摂氏96℃ 作:冷やしあんころ餅
コーヒーの匂いは、俺にとって酷く馴染みのある匂いだった。
香ばしく鼻を擽り、深く染み入るその香気は、いつも当たり前のようにそこに在った。家族なんかには、「お前の服は珈琲臭い」なんて言われることもあったっけ。
でもそれは、コーヒーに限った話じゃない。
一番奥の窓際の席。差し込む午後の日差し。流れる古い洋楽。それから……。
染みつく記憶はどうしたって頭から離れてくれない。布地に溢れた珈琲のシミみたいに。中々落ちないのだと苦笑する彼女の顔がふと思い浮かんで、ほらこれだと俺も苦笑してしまう。
全て過ぎ去ってしまったものだというのに。窓際の席の景色も、流れていた洋楽も、彼女の笑顔も鮮明に覚えている。
だけれど、もう俺の服から珈琲の香りはしない。
▽
「はい、2つで454円ね」
「ん」
小銭を差し出すのと同時に、慣れた手付きで素早くトレイ上のパンたちが袋詰めされていく。
「毎度ピッタリ丁度で出してくれるよね。いっつも細かい小銭持ち歩いてるの?」
「ここで買うモノ決まってるし。自然と」
「私としては、もっと色々買って欲しいんだけど。はい、どうぞ」
「ありがと。まぁ、それぐらいこれが気に入ってるってことで、さ」
塩パンとカスクート。ここで買うパンはいつもこの二つだけだ。
別にそれ以外が嫌いな訳じゃない。きっと他のものも美味しいのだということは、二つのパンの味から想像に難くない。何となく。それだけだ。
「うわ、適当。褒めるならもっとちゃんとして欲しいな?」
「えー、本音なんだけど」
「あはは、冗談だよ。でも、他のパンも買って欲しいっていうのは割と本気で思ってるけどね」
「全部美味しいから」と微笑む彼女──山吹沙綾はここ、『やまぶきベーカリー』の長女なだけあって商魂逞しい。
「今ちょうどクロワッサンが焼けたところだし、良かったらどう?」
ただそう言って指した三日月形のパンには、残念ながら俺の手が伸びることはないだろう。
「……あー、ごめん。クロワッサンはちょっと苦手でさ」
「あ、そうだったの? ごめんね、知らなかった」
「いや、こっちこそごめん。今度来る時はもっと色々買うから。……じゃ、また」
「うん。ありがとうございました!」
香ばしい記憶の片隅に、その三日月が写されるから。
店内の窓越し。道路を挟んで対面に位置する珈琲店を片目に流しつつ、俺はやまぶきベーカリーを後にした。
喫茶店では、軽食にクロワッサンなんかを出すところが多い。ご多分に漏れず、やまぶきベーカリーの正面にあるこの店、『羽沢珈琲店』もクロワッサンを出していた。
……出していた、という言い方が果たして正しいかどうか。今も出しているのかもしれないけど、それを確かめる術は俺にはない。
何故なら……。
「あ……」
もう俺は、この店に行っていないから。
出入口のベルが軽やかに鳴った。出てきたのは、よく見知った女の子だった。
互いの存在に気付いたのは同時で、小さく声を上げながら目を丸くする彼女に俺は声を掛ける。
羽沢つぐみ。ここ羽沢珈琲店の一人娘。彼女と俺は、古い知り合い、と言ったところだろうか。
幼馴染。友達。それらの言葉で形容するには、もう俺たちの関係は希薄過ぎる。
「つぐみ。おはよ」
「……あ、う、うん。おはよう」
「早いね。今からバンド?」
「えと、そうなんだ。蘭ちゃんたちと待ち合わせしてて。……それじゃっ!」
「そっか。頑張れよー……。って」
……聞いちゃいないか。
大きく息を吐く。走り去っていったつぐみは早くも通りの角を曲がってしまっていて、姿は見えなくなっていた。
──どういう訳か、ここ数年彼女はずっと俺を避けている。
何が原因かなんて分かっていれば、こんなに長く拗れることはない訳で。つまり少なくとも、俺に分かることは何一つない。気に障ることをてしまったのか、それとも自然とつぐみが俺を嫌いになっただけで、特に理由なんてないのか。これを考え出すと、マイナスな思考は尽きず塒を巻くように延々と廻り続けてしまう。
「叶多、どうしたの?」
「っ! ……モカか」
「やーやー。いかにも、モカちゃんですよ」
「急に囁いてくんなよ。心臓に悪い……」
だから唐突に降り掛かった声の主にも、全く気が付いていなかった。
至近距離から話し掛けられて、ビクリと震えてしまう。その下手人の方は、「ごめんごめん」なんて言いながらもさして気にしていなさそうだが。
青葉モカ。彼女はつぐみとは違って、まだ友達と言えるような間柄だと(個人的には)思っている。
「でもそんなおっきいため息ついてるの見たら、気になっちゃって。ため息を吐くと、パンが逃げるよ〜」
「逃げるのは幸せな。そしてパンは買ったから逃げない。買わなくても別に逃げはしないけど」
「あたしにとっては幸せ=パンなので」
「知ってる」
ゆるりとした態度が、幾分か気分を紛らわせてくれる。モカはいつもと変わらず平常運転だ。いつも変わらない彼女の空気が、今の俺にとってはありがたい。
「……て言うか俺、そんなデカいため息吐いてた?」
「うん。それはもう、トモちんの『ソイヤ!』くらいにはねー」
「それは盛りすぎだろ」
アレの声真似は、ゆったりとした口調のモカにはとても不向きな風に聞いて思えた。ふっと笑ってしまうぐらいには気分も晴れて、改めて彼女のありがたみを感じる。
「まぁ、原因なんて分かりきってるけどね」
そんな存在だからこそ、諸々の事情は話してしまっている訳で。元々つぐみとモカは仲が良い。幼馴染というのもあるし、二人は同じバンド──Afterglowという──に所属している。つまりつぐみは俺たちにとって共通の知人なのだ。それもあってモカには話もしやすかったのだが、こう看破されているのは何だかバツが悪い感じがする。
「……見てた?」
「ううん。でも、モカちゃんは叶多の顔見たら全部分かっちゃうのですよ」
「そいつは凄いや」
俺としては、何とも情けない話だけれど。口に出かけたそんな弱音は、一応抑え込む。
「今日も塩つぐだった?」
「塩って言うか、バンド練習があるからって走って行ったよ。だからマジで急いでたかもだし。そうに違いないな、うん」
「えー、でも今日練習ないよ」
スマホを開いてスケジュールを確認しているのだろうか、俺の淡い期待をモカは何でもない風に打ち砕いていく。
「……モカがハブられてるとか」
「そしたらあたしと叶多、お揃いだね〜」
「お前なぁ」
「冗談ー。でもほら」
そこそこブラックなジョークに少し顔を顰めてしまう。やはり悪びれないモカだったけど、差し出されたスマホの画面には、そっちの方は冗談じゃなかったことがハッキリと証明されていた。
『蘭、今日練習あったっけ?』
『今週ずっとやってたから、今日は休み』
『昨日言ったでしょ』
『りょー』
モカとAfterglowのメンバー、美竹とのLINEが何よりの根拠で。
まぁ、つまりはそういうことだ。
「ねー?」
「……知ってた」
長いこと友達をやっているつもりだった。
昔は羽沢珈琲店に行くのは日課みたいなもので、つぐみが両親に教わりながら淹れたコーヒーだとか、焼いたケーキだとかをご馳走になりながらその感想や全く関係のない下らないことなんかを話し合っていた。
俺の変な冗談に笑う顔。揶揄った時に見せるふくれっ面。幼馴染のことを話す時の優しい顔。出してくれたお菓子やコーヒーを褒めた時の嬉しそうだったり、誇らしげな顔。
色々なつぐみを知っているつもりだった。
でも、確かに……そうだ。
怒った顔も、悲しげな顔も、俺は見たことがなかった。
そんな顔を俺に見せたこともあったかもしれない。でも俺が、それを見たことがなかったとしたら。
こんなものも憶測で、彼女のことを知らなかったということだけしか知らない。何も知らないんだ。
でも、一つだけ。俺が知っていることがある。
俺──
多分、それだけは確かだ。