図書室には彼女がいるから   作:HAL2001

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家鴨(アヒル)
殆ど飛べない、家畜化された水鳥。


家鴨はどこへ行ったの? 「ライ麦畑でつかまえて」

 学生の本分は勉強にあると言ったのは誰か知らないが、現代の日本ではそんな事が常識とされ、その手段として「本を読む」事そのものが何故か褒められる行為へと変わっている。

 

 ただ、賞賛が得たいがために読書をするなど邪道ということか、学校の図書室を利用する者は少なく、読書という行為はある種の下手な神格化をされ、非常に面倒な物という認識になっている。

 

 全くそんな事はないのにと思いながら、一応読書家としていつも通りに図書室に足を運ぶと、ある意味そんな常識に大いに振り回され、結局何がしたいのか分らなくなった「ド嬢」こと「松田さわ子」が私にいきなり不躾な質問をしてきた。

 

「あ、神林、丁度いいところに来た。ちょっと質問なんだけどさぁ、サリンジャーの書いた『The Catcher in the Rye』って、どっちがおススメ?」と能天気に聞いてきた。

 

 そう言って、上が青、下が白の二色のコントラストに落書きのような顔のマークがされた「ライ麦畑でつかまえて」と題された「野崎孝」訳の方と真っ白な表紙にデカデカと「The Catcher in the Rye J. D. Salinger」書かれ、その下にカタカナで「キャッチャー・イン・ザ・ライ」とタイトルが表記された「村上春樹」訳が二冊突きつけられた。

 

 どうやら、コイツは何の気なしに同じ原著の本が図書室に二冊ある事に気づき、数少ない図書館に通っている面子の「遠藤君」と図書委員の「長谷川さん」とに、この本のどちらが良いか、この二人に聞いてみたようだが……どうも票が割れているらしい。

 

 とりあえず私は牽制として「町田さわ子……お前、随分と前にだが、村上春樹に関しては翻訳本を通して『フワッ』と振れる程度の距離感で、あの『文体』が好きだのなんだのとほざいてたじゃないか」と軽く、その話題に触れるてみると、コイツは少し照れくさそうにしながらこんな事を言った。

 

「いや~そうなんだけどさあ、なんていうの長年の間、愛読されていた翻訳を新しく春樹が訳したのをこう『まあ、悪くはないけど、旧訳のあの乾いた空気感の主人公が好きなんだよねぇ~』って言う風に通ぶりたいってあるじゃん」と相変わらずの「ド嬢」節で言ってきたが、非常に残念ながらこの感覚は分からないでもない。

 

 確かに村上春樹の訳はある種の癖が強いのも事実だ。阿保らしいと思いながら、少し話に乗ってやることにした。

 

「あぁうん、まあ、正直気持ち『は』分らんでもない。ただ、それを言っていいのはキッチリ両方読んだ後だけどな……ちなみに、二人はどっち派なんだ」と聞いてみると、長谷川さんが「野崎孝」訳で、遠藤君が「村上春樹」訳だった。ただ、お互いに別の翻訳では読んではいないらしく、多少歯切れ悪く、濁しながら主張していた。

 

 まあ、読書家でも同じ本を二回以上読むことは少ないし、違う翻訳者で、読み比べるまですることは珍しいだろう。そもそも、違う翻訳者が複数人いる本自体が限られるし、そういう場合は何年も時代が大きくズレている事が殆どだ。

 

 ただ、私とこの話をするまでに、お互いに多少、この読んでいない方の翻訳に目を通して、拾い読んでみていたそうだが、やはりかなりの違いを感じるらしい。まあ、訳されたのが数十年単位で違いで、訳者の方向性も違うのだから仕方ない。

 

 遠藤君は「まあ、野崎さんの訳が悪いわけじゃないけれど、少し語彙が古いし、やっぱり新しい村上春樹訳の方が読みやすいよ、表現としても現代的で飲み込みやすいのは利点じゃないかなぁ」と言うと、それに対して長谷川さんが「基本的に同意ですが、あの独特の時代感や『ホールデン』の独特の話言葉は野崎さんの方が長年愛され続けてきました。村上さんの訳は少し小説家としての彼自身が出ているのではないでしょうか?」と投げかける。

 

 どちらの意見もいう事も一律あるが、二人とも二冊両方読んでいない為、オススメ出来る決定打に掛けるという感じだった。まあそんな所に私が来たみたいだが……ちなみに私は両方とも読んでいる前提で話が進んでいるのが、何だかこそばゆいような感覚だ。実際そうだから、途中で口が挟めず何とも言えなかった。ただ、この手の問題は恐らく正しい答えが出ない、存在しないだろうから簡単に纏めることにした。

 

「私の個人的感想だが、この本に関しては初めて読んだ版、簡単に言えばこの本の主人公『ホールデン』に出会った時の第一印象に左右されるから、一概にどちらが良いのかは言えないなぁ……おそらく此処で、読んでいる二人もお互いに初めて読んだ訳が逆だったら印象はだいぶ違ったと思うぞ」と私が言うとあっさりとした口調で、町田さわ子がこう言った。

 

「じゃあ、春樹訳にしよっと、それで『まあ、旧訳も良いんだけど初めて触れた私にとっての『ホールデン』は彼だから……』って言おう、それになんか旧訳は表紙の落書きみたいのが、なんか子供っぽいし」と滅茶苦茶な理屈をこねくり回したから、つい口が滑った。

 

「その落書き、書いたのパブロ・ピカソだぞ」とぼそっと言ってしまった。

 

 そしたらコイツはいつものように手の平を百八十度回転し、やや早口気味に「やっぱり『ライ麦』は旧訳だよね、あの真夜中、誰にも電話の通じない時代感を味わうにはね」と適当な事を抜かしやがった。別に、その表紙の落書きは「ライ麦」専用ではない事は黙っておこう。

 

 ああ、本当にいつもの「町田さわ子」だ。ただ、この話には続きがある。コイツは「読書家」を自称して名乗る程は読んではいないが、それでも人並以上には読んでいる。まだまだ未熟だが、見ていると、楽しんで本を読んでいることは伝わってくる奴で、確かになかなか鬱陶しいが、憎めないタイプだ。そうして、いつの間にか、この「ライ麦畑につかまえて」も読み終わったらしい。

 

 しかし、この現代アメリカ文学を語る上で、絶対に外せない一作を読み終わった後のコイツの感想の第一声はこれだった。

 

「ねえねえ、神林、結局の所、家鴨はどこへ行ったの?」

 

 私はあのサリンジャーの名作を読んで、一言目が「それか!」と一瞬だけ、叫びたくなったが、元々コイツはそういう性格だし、此処は図書室だ。大声は良くない。

 

 出来るだけ冷静になることを意識しながら、あの表現について解説をした。「あのなぁ、あの家鴨は居場所を失った主人公『ホールデン』そのものの暗喩なんだよ、だから読み解き方としてはニューヨークという都心で、実はどこにも行けないでいる自分自身について考えているという表現で、それに誰も真面に向き合わず、答えを出してくれないから、意味があるんだ」と文学的な読み解き方を答えると町田さわ子は何だか変な顔をしながら答えた。

 

「う~ん、まあその理屈は分るんだけど、実際さあ、家鴨は飛べないのは事実だし、ニューヨークのセントラルパークの池に家鴨が入るのも事実で、ソコが凍る可能性はあるんでしょ……じゃあ、この主人公『ホールデン』関係なしに本当の所はどうなるの?」そうあまりにも実直に答えた。

 

 私はそんな、生態学的な事は門外漢だから知らんと一蹴しようとしたが、即座にそれではあのイエローキャブの運転手と変わらない事に気づいた。ああ、此処でのこの質問はある意味、この物語の芯を付いている。私は少し真面目に考えながら、答えた。

 

「そんな事……いや、たしかに、作中では結局その答えは描写がされてはいなかったなぁ、それにサリンジャーの作品だから本人の優しい解説なんてありやしない。実は気候上、池は凍らないという答えや『ホールデン』は一種の信用できない語り手だから話に出した鳥というのが、実は家鴨でないとする答えも一応回答できるが……」困惑と自問自答を繰り返すが、そこはさわ子が簡単に前提を覆す。

 

「じゃあ、別にニューヨークじゃなくてもいいよ。セントラルパークの池に限定しなくてもいい。言いたい事は、飛べない家鴨は冬に凍る池ではどうなるの?」と問題を再定義してきた。

 

 私はこの定義を聞いた時、それではもしかしたら本当に残酷な答えがあるのかもしれないと思った。家鴨はその漢字の通り、家で飼育出来るように、飛ぶ必要のないように人間に家畜化された鴨だ。

 

 故に半自然環境に生息している場合は人間の手に寄って持ち込まれ野生化したケースが考えられるが、あくまでそこにいる理由の元は人間の力での移動だ。それ故に、渡り鳥のように気候に応じて移動する事は出来ない。あくまで、それは品種の話だから、ある程度飛べたり出来る種もいるのだろうが、この定義では考えないとすると……最悪のケース、凍り付いた池では生存できないと言う答えが出る。

 

 池が完全に凍った訳ではないなら、魚は水中のみで生活できるが、家鴨は当然、肺呼吸だから水面から顔を出して呼吸しないといけない。表面が凍りつき、作中描写のあった人がアイススケートが出来るような池では餌が取れず、当然生存は出来ない……とすると、凍った池では確かにどこにも行けない。死んでしまう。

 

 そんな事を少し黙って、考えていると私に向かってコイツは「ねえ、せっかく此処は図書室なんだし、家鴨について調べてみようよ、アレだよ、アレ、え~っと、レ、レ、レ」と言葉につっかえながら何かを提案しようとした。

 

「レファレンス、レファレンスサービスだな。図書室の資料を使って、調べものをするには、確かに良いかもしれないな。それに『家鴨』なんて項目は、調べがいがあるかもな」

 

 案外、こういう事には機転が効くのが、町田さわ子の良いところだ。早速、長谷川さんにやり方を聞きに行く。ただ、あまりにも現実的な答えが返ってきた。

 

「すみません、レファレンスサービスみたいな高度な物はウチの学校では、特別授業以外では取り扱ってないんですよ」と謝られてしまった。冷静に考えれば、真面に図書室に来るのが固定化されているメンバーのような学校にそのような先進技術があるわけがなかった。

 

 ただ、長谷川さんはこの話の流れをいたく気に入ったらしく「じゃあ、司書さんのお力までにはいかなくても、お手伝いしますよ、それに私も単純にどうなるのか気になります」と協力を申し出てくれた。

 

 こうして、三人の力を合わせて、辞書、辞典、図鑑、動物の飼い方、家畜化への歴史と調べ上げたが、圧倒的に「家鴨」の項目が少ない。そもそも、辞書などは簡易な言語としての意味を載せた程度で、内容が薄いし、図鑑でも身体の特徴等を説明するが、数ページ程度だ。

 

 動物の飼い方で調べても、飼育環境の水場が凍るような想定はしていないし、そもそもペットとして飼育するのは面倒な生物だと書いてある。まあ、水鳥だから当然か。逆に家畜化への歴史を載せた専門書系は食肉としての歴史は書いてあるが、飼育の環境は詳しくは載っていない。そもそも日本ではそれほど家鴨を食べる文化がない為、他の畜産動物程情報が存在しない。

 

 私は実質手詰まりになり、他の二人の様子も確認したが、長谷川さんは家鴨・アヒルと名のついた本を探し回ったらしいが、滑稽な存在の象徴として比喩した物か、絵本しか見当たらなかったらしい。町田さわ子は私たちの様子から早々にインターネットに切り替え、天下の検索エンジンに頼っていたが、残念ながら「家鴨」の項目ではそこまで日本語では書き込みがなかった、ちなみに、ウィキも調べたらしいが、凍った場合の想定は日本語版には載っていなかった。みんなで真面目に調べたのに、結果が出ないのは悔しい。

 

 そんな所に遠藤くんが現れた。私たちの憔悴した様子と沢山の本の山を見て、何があったのかと驚きながら聞いてきた。そして簡単に事の顛末を述べるとアッサリとした答えを出してきた。

 

「え、セントラルパークには動物園があるから、そこに保護されるんじゃないの?」彼は殆ど、思考せずに発した言葉は即座に私たちの労力を無に帰した。

 

 その答えに長谷川さんは尊敬の眼差しで、遠藤君を見ているし、町田さわ子は何だか少し安堵した様子を見せていた。そうして、一応この話自体は終わった。

 

 結局、この答えはどうやら、正解だったらしい。よくよく考えれば「ライ麦畑でつかまえて」の作中にもセントラルパーク動物園の描写は存在している。本文中ではそこで保護を行っているという記述こそはないが、後日、調べたらあるサリンジャーの解説本にそこで保護してあるという答えが載っていた。

 

 ただ、私にはこの答えがどうしても納得できなかった。実学的にはそうなのだろう。実際にセントラルパークで凍死する家鴨は存在しない。けれど、それはホールデンの暗喩である家鴨は助かった事を意味しない。彼はまさに学校という動物園から逃げ出した訳だ。最終的には西部の病院に保護された訳だが、それはあくまで彼という「一羽」の話だ。

 

 私は結局、町田さわ子の出した定義上での答えは、やはり残酷だと結論付けた。

 家鴨は凍った池では生きていけない。結局、何処にも行けない。

 

 それは、この物語の結論と同じだ……けれど、ホールデンの言うあの「キャッチャー」はこの動物園ので働く名前のない「誰か」でもあると思うと、私は不思議に感傷的な気分になる。

 

 これだから、読書は面白いし、楽しい。そして、こんな視点を持つ「町田さわ子」も……まあ、好ましく思う。




参考文献一覧

『ライ麦畑でつかまえて』野崎孝訳、白水Uブックス(新書判)1984年5月
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』村上春樹訳、白水社 ペーパーバック・エディション(新書判)
「ライ麦畑」の正しい読み方 ホールデンコールフィールド協会 (編集)
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