かないわけにはいかないんだ!貴女のせいでメチャクチャなんだ!オリーヴさんに頼まれて、ローズ委員長のために願い星を集めていたのに、委員長には見捨てられるし、訳の分からないバアさんにフェアリータイプについて朝晩叩き込まれるし!」
「え……うん」
「わかりますか?ピンク色に囲まれて、フェアリータイプのポケモンで、クイズと勝負の毎日!あぁ!!こんなに暑苦しく思いを語るなんて僕のキャラじゃあ、ないのに!」
「はは、そうかもね」
「……その目、僕には全く興味のない目。その考えが間違いだったと、思い知らせてあげます!」
そして、チャンピオンに乱入は認められ、僕はユウリへ挑戦することになった。
教わったもの、そして自分の力を全て出し切った。
勝負の最中は、余計な声や音は何も聞こえなかった。
まるで、無音の世界だった。
進化したブリムオンは、フェアリータイプを併せ持ち、そしてキョダイマックスできる特別なポケモンだった。
あのユウリ相手に、善戦した。
全く手も足も出なかったユウリに一矢報いた。
結果から言えば、敗北。
悔しかった。だけど僕は満足していた。
言いたいことも、やりたいことも出来た。
あの日憧れた、光の中に立つことができた。
これで、全てに決着をつけることができた。
与えられた時計じゃなく、自分のダイマックスバンドが輝いていた。
僕は強くなれたのだ。
後は、ポプラさんに謝って、ジムを去るだけだった。
だったのに。
「おい!ビート選手!悪くない試合だったぞ!引退したら、もう一度デビューしろ!」
そんな観客の声が聞こえた。
一人だけじゃない、何十、何百、何千人もの観客が僕の健闘を称えて、歓声を上げていた。
僕はその中に立っていた。
他者を黙らせるブリムオンは、多分、僕を否定するあらゆる声を黙らせたのだ。
やっと、僕は誰かに認められ、そして自分を認めることができた。
「やっぱり貴女は迷惑だ!皆に認められたら、フェアリータイプのジムリーダーを続けないといけない!」
「……なんで…負けたのに、笑ってるの?」
ユウリはひたすら困惑していた。
いつも何も気にしていないような顔をしている彼女に、そんな表情をさせただけで、勝ったようなものだ。
「貴女には分からないでしょうね!まあ、僕の才能でしたら、ポプラさんなんか、あっ!という間に超えますから!」
僕は彼女の友達でも、幼馴染でも、お隣さんでもない。
だけど、彼女は僕にとって間違いなく特別な相手になった。
ユウリに負けなければ、こんなことにはならなかったのだから。
だから今度は、彼女の目を変えてやろうと思った。
その感情を何と呼ぶのか、僕はまだ知らなかった。