ある冬の日、空気が乾燥しているのを肌で感じながら、私はいつもより足早に図書室に向かっていた。先ほどの古文の授業で、出た言葉について少し気になったので、古語辞典を使って調べたいと思ってだ。
その言葉は「燃ゆ」と書いて読み方は「もゆ」という。図書室に着いて、辞典・辞書コーナーに行き、そこでとりあえず大きめな古語辞典で意味を引いてみた。
そこにある解説には「燃ゆ」はヤ行下二段活用の動詞で、「燃え・燃え・燃ゆ・燃ゆる・燃ゆれ・燃えよ」の活用形だと記されていた。意味は「火が燃える事」を表していて、陽炎が立ち昇る事や、蛍が光を放つ事なんかも見立てて使う事がある表現で、他にも心が炎のように高ぶるという使い方もある、なんてことを知った。
どうして、この言葉について、気になったかという理由としては、第164回芥川賞にて若干21歳で、受賞した「宇佐見りん」さんの受賞作『推し、燃ゆ』という小説に起因する。確か、芥川賞受賞者の中でも年齢は史上3番目か4番目かに若かった筈だ。
この本をちょっと前に読んで、その若さをいかんなく発揮した、現代的な時代性を切り取った独特な表現が面白い小説だと思っていたが、よくよく考えれば、このタイトルがなかなかにユニークだ。完全に現代語的な強い意味の「推し」という表現に、古語の「燃ゆ」という、あまり馴染みのない表現かつ、漢字から意味が類推出来てしまうのが、興味がそそられ、味わい深い。単純に目を引く、いいタイトルだ。
そんな事を古語辞典を引きながら考えているとこっちに誰かがやってくる足音が聞こえる。顔を辞典から上げると町田さわ子が見えた。彼女はトコトコとコチラにやってきて、ちょっと不躾に質問を投げかけてきた。
「ねえねえ、神林、そんな大きな古語辞典? なんて開いて、何か調べてるの?」とだらっと聞いてきた。
私はまあ嘘をついても仕方ないから正直に、辞典で引いた「燃ゆ」という言葉について簡単に、説明した。そうすると「ああ、芥川賞取ったアレって『もゆ』って読むんだ、私『もえゆ』だと思ってたよ」と笑いながら言ってきた。
確かに、そう誤読したくなる気持ちは分かる。実際、古語だから、読みにくいのも事実だ。ただ、町田さわ子はその後にこう続けた。
「ただ、あのその前についていた言葉、『推し』って実はよく耳にはするけど、意味はあんまり分かんないんだよね~ちなみにアレはどういう意味?」と聞いてきた。私はこの質問にちょっと言葉が詰まってしまった。
「あ~えっと、そうだなあ……オススメする、推薦するとか、他人に勧める……という意味では、若干違うなぁ……」何とか言葉をつっかえながら良い答えを探そうとするが上手い言葉が見当たらない。
この言葉「推し」読み方は「おし」で、語源は確か、推薦するとか他に薦める、という意味の「推す」から来ていて、人物や物を勧めること、高く評価したい、好意を持った対象を挙げる事が意味合いの筈だ。ただ、そう簡単な意味合いだけでなくて、なんというか「推し」という言葉には何か特有の人物や物を「応援する」というニュアンスが含まれている。この事柄を上手く言語化するのが難しい。
そうして、私が頭を悩ませていると、町田さわ子はごく当然のように、辞典・辞書コーナーから適当な国語辞典を引っ張り出し、実際に調べ出した。五十音順に並んだ、ページを指でなぞり確かめつつ、引いていく。
「推しだから、あ行の後半だよね、えーっと、おくめん、おこり、おしえ……この前のページかな?」とページを捲っていく。ただ、そのページには「推し」の漢字はない。あるのは同音異義語の「押し」だ。そこで、さっき頭に出た語源を町田さわ子に教える。
「ああ、えーっと「推す」で調べてみろ、たしか「推し」はその言葉から来ている筈だ」
そうして「押し」の数ページ後の「おす」を引く。こちらにはちゃんと「推す」という文字があるが、意味には推薦するやそれをもとに考えるといったモノが載ってあった。確かに用法に「推して知るべし」とあるから、辞書としては間違いではない。ただ、よく見ると名詞形に「推し」の文字があり、用例に「あいちゃんー〔=支持〕」と有った。それを見て、町田さわ子は簡単にこう言った。
「ああ、勧めたい人とか物とかを『推し』っていうんだね」と理解したようだった。私個人としては、少し違う様な気がしないでもないが、訂正がめんどくさくなりそうだったから、適当に頷きそうになった.……がその時、いきなり「それは違います!」と長谷川さんが珍しく割と感情的な声で割って入った。
彼女はやや頭を下げ、そしてながら語りだした「すみません、突然、ただ先ほどから、会話が聞こえてきたもので、ただそれで『推し』という概念について、曲解した意味で捉えていたようだったので、どうしても気になりまして……」と初めは勢い良かったのが、徐々にそのテンションが下がっていき、目に見えて、訂正しなければ良かったという葛藤を抱いているのが受け取れる。
ただ、そんな事お構いなしに町田さわ子は「へー、辞書の意味じゃあ、あんまり適切、適当? ではないんだ……それじゃあ本当はどういう意味か教えて!」と割と無邪気に聞いた。そうすると長谷川さんはそれに答えるように「推し」という概念について語りだした。
「先ほどの勧めたい人物や物というのは大きく『は』間違ってはいませんが、ただそれだけで表現できるほど『推し』という言葉は簡単じゃないんです。そりゃあ、基本的にはある集団、例えばアイドルグループなんかの中で、最もお気に入りだったり、一番好きな存在に対して使う言葉です」その語り口は、いつもの彼女とは違い、なかなか声に力強さが入っている。
「ただその『推し』にも様々な意味を持っていて、一人の人物を応援し続けるという『単推し』や二番目に『推し』ている人の事をいう『二推し』、グループ全体の事を応援するという意味合いの『箱推し』という言葉、はたまたを『推し』ていたメンバーを変える『推し変』なんかもあります」かなりノッてきたのか、かなり勢いがある口調だ。
「さらにもっと細かく言えば、確かに『推し』は誰かを応援するという行為で、そのあり様を示す言葉ですが『推し』には『推し被り』という他人と『推し』が被った場合、それが嫌だという『同担拒否』なんて言う言葉もあります。あ、ここで言う『担』というのは担当という意味で、 自分が請け負っている担当の人という意味があります。故に、この『推し』という言葉はただ単に推薦するとか、支持するとかという言葉より、もっと能動的で、力強くて、ある意味すごく自分勝手な言葉なんです」そう彼女は情熱的に、熱量をもって断言しきった。
明らかに、いつもと様子が違う。その様子に流石に、町田さわ子も気づいたようで、彼女なりに気を使った風に長谷川さんに話しかけた。
「えーっと、ありがとうね長谷川さん、確かに辞書の解説だけだと、ちょっと説明不足だったよ。ただ、なんというか、何か『推し』って概念に思い入れがあるの?」そう町田さわ子が、私が聞きにくいところをよく聞いたと思っていると、また明らかに長谷川さんは熱くなった自分を恥ずかしく思っているようだった。
「あ、えっと、すいません、喋り過ぎました……そうですね『推し』というのは最近のSNS上では重要な概念で、身近なんですが……その私の『推し』がつい最近、逝ってしまわれて……」悲しそうな口調で、そう言った。
ああ、納得の理由だ。そりゃあ熱くなるのも、仕方ないだろう。流石の町田さわ子も聞いてしまった手前、気まずそうな顔をしている。ただ、奇妙なのは長谷川さんだ。誰かが昇天したというのに、悲しそうというよりも、私達の手前、さっきの勢い強い解説をしてしまった、恥ずかしさの方が強そうだ。そこまで、気を張らなくてもいいのにと思い慰めるつもりで、私はこんなことを言った。
「まあ、何事にも終わりは必ず訪れるものであって、悲しいのは仕方ないからな。自分が『推し』ていたのならなおさら、多少感情的になるのはむしろ人間的だ。だから別に気にしなくていいんだ」と自分にしては出来るだけ前向きな言葉を投げ掛ける。それで、どうも長谷川さんの顔がほんの少し明るくなり、こう言った。
「そうですよね、まあ課金周りの炎上から、何処か全体的に、イベントの頻度的に、予測は付いていたんですが……」とため息を付きながら、そう言っている。私はその言葉が一瞬理解できなかった。うん? 課金? イベント?
それって、まさかと思い、一応聞いてみる「長谷川さん、それってあれか、ゲームとか、何か?」と念の為に聞いてみると素直に「はい、今月で、ソーシャルゲームの文豪アスガルドがサービス終了するんですよ……だから私の『推し』のコナン・ドイルも次が最終エピソードなんですよね……」と本当に残念そうな声色だ。
ああ、なんだそんな事か、と私は口に出しそうになったが、あの「推し、燃ゆ」の結末を思い出し、グッとこらえた。そうだ、今長谷川さんはある意味、本当に「推し」の死を味わっているんだ。それも、電子的存在なら、現実の下手な「引退」よりもどうしようもない「消失」を味わうことになる。そう思っていると町田さわ子が明らかに場違いな事を言った。
「え、コナン・ドイルってまだ生きてたの?」そう、ある意味純粋に言ってのけたのだ。
地雷原に突っ込むな、馬鹿と反射的に言おうとしたときに、長谷川さんがやや不気味な笑顔で「いや、彼は1930年7月に肉体的には亡くなっています。ただ心霊は、宿っている肉体が滅びると、肉体を抜け出して、次の世界すなわち『アスガルド』へと移動するので、問題はないです」とで早口かつ、断定的口調で言いきった。
一瞬これには反応に困ったが、恐らく、コナン・ドイルの晩年の心霊主義活動の結果をゲーム内設定に取り込んだのだろうが、表現が真に迫っている。それによく考えれば、先ほどの「逝ってしまわれて」という表現もゲームのサービス終了の表現としては何だか不気味だ。町田さわ子もちょっと引いている。
ただ、長谷川さんは私たちのそんな表情を見てか「はは、ジョークですよ、ジョーク」と言うが、いや、それより若干早いタイミングで、図書室の入口が開く音が聞こえていた。そして遠藤君がやって来たのだ。これは恐らく、他人には、きっと聞かれたくない話だったのではないだろうか? 何か自分には重要な存在を必死に、冗談と偽って、隠しているようだった。先ほどの心霊の話からして本当は無理をしているんじゃないか?
私は流石に空気を読んで、これまでと全く違う話題を遠藤君にやや強引に振り、皆で適当な雑談、そう今年の本屋大賞ノミネートはどれが良かったか? なんて話をした。
これで、程ほどにその場は盛り上がって、事なきを得た後、帰宅までの間、長谷川さんが口にしたあのゲーム、たしか文豪アスガルドという物が気になり、調べてみると、昨今の流行りである過去の文豪達をモデルにしたゲームだった。そして、サービス終了のお知らせが見出しのトップページに来ている。
私はまだ、こういった物に真剣にのめりこんだ事はないが、終了とはどのような気持ちなんだろうか? そういえば、こういったソーシャルゲームの場合、サービスが終了すると情報はどこにも保管されないと聞いたことがある。どれだけ思い入れのあるシナリオだろうと、データとして保存しておくことは難しい。それ故に、物理的な販売や展開をしていないゲームはシナリオすら、まともに読み返すことが出来ない。
基本的に権利関係で、ゲームシナリオを動画で全てアップロードしているなんてことはないだろう。実際、少し動画サイトを調べてみても、そこまであるわけではなかった。目につくのはこのゲームの炎上騒ぎのまとめで、はた目から見ると物凄く馬鹿馬鹿しかった。
私は、この完全に消えてしまう「推し」という存在に、長谷川さんは何を思ったのか? その考えを推し量る事はできないが、きっと完全に終わりを告げる物語を思って、今日のような暴走をしてしまったのだろう結論付けた。そこまで感情揺さぶられる者がいて、そして消えるという悲しい事実が、私にはなぜか少しだけ羨ましく感じてしまった。
参考文献一覧
『推し、燃ゆ』 著者 宇佐見りん 出版社 : 河出書房新社 2020年9月