窓の外の早朝のシュートシティは、朝靄にかすみ、エンジンが掛かる前のような風景だった。
久しぶりに早起きした私は、ホテルのベッドで、次のアラベスクジムのために、今の試合映像や、過去の写真や動画を見て、自分のポケモンを把握しようとしていた。
ビートの手持ちはそれほど変わっていないらしい。
警戒するほどでもな──
扉がノックされた。
シャクヤか、ニオさんだと思って開けると、そこには、女物のドレスシャツを着た、中性的なふわふわした白髪の男性が立っていた。
「久しぶりです。ユウリ」
「……ビート?」
「はい。止められてましたけど、もうそれを聞く必要もないと思ったので、委員長から聞き出したんです」
40近いおじさんには見えなかった。
フェアリータイプだからだろうか。
「ニオさんは何を……」
「少し離れててもらってます」
そう言って部屋に入ってくると、当たり前のように紅茶を淹れ始めた。
唖然とする私を尻目に、お茶の準備をささっと整えると、椅子に座らせた。
「ユウリ、貴女は僕の子供の時と一緒ですよ」
口にした紅茶は、自分で淹れるよりも数段美味しかった。
「……委員長の差金?」
「これは僕の意思です、彼は関係ない。彼に盲従しても欲しいものは得られない」
「そんなこと知ってるよ……何なの、これまでずっと私を放っておいたのに、急に来て」
「……今の貴女には、戦いは重過ぎる」
「知ったようなこと、言わないでよ」
「知ってますよ。貴女は自分のことを間違った物だと思い続けていた。だから、貴女の才能を肯定したホップに異常なほど、執着していた」
「そんなこと……」
「僕はあなたから直接聞いているんです。……忘れてしまったかも知れませんが」
「だからなに?負けそうだから最初から挑まないように誘導してるの?」
「残念ながら、やすい挑発に乗るほど、もう子供ではありません。今日はジムミッションをしに来たのです」
「へ……?」
ビートは、私をまじまじと眺めた。
「……ピンク」
「は?」
「ピンク!!」
そして、肩を掴むビート。
「え、ちょっと、なんなの!?」
慌てる私の手のひらを強く握る。
「ピンクッッ!!!」
まるで握手するみたいに。
「おめでとう!!」
満面の笑み、瞳がキラキラしていた。
比喩じゃなくて、本当に。
「え……は?……え?」
「というわけで、僕の次のジムリーダーが決まりました、ユウリ、君です」
「え、なんで?」
「大丈夫、そのうちピンクになりますよ」
「そんな話してないし!」
「貴女、道に迷っているんでしょう?なら、僕と来れば、その答えが分かるかも知れません。それとも、ピンクが怖くて僕とは来れませんか?なら、いつまでもこの部屋で弱々しく引きこもってればいいですけど」
挑発するように笑うビート。
その顔にいつかの面影が重なったような気がした。
「……いいよ、やすい挑発に乗ってあげる。ジムリーダーになるかは別として、話だけは聞いてあげるね」
「では行きましょう!サーナイト!テレポートです!」
「え」
◆◆◆◆◆◆◆◆
ネオンに光る巨大なキノコが町をぼんやりと照らす。
鮮やかで優しい光が灯るアラベスクタウン、立ち並ぶ古い三角屋根の町並み。
巨木の下にある町は、暗いのに明るい不思議な場所だった。
記憶の中と何も変わらなかった。
私は何だか、嬉しくなってしまった。
彼の家は、それほど大きくもなく古い家だったけれど、隅々までよく掃除と手入れがされていて、とても綺麗な家だった。
屋根には紫色に光るキノコが生えていた。
ピンクじゃないんだ、と思った。
「僕が貴女のママ……いえ、パパになります」
真顔で訳の分からないことを言うビート。
私が寝ている間に、脳がピンクに汚染されてしまったらしい。
「えぇ……?」
「君に必要なのは家庭です、バトルじゃない」
「それをどうにかするために、チャンピオンにならなきゃいけないんだけど」
「どうにかなるんですか?」
「……分からない、今は」
「朝ご飯はちゃんと食べていますか?」
「え、なに急に……あんまり食べてないけど…」
「それはいけない!パパが朝食を作ります!」
テーブルにつかされ、ヒラヒラした前掛けを結ばれる。
そうして出てきたのはチーズが溶けた香ばしい香りのするオムレツだった。
野菜やらお肉やらがぎっしりだ。
「どうぞ!いや、違うな、口を開けて下さい」
「恥ずかしいからやめて」
「早く口をあーんするんです!」
めちゃくちゃだ、こいつ。
そして口に押し込まれる。
……すごく美味しかった。
でも違う、私が欲しいのはこれじゃない。
「ねぇビート……私赤ちゃんじゃない」
「そうですね」
また一口。口の中にチーズの風味。
「こう見えて……30代なんだよ?」
「そうですね」
また一口。滑らかなオムレツの皮。
「ビートの知ってる私とは……こう言う関係だったの?」
「違います」
そして、また一口。よく火の通った、歯応えのある野菜。
彼は黙々と私の口へオムレツを運ぶ。
「私が欲しいのは……過去なの、やり直したいの……何でビートまで優しくするの……?昔みたいに、嫌なこと言ってよ」
これじゃないのに、どうして。
口の中で、勝手に解ける。
やめて、優しくしないで。
私にふみこまないで。
「あの時の僕は、どうかしてたのです」
「今も十分頭おかしいよ」
「…僕は貴女の境遇を知ってからは、貴女には共感を感じていた。ですが、ホップさえいれば、貴女は大丈夫なように思えた。確かに危うさはありました、でも貴女達は上手くやっていた。貴女が変わるのなら、それをするのが僕ではなくても構わなかったんです」
「そう……なんだ」
「ですが、今は違います。他の人に任せておけません。委員長やオリーヴさんは優秀ですが、育児は出来ません。僕が証明です」
「それで何でパパになるのさ」
「貴女にも必要だと思うからです」
随分と風変わりだけれど、彼は彼なりに、真面目に私と向き合おうとしているのだろう。
「同期で同い年なのにパパなんて、変でしょ。いじめられるよ、そんなの」
「誰もそんなこと知りませんし、言わせません」
「ねぇ、ビートはやり直したくないの?ポプラさんはどこ?」
「…ポプラさんなら、ずっと前に居なくなりましたよ」
「じゃあ、また会えるって言ったら?」
「ユウリ、死んだ人は生き返らない。あらかじめ決められたものは覆らない。彼女は人生を全うしました、何もおかしなことはありませんし、起きません」
分かったような顔で、大人みたいなことを言うビート。
「そんなことない、過去はやり直せる、やり直せなきゃ、そんなのおかしいよ、理不尽だよ」
「世の中はいつだってそうです。子供を殴り、親権を放棄する男もいれば、お腹を痛めて産んだ子供のことをさえ忘れ、何処かへ消える女もいる、そんなものなのです」
彼はもう、私の知ってるビートじゃない。
「……じゃあ、ビートはやり直せても、やり直さなくていいの?」
「はい。僕は貴女に負けたせいで、こうなった。ですが、貴女に負けなかったら今の僕はない。だから、僕は僕の過去を否定したりしない」
否定しないと、私は。
「……じゃあ、ビートは敵だよ。私の計画の敵だし、パパにもなれない!」
ビートの手を振り払うと、勢い余ってオムレツの皿が落ちて割れてしまった。
「ごめん……私……」
…凄く嫌だった。
否定しないといけない私も。
否定したい私も。
私はこんな無様で何も変わってなくて、何にもなれなかったのに、負けたビートがこんなに大人になってて、大人みたいなこと言って。
「よかったね……大人になれて。でも私はそうじゃない。ビートみたいに割り切れるほど大人じゃないんだ……」
味方だと思ったのに、そうじゃなかった。
ずっと後ろにいたと思ってたビートにすら、置いて行かれたんだ。
そんな昔のビートみたいに、人を見下していたことに気がついて、それを教えられるみたいで、嫌だった。
「…そうですか」
ビートはとても悲しそうな顔をした。
◆◆◆◆◆◆◆◆
「私は、施しを受けたいんじゃない」
椅子から降りて、前掛けを外す。
「……そう、でしたね。自分で手に入れたかったんだ……少し忘れていました…」
ビートは割れた皿の破片を拾い集めていた。
「ねぇ、ビートは傷心につけ込まれたんじゃないの?他に手段は選べなかったんじゃないの?仕方なかったことなんじゃないの?やり直したくないの?」
「……いいえ、僕は自分で選びました。僕は彼女についていくことを自分で選び、このアラベスクタウンのジムリーダーになることを選びました。それは自分がやりたくてやったことです。たとえ条件や環境があろうとも、自分の意思で決めました。だから、ユウリのパパになるのも僕の意思です」
私をまっすぐに見る目。
見ていられなかった。
負い目も、罪悪感でもない感情が見えたような気がして。
気持ちが悪かった。
「……じゃあ、いいよ、そこまで言うなら。私に勝ったら娘でも何にでもなってあげる。その代わり、私が勝ったら味方になってよ」
「嫌です」
「……は?何で?」
「僕はもうユウリの味方ですし、パパです」
「……訳わかんない」
「代わりに、僕に勝ったら、ジムリーダーになる権利を上げます。ただそれだけの話です。いいですか?僕は本気ですからね」
分からなかった、分かりたくなかった。
知ってしまえば、私は止まってしまいそうな気がした。